第3話 連れ出すんじゃない、連れ帰るんだ
——帰宅した途端、そこにあったのは“戦い”よりも難しい現実だった。
薄暗い部屋。
本と巻物が積み上がり、ランプの灯だけが小さな円を照らしている。
エドガーの父は椅子に座り、空の茶碗を抱えたまま、ぽつりと言った。
「婆さん、昼飯はまだかのう?」
ミラはポン、と勢いよくスタンプを押す。
「二回目だね! おめでとうございます!」
ダリウスが小声で訂正する。
「三回目だ……」
エドガーはため息をつきながらも、どこか慈愛の混ざる笑顔で言った。
「父さん、今は夜です」
そのとき——
戸口の鈴がチリン、と冷たい音を立てた。
外から雪混じりの風が流れ込み、老人はふらりと立ち上がる。
「散歩に行く。港まで行かにゃいかん」
その言葉には、遠い過去を今に見ているような、頼りない熱があった。
「父さん、夜だ。また今度、一緒に行きましょう」
エドガーは優しい声でなだめる。しかし父は聞かず、ふらつきながら戸口へ向かう。
ダリウスが反射的に前へ出た。
「俺が——」
「触らないで。動線をふさぐと転ぶ」
エドガーの声は鋭かった。
けれどその奥には、父を守るための強い愛情がにじんでいた。
彼は迷わず動く。
椅子を寄せ、壁のランプに火を灯ける。
灯りが二つになり、部屋の影がやわらぐ。
まるで父の足元から夜の冷たさを追い払うように。
そして父の前にしゃがみこみ、視線を合わせて柔らかく笑った。
「外は風が強い。港は……遠い。明日にしよう」
「港で婆さんが待っとるんじゃ」
老人の目は、もう半分どこかの昔へ戻っている。
ミラは無邪気に笑った。
「じゃあ、おみやげ持って行かなきゃね!」
父は戸口で立ち止まり、混乱したようにあたりを見回す。
エドガーは、そっとその手を握った。
長く細くなった父の指を包み込むように、優しく。
「……父さん。ほら、ここが港だよ。ついた」
戸口に椅子を向け、ゆっくりと腰掛けさせる。
窓を少しだけ開けて、外から潮風を運び込んだ。
冷たいはずの風が、なぜか温かく感じられる。
「ああ……港の風じゃ……」
老人の眉がゆるみ、表情が穏やかにほどけていった。
短い沈黙が落ちた。
ランプの明かりの中で、三人の視線が静かに交わる。
エドガーはミラの方を見ようとして——しかし、途中でわずかに俯いた。
悔しさを噛み締めるように唇を噛む。
——戦い続けているのは、自分たちだけではない。
「——やはり無理だ。遠征は」
ダリウスは、その声音に宿る“諦め”と“未練”の両方を敏感に感じ取った。
言葉とは裏腹に、彼自身もまたジレンマの渦に巻き込まれながら反論する。
「さっき、行くと……言ってたじゃないか」
エドガーはその返しを避けず、まっすぐダリウスの目を見据えた。
逃げも否定もしない、ひたむきな真正面の視線。
「仮だ。今のを見ただろう。私が離れれば……この家は崩れる」
家。
それは建物のことではなく、この父子の生活そのものを指しているのだと、
ミラでもわかった。
「家は本で崩れるね」
ミラは観察するようにぽつりと呟くと、続けて言った。
「こんなに綺麗に手入れされた魔導書で」
いつもこんなふざけた言い回しなのに、今日は妙に核心を突いていた。
エドガーは返事をしなかったが、その肩が一瞬だけ揺れた。
彼は父の肩に毛布をそっとかけると、背を向けたまま言った。
「……悪いが、今日は帰ってくれ」
ダリウスは短くうなずいた。
ミラも静かに父へ小さく手を振る。
そして二人は、冷たい夜の外気へと出た。
*
ランプの火が揺れ、静けさが響くような夜だった。
