第43話 救えば失う
三十一階層——《試練の間》。
そこは、前と同じく「何もない」空間だった。
天井も壁も床も、すべてが均一な白に塗りつぶされている。
距離感も奥行きも掴めず、ただ足の裏にだけ「ここが地面だ」と辛うじてわかる感覚がある。
音という音が一切なく、耳の奥がじんじんと痛んでくるような静寂が、四人を包んでいた。
唯一の“目印”は、中央にぽつんと置かれた台座だけだ。
『おめでとう。エルダードラゴンを倒すとは、少し驚いたよ』
——声が、落ちてきた。
相変わらず、どこから響いているのかまるで読み取れない。
男か女かすら定かでない、感情の温度を欠いた無機質な響き。それが、この空間の「管理者」の声なのだと、四人はすでに理解していた。
ダリウスは、くたびれた肩をすくめる。
「おかげさまでな。……何とか倒せた」
「本当に厄介なダンジョンだぜ、ここはよ」
オットーは頭をぼりぼりと掻きながら、悪態とも愚痴ともつかない言葉を漏らす。
エドガーはというと、眼鏡の位置を指で直しながら、深く、深くため息をついた。
「……まったく、心臓に悪い」
そんな三人の横で、ミラはくるりとあたりを見回し、唇に人差し指を当てて首をかしげる。
「今回はだれ?」
どこか小学校の先生に当てられる順番を待っているような、素朴な口調だった。
『ミラ。君だ』
即答。
ミラは一瞬だけ目を丸くすると——なぜか、ぴしっと背筋を伸ばした。
「ミラ、十六歳です。よろしくおねがいします!!」
元気よく挨拶付き。
白い空間に、微妙な沈黙が落ちた。
『…………』
感情がないはずの声に、初めて「間」が生まれた気がした。
気のせいか、わずかに言葉を選びかねているようにも聞こえる。
次の瞬間——
「わっ」
ミラの足元から光が立ち上がった。
柔らかな白光が身体を包み込み、その輪郭をあっという間に塗り潰していく。
手を伸ばす間もない。
ダリウスが一歩踏み出したときには、すでにミラの姿は光の中に溶け、真っ白な空間からふっと消えていた。
*
——白い光が、いきなり「色」を取り戻した。
真っ白だった世界が、祈りの声と血の匂いと魔力のきらめきで、一瞬にして塗り替えられる。
そこは、神殿付属の治療院だった。
石造りの高い天井。
壁には女神の紋章を刻んだタペストリーがいくつも掛けられ、床には簡素な祈祷文様が彫り込まれている。
中央には、淡く光る魔導具が組み込まれた治療台が二つ。
その上に、血に濡れた布を巻かれた男女が横たえられていた。
「癒しの水路を絶やすな! 魔力の循環を維持して!」
白い法衣をまとった治癒師が、額に汗を浮かべながら叫ぶ。
その周りで、若い見習いたちが聖水の入った碗や、魔力を増幅する水晶板をせわしなく運んでいる。
「……っ、出血が多すぎる……もう一基、祈祷具を!」
床に埋め込まれた魔法陣が、赤と青の光を交互に瞬かせる。
治療台の側面に組み込まれた水晶盤が、脈動を示す光をかすかに点滅させていた。
その喧噪から少し離れた場所——柱の陰で、小さな影がうずくまっている。
金色の髪をした幼い少女が、膝を抱えて震えていた。
ミラだった。
その姿を目にした瞬間、今のミラの呼吸が乱れた。
胸の内側を、誰かに素手でつかまれたような痛み。
思わず、自分の胸元の布をぎゅっとつかむ。
「……っ、は……っ……」
酸素が、肺になかなか届かない。
視界の端がじわりと滲み、現在の自分と幼い自分の姿が、ぐらぐらと重なり合う。
「……パパ? ……ママ?」
かすれた声が、勝手に漏れた。
治療台の上の二人は、血に濡れた包帯にぐるぐると巻かれている。
その下から覗く肌は青白く、唇はかすかに震えていた。
魔導具の光だけが、まだ命の灯が消えていないことを示している。
*
『これが、今回の試練だよ』
耳のすぐそばとも、頭の奥深くともつかない場所から、“声”が響いた。
ミラの喉の奥で、言葉にならない音が弾ける。
「やめて!!」
叫びは、悲鳴と怒鳴り声の中間だった。
「こんな……こんな記憶を見せて……! 趣味が悪いわ!!」
胸の中を掻き混ぜられるような怒りと恐怖と羞恥。
それら全部が混ざり合って、声は震え、足元から力が抜けそうになる。
『ちがうよ』
声は相変わらず、感情の読めない調子で続ける。
『過去として“固定された”出来事じゃない。
本来なら過ぎ去ったはずの瞬間だが——今の君には、事象と時の流れに介入できる権限を与えた』
