第35話 話さない約束
トロールの亡骸から、少し離れた場所。
なだらかにくぼんだ地面に、四人はささやかな野営地を設けていた。
焚き火の炎が、夜の森をゆっくりと照らし出す。
木々の梢のあいだから覗く星々は遠く、風が梢を揺らすたび、光と影がかすかに揺れた。
ミラは、ひとりずつの前に膝をついていた。
胸元のネックレスをきゅっと握りしめ、そっと祈りの言葉を紡ぐたび、淡い光が彼らの身体を包み込む。
光が引いていくのを確かめてから、ダリウスはゆっくりと上体を起こした。
頭に手をやり、肋骨や肩を確かめ、そして小さく息を吐く。
「もう大丈夫だ、ミラ。……ありがとう」
いつものように、少し照れた笑みを添えて。
その隣で、オットーは地面に仰向けになったまま、大きく息を吐き出した。
「俺もだ。助かった」
まだ膝に鈍い違和感は残っている。それでも、さっきまでの地獄の痛みを思えば、今の痛みなど何でもない。
「よかった……ほんとによかった……」
ミラは、ネックレスをぎゅっと握りしめたまま、胸の前でそっと手を組んだ。
安堵と疲労が一度に押し寄せてきて、目尻がほんの少しだけ潤む。
そこへ、焚き火の向こうから、エドガーが歩み寄ってくる。
ミラの加護の光がすっかり消えたあと、焚き火の赤が、静かに揺れていた。
エドガーは魔導書を閉じ、膝の上にそっと置く。
そして、ちらりとオットーの方を見かけて——わざと視線を外し、焚き火の向こうを眺めるふりをしたまま、口を開いた。
「オットー。あなたの盾、前に出すぎかもしれませんね。……あまり無茶はしないようにしましょう」
さらりと言ったその声音は、いつも通りの皮肉混じりに聞こえる。
けれど、口元の微笑だけは、どこか柔らかかった。
オットーは、地面に寝転んだまま、同じようにエドガーから目をそらす。
星の見える夜空を仰ぎながら、ニヤリと片方の口角だけを上げた。
「そうだな。……お前の魔法がなかったら、今回もやばかったぜ」
それだけ。
謝りもしないし、「ありがとう」とも言わない。
けれどその短いやり取りの中身を、二人ともよく知っていた。
“もういい”“気にしてない”“頼りにしてる”——そういう言葉を、互いに飲み込んだうえでの、ぎこちない落としどころだということを。
エドガーは小さく息を吐き、肩の力を抜く。
オットーもまた、胸の上で腕を組み直し、どこかほっとしたように目を細めた。
長い年月、何度も喧嘩して、何度も同じようなやり取りを繰り返してきた。
正面から謝ったり、涙ながらに抱き合ったりするような性格ではない。
焚き火を挟んで、二人はほんの一瞬だけ視線を交わし、そろって小さく鼻を鳴らした。
それでも、わかる。
背中を預けて良い相手かどうかなんて、もうとっくに答えは出ている。
ふと、エドガーが夜空を見上げた。
「……今日は、少し冷えますね」
焚き火の向こう、濃い闇の裂け目みたいに、葉の隙間から星が瞬いている。
オットーも同じ空を見上げ、鼻を鳴らした。
「あぁ。そうだな」
それきり、言葉は続かない。
しかし、さっきまであった冷たい沈黙とは違う。
火の粉が夜空に消える
森を渡る風が、二人の間をゆっくりと通り過ぎていく。
言葉にしなくても、伝わることがある。
この夜の心地よい静けさそのものが、二人の間に新しく刻まれた信頼のかたちだと、誰より二人がよくわかっていた。
——だが、またしても。
「えっ!! 二人、仲直りできたの!!」
静かな空気を、ミラの声が盛大にぶち抜いた。
彼女は焚き火の横から勢いよく飛び出してきて、ぱあっと顔を明るくさせる。
「よかったね!! でもちゃんと謝らなきゃ!! あと仲直りの握手も必要だよ!!」
エドガーとオットーは同時に固まった。
さっきまで肩の力が抜けていたのに、今はもうガチガチである。
わかりやすく視線が宙をさまよい、微妙に顔が引きつっている。
沈黙。
薪の表面が赤く呼吸し小さく弾けた。
「ミラ!」
慌てて割り込んできたのはダリウスだった。
彼はミラの両肩をがしっとつかむと、そのままぐいっとこちらに向き直らせる。
「空気を読むんだ! 今いい感じだったろ!? すごく、こう……いい感じにまとまってたろ!?」
ミラは不満げに頬をふくらませる。
「読んだよ、ちゃんと読んだよ!? 『あっ、これは仲直りの空気だ!』って思ったから言ったの!」
ダリウスは、額を押さえ、その手をそのまま顔全体にずり下ろした。
「違うんだ! 根本的に!!」
焚き火の明かりの中で、ダリウスは必死に言葉を探す。
