第44話 振り返らない祈り
意識が、途切れかけた——その瞬間。
代わりに、別の景色が立ち上がった。
今度の家は「隠居した冒険者」の家だと、誰かが言っていた。
何軒目か、もう数えるのをやめて久しい。
大きな荷物もなければ、迎える側の笑顔にも、もう何も期待していない。
古びた木の扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。
「初めまして。俺はダリウス」
そう言って現れた男は、噂に聞いていた“こわい冒険者”とは少し違って見えた。
鎧のかわりに、くたびれたシャツ。
肩には鍛えた筋肉が乗っているのに、どこか、立っているだけで疲れているような雰囲気をまとっている。
何より——その目だ。
(この人……)
ミラはじっと見つめてしまう。
自分で鏡を見るときと、同じだと思った。
瞳の奥に、長い長い影が沈んでいる。
笑おうとして口角は上がるのに、その影がどうしても消えきらない。
「大丈夫」って言い慣れてしまった人間の、貼りつけた笑顔。
(……あ、同じだ)
理由なんてわからない。
けれど、そう思った瞬間——胸の奥で、固くなっていた何かが、少しだけ緩んだ。
「……腹は減ってるか?」
ぎこちない問いかけが飛んでくる。
喉の奥がきゅっと痛んだ。
ほんとは「減ってない」と答えるくせが染み付いていたのに、なぜか、そのときだけは言えなかった。
「……うん」
ぽとり、と言葉が落ちる。
ダリウスは一瞬だけ目を丸くし、それから、少し困ったように頭をかいた。
「そっか。……ちょっと待ってろ」
台所らしき方へ引っ込み、どたん、と鍋か何かを落とす音が響く。
しばらくして、カチャカチャと不器用に食器を扱う気配が続いた。
やがて、湯気と一緒にふわりと匂いが漂ってくる。
「……スープ。熱くないか?」
差し出された木の椀を、ミラは両手でそっと受け取った。
見た目は、本当に質素だった。
細かく刻まれた野菜と、少しだけ肉。塩気も控えめで、香辛料の類いもほとんど感じない。
味だって、決して「ごちそう」と呼べるものではない。
自分の腹さえ満たせればいい、そんなふうに作り慣れてしまった人間の料理の味だ。
——なのに。
一口、口に含んだ瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。
(……変な味)
ミラは、スプーンを見つめる。
しょっぱくも、甘くもない。
特別おいしいわけでもないのに、飲み込むと、喉のあたりがじんわりと温かくなる。
きっと、人のために料理するのは久しぶりなんだろう。
誰かを歓迎するためのスープなんて、しばらく作ってこなかったに違いない。
だから、味付けはたどたどしくて、少し薄くて、ところどころ不器用で——
——でも、どこかに、優しさがあった。
鍋をかき回しながら、ちらちらとこちらを伺う気配。
「不味くないといいが」と言いたげに、しかし口には出せず、妙にそわそわしている背中。
(大人なのに……)
そんなふうに思った。
大人なのに、とても不器用で、拙くて。
それでも、自分なりに「歓迎の印」を差し出そうとしているのが、痛いほど伝わってくる。
「……おいしい?」
気づけば、そんな声をかけられていた。
ミラは顔を上げる。
ダリウスの笑顔は相変わらずぎこちないけれど、その目だけは、さっきよりも少しだけ柔らかい。
「……うん」
今度の「うん」は、本当にお腹が空いているからでも、気を遣ったからでもない。
自分でも驚くくらい、自然に出た言葉だった。
その瞬間、あの日、世界のすべてが敵に見えた中で——
ミラは初めて、「この人なら、少しだけ信じてみてもいいかもしれない」と思ったのだった。
*
視界の端が暗く滲み、膝から力が抜けかけたその瞬間——
(……スープ、熱くないか?)
脳裏に、あの拙い笑顔と、薄味なのにやけにあたたかいスープの匂いが、鮮やかに蘇った。
ミラの意識が、底に沈みかけたところでぐいと引き戻される。
「……ッは……」
荒く上下していた肩が、ひとつ大きく震えた。
ふらつく足でなんとか踏みとどまり、ミラはゆっくりと顔を上げる。
さっきまで空っぽになりかけていた瞳に、じわりと光が戻った。
「パパも……ママも——助けない!!」
自分の口から出た言葉に、自分で驚く。
それでも、噛み締めるように、もう一度吐き出した。
「私は、今を……未来を生きてる!!
私の過去は、私のもの! なかったことになんか——しない!!
