第37話 灼熱の咆哮を越えて
三十階層——ボス部屋前。
巨大な扉が、黙りこくった城門のように四人の前にそびえていた。
黒鉄で組まれた板には幾つもの鋲が打ち込まれ、長い年月を物語る擦り傷とくすみがこびりついている。近づくだけで、塔そのものの重みが、じわじわと胸にのしかかってくるようだった。
「装備、もう一度確認しよう」
ダリウスが、程よい緊張をにじませながら言った。
「はーい」
ミラはその場にしゃがみ込み、抱えていた大きなカバンをがばっと開く。
包帯、ポーション、聖印、予備のローブ、干し肉——ひとつひとつを指先で確かめ、数を小声で数えながら、真剣な表情でカバンの中を覗き込む。
「……大丈夫だよ。忘れ物なし!」
顔を上げて、いつものようにぱっと笑顔を咲かせた。
その横で、エドガーは胸の前で魔導書をぎゅっと抱きしめていた。
革表紙には何本もの細かな傷が刻まれ、角は擦り減って丸くなっている。長年の戦いで共に生き延びてきた、“相棒”の風格だ。
「……いきますか」
低く、けれどはっきりとした声。
「あぁ」
ダリウスが短くうなずく。
エドガーは唇の端を、わずかに片方だけ持ち上げた。
「さぁ、何が出るか……」
怖さが半分。面白さが半分。
その中途半端な感情は、ベテラン冒険者にだけ許される、奇妙な高揚だった。
ダリウスが両手で取っ手を押し出すと、重厚な扉がゆっくりと動き出した。
ギィ……ギギィ……と、金属の軋む音が、骨の髄まで響いてくる。
暗闇の中へ、一歩踏み込む。
その瞬間、左右の壁に取り付けられた松明が、ぱっ、ぱっ、と順々に灯り始めた。
走る火が部屋の輪郭を浮かび上がらせる。煉瓦造りの壁、天井の高さ、床に走る古い傷跡。
そして、正面。
炎の明かりの向こう、部屋の中央に——巨大な赤い影が、じっと彼らを待ち構えていた。
胴体は岩山のように分厚く、四肢は鋼鉄の柱めいて太い。
長く伸びた首の先、金属の鎌のような歯を並べた口からは、うっすらと熱気が漏れている。背には黒く焼け焦げたような翼、尾は鞭のようにしなり、床を軽く叩くだけでひび割れを生む。
——ドラゴン。
魔物の頂点と謳われる種族。
その喉から吐き出されるブレスは上級魔法にも匹敵し、鋭い爪は岩をやすやすと引き裂く。
尾で軽くはたかれただけで、致命傷を免れることは難しいだろう。
全身を覆う鱗は厚く硬く、そこらの攻撃では傷ひとつつけられない。
松明の炎が、巨大な竜の輪郭を赤々と縁取る。
その瞳が、じわりと四人をなめるように見下ろした。
最前列にいたダリウスが、思わず一歩だけ後ずさった。
「……でたな」
喉の奥から漏れた声には、どうしても恐怖と驚愕が混ざる。
それでも、口の端をわずかに持ち上げて続けた。
「……しかし」
その「しかし」の一言で、自分自身の膝を前に押し出す。
隣で、オットーが大盾をぐっと掲げた。
笑っているのか引きつっているのか、自分でもわからない表情で、ぽつりと漏らす。
「……でけぇな……」
普通のドラゴンは、だいたい農村の民家ほどの大きさだ。
だが、目の前のそれは——その倍はある。頭ひとつ、では済まない。身の丈も、胴の太さも、翼の広がりも、あらゆるスケールが「常識」を踏み越えていた。
「ただのドラゴンではないですね」
エドガーが、震えをわずかににじませながらも冷静な声で言う。
三人の視線が、同じ一点に吸い寄せられた。
「「「……エルダードラゴン……」」」
魔物の頂点の、そのさらに上。
長命と膨大な魔力を備えた“長老竜”——その名を、ベテラン冒険者たちは嫌というほど知っていた。
「超集中に入る!」
ダリウスが声を張る。その声音には、さっきまでの震えがもうない。
「オットーは俺のバックアップ! エドガーは最大火力で頼む!」
返事はない。
だがそれでいい。
今この瞬間の彼らにとって、言葉はすでに“ノイズ”でしかないからだ。
ダリウスの視界の端で、オットーが一歩前に出て盾を構える。
エドガーは魔導書を開き、すでに詠唱の準備に入っている。
それぞれの動きが、まるで最初から決められていた振り付けのように噛み合っていく。
——ただ一人、ミラだけが、半歩遅れた。
後方でエドガーの位置を確保しようとしたその瞬間。
エルダードラゴンの巨大な翼が、ぐわりと広がった。
空気が鳴る。
次の瞬間、突風というより、もはや圧縮された「壁」が、ミラめがけて叩きつけられた。
「きゃあああっ!」
ミラの身体は軽々と宙に浮かび、そのまま背後の煉瓦壁まで吹き飛ばされる。
鈍い音とともにぶつかり、床に崩れ落ちた額から、赤い血がつうっと流れ落ちた。
エルダードラゴンの尾が、しなり、唸る。
その先端が、虫を払うみたいな気安さで、ミラを叩き潰そうと振り下ろされる。
——その前に、影が一つ割り込んだ。
「《スラッシュ!!》」
ダリウスだった。
剣閃が、尾の軌道を横から叩きつけるように走る。
ガキン、と骨を伝って腕まで響く衝撃。だが、刃は肉にも、鱗にも届かない。
振り下ろされかけていた尾は、そのままわずかに軌道を逸らされ、ミラのすぐ横の壁に激突する。
煉瓦が砕け、砂塵が派手に舞い上がった。
