第32話 言葉を飲み込む年齢
二十五階層の野営地は、森の中でもぽっかりと木々の少ない一角だった。
頭上を見上げれば、重なり合う葉の隙間から、夜空の星がいくつも瞬いている。
ここに至るまでのあいだ、オットーとエドガーは何度も同じやり取りを繰り返していた。
知恵を持った魔物たちに対して——ダリウスの“超集中”を戦術として組み込むべきかどうか。
若い頃なら、遠慮のない怒鳴り合いに発展していたかもしれない。
だが今は、中年だ。
胸の内で燃え上がるものは確かにあっても、それを爆発させる代わりに、奥歯で噛み砕いて飲み込むことを覚えてしまった年齢だった。
意見はぶつかる。だが声は荒れない。ただ、飲み込まれた言葉だけが、胃の奥に重く沈んでいく。
ぱち、ぱち、と油のはぜる音が、そんな空気の上に重なっていた。
焚き火のそばで、ダリウスがフライパンを振っている。
オリーブオイルの表面で、薄切りのニンニクが踊る。
そこへ細切りのベーコンを落とすと、じゅうっと音が変わり、脂と香りが一気に広がった。
(超集中に入るまでの時間は、だいぶ短くなってきた……コツは掴んだ。
継続時間も、そろそろ測れる。
あとは——あの後、どう体を立て直すかだな)
ダリウスは手を止めず、心だけを少し遠くへ飛ばす。
ミラはその背中を見ながら、落ち着きなく足をぶらぶら揺らしていた。
何か話題を振るべきか、それとも黙っていた方がいいのか——迷っているのが、横顔だけで伝わってくる。
オットーは無言のまま、膝の上に置いた盾の縁を布でこすっていた。
普段なら鼻歌のひとつも出そうな作業なのに、今夜は口元が固く結ばれている。
エドガーは折りたたみ椅子の上で魔導書をめくり、視線を落としたまま動かない。
焚き火の明かりが長髪を鈍く照らし、表情をいっそう読み取りづらくしていた。
「——できたぞ」
ダリウスがフライパンを持ち上げ、わざとらしく明るい声を出した。
皿に盛られたのは、黄金色に輝くカルボナーラだった。
深皿にこんもりと盛られたパスタには、卵とチーズのソースがとろりと絡みつき、表面はほのかに艶を帯びている。
その上には、カリッと焦げ目のついたベーコンが、まるで宝石の欠片のように散りばめられていた。噛めばきっと、じゅわりと脂とニンニクの香りが弾けるのだろうと、見ただけでわかる。
フォークでひとすくい持ち上げると、麺に絡みついたチーズが細く長く糸を引いた。
中央に乗せられた卵は、まだわずかにぷるりと震えている。
今にもスプーンを入れれば、とろりと濃い黄身が流れ出し、パスタと一体になってしまいそうだった。
カルボナーラから立ち上る湯気には、カリカリのベーコンの香ばしさと、卵とチーズのまろやかさが混ざり合っている。
焚き火の煤けた匂いにさえ勝ち、森の闇は焚き火の輪の外でじっと息を潜め、虫の声だけがかすかに夜を刻んでいた。
料理がそれぞれの皿に行き渡ったところで、エドガーがようやく膝の上の魔導書をそっと閉じた。
「……ありがとうございます」
短くそう告げて、彼は魔導書を横に置く。
その声音には、礼の形だけはきちんとあるのに、どこか芯が抜け落ちたような乾きが混じっていた。
「わりぃな」
オットーもまた、焚き火とは逆の方——星空の見える暗がりへ顔を向けたまま、ぼそりと呟く。
いつもなら真っ先に手を伸ばし、「うめぇ!」と大声を上げるはずの男が、今夜は妙に小さく見えた。
そんな空気をぶち破るみたいに、ミラがフォークを握りしめたまま身を乗り出す。
「おっ、おいしいね! すごく! そう思うでしょ、エドガー?」
やや過剰な笑顔。
口元も目元も思い切り持ち上げているのに、その裏に「お願いだから普通に返事して」と書いてあるのが丸わかりだ。
「……そうですね」
エドガーは皿の上だけを見つめたまま、そっけなく相槌を打つ。
フォークでパスタを巻き取る動きはいつも通りきれいなのに、その手元からは、料理を味わう余裕より、ただ「口に運ぶ」という作業だけが透けて見えた。
ぱち、ぱち、と焚き火の音だけがやけに大きく聞こえる。
カルボナーラの濃厚な香りが漂っているのに、会話の味だけは薄かった。
それでも——と、ミラは諦めなかった。
口いっぱいにパスタを頬張って、ごくんと飲み込むと、今度はオットーの方へ勢いよく体をひねる。