「あのままで良かったんだよ……なんていうか、あの“言葉少なめのまま”が正解なんだよ!! あれで仲直りは完了してたんだ!」
「えー!? おかしいよ!」
ミラは全力で抗議する。
「ちゃんと『ごめんね』って言って、『ありがとう』って言って、ぎゅーってして——」
「しない! あいつらはそういうタイプじゃない!!」
ダリウスは、思わずオットーとエドガーを振り返る。
二人はというと——
焚き火の向こう側で、石像みたいに固まったまま、見事に顔を真っ赤にしていた。
視線は合わさず、しかし耳までしっかり赤い。
「だから、仲直りはもう終わっているんだ」
ダリウスは、できるだけゆっくり、言い聞かせるように繰り返す。
ミラはじっとダリウスを見つめ、それからオットーとエドガーを交互にちらちらと眺めた。
しばらくの沈黙。
「……わからないけど」
ミラは、焚き火の前にちょこんと腰を下ろし、膝を抱えてぷいっと顔をそむける。
「……わかったよ」
(……大人って、仲直りするのも、難しいんだな)
不満げに拗ねた横顔を見て、ダリウスは小さく息を吐く。
その背後では、ようやく動き出したエドガーとオットーが、互いに目を合わせまいとしながら、同時に咳払いをした。
夜の森に、焚き火のぱちぱちという音と、くすぐったいような気まずさだけが、静かに溶けていった。
*
ダリウスがしっかりと上体を起こせるようになると、いつものように当然の流れで立ち上がった。
「よし……今日は簡単なのでいくか」
袖をくいっとまくり上げる。
次の瞬間、まな板の上で包丁がサクサクと小気味よく鳴り始めた。
スライスされたパンが皿の上に整然と並べられていく。
焚き火の上には小さな鍋が吊るされ、中ではチーズがゆっくりと、とろり、とろりと溶けていた。
熱にあぶられ、表面に小さな泡が浮かんでは消え、ふわりと香ばしい乳脂の匂いが漂う。
「ほら、できたぞ。フォンデュだ」
ダリウスが鍋を軽くゆすり、滑らかなチーズの海を見せるように傾けてみせると、ミラの目がきらりと光る。
「やった!」
ミラは待ちきれないとばかりにソーセージを一本つまみ、フォークで刺して鍋の中へ沈めた。
とろとろのチーズがソーセージの表面にまとわりつき、持ち上げた瞬間——
「わぁ……」
伸びたチーズの糸が、焚き火の明かりを受けて淡く光る。
ミラはそのまま、スライスしたパンの間にソーセージを挟み込んだ。
パンの温もりでチーズはさらに柔らかくなり、じわり、と染み込んでいく。
一口かじると、こんがりと焼けたパンの香りと、塩気の効いたソーセージの肉汁、濃厚なチーズのコクが一度に口の中に押し寄せた。
「……あぁ……幸せ……」
ミラは目を細め、頬をゆるませながら、心の底からしみ出るような声でつぶやいた。
焚き火のはぜる音と、チーズフォンデュの香りが、夜の森にゆっくりと溶けていった。
チーズの香りがまだ濃く残る焚き火のそばで、オットーが空になった皿を土の上にそっと置いた。
その仕草がいつもより静かなのを、ダリウスは見逃さない。
「……ダリウス。超集中のことなんだが」
顔を上げたオットーの目は、酒の抜けた本気の色をしていた。
ダリウスも手を止め、皿を横に滑らせる。
「あぁ」
短い相槌に、続く言葉を促す重さがにじむ。
エドガーも、口元を布でぬぐいながら視線を上げた。
さっきまでミラの暴走に巻き込まれていた顔からは、すでに学者と冒険者——二つの顔を併せ持つ、冷静な眼差しが戻っている。
「なぜ今回は、三十秒で切れたんですか?」
ミラだけが一人、話そっちのけでパンにチーズをどっぷりつけては、幸せそうに頬張っている。
「んぐ……なに? 超集中? おいしい……」
誰もツッコまない。焚き火の火だけが、ぱちぱちと場をつないでいた。
ダリウスは腕を組み、少し視線を落とす。
胸の内で、あの瞬間の景色がゆっくりと巻き戻されていく。
「時間の問題じゃない。……多分、思考のノイズだ」
「ノイズ?」とオットーが眉をひそめる。
「三十秒が来た時に、迷ったんだよ。
このまま斬りきるか、シールドまで戻るか……一瞬だけな」
あの一瞬。
呼吸が乱れ、足に鉛が入ったように動かなくなった感覚。
たったそれだけで、世界の速度は「いつもの時間」に引きずり戻された。
エドガーが顎に手を当て、言葉を選ぶようにゆっくりとうなずく。
「なるほど。……綱渡りをするような力ですね。
一歩でも踏み外せば、落ちてしまう」
オットーは腕を組み、唇の端をわずかに噛んだ。
