第31話 三分間の前線
「全員、オットーの盾の中に!」
ダリウスの声が飛ぶや否や、ミラ、ダリウス自身、エドガーが迷いなくシールドの後方へと滑り込んだ。
光の壁が、三人を包むように前方に広がる。
ハーピィたちはすぐに追撃してこない。
代わりに、枝から枝へと軽やかに移りながら、上から見下ろす位置を探っていた。
一羽が、ひらりと翼をすぼめ、真上から降りてくる。
尖った爪先が、オットーの光盾にゆっくりと押し当てられ——
ギギ……ギギギ……
まるで金属玩具でも弄んでいるかのように、わざとゆっくり、いやらしい音を立てながら引っかいてくる。
「チッ……遊んでやがるな」
オットーの額に、じわりと汗が浮かぶ。
上方に向けて掲げ続ける盾。その姿勢は、想像以上に脚と腰に負担をかけていた。
ダリウスはその背中越しに空を睨みつつ、すぐ横のエドガーを振り返る。
「エドガー、魔法発動までどのくらいだ?」
エドガーは、息を整えながら冷静に答えた。
先ほどラミアに放った炎線弾の余韻が、まだ指先に残っている。
「連続発動は失神のリスクがあります。マナポーションで魔力を回復させるとして……三分、欲しいですね」
「三分……」
ダリウスは小さく復唱し、その視線をオットーへと移した。
「オットー、三分もつか?」
「……上方に向けてのシールドはよ……姿勢がきつい……」
オットーは歯を食いしばりながら、震える脚で踏ん張る。
「ミラ、腰に加護をかけてくれ。それで、なんとか三分持たせる」
「任せて!」
ミラは即座にネックレスを握りしめ、一歩前ににじり寄る。
ハーピィの爪が、またギギギと盾を削る音を立てたが、ミラの顔には恐怖よりも、仲間を支えたいという一心の表情が浮かんでいた。
胸の前で両手を重ね、そっと目を閉じる。
「——女神の風よ、ひかりを運んで、この傷にそよげ。《聖癒の環》」
柔らかな光が、ミラの指先から溢れ出す。
それは輪となって広がり、オットーの腰を中心にゆっくりと降り積もるように染み込んでいった。
「……おぉ?」
オットーのこわばった表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
痛みが消えたわけではない。だが、折れかけていた“支え”がもう一度踏ん張れる程度には、確かに強くなった。
「三分だ。持たせてくれ、オットー」
ダリウスの声に、オットーは苦笑いを浮かべながら短く答えた。
「あったりめぇだろ……! 前衛なめんなよ!」
(俺が前に出て、奴らに傷を刻めば——攻撃は鈍る)
ダリウスは、シールドの陰でそっと息を吸い込んだ。
冷たい森の空気が、肺の奥までゆっくりと満ちていく。
意識が、深く、深く沈んでいく。
目の前の光景から、余計な音や匂いが削ぎ落とされていく。
残るのは、風の流れ、翼がはためく気配、上空から降りてくる殺気だけ。
ダリウスは一歩、静かに——しかし疾風のような速さで、シールドの外へ踏み出した。
その瞬間を待っていたかのように、一体のハーピィが枝から飛び降りる。
鋭い足の爪が、一直線にダリウスの頭上へと伸びてきた。
(…………見える)
爪が、どの角度で、どの速度で降りてくるのか。
ハーピィの体重がどこに乗っているのか。
その全てが、まるでゆっくりとした図解のように、頭の中に浮かび上がる。
(大丈夫だ…………剣を“振るう”必要もない。ただ——)
ただ、そこに「置いておけば」いい。
ダリウスは、ほとんど力みもなく、剣先をわずかにずらした。
「……《スラッシュ》」
金属音すら鳴らない。
触れたのかどうかも分からないほどの軽い手応えのあと——ハーピィの両脚が、胴体からすっぱりと切り離されていた。
上半身は慣性のまま虚空をもがき、そのまま地面に叩きつけられる。
下半身は、遅れてどさりと落ちた。
その間にも、ダリウスの体は止まらない。
半歩、横に滑る。
つま先が落ち葉をかすめ、身体が自然と反転する。
ガキィンッ!
