第34話 不安定な切っ先
ぐにゃりと曲がった太い腕。
岩のような皮膚。
そして、血走った小さな目がぎょろりと三人を見下ろす。
トロールだった。
その口元にはニヤリとした歪な笑みが浮かんでいる。
獲物を追い詰めた捕食者の、揺るぎない確信の笑みだった。
トロールの濁った瞳が、じっとこちらを舐めるように見ていた。
その視線を真正面から受け止めながら、ダリウスは短く息を吐く。
「……オットー、頼む」
それだけ告げると、すっと胸の内側が静まり返っていく。
喧噪が遠のく。
荒れ狂うトロールの咆哮も、折れた枝が落ちる音も、ミラの荒い息づかいも——すべてが薄い膜の向こうに押しやられる。
一瞬で、意識が静かな思考の海に沈んでいった。
視界の端にちらついていた色が、輪郭だけを残して整理される。
揺れる木の葉、ころがる岩、トロールの太い足の運び——それらが一本の線のようにつながり、動きの「流れ」として見えた。
ダリウスは、地面を蹴った。
身体がふっと軽くなる。
次の瞬間には、もうトロールの懐に潜り込んでいた。
「——《グランドスマッシュ》!」
振り上げた剣を、棍棒を握る右腕に叩きつける。
骨が砕ける鈍い感触と、肉を断つ手応えが、柄を通じて腕に伝わった。
トロールの右腕が、肘から先ごと宙を舞い、地面にずしん、と落ちる。
「ぶろぉおおおおお!!」
苦痛と怒りに満ちた咆哮を上げながら、トロールがまた身体を丸めた。
——そうか。
転がり始めるその巨体を見ながら、ダリウスの中で、静かにひとつの線がつながる。
(……こいつ、やみくもに暴れてるわけじゃない……)
さきほどまでの転がり方、ぶつかる木の位置、石の散り方が、記憶の中で逆再生されていく。
わざと障害物にぶつかり、その破片を四方八方に飛ばしていた——狙って。
(狙って転がってたのか……やっぱり、知能があるな)
大砲のように飛んでくる太い枝。
足元をすくう岩の破片。
それらを、ダリウスの身体は“危険”と認識するより早く、僅かなステップと上体の傾きだけでかわしていく。
頭の中は静かなままだった。
右から来る。
次は左、低い軌道。
三つ目は、肩の高さ。
トロールの巨体の“空白”へ、細い道が一本通っているのが見える。
ダリウスは、あらかじめそこに敷かれていたレールに乗るように、一気に距離を詰めた。
*
エドガーは、地面に横たわったまま、ふと瞼を持ち上げた。
視界の端で、ダリウスがトロールの懐に飛び込んでいくのが見える。
腕を失ったトロールは、怒りに目を血走らせ、それでもなお転がりながら頭をこちらへ向けていた。
(オットー……あなたが……)
盾を構えたまま、必死に踏ん張る戦友の背中が脳裏をよぎる。
(あなたが、正しかったのかも……しれませんね)
視界がにじむ。
意識の奥で、そんな言葉だけが静かに浮かんだ。
*
「——《スラッシュ》!」
ダリウスの剣が、トロールの腹部に深々と突き立った。
厚い皮膚と脂肪を貫き、熱を帯びた生臭い感触が刃越しに押し寄せる。
だが、トロールは転がり続けていた。
回転する巨体に引きずられるように、刃は軌道をずらされる。
狙っていた心臓の位置から、ほんの数寸——外へ。
致命傷には至らなかった。
(……ちっ)
舌打ちしたい衝動を、ダリウスは飲み込む。
静かな海の底で、砂時計の砂が落ちるような感覚があった。
(今ので——二十五秒)
超集中に入る前に、何度も試した。
砂時計を見ながら、動きながら、何度も限界を測った。
結果、一分半が“完全な限界”。
安全圏は、その半分——三十秒。
(……三十秒経った。ここからは危ない)
頭の中で、冷静な自分が囁く。
(あと一歩で狩れる。ここで決めるか、それとも——シールドまで戻るか)
トロールの腹部から血が噴き出している。
回転はさっきより鈍っている。
今、ここで踏み込めば、恐らく仕留められる。
だが、その一歩を、彼は“何で”踏み込む?
筋力か、根性か、惰性か。
それとも——さっきまで頼りにしていた、あの異常な静けさか。
(……俺は、どっちを選ぶ?)
一瞬だった。喉の奥で「いける」という欲が熱を帯びる。
本当に、瞬きひとつの間にも満たない時間。
だが“欲”という名のノイズは、超集中という繊細な均衡には粗野すぎた。
静まり返っていた思考の海に、細かいひびが入る。
澄み切っていた水面に、石を放り込んだように、波紋が広がった。
(……あ)
世界の輪郭が、少しだけぶれる。
先ほどまで一本の線として見えていたトロールの動きが、「速い」「重い」「でかい」という感覚に変わる。
情報が“流れ”ではなく、“塊”として押し寄せてきた。
「……っ!?」
ダリウスは思わず息を呑んだ。
足が、鉛のように重くなる。
さっきまで当たり前のように運べていた重心移動が、急にぎこちなくなる。
「はぁ……っ、はぁ……」
身体が酸素を急激に欲しがり始めた。
肺が焼けるように痛む。
さっきまで“あとから来るはずだった疲労”が、一気に全身にのしかかってくる。
(……まずい)
そう思い、足を引こうとした、その瞬間——
トロールの巨体が、一直線に迫ってきていた。
視界の端で、世界がぐるりと回転する。
避けるための一歩が、間に合わない。
「——っぐ!」
トロールの転がりが、横からダリウスの身体をまともに叩きつけた。
重い岩に正面からぶつかったような衝撃。
空気が肺から押し出され、骨がきしむ。
そのまま、彼の身体は地面を離れ、無様な人形のように宙を舞った。
次の瞬間、背中から岩に叩きつけられる。
鈍い音が、森の奥へと響いた。
「なんでだ!? まだ三十秒だぞ!? くそっ!」
オットーは舌打ちし、シールドを前に突き出したまま飛び出す。
だが、二歩目を踏み出した瞬間——右膝に、焼きごてを押し当てられたような痛みが走った。
「っ……あ゛ぁあああっ!!」
膝から力が抜け、思わず片足を引きずる。
その感覚は嫌というほど覚えがあった。
何度も、何度も、自分の全盛を邪魔してきた、痛風。
(こんな時に、またかよ……!)