竜の視線が、ミラから離れた。
ゆっくりと、じり、と。
まるで「より遊びがいのあるおもちゃ」を見つけた子どものように、エルダードラゴンはダリウスへと顔を向ける。
(……ミラは、気を失っているだけか。命に別状は——ない)
静かな思考が、頭の中に走る。
心臓は早鐘を打っているのに、世界の輪郭だけが妙にはっきりとしている。
(なら、前線に戻る)
ダリウスは躊躇なく駆け出した。
巨体の懐へ、一気に間合いを詰める。
(……《スラッシュ》じゃ、こいつには届かない。なら——)
腹や首に斬り込んでも、分厚い鱗に弾かれる姿が、容易に想像できた。
狙うべきは、鱗に守られていない、露出した一点。
ダリウスは、ちらりとだけオットーに目配せする。
「オットー! シールドを——上に!」
短い指示。
それだけで、オットーには通じた。
「おぅ!」
オットーは即座に盾を構え直し、地面を蹴って前へ出る。
上体をぐっと反らした姿勢で、大盾を天井に向けて押し上げる。
ダリウスがその上に飛び乗った。
次の瞬間、シールドが眩い光に包まれる。
衝撃が足の裏から脊髄に突き抜け、ダリウスの身体を弾丸のように打ち上げた。
視界が一瞬、暗闇と鱗の赤で塗りつぶされる。
次に見えたのは——エルダードラゴンの頭上から見下ろす景色だった。
(狙うなら……目だ)
巨体の右側、鱗の海にぽつりと穿たれた、わずかな弱点。
ダリウスは剣に全身の力を込める。
「——《グランドスラッシュ!!》」
踏み込みも、溜めも、斬り下ろしもない。
ただ、落下の勢いと全身の捻りを、すべて刃に乗せて叩き込む。
轟、と肉と骨の砕ける感触。
次の瞬間、エルダードラゴンの右目が、鮮やかな緑の血とともに弾け飛んだ。
「ぎぉおおおおおおおお!!」
大気そのものが震えるような咆哮が、ボス部屋の天井を震わせる。
鼓膜を突き刺すような叫びの中で、ダリウスは剣を引き抜きながら、すでに次の一手を思考していた。
潰された右目から血を噴き出しながら、エルダードラゴンが天を仰いだ。
その巨大な口腔の奥——暗闇の向こうで、何かが赤く渦を巻く。
次の瞬間、灼熱の光が、牙の隙間から漏れ始めた。
(——ブレス!」
ダリウスが反射的に舌打ちするより早く、地上から怒鳴り声が飛ぶ。
「ダリウス、戻れ!!」
オットーの怒号だ。
足場にしていた鱗を蹴り、ダリウスは迷いなく身を翻した。
落下の勢いを前転に変えながら、一直線にシールドの方へと駆ける。
後方では、エドガーが倒れたミラの身体を抱え上げていた。
「……っ!」
小柄な体重が意外なほど重く感じる。
痺れる腕に力を込め、肩に担ぐように抱えたまま、オットーの背後へと駆け込む。
オットーはすでに大盾を構え、シールドを地面に突き立てていた。
ダリウスがその影に滑り込み、エドガーとミラが続く。
四人がシールドの背後に収まったのと、エルダードラゴンの顎が下がりきったのは、ほとんど同時だった。
「ブレス来るぞ!!」
オットーが振り返りざまに叫んだ。
次の瞬間——世界が、炎に染まった。
太い光線のような、しかし確かな“質量”を感じさせる炎の塊が、一直線に押し寄せてくる。
熱というより圧力。灼熱というより衝突そのものだ。
「——《シールドバッシュ》!!!」
オットーの叫びと同時に、シールドが眩い光を帯びた。
エルダードラゴンのブレスと、シールドから迸る“防御の奔流”が正面からぶつかり合う。
衝撃が走った瞬間、オットーの全身に雷にも似た痛みが駆け抜けた。
「ぐぬぅうううううううっ……!」
足が、ぐずり、と地面にめり込んでいく。
膝から下が土に沈み、痛風で足首にかかる圧力が悲鳴を上げる。それでも、盾を押し返す腕は一寸も引かなかった。
シールド越しでも、息を吸うたびに喉が焼かれるようだ。
(吸うな、息をするな——でも、しないと保たねぇ!!)
口の中に血の味が広がる。熱に炙られた粘膜が破れ、唇の端から赤い筋が一滴こぼれ落ちた。
背後で、エドガーの詠唱が続いている。
「……ファイ、……エルン……キ……」
炎の轟音と、シールドが軋む音に掻き消されそうになりながらも、言葉は途切れない。
だが、その声はわずかに揺れていた。
熱と圧力が、魔力の流れそのものを乱そうとしている。
(やめない、やめるわけにはいかない)
エドガーは唇を噛み、喉を震わせる。
肺に吸い込む空気さえ熱を帯び、咳き込みそうになるのを奥歯で押し殺した。
ブレスの奔流が、シールドの表面を削っていく。
光の膜が薄くなり、ちらり、ちらりと点滅する。
(間に合え……!)
誰の祈りともつかない願いが、四人分、重なる。
やがて——
ふっ、と。
押し続けていた圧力が、突然消えた。
灼熱の壁が霧散し、代わりに焦げた石の匂いと、白い蒸気が周囲を包み込む。
焼けただれた床からは、ところどころ赤く熔けた石が、じゅうじゅうと音を立てていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
オットーは肩で息をしながらも、まだシールドを下ろさない。
膝まで埋まった足を引き抜く余裕も、今はなかった。