「……っ、ど……どういう、意味……?」
言葉は理解できるのに、意味だけが頭に入ってこない。
縋るように搾り出した問いに、声は静かに告げた。
『君が《神光再命》を、君の両親にかければ——』
ミラの心臓が、痛いほど強く打った。
『この場の結果は書き換えられる。本当に助かる。
あの日の、あの後の、全部の苦しみを消せる。
二度と、そんな思いをしなくて済むんだ』
その瞬間——
ミラの頭の奥に、誰かが乱暴に手を突っ込んできたかのような感覚が走った。
「……ぁ、あ、っ……!」
視界の縁が白く弾け、次の瞬間には別の光景が重なっていく。
*
雨が、静かに世界を塗りつぶしていた。
空一面を覆う薄暗い雲。
ぽつり、ぽつり、と落ちていた雫は、いつの間にか細い糸のような雨筋となって、灰色の石畳を濡らしている。
村の小さな神殿の裏庭。
そこに並べられた二つの棺の上には、白い布と、しおれかけた花の輪が置かれていた。
「……落盤事故らしいわ」
棺から少し離れた場所。
黒いマントを羽織った女が、隣の男に身を寄せて、ひそひそと囁く。
「親戚の家に引き取られるらしいわよ、あの子」
「そう。なら……安心ね」
声は同情を装いながら、どこか他人事だった。
その足元で、小さな影が立ち尽くしている。
幼いミラだった。
両手で服の裾をぎゅっと握りしめ、濡れた石畳を見つめたまま動かない。
視線を上げれば、白い布と花輪の向こう側に“見えてしまう”気がして——それが怖くて、どうしても顔を上げられない。
「……いやだよ」
喉の奥から絞り出された声は、雨音にすぐかき消された。
「なんで……? 私が悪い子だから……?」
自分の足元に、透明だった雨水が薄く溜まり、そこに歪んだ自分の顔が映る。
「いやだ……いやだ……全部、いやだ……」
呟きに呼応するように、空から落ちる雫の密度が増していく。
ぽつり、ぽつり、だった雨は、やがて子どもの肩を容赦なく叩く本降りへと変わっていった。
——景色が、暗転する。
*
次に開けた記憶の頁は、狭い家の一室だった。
「なんであんな遠縁の子なんか、ウチで世話しなきゃいけないのよ!!」
金切り声が、壁を震わせる。
痩せた女が、擦り切れたテーブルをばん、と叩いた。
その向こう側で、幼いミラが壁際に小さく身を寄せる。膝を抱え、顔を伏せ、ただその嵐が過ぎるのを待っている。
「……私も、知らないよ……」
か細い声は、誰にも届かない。
女は苛立ったように舌打ちを一つ置くと、もうミラの方を見もしなくなった。
場面が、また滲んで崩れる。
*
次に映ったのは、別の家だ。
空気は酒臭さでよどみ、床には転がった酒瓶や食べ残しが散らばっている。
「おい、小娘」
恰幅のいい男が、椅子にもたれかかったまま指を突きつけた。
顎には無精髭、手には中身の残った瓶。
「酒、買ってこい」
幼いミラは、部屋の隅に立っていた。
目の焦点は合わず、俯いたまま、口だけが機械のように動く。
「……もう……パパのお金……ない……」
「あぁ?」
男の眉間に深い皺が刻まれる。
次の瞬間、手にしていた酒瓶がミラに向かって放り投げられた。
ガシャン、と甲高い音を立てて、瓶はすぐ手前の床で砕け散る。
飛び散ったガラス片が、ミラの足元をかすめた。
「ちっ……使えねぇガキが」
罵声に、ミラは微動だにしなかった。
驚きもしない。怯えもしない。
ただ、濡れた床を見つめる視線だけが、どこまでも暗かった。
*
さらにページがめくられる。
「ミラちゃん、もう大丈夫よ」
次の親戚は、柔らかな笑顔の女だった。
暖炉のある部屋。テーブルの上には温かいスープ。
形だけ見れば、ようやく“普通”に近い家だ。
「辛かったねぇ……ここでは、ゆっくりしていいのよ」
女はミラの前にしゃがんで、そっと肩に手を置いた。
幼いミラは、なんとか笑顔を作ろうとした。
頬の筋肉を引き上げる。口角を上げる。でも——
「……うん」
ぎこちなく引きつったその表情は、“笑顔”と呼ぶにはあまりに痛々しかった。
女は一瞬だけ目を伏せ、それから立ち上がって台所の方へと歩いていく。
「……なんだか、あの子、不気味よね……」
台所の向こうで、別の声がひそひそと囁く。
焚き火のぱちぱちという音と混じって、その言葉だけが妙にはっきりと耳に残った。
(……やっぱり)
幼いミラの胸の内側に、黒いものが音もなく広がっていく。
