第29話 胸にしまった話
二十二階層のセーフエリアは、まるごと森の上に築かれた町だった。
太くそびえる大樹が何本も立ち並び、その幹や枝に沿って、大小さまざまなツリーハウスがひしめき合うように建っている。
木と木の間には太い板張りの足場が渡され、縄を編んだ手すりが張り巡らされていた。上へ下へと伸びる通路が立体的に交差し、文字どおり「木の上の町」という光景を形作っている。
行き交う住民たちもまた、他のセーフエリアとは少し違っていた。
二足歩行のゴブリンやオークに加え、樹皮と枝でできた身体を持つトレント、きらきらと光の粉を散らしながら飛び回るピクシーたちが、荷物や食材の籠を抱えて忙しなく動き回っている。
ダリウスたちは、その一角にあるツリーハウス——トレントが経営する飲食店の中にいた。
床も壁も天井も、生きた木と一体になった店だ。丸太をくり抜いた柱が何本も立ち、枝をそのまま棚代わりに使っている。窓の外には、隣のツリーハウスや木の上の通路が見え、風が吹くたびに葉擦れの音がさやさやと耳をくすぐった。
テーブルに腰を下ろしたミラは、木の板に刻まれたメニューをじっと見つめ、思い切り眉をひそめる。
「サラダが多い……」
心底うんざりした声だ。
「ミラ、好き嫌いはダメだぞ」
ダリウスが、向かいから穏やかに笑いかける。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
大皿には、こんもりと盛られたチキンサラダ。
薄切りにされた鶏胸肉は、表面がほんのりときつね色に焼き上がっており、余計な脂を落とした分だけ、肉の繊維がしっとりと艶めいている。下には色鮮やかなリーフレタスやハーブがたっぷり敷かれ、オリーブオイルとレモンを合わせたドレッシングが細い筋になって全体に回しかけられていた。香草のさわやかな香りがふわりと立ちのぼる。
隣の皿には、湯気を立てるガーリックライス。
ふっくらとした白米一粒一粒に、炒めたニンニクの香りとバターのコクがじんわりと染み込んでいる。ところどころにこんがりとついた焦げ目が食欲をそそり、細かく刻んだ緑のハーブが彩りを添えていた。
もう一皿は、彩り豊かなラタトゥイユ。
柔らかく煮込まれたナスやズッキーニ、パプリカ、玉ねぎが、トマトベースのソースの中でとろりと寄り添っている。スプーンを入れれば簡単に形が崩れ、煮込まれた野菜の甘みと酸味が、立ち上る湯気とともに鼻腔をくすぐった。
テーブルいっぱいに、温かな匂いが広がる。
「……これならいけるわ!!」
ミラはさっきまでの不満顔が嘘のように、今にもよだれを垂らしそうな勢いで身を乗り出した。
「おぉ、果実酒がたくさんあるな……。飲み切れるかな」
オットーは別のメニューの酒の欄を見ながら、嬉しそうに目を細める。
「二杯までだぞ」
ダリウスが、間髪入れずにピシャリと言い渡した。
その横で、エドガーがじろりとオットーを睨む。
「あなた痛風でしょう。ちゃんと野菜も食べるんですよ」
「…………」
オットーは露骨に視線をそらし、サラダの皿を見ないようにしながら口をつぐんだ。
「わ・か・り・ま・し・た・か?」
エドガーはにこりと笑いながら、一音ずつ区切って確認する。
「……わかったよ」
ぼそっと返事をするオットーの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
ツリーハウスの中に、湯気と香りと——いつも通りの四人のやりとりが、ゆっくりと満ちていった。
料理の皿がほどよく空いてきた頃、ダリウスがスプーンを置き、スープを喉に流し込みながらふと尋ねた。
「で、試練の内容は……やっぱり記憶にないのか?」
対面のエドガーは、こめかみに指を当てて小さく息を吐く。
「そうですね……。ただ……昔話をしていたような気がします」
「昔話って?」
すかさずミラが身を乗り出す。椅子の上で膝を揃え、目だけがきらきらと輝いている。
エドガーは視線を少し上に逸らし、窓の外の木々を眺めるように目を細めた。
「……大事な魔導書です。……とても。
私にとっては、世界の始まりみたいな本で」
その言葉を最後に、彼は口をつぐんだ。
これ以上続ければ、胸の奥にしまってきた何かが、少しずつ削れていく——そんな直感があった。
エドガーは視線をテーブルに落とし、指先だけがスプーンの柄をいじって小さな音を立てる。いつもの皮肉な笑みは消え、年齢より少し若く見える横顔だけがそこにあった。