背後から飛び込んできたもう一体のハーピィの爪が、空を切った。
ほんの一瞬前までダリウスの首があった場所を、鋭い爪が抉る。
(——後ろ。右の上段。次は左の薙ぎ払い)
見てから動いているわけではない。
動き出す“前”の、わずかな重心移動と翼の角度から、“次”が分かる。
まるで、この空間そのものが自分の支配下に置かれたような感覚だった。
ハーピィの焦りが、羽音の乱れにそのまま乗って伝わってくる。
対してダリウスは、ただ静かに、呼吸すら乱さず——剣を「置く」ための場所だけを選び続けていた。
ミラは思わず息を呑んだ。
「すごい……」
さっきまで好き放題に空を舞っていたハーピィが、片方は真っ二つ、もう片方は足だけを地に落としている。その異様な光景の中心に、ダリウスが静かに立っていた。
残った一体は、たまらず羽ばたきを強めた。
森の天蓋すれすれまで一気に高度を上げ、怯えた鳴き声を上げながら距離を取ろうとする。
その背後で——ダリウスは無言のままオットーの方へ歩み寄った。
オットーの前に立つと、その大盾の縁に足をかけ、そのままひょいと跳び乗る。
「……オットー、シールド全開にしてくれ」
静かな声だった。
オットーは一瞬ぽかんとし——次の瞬間、目を見開いてにやりと笑う。
「お……!? おう!」
シールドバッシュの術式が、盾全体に一気に展開される。
足元から突き上げるような反発力が、ダリウスの身体を真上へと弾き飛ばした。
空気が裂ける。
逃げようと上昇していたハーピィの前に、ダリウスが追いつく。
驚愕と恐怖で見開かれた黄色い眼が、真正面からこちらを捉えた。
その瞳を、ダリウスはただ静かに見返す。
「——《スラッシュ》」
ほとんど風を切る音だけで、ハーピィの胴がきれいに二つに割れた。
上半身と下半身が、ばらばらに回転しながら落ちていく。
ダリウス自身も、重力に引かれて急速に落下する。
地面が迫る——と見えた瞬間、彼の身体がくるりと回転した。
肩からではなく、背中からでもなく、きちんと受け身を取り、雪とも土ともつかない柔らかな地面を転がり、膝立ちの姿勢に戻る。
そこで、ぷつりと糸が切れた。
「は……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
呼吸が急に荒くなり、顔から血の気が引いていく。
さっきまでの静謐な気配は跡形もない。額から汗が滝のように流れ、膝が笑い、立っていることすらままならない。
ダリウスは剣を地面に突き立てて身体を支えようとしたが、その握力すら抜け落ちていく。
ミラが真っ先に駆け寄った。
「ダリウス、大丈夫!?」
その声には、からかいも軽口も一切ない。
ただ心底からの心配だけが滲んでいた。
少し遅れて、エドガーとオットーも駆け寄る。
「はぁ……はぁ……息が、あがっただけだ……はぁ……みんな……休もう……」
ダリウスは真っ青な顔で、地面にずるずると尻を落とした。
剣はすでに手からこぼれ、がこんと鈍い音を立てる。
少し前のダリウスなら、絶対に踏み込まなかった一歩だった。
「喋らなくて結構です。はい、横になってください」
エドガーが眉間に皺を寄せながらも、どこか慣れた手つきで肩を支える。
反対側からオットーが腕を回し、ずしりとした中年の体重を二人で引き上げた。
「まったく……無茶しやがって」
「いいから文句は後です。まずは安静に」
二人に担がれ、ダリウスは仰向けに寝かされる。
枝の隙間から、斑に漏れた光が、妙にぼやけて見えた。
ダリウスの荒い息が、しばらく森に続いていた。
簡易シートの上で大の字に寝かされたリーダーの少し離れた場所で、オットーとエドガーが座り込む。
「……ハーピィの動き、どう思いましたか?」
エドガーが、低い声で切り出した。
魔導書は閉じたまま、指先で表紙の角を小さく叩いている。眼差しは前方——さっきまで敵がいた空間に向いたままだ。
オットーは頭をがしがしと掻き、眉間に深い皺を寄せる。
「ラミアを囮にして様子見、隙を見て樹上から奇襲……ってとこだな。
こりゃまいったな、本当に盗賊団とやり合ってるみてぇだ」
乾いた苦笑いを浮かべながらも、その目は笑っていない。
「そして……やはり、ダリウスの“超集中”も——」
エドガーは一拍置き、言葉を選ぶように唇を結んだ後、はっきりと続けた。
「——不安定です」
その声音は、ほんの少しだけ冷たく聞こえた。
オットーの太い眉がぴくりと動く。
「……だが、撃退した事実もあるぞ」
盾を握る手に力を込めながら、オットーはエドガーをちらりと睨む。
「一時的にでも前線は機能した。あれがなきゃ、誰か持っていかれてたかもしれねぇ」
「ね、ねぇ、二人とも……」
少し離れた場所でポーションを片づけていたミラが、空気の変化に気づいて駆け寄ってくる。
視線が二人の間を落ち着きなく往復し、落ち着かない足取りでその場に立ちすくんだ。
エドガーはミラの方を一瞬だけ見て——そして、あえてそらすように、オットーだけを見据える。
「……ダリウスがいなくても、私の魔法とあなたの盾で対処できたはずです」
(言わないと。あの“超集中”に頼り始めたら、きっと取り返しがつかなくなる)
そこにあるのは勝利の余韻ではなく、硬い危機感だった。
オットーは何か言い返しかけて、ぐっと喉の奥で飲み込む。
唇の端が、悔しさにわずかに歪んだ。
「…………今は、やめておこう。この話」
絞り出すような低い声だった。
エドガーも、しばし視線を落とし——静かに頷く。
「…………そうですね」
ミラは、二人の横顔を交互に見つめた。
心配そうに眉を寄せ、小さく口を開いては、結局何も言えず閉じる。
「…………」
木々の隙間から差す光が、三人と一人の影を、長く地面に落としていた。
二十二階層の旅は、こうして——少し不穏な空気の中で、幕を開けた。