——どこに行っても、同じだ。
誰も、本当には受け入れてくれない。
笑ってみせても、怖がられる。
泣いてみせても、鬱陶しがられる。
そうして少しずつ、心の中の何かが、ひとつずつ、削れていった。
*
「——っ、ぅ、う……!」
現在のミラは、その記憶の奔流に耐えきれず、両手で口元を押さえた。
胃がひっくり返るような感覚。
胸の奥から、どうしようもないものがこみ上げてくる。
次の瞬間——膝をついたまま、彼女は嘔吐した。
喉が焼けるように痛い。
目尻から勝手に涙が溢れ、呼吸はひゅうひゅうと掠れた音を立てる。
治療院の光景も、葬儀の雨も、親戚たちの顔も、全部が渾然一体となって頭蓋の内側をかき乱していた。
それでも——
治療台の上で、まだ息をしている両親の姿だけは、決してぼやけなかった。
白い治療院の光景が、ぐにゃりと歪んだ。
床も、壁も、天井も、全部が淡くにじみ、目の前の「過去の記憶」が、境目を失って混ざり合っていく。
『もし、君の両親を助ければ過去が変わる』
あの、どこからともなく響く声が、淡々と告げた。
『辛い思いでも全部なくなる。“その代わり”——今の時間軸からは外れる』
「……ど、どういうこと……?」
ミラは荒い呼吸を繰り返しながら、声のする気配もない空間を睨みつけた。
『試練は失敗。元の空間には戻さない。残りの三人で塔に登ってもらう』
あまりにも軽い調子で、その言葉は続く。
ミラの心臓が、どくん、と嫌な音を立てた。
「そ……そんなこと、したら……!!」
喉がひっかかり、言葉がうまく続かない。
脳裏に、さっきまでの戦いの光景が一気に蘇る。
——吹き飛ばされ、右足を血まみれにしたオットー。
——腹を貫かれ、魔導書を抱えたまま倒れたエドガー。
——そして、今この瞬間にも致命傷を負っているかもしれない、ダリウスの姿。
「誰が……っ、誰がダリウスたちを手当てするの!!?」
叫びはほとんど悲鳴だった。
まして、石化が進んだ自分の右腕でしか《神光再命》を使えない現状。
自分一人欠けただけで、このパーティがどれだけ脆くなるかを、一番よく知っているのはミラ自身だ。
『気にしなくてもいい』
声は、どこまでも平板だった。
『君には関係なくなる。両親と幸せに過ごすんだ』
一拍、間が空く。
『それとも——両親を見捨てるのかい? それもいい。どちらも君の選択だ』
喉の奥がぎゅっと締めつけられて、息が入ってこない。
「そんなの……」
胸が波打つ。肺が空気を求めて悲鳴を上げるのに、うまく吸えない。
肩が勝手に上下し、視界の端が暗くなっていく。
「そんなの……選べるわけ……ない……!」
吐き出した空気が細かく震え、うまく言葉にならない。
過去の両親。
今の仲間たち。
どちらか一つを救えば、片方は確実に失われる。
それを「選べ」と、この試練は言っている。
『さぁ、早く。死んじゃうよ? 君の両親』
淡々とした声が、時間の少なさだけを告げる。
治療台の上。
血に濡れた布。
かろうじて上下している両親の胸。
——助けられる。
《神光再命》がある。
自分があの光を二人に注げば、傷は癒え、死は遠ざかり、あの日の葬式も、たらい回しも、全部、なかったことになる。
その代わり——
(ダリウスたちは……?)
頭の中で、ぶち、と何かが切れた気がした。
「ひっ…は、ぁ、っ……」
呼吸が完全に乱れた。
肺の中身を全部吐き出したのに、次の一息がうまく吸えない。
喉が、胸が、空気を拒むように締め付けてくる。
両手が勝手に頭へと伸び、乱暴に髪をかきむしる。
「やだ……やだ、やだ……」
耳の奥で、心臓の鼓動だけが大きく響いている。
目の前の光景が遠ざかったり近づいたりを繰り返し、地に足がついていないような、ふわふわした感覚が全身を支配していく。
「誰か……」
指の隙間から、涙がぼたぼたと落ちた。
「誰か……誰か……誰か、助けて……」
かすれた声で、どうしようもない本音がこぼれる。
両親を前にしてさえ、「助けて」と言えなかった幼い日。
親戚の家を転々としても、「助けて」と言うより先に、心を閉ざすことを選んでしまった過去の自分。
今ようやく、その言葉が口からこぼれ落ちる。
かすれた喉で、ミラは絞り出すように名前を呼んだ。
「……ダリウス……」
白い世界が、遠ざかる。
視界の端から色が剥がれ落ちていき、音も、匂いも、全部がぼやけていく。