喉の奥から、怒鳴り声が込み上げてくる。
「くそぉおお! こんな時に!」
足が出ないなら——。
オットーは大斧の柄を強く握り、ぐるりと大きく振りかぶると、そのままトロールへと投げつけた。
ぶうん、と唸りを上げて回転する刃が、片腕を失ったトロールの傷口へ吸い込まれていく。
肉を裂き、骨を砕きながら、残った肉片にまでめり込んだ。
「ぼぉおおおおお!!」
トロールの叫びは、さっきまでの苦痛とは違った。
明らかな怒り。
獲物に対する憎悪の色を帯びた声音だった。
その怒りの矛先が、真正面からオットーへ向き直る。
巨体が丸まり、地面を削りながら、回転する岩のように迫ってくる。
オットーは片膝を引きずりながらも、一歩前へと踏み出した。
「——来やがれぇえええ!! 《シールドバッシュ》!!」
前面に展開された光の盾が、トロールの突進と真正面からぶつかり合う。
轟音。
地面がめり込み、周囲の小石が跳ね上がる。
だが、右膝は満足に踏ん張れない。
押し返すどころか、じりじりと後退を強いられ、靴裏が土を削っていく。
「ぐっ……!」
シールドの表面に走るひびが、ビキビキと音を立てる。
それをかき消すように、光がいっそう強く輝いた。
「なめんなよぉおおおお!! 動け!! 右膝ぁああああ!!」
踏み込めない足に、意地と怒鳴り声だけを叩きつける。
右膝からは、痛みと熱が混ざり合った感覚が上がってくる。
それでも、オットーは一歩も退こうとしなかった。
トロールとオットーの「削り合い」が続く。
盾越しに伝わる圧力は、徐々に重くなっていく。
脂汗が額から顎へと伝い、首筋をつたって鎧の中へと流れ込んだ。
(……やっと、頭が冷えてきたぜ)
トロールの咆哮と、自分の荒い呼吸音の奥で、落ち着いた思考がかすかに顔を出す。
(やっぱり……ダリウスの超集中は、不安定だった……エドガーの言った通りになっちまった)
あの時、もっと穏やかに話せたはずだ。
もっと違う言い方ができたはずだ。
そう思うたびに、胸のあたりがじくじくと痛む。
シールドの光が、点滅し始めた。
光が強くなり、弱まり、また強くなる——その周期が、徐々に速くなっていく。
(……へっ)
オットーは自嘲気味に笑う。
(シールドが消えた瞬間、俺は死ぬ)
だから——。
(どうせ死ぬなら“あの技”を使うしかねえか……)
そこでふと、別の思いがよぎる。
(……エドガーに、謝っときゃよかったぜ)
詠唱が遅くなったこと。
昔と違う、と言ってしまったこと。
あいつの目が、あの一言でわずかに揺れたのを見ていながら、見て見ぬふりをしたこと。
胸の奥から込み上げてくるものを、噛み殺して前を睨む。
その時だった。
「……よく……やりました……オットー」
背後から、かすれた声が飛んでくる。
振り返らなくてもわかった。
その声の持ち主は、ずっと隣に立ち続けてきた魔導士だ。
「エドガー……?」
ふらつきながらも、エドガーは魔導書を胸の前に掲げていた。
顔色はまだ悪い。
だが、その瞳は、いつもと同じ冷静な光を帯びている。
彼は、ゆっくりと腕を振りかぶった。
「——《業火の抱擁》!」
次の瞬間、地面から灼熱の大蛇が這い出したかのように、炎がうねり上がった。
赤と白と橙が絡み合い、一本の巨大な焔の蛇となってトロールの身体に巻きつく。
炎はただ燃やすのではない。
締めつけ、抉り、骨の髄まで焼き尽くそうとするかのような執念を帯びていた。
トロールの咆哮が、悲鳴へと変わる。
皮膚が黒く焼けただれ、筋肉が炭となって崩れ落ちていく。
最後には骨すらも形を保てなくなり、爆炎の中で崩れ落ちた。
爆風が森を揺らし、焦げた匂いが一帯を満たす。
炎が収束し、煙だけがゆらゆらと空へ昇っていった。
そこには、骨の欠片すら残っていなかった。
オットーは、ようやくシールドを降ろした。
右膝が限界を迎えたように、地面へと崩れ落ちる。
「……ったく、派手にやりやがって」
息を整えながら呟くと、背後から小さな笑い声が聞こえた気がした。
それが本当に笑い声だったのか、それとも自分の耳が聞きたがった音だったのか——今の彼には、確かめる余裕はなかった。