「だが、あれがなかったら全滅だったのも事実だ。
あのトロール、俺の盾だけじゃ押し返せなかった」
「あぁ、そうだな」
ダリウスは顔を上げ、二人の顔を順に見た。
エドガーの眼差しは慎重で、オットーのそれは実感を伴った肯定だ。
「だから——全部自分で考えるのはやめようと思う」
「……どういうことだ?」
オットーが首をかしげる。
エドガーは、ふと目を細めた。
「役割分担、ですか?」
ダリウスは小さく笑って、それから真剣な眼差しに変わった。
「そうだ。俺が超集中に入る時は、もう戦闘のことだけを考える。
いつ切るか、押すか引くか——そういう判断は全部、俺から外に出す」
オットーに視線を固定する。
「オットー。超集中を切るタイミング、それから撤退か押し込むかの判断。
それを、俺の代わりに頼む」
一拍、間があった。
その間に、オットーの中で何かがカチリと噛み合う。
いつもの軽口ではなく、腹の底からくる短い返事がこぼれた。
「……おう」
それは「重い役目だ」という愚痴ではなく、「任された」という色の濃い声だった。
ダリウスは次に、エドガーへと視線を移す。
「エドガー。お前には、その間、全体の指示を頼みたい。
俺の代わりに、戦場全体を見てくれ。詠唱は、一旦途中で止めてくれ」
エドガーの指先が、膝の上でごくわずかに震えた。
それは恐怖ではなく、「任された責任」の重みを受け止めた証だった。
「……最適解ですね」
やわらかな笑みを浮かべながらも、声には迷いがない。
「わかりました。
あなたが前に出るなら、その間は私が“頭”になりましょう」
オットーがニヤリと口角を上げる。
「これで、戦術の幅は広がりそうだな」
「えぇ。ようやく、ですね」
エドガーも、ふっと笑みを返した。
さっきまで冷たくなりかけていた空気は、いつもの「三人と一人のパーティ」に戻っている。
「……ねぇ、このチーズ、全部私のお腹に収まってるんだけどおかわりはあるの?」
いつの間にか鍋の底をさらっていたミラが、ほっぺたをふくらませたまま不満を訴える。
ダリウスは思わず吹き出し、エドガーとオットーも同時に肩を揺らした。
焚き火の火がぱちぱちと弾け、その笑い声を照らし上げる。
ミラは、残り少なくなったパンをもぐもぐしながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねぇねぇ、その“戦術の幅”ってやつ? オットーって攻撃のスキルはないの?」
その一言で、焚き火の音だけが妙に大きく聞こえた。
——一拍の沈黙。
オットーは、マグを握ったまま目を伏せる。
ダリウスとエドガーが、ほんのわずかに視線を交わした。
「触れたくない話題だ」と、長年の勘でわかる種類の沈黙だ。
「……」
オットーはわざとらしく肩をすくめてみせると、無理に軽い調子を作った。
「……まぁ、俺はシールドバッシュを極めるために、他のスキルは覚えてねぇんだよ」
あたかも、それがすべてだと言わんばかりに。
だが、焚き火の明かりに浮かぶ横顔には、どこか自分で話を打ち切ったような固さが混じっていた。
「何も問題ありませんよ」
エドガーが、火に照らされた表情を崩さぬまま続けた。
「オットーのシールドバッシュは、もう“異常”の域ですからね。
他のスキルなんて、いりませんよ」
さらりとした口調。
けれど、それ以上“他のスキル”について掘り下げないよう、きっちり線を引く言い方でもあった。
「異常って言うな」
オットーはぼやきながらも、どこか救われたように鼻を鳴らす。
マグの中身はとっくに空だ。それでも、指先だけはやけにその取っ手から離れなかった。
——あの一つだけある攻撃スキルについては、誰も触れない。
ダリウスは二人のやりとりを見て、ぱん、と手を叩いた。
「よし、今後の方針はここまでだ。今日は早めに寝よう!」
「賛成だ、身体がもうバキバキだ」
オットーが「よっこらせ」と立ち上がる。その背中には、さっきまでの重さが、ほんの少しだけ薄れていた。
一方でミラは、一人首をかしげている。
「……???」
唇に指を当て、きょとんと三人を見回す。
何か隠している気配は感じる。けれど、それが“冗談めかして流すべき種類の秘密”だということまでは、まだうまく言葉にできない。
ダリウスとエドガー、オットーはというと、妙にそそくさと寝床の準備に取りかかっていった。
この話題はここまで——そう決めた大人たちの、無言の合図を交わしながら。




