第41話 阿修羅
「《阿修羅》——解放」
瞬間、オットーの瞳が、ぎらりと赤く光った。
次の呼吸で、世界が反転する。
「ぶぉおおおおおおおお!!」
腹の底から絞り出された咆哮が、空気そのものを震わせた。
それはもはや人間の声ではない。野太い獣の吠え声と、鉄を軋ませるような悲鳴が混ざった、聞く者の背骨を直接かきむしるような音だった。
エルダードラゴンの爪が、まだオットーの腹を貫いている。
普通なら、そこから崩れ落ちるように膝をつくはずだ。だが——
「……ぐっ」
オットーは、その爪を、両手でがっちりと掴んだ。
筋肉が軋む。血が噴き出す。
腹から背中へと貫かれていた爪が、ぎりぎりと嫌な音を立てながら、ゆっくりと引き抜かれていく。
べちゃり、と血だまりが広がる。
常ならば即死級の傷。だが——
オットーの腹部が、みるみるうちに再生を始めた。
裂けた肉がうごめき、ちぎれた血管が勝手に繋がり、皮膚が下からせり上がるようにふさがっていく。
痛みはある。常軌を逸した激痛が、頭蓋の内側を直接殴り続けるように襲いかかっている。
それでも——
「俺の腹をやったのは、この爪かぁああああ!!」
オットーは、絶叫と共に、その爪を素手でへし折った。
バキィン、と金属めいた音が響く。
エルダードラゴンが驚愕に目を見開くより早く、オットーは地を蹴っていた。
——弾丸。
その動きは、もはや「走る」ではなかった。
視界から姿がかき消えたかと思えば、次の瞬間にはエルダードラゴンの背後に回り込んでいる。
「エドガーとミラをやったのは——」
オットーは、巨大な翼の付け根に腕を回し込んだ。
肩の筋肉が膨れ、背中の筋が浮き上がる。
「この翼かぁああああ!!」
吠えるような声と同時に、翼が根元から引きちぎられた。
ずるり、と肉が裂ける音がする。
分厚い鱗ごと剥がされた翼が、血飛沫を撒き散らしながら床に叩きつけられた。
エルダードラゴンの咆哮が、ボス部屋の空気を震わせる。
痛みと怒りと、そしてそこに混じる、理解不能な「恐怖」が滲む叫びだった。
だが、オットーは止まらない。
「まだだ……!」
片手でぶら下がったまま、もう片方の手を別の翼に突き立てる。
「こっちも、だぁああああ!!」
片膝で踏ん張り、背中を反らし、全身の力を翼に叩きつける。
肉が裂け、骨が折れ、鱗が飛び散る。
ビリビリと嫌な感触が腕に伝わってくるが、構うものか。
暴れるエルダードラゴンの巨体が、オットー一人では制御しきれないほど揺れ動く。
それでも、オットーの腕は離れない。
「うぉおおおおおおおお!!」
喉が裂けそうな咆哮と共に、二枚目の翼が、力ずくで引き裂かれた。
ぼとり、と千切れた翼が床に落ちる。
緑色の血飛沫が、雨のようにオットーを染め上げていく。
鎧も、肌も、髪も、すべてがドラゴンの血でべったりと濡れた。
鉄臭さと、熱気と、魔物特有のむせかえるような匂いに、部屋の空気が塗りつぶされる。
エルダードラゴンの悲鳴が、空間を切り裂いた。
「ぎぃ……ぉおおおおおおおおお!!」
その声は、先ほどまでの「楽しげな咆哮」とは違っていた。
今度のそれは——明確な、恐怖の混じった悲鳴だった。
かつて何百もの命を奪ってきた捕食者が、初めて「自分が狩られる側」になったことを、理解した声だった。
オットーの口元が、ぐにゃりと吊り上がった。
「——最高に気持ちよくなってきたぜぇえええええええ!!」
叫びはもはや雄叫びというより、狂気そのものだった。
声に押されるように、一歩でエルダードラゴンの首筋まで駆け上がる。
大きく跳躍し、そのまま巨体の顔面へと飛び乗った。
エルダードラゴンが頭を振る。
視界を奪おうと、振り落とそうと、必死で喚き散らす。
だが、オットーの手は離れない。
がっしりと額の鱗を掴んだまま、もう片方の手で、赤く光る瞳に指を突き立てた。