マスターはグラスを拭きながら、ちらりと外を見た。
雪が時折、窓を叩いている。
「徘徊は珍しくない。だが……今夜は風が冷たいな」
その一言に、ダリウスは複雑な感情を押し殺して答えた。
「……ああ」
ミラはスープを一口飲むと、ふっと俯き、
しかししっかりした声で言った。
「今日使った魔導書、しっかり拭いて元に戻してた」
ダリウスは意外だったのか、ミラを見る。
「見てたのか」
「うん。あの人、まだ現役の背中してる」
それは、軽いようで重い言葉だった。
数秒——二人は互いを見つめ合う。
やがてダリウスは目を逸らし、また俯いてしまう。
「連れ出す資格が……俺にあるのか」
その自責と迷いを聞き、ミラは真っ直ぐ向き直った。
「連れ出すんじゃないよ」
ダリウスが顔を上げた。
「連れ帰るんだよ」
その瞬間、彼の胸の奥で何かがカチリと音を立てた。
迷いを押し返す、たしかな言葉だった。
遠くで、マスターが黙ってうなずいていた。
——夜の静けさに、その決意だけが淡く灯るようだった。
*
薄い霧が地面を漂い、朝日が白い霞の奥でぼんやり揺れていた。
ダリウスは戸を軽く叩く。
返事はない。
もう一度——今度は少し強く。
「エドガー。……もう一度だけ話をさせてくれ」
しばらくして、扉がわずかに開いた。
現れたのは、寝不足で頬がこけ、目の下に隈をつくったエドガーだった。
「昨夜の答えは——」
その瞬間だった。
家の奥から、思いがけないほどしっかり通る声が響く。
「ばかもん、行け!」
三人は同時に奥を振り向いた。
埃の舞う細い光の中、老人が杖をつきながら姿を現した。
足取りはおぼつかない。それでも、目だけは驚くほど澄んでいて、
まっすぐに息子を射抜いていた。
エドガー父は、弱い体を叱咤するように微笑み、言った。
「行くんだ、エドガー」
「父さん……?」
エドガーは思わず言葉を落とす。
老人はそのまま椅子に腰を下ろし、ゆっくり、しかし確かな声で続けた。
「息子に疲れた顔をさせとる親がどこにおる。
わしはな、鍋を焦がすくらい一人でできる」
ミラが小声で囁いた。
「昨日は火、消してなかったよ」
「今日は消す」
不服そうに眉を寄せながらも、老人は胸を軽く拳で叩いた。
エドガーは苦しそうに眉をひそめる。
「……危ない。施設の話だって……」
「養老院でもなんでも良い」
父はまるで風に向かうように外を見て、淡々と言い切った。
そしてゆっくり立ち上がり、杖をつきながら息子の目の前へ歩いてくる。
その目は強く、揺らぎがなかった。
「本当は行きたいんじゃろ。
毎晩、魔導書を見るたびに……ため息の音が聞こえとる」
エドガーの胸が突かれたように揺れた。
「それは——」
しかし父は、柔らかく微笑みながら言葉を重ねた。
「わしは、お前の“ため息”より……“帰ってきた足音”が好きじゃ」
その瞬間——エドガーの肩が小さく震えた。
彼は静かに背を向け、一粒だけ涙がこぼれ落ちた。
「……父さん。行ってくるよ」
外では朝日が昇りはじめ、霧の中に金色の光が差し込んでいた。
まるで彼らの決断を祝福するように。
老人はゆっくり椅子に戻ると、途端に目の焦点が揺らぎ、
またどこか別の時間へ歩き出した。
「婆さん、飯を用意してくれ」
ミラは老人に優しく微笑みかけ、そっと手を添えた。
「……スタンプはもういらないね」
エドガーは深く息を吐き、仲間の方へと歩み寄る。
その表情は、迷いを振り切った者のものだった。
こうして——
“原書写しの魔法使い”エドガーは、再び旅路に戻る。
そして三人は、次なる仲間を求めて歩き出した。