ダリウスは、そんな横顔をじっと見つめ、そっと息をついた。
彼は空になりかけた皿を指で回しながら、あえて視線をテーブルの縁へと落とす。
「聞かない」という選択を、言葉ではなく態度で示すように。
オットーもまた、グラスの水滴を指で拭いながら、別の方向を見る。くしゃくしゃになったナプキンが、言葉にしない気遣いの代わりのようだった。
いつものように冗談で場を和ませることもできたはずなのに、今だけはその役目を引き受けなかった。
カトラリーが皿をかすめる音と、外の木々のざわめきだけが、短い沈黙を満たしていた。
重くはない。ただ、小さな焚き火を三人で囲んでいるような、ぬくもりのある静けさだった。
……が、しかし。
「大事な魔導書!? なにそれ、すごい気になるんだけど!! エドガー、エドガー、聞かせて!!」
ミラが椅子から半分立ち上がり、テーブルに手をついて前のめりになる。さっきまでの空気などどこ吹く風である。
「ミラ、今の空気から……何か感じなかったか?」
ダリウスが、苦笑混じりに宥めるような声を出した。
「え? どういうこと?」
ミラは本気でわからない、といった顔で首をかしげる。
「つまりだな……えーっと……」
オットーが頭をがしがしと掻きながら言葉を探す。
「“あえて聞かない”っていう、美徳というかだな……そういうのも世の中にはあるんだよ」
「えー!? おかしいよ!」
ミラは頬をふくらませると、スプーンを持った手をわざとらしく斜めに構え、エドガーのモノマネを始めた。
「じゃあなんでわざわざ、ドヤ顔で、しかもかっこいい斜めの角度で——
『大切な魔導書です……とても』とか言ってたの?」
「………………」
当の本人は、完全に固まっていた。
耳の先まで真っ赤になり、目が泳ぐ。
「ミラ!」
ダリウスが、ぐっと身を乗り出してミラの目をまっすぐ見た。
「もうダメだ。この話は終わりだ」
「そうだ!」
オットーも大きくうなずく。
「これ以上は、今後のパーティの連携にかかわる! 致命的にな!」
「……わからないけど。わかった。
(でもいつか絶対聞くからね)」
ミラは不満そうに口を尖らせながらも、しぶしぶ椅子に座り直した。
その様子を見て、エドガーはそっと視線を落とし——それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
ツリーハウスの窓の外では、木々が風に揺れている。
さっきまで胸の奥でちくりと疼いていた何かが、仲間たちのやり取りに溶かされていくようだった。
そこへ、木の幹をそのまま細長くしたような店主——トレントが、どすん、どすん、と足場を揺らしながら近づいてきた。
枝の指先で、テーブルの皿を指し示す。
「リョウリ、モウイイカ? サラ、サゲル」
「おう、すまない」
ダリウスは笑みを浮かべ、食べ終えた皿を一枚ずつ重ねてトレントに渡していく。
皿を受け取る木の手は、見た目に反して驚くほど丁寧だった。
「ありがとう」
「ウム」
トレントはこくりと、幹ごと揺れるようなうなずきをひとつ。
「ヒト、イルノ、ヒサシブリ。……10ネンブリ」
その言葉に、オットーが顎をさすりながら首をかしげた。
「ん? おかしいぞ。コンラートの爺さんが登ったのは五十年前だろ」
「コンラート……」
トレントは、ごつごつした樹皮の顔に、しわのような年輪を寄せる。
「コンラートトハ、ベツ。……モウ、ココヲ、デタ。ウエニ」
ぱきり、と枝の関節が鳴った。
「別……?」
エドガーが椅子の背にもたれ、考えるように目を細める。
「コンラートさんが言っていた、“塔の中にいるもう一人の人間”……かもしれませんね」
そこまで言うと、森のざわめきが、ふっと一段階静まったように感じられた。
「もう一人の……」
ミラがスプーンを握ったまま、きょとんと目を丸くする。
ダリウスは腕を組み、ツリーハウスの外——高い位置にある森の闇を見やった。
枝葉の隙間から、塔の上層へと続く、淡い光の筋がのぞいている。
「……もしかすると」
彼はゆっくりと言葉を選ぶ。
「次のセーフエリアあたりで、会えるかもしれないな」
その一言に、テーブルを囲む三人の視線が一斉に上へと向かった。
木々の上の町は、さっきまでと変わらずにぎやかだ。
けれどその喧噪が、どことなく遠く聞こえる——そんな、次の“誰か”を予感させる夜だった。