「ここだろぉがよぉ……!」
ずぶり、といやな感触が手のひらを通じて伝わる。
粘ついた液体が一気に噴き出し、指の間をぬるりと流れ落ちる。
エルダードラゴンが、耳をつんざく悲鳴を上げた。
「ぎぃっっ……ぉおおおおおお!!」
オットーは躊躇なく、そのまま目玉を掴み出す。
握りつぶすでも、捨てるでもなく——その場でがぶりと噛みついた。
ぐしゃり。
「……なんだ。なかなかうめぇじゃねぇかよ」
血と体液にまみれながら、ニィッと笑う。
「てめぇ、ふざけてんのかぁああああ!!」
怒声と共に、残ったもう片方の目も、同じように抉り取られる。
視界を完全に奪われたエルダードラゴンの咆哮には、もはや威厳も余裕もなかった。ただただ、純粋な恐怖と混乱だけがあった。
その咆哮を、オットーは鼻で笑い飛ばす。
「目ん玉潰したからよぉ——」
顔の上から、ひらりと飛び降りる。
今度は、巨体を支える太い脚の付け根へと回り込んだ。
「……何も見えねぇってことだよなぁ?」
大斧を一閃。
ずしん、と重たい感触と共に、エルダードラゴンの片足が根本から断ち切られる。
緑色の血が噴水のように吹き上がり、床一面を染めていく。
巨体がバランスを崩し、片側に大きく傾く。
もがき、ジタバタと床を掻きむしるように暴れる姿は——もはや「頂点捕食者」ではなかった。
それは、はっきりと「獲物」の動きだった。
「……あぁ、いいな。その顔だよ」
オットーは、心底楽しそうに笑った。
「簡単にコアは壊さねぇぜ」
ずるり、と血溜まりの中を歩きながら、エルダードラゴンの腹部へと近づいていく。
先ほどの氷の刃がこじ開けた傷口から、脈動するコアがかすかに覗いていた。
「時間は——たっぷりあるからなぁ」
大斧を肩に担ぎ、赤い瞳で獲物を見下ろす。
「嬲ってやるよぉおおおお!!」
そこから先は、ほとんど一方的な蹂躙だった。
斧が振るわれるたびに鱗が砕け、骨が折れ、肉が裂ける。
エルダードラゴンは本能的に反撃しようとするが、翼をもがれ、片足を失い、視界すら奪われた巨体は、もはやオットーの速度についていけない。
咆哮は次第に悲鳴に変わり、悲鳴はやがて、嗚咽にも似たかすれた声へと落ちていった。
それでもオットーは止まらない。
腹部の結界を、斧で何度も何度も叩き割るように攻撃し、ひびを広げていく。
ただ勝つためではなく——これまで仲間たちに与えられた痛みを、すべて上乗せして返すかのように。
最後には、腹部の中心に浮かぶコアだけが、辛うじて形を保っていた。
ひびの走ったそれが、かすかに明滅しながら、なおもドラゴンの命を繋ぎとめている。
オットーは、荒い息のまま、ゆっくりと斧を構え直した。
「……ここまでだ」
先ほどまでの狂気じみた笑みが、ほんの一瞬だけ、静かな表情に変わる。
「あいつらの——旅はよぉ」
斧が振り下ろされる。
「続くんだよぉ!!」
砕ける音は、叫び声と同時だった。
コアが粉々に砕け散ると同時に、エルダードラゴンの巨体から、力が一気に抜けていく。
巨大な頭ががくりと垂れ、全身の鱗から、命の灯がふっと消えた。
ボス部屋の中に、重たい静寂が落ちた。
オットーは、その場に立ち尽くしていた。
赤く光っていた瞳が、ゆっくりと元の色へと戻っていく。
ひざが、ふいに笑う。
支えを失ったように、その大きな身体が、ゆっくりと前のめりに倒れた。
どさり、と鈍い音を立てて、エルダードラゴンの血の海の中に倒れ込む。
眠り、というより、落ちる、という表現が近い。
意識は一瞬で暗闇に引きずり込まれ、視界も、音も、痛みさえも、すべてが遠ざかっていく。
(……また……会えると……いい……な……)
阿修羅の代償として訪れた深い眠りの中へ——
オットーは、そのまま静かに沈んでいった。




