第30話 森と体脂肪
二十三階層は、濃い緑の匂いで満ちていた。
樹木がひしめき合うように立ち並び、頭上では枝葉が折り重なっている。手前こそ木漏れ日が斑に地面を染めているが、少し奥を覗き込めば、そこはもう陽光の届かない、薄闇の回廊だった。
ダリウスは、頭上に伸びた枝をしばらく眺め、それからしみじみと呟く。
「森か……厄介だな」
「森、ね」
ミラは腕を組み、なぜか“理解した顔”だけは一人前にうなずいた。
ダリウスはひとつ深呼吸をし、前へと一歩踏み出す。
足元の枯れ枝が、パキ、と乾いた音を立てた。
「行こうか」
「えっ、行くの?」
その袖を、ミラが慌ててつかんだ。目を丸くしている。
「“厄介”って言ったよね? いつもなら一回戻って、装備整えるやつじゃないの?」
「森ですしねぇ」
エドガーは、魔導書のページをぱらぱらとめくりながら、気のない相槌を打つ。
「森だからなぁ」
オットーはぽりぽりと尻を掻きつつ、内容のない同意を添えた。
ダリウスは、そんな三人を見回し、いつもの“講義モード”の声になる。
「今回の場合な。オットーの斧は邪魔だ。枝がうるさくて振り回せない。だから有利なのは——森で姿勢を落として使えるナイフ、間合いを詰めた拳、あとは上から狙える弓なんかだ」
「ほらやっぱり!」
ミラはぱっと顔を輝かせる。
「じゃあ、すぐ買いに行こうよ!」
しかし、その勢いを打ち消すように、ぱたん、と魔導書の閉じる音が鳴った。
「それを誰が使いますか?」
エドガーが眼鏡の位置を直しながら言う。
「オットーかダリウスでしょ?」
ミラは当然のように返した。
「ダリウスは森の中でも剣で器用に立ち回れる」
オットーが、当たり前のような口調で続ける。
「むしろ慣れない武器を使う方がリスクが高い。で、ミラ。俺がな——木陰で気配を消して、スマートにナイフで急所を狙ったり、枝の上から弓を射たりしてる姿……想像できるか?」
「……今、“木に隠れてるつもりなのにお腹だけ見えてるオットー”の映像が浮かんだわ……」
ミラはしゅんと肩を落とした。
その時だった。
森の奥から、かすかな枝葉の揺れる音が、風とは違うリズムで近づいてくる。
ダリウスの表情が、一瞬で引き締まった。
キィン、と鞘鳴り。腰の剣が抜き払われる。
「みんな、隊列を組め! 来るぞ!」
張り詰めた声が森に響く。
木漏れ日の下、緑の静寂が、戦場の空気へと一変した。
号令と同時に、三人はばらけるようでいて、きっちり決められた位置に収まった。
オットーが中段、盾を前に突き出し、後ろにエドガーとミラ。
そして最前列には、剣を抜き放ったダリウスが一歩踏み出す。
前方の茂みが、ざわり、と音を立てた。
ぬるり、と。
下半身が太い蛇、上半身が人間の女——ラミアが一体、木陰から現れる。
鱗は濡れたように光り、女の顔には微笑とも嘲りともつかぬ表情が浮かんでいた。
「チィッ——!」
ラミアの尾が、地面をえぐる勢いで横薙ぎに振るわれる。
ダリウスは、その軌跡を読み切ったかのように、ほんの数センチだけ身体を引いた。頬を掠めた風が、遅れて木の葉を震わせる。
「エドガー! 一体だけだ、速くて小さい魔法でいい!」
振り返りざまに怒鳴ると、背後から落ち着いた声が返ってくる。
「わかってますよ」
エドガーはすでに魔導書を開き、指先で文字列をなぞりながら詠唱を始めていた。
ダリウスは視線をラミアから外さない。
(乗ってくるか……? それとも、この前のミノタウロスみたいに“スルー”して後衛を狙うか……)
ラミアの瞳が、すっと細くなった。
今の一撃は、当たるはずだった。
そう言わんばかりの、不快げな戸惑いが顔に浮かぶ。
だが次の瞬間、その迷いを振り払うように、女の上半身がしなり、尾と腕が一斉に襲いかかってきた。
(よし——乗ってきた!)
喉元。こめかみ。鳩尾。手首。
どれも、ひとつまともにもらえば戦闘続行は難しい“急所”ばかりだ。
しかし、ダリウスの足は一歩も引かない。
ほんのわずかな重心移動と、剣の角度だけで、そのすべてを紙一重で外し続ける。
尾が風を裂き、指先の爪が髪をかすめ、蛇体の胴が地面を叩く音だけが、森に乾いた衝撃音を残した。
背後で、魔導書の文字が淡く光を帯びる。
「キュル……エドゥン……」
エドガーの低い詠唱が、一定のリズムで森のざわめきに溶けていく。
「準備できました。——下がってください!」
声が飛ぶ。
「はぁ……はぁ……わかった!」
ダリウスは肩で息をしながら、バックステップで一気に間合いを切った。
ラミアの視線が、追うか、追わないかで一瞬揺れる。
その逡巡ごと、エドガーの声が断ち切った。
「《炎線弾》——!」
突き出された掌から、細く、だが凄まじい熱量を秘めた光の線が伸びる。
それは矢でも槍でもなく、“線そのもの”が空気を裂き、ラミアの身体を貫いた。
高熱の光線が、蛇の胴を串刺しにする。
瞬間、ラミアの口から悲鳴とも蒸気ともつかぬ音が漏れ、次いで——遅れて、周囲の木々が焦げた匂いを立ちのぼらせた。
蛇の尾が、どさり、と地面に崩れ落ちる。
上半身も力なく項垂れ、やがてぐったりと動かなくなったその時。
「上からだ! 《シールドバッシュ》!」
オットーが叫ぶと同時に、彼の前に光の盾がせり上がった。
反射的に掲げられたソレに——
バキィンッ!
甲高い衝撃音が、木々のあいだから森一帯に響き渡る。
全員の視線が、音のした上方へと吸い寄せられた。
鬱蒼とした枝葉のすき間。
そこに、二体のハーピィがとまっていた。痩せた脚に猛禽の爪、上半身は人型、だがくちばしのように尖った口元が、愉快そうに歪んでいた。