絶対に!!!」
叫びと同時に、胸の奥にこびりついていた泥のようなものが、ぐらりと揺れた。
消えてほしいと何度も願ったくせに、でも消えてしまったら、自分が自分でなくなるような——そんな矛盾した重さ。
それごと、ミラは掴み直す。
目の前で、父と母が苦しげに息を吸い、吐き、かすかな声で、誰かの名前を呼んでいる。
魔術師たちは必死に詠唱を続け、治癒術師は汗だくになりながら祝詞を重ねている。
それでも——わかってしまう。
もう、間に合わない。
視線をそらせば、きっと楽だ。
耳を塞ぎ、背を向ければ、「知らないふり」をすることもできる。
でも。
「……ごめんね……」
ミラは小さく唇を噛んだ。
頬を伝う涙を、そのままにしておく。
父の胸が、大きく上下して——ひとつ、長いため息みたいな呼気を残して止まった。
母の指先が、空を掴むように虚空を探って——そのまま、力なく落ちる。
ミラは、まっすぐに見ていた。
目を逸らさず、瞼も閉じず、ただ涙だけがぽろぽろと零れ落ちる。
両手はぎゅっと握られ、爪が自分の掌に食い込んでも、指をほどこうとはしなかった。
(……ごめん。
でも、私は——ここで止まらない)
心の中で、何度も何度も繰り返す。
あの日の自分が凍りついたままではないと、今ここで示すように。
無機質だったはずの声が、今度はほんの少しだけ、調子を変えて響いた。
「面白い選択だね。
——合格だ。おめでとう」
ミラは涙で滲んだ視界のまま、ぐしぐしと目元を拭った。
悔しさも、悲しさも、まだ全部は消えていない。
それでも、胸の奥には確かに、一歩だけ前に進んだ感覚が残っていた。
*
真っ白な空間に、ふっと色が戻った。
中央の台座がまばゆく光り、その光が静かにしぼんでいく。
そこに、ぐらりと膝を揺らしながら、ミラが姿を現した。
「ミラ!」
真っ先に駆け寄ったのはダリウスだった。
肩をがしっとつかみ、上から下まで、怪我はないかと確かめるように視線を滑らせる。
「どうだった、ミラ。大丈夫か!?」
ミラは、少しだけまぶしそうに目を細めた。
瞼の縁には、乾ききっていない涙の跡が、うっすらと残っている。
「うーん……」
言いかけて、眉間にしわを寄せる。
「ちょっと……覚えてない。
でも——大丈夫……」
無理に明るく見せようとした笑顔ではない。
どこか疲れは見えるが、それでも“ここにいる”ことを確かめるような、小さな笑みだった。
ダリウスは、ようやく息を吐いた。
張りつめていた肩の力が抜け、胸の奥の重石がひとつ外れた気がする。
「……そうか。なら、いい」
ほんの短い言葉に、心配と安堵と、言い尽くせない感情が押し込められていた。
と、その時——
ぐぅうううううぅ、と、とんでもない音が白い空間に響き渡った。
全員が一斉にミラを見る。
「……えへへ」
ミラはお腹を押さえ、頬をぽりぽりかきながら、急に元気いっぱいの声を上げた。
「お腹減ったー!!
なんだか久しぶりに、ダリウスのスープが食べたい!!」
その“久しぶりに”という一言に、ダリウスの胸がちくりとする。
だが、ミラが笑っている。
それなら、それでいい。
「よし——久しぶりに作るか」
ダリウスは袖をくいっとまくり上げた。
剣を握るときと同じ手つきで、料理の準備に向かうための仕草をする。
「おっ、いいな!」
オットーが腹をぽん、と叩いた。
昨日までの死地と告白から一転、いつもの調子を取り戻そうとするような、わざとらしいほどの明るさだ。
ミラはダリウスの横顔を見上げて、にっこりと微笑む。
「昔の、味薄のスープね!」
その言葉に、一人だけ眉をひそめた男がいる。
「……ん?」
エドガーが眼鏡を押し上げながら、小さく首をかしげた。
「ダリウス。そんな“薄味のスープ”なんて、作ったことありましたか?」
ダリウスは、答えようとして、ふと動きを止めた。
白い空間に、過去の色がちらりとよぎる。
まだぎこちなくて、自分のためだけに煮ていたみたいに味気ない、でも——それでも誰かのために初めて差し出した、あの鍋。
「……あれ、難しいんだよな」
ぽつりと、遠い目をしながら呟いた。
その横顔を見て、ミラは何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ、唇の端を上げて笑った。
台座の光はすでに消え、真っ白だった世界に、次の階層への扉が浮かび上がる。
誰も振り返らない。
重たいものは胸の奥にしまい込んだまま、それでも足は前へと進む。
ダリウスが先頭に立ち、オットーが肩を回しながら続き、エドガーが小さくため息をつきつつも、その背を追う。
一番後ろでミラが、ぎゅっとネックレスを握りしめて、三人の背中を見つめる。
「……行こっか」
小さな呟きは、誰の耳にも届かない。
けれど四人の足取りは、不思議と同じリズムを刻んでいた。
こうして彼らは、また一歩——振り返らずに、前へと進んでいく。
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第三の試練はここまでになります。
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