「オットーなんて、こんなの食べちゃったら余計太っちゃったり、なんて!」
わざとらしいくらい明るい声。
からかい半分、場つなぎ半分のその一言に、オットーは一瞬だけ肩を震わせた。
だが、返ってきたのはお決まりの軽口ではない。
「……ごちそうさん」
空になった皿の上に、フォークがカチリと音を立てて置かれる。
オットーはダリウスの方へちらりと目を向け、いつもの笑い皺ではなく、どこか申し訳なさそうな目つきで言った。
「ありがとうな、ダリウス」
「あぁ」
ダリウスは、ほんの少しだけ目尻を緩めて頷く。
もっと何か言葉を足すこともできたはずだが、今のふたりのあいだには、その一言で十分なようにも思えた。
「俺は先に寝るぞ」
オットーは立ち上がり、背を伸ばすと、寝袋と簡易テントの方へと無造作に歩いていく。
その大きな背中は、いつもより少しだけ丸く見えた。
「……水を汲んできます」
間を置かず、エドガーも静かに立ち上がる。
椅子をきしませる音だけ残して、彼は水袋と桶を手に取り、森の奥——小川の方へと足音も立てずに消えていった。
焚き火のぱちぱちという音だけが、ふたりのあいだを埋めていた。
「……ダリウス」
不意に名前を呼ばれて、ダリウスは振り向く。
ミラは膝を抱えるみたいにして座り、火の明かりに照らされた横顔は、さっきまでの無理な笑顔とは違って、年相応に幼く不安げだった。
「ん? どうした、ミラ?」
ダリウスができるだけ柔らかい声で返すと、ミラは少しだけ唇を噛んでから、ぽつりぽつりと言葉を落とした。
「大丈夫かな、二人とも……。こんな調子で、戦えるの?」
エドガーが去っていった方向と、オットーのテントの方とを、行ったり来たりするみたいに視線が揺れる。
その目の奥には、「楽しい冒険」の枠では収まらない現実が、ようやく少しずつ見え始めているようだった。
「大丈夫だよ、ミラ」
ダリウスは、焚き火越しに彼女の顔を真正面から見る。
いつもモンスターに向けるのとは違う、穏やかな眼差しだった。
「俺たちは付き合いが長いからな。たまにあるんだ、こういうこと」
「……そうなの?」
ミラがすがるように問い返す。
その声には、半分は信じたい気持ち、半分はそれでも不安な気持ちが混じっていた。
「あぁ……なんていうのかな」
ダリウスは顎に手を当てて、少しだけ考え込む仕草をする。
「付き合いが長いとさ、仲間以上の……家族? ……うーん、説明が難しいな。
まぁ、不思議な関係になって、今みたいに噛み合わなくなる時期があるんだ」
ミラは俯き、ブーツのつま先で土をこすった。
「そうなんだ……」
わかったような、わからないような。
ただ、胸の奥の重さは、さっきよりほんの少しだけ軽くなっていた。
「今回に関してはな」
ダリウスは、そっと焚き火の炎に目を落とす。
「俺の“超集中”をどう扱うか、って話だ。どっちの意見も正しい。
それに……いざ戦闘になれば、あのふたりはちゃんと連携するだろ? 息ぴったりでな」
その言葉には、長年共に死線をくぐってきた者だけが持つ確信があった。
「お互いプロだ。私情を戦いに持ち込むほど、子どもじゃないってことだよ。
だから心配しなくていい。きっとどこかで——ちゃんと、仲直りできる」
(だからこそ、俺は……)
胸の内で、ダリウスは誰にも聞こえない声を続ける。
(この力を、早く安定して使えるようにならなきゃいけない。
ミラに、こんな顔をさせたまま進むわけにはいかない)
その決意を隠すように、彼はもう一度ミラを見て微笑んだ。
(……本当に“安定させる”なんてことが、この年齢からできるのか。
それでもやるしかない)
「そっか」
ミラの表情に、ふっと明るさが戻る。
「じゃあ、ふたりが仲直りしたらさ——『おかえり』って言わないとね」
不意を突かれたように、ダリウスは目を瞬いた。
次の瞬間、思わず吹き出す。
「なんだそれ……でも、いいな、それ」
焚き火の光が、彼の笑い皺をくっきりと浮かび上がらせる。
「そうだな。ちゃんと仲直りしたら、そのときは……二人で言ってやろう」
「うん!」
ミラは力強く頷いた。
頭上の木々の隙間からのぞく星空が、さっきより少しだけ近く感じられた。




