第28話 父との記憶
二十一階層。
そこは、十一階層とまったく同じ——真っ白な部屋だった。
壁も、天井も、床も、どこまでも均一な白。
傷ひとつ、汚れひとつない。
中央に、石でできた台座が、ぽつんと置かれているだけだ。
血の匂いもしない。土の匂いもしない。
焚き火の煙すらなく、なにも“匂わない”その空間は、かえって不気味さを増幅させていた。
「……相変わらず、落ち着かない部屋ですね」
エドガーが小さくぼやく。
四人が台座の前に並んだ、その瞬間だった。
『また来てくれたんだね。楽しみにしていたよ』
どこからともなく、あの声が響く。
男とも女ともつかない、年齢さえ想像できない声。
柔らかく笑っているようでいて、底がまったく見えない。
『今回は——エドガー君が試練を受けるんだ』
「おや」
名を呼ばれ、エドガーは肩をすくめた。
それから、いつものように眼鏡の位置を押し上げて、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ご指名とは光栄ですね。
……ただ、できれば“読書の試験”だけでお願いしたいところですが」
軽口を叩いてみせる声は、わずかに震えていた。
だがそれをからかうように、床が淡く光を帯びる。
「エドガー!」
「おい!」
ダリウスとオットーが思わず手を伸ばす。
しかし、その手が届く前に——。
エドガーの身体は、足元から立ち上る白光に包まれ、輪郭を失っていく。
ミラが「えっ」と声を上げた瞬間には、もうそこにはいなかった。
*
「……なっ!?」
次にまばたきをしたとき、エドガーは別の場所に立っていた。
見慣れた木の床。
壁一面を埋め尽くす本棚。
そこにぎっしりと差し込まれた、魔導書の背表紙。
机の上には、羊皮紙の研究メモが山のように積まれ、インク壺がひっくり返った跡まで、記憶どおりに残っている。
「……自宅、ですか?」
思わず口に出す。
指先で、本棚の縁をなぞると、ざらついた木の感触がはっきりと返ってきた。
『では、早速試練を始めようか』
頭上から、塔の声が降りてきた。
『この空間で、一時間ごとに、君の魔導書の知識を奪う』
エドガーの背筋に、薄く冷たいものが走る。
『大半の知識を差し出せば、試験は合格だ』
淡々と告げる声音。
その言葉の意味は、あまりにも重い。
『ただし——退場する道も用意しておくよ』
コトン、と机の上に小さな音が落ちた。
見れば、銀色の小さなベルがひとつ、ぽつんと置かれている。
『そのベルを鳴らせばいい』
一瞬の間。
『そうすれば、君のお父さんとの記憶と引き換えに、先へ進ませてあげる』
「…………」
エドガーの表情から、冗談めいた色がすっと消えた。
喉が、ぎゅっと締めつけられるように痛む。
「そんな条件——」
静かに、しかし確かな怒りを込めて言葉を吐き出す。
「飲めるわけがないでしょう」
机を握る指先に力が入り、関節が白くなる。
塔は、それ以上何も答えなかった。
自宅そっくりの書斎には、再び静寂だけが満ちていった。
現状、このパーティの“刃”のほとんどを握っているのは自分だ——。
エドガーは、それを誰よりも理解していた。
ダリウスの読みと経験があろうと、オットーの盾が硬かろうと、ミラの加護があろうと。
決定打として敵を薙ぎ払ってきたのは、結局のところ自分の魔法だった。
もし、その大半を失ったらどうなるか。
詠唱に失敗する。
威力が足りない。
決め切れず、反撃を許す。
——その先にある光景を、エドガーは容易に想像できた。
誰かが倒れ、残った者が穴を埋めようとして、さらに崩れる。
あの三人は、自分のせいで死ぬかもしれない。
それでも。
「……迷うまでもありませんね」
口の中で、小さく笑いがこぼれた。
自嘲ではない。むしろ、どこかすっきりとした笑みだった。
——父との記憶を、切り捨てろというのか。
まぶたを閉じる。
最初に浮かんだのは、小さな庭の木だった。
ごつごつした太い枝に、ぎこちなく括りつけられたロープ。
揺らすたび、きぃ、きぃと悲鳴のような音を立てる古い板。
それでも幼い自分は笑っていた。
そのブランコを作るために、ぶつぶつと文句を言いながらも木に登っていた父の背中が、ありありと浮かぶ。
(……あれが、最初の記憶か)
物心つく前には、母はいなかった。
寂しいと思う間もなく、本がそばにあった。
薄い童話から始まり、学校の図書室にある本は、やがて端から端まで読み尽くした。
同じ本を何度も、何度も繰り返し読む。内容はとうに覚えているのに、ページをめくる指は止まらなかった。
ある日、父が数冊の本を抱えて帰ってきた。
潮風の匂いの染みついた粗末な上着。
その懐から出てきたのは、厚手の本が三冊。
そのうち一冊の背表紙には、見慣れない文字が刻まれていた——初めての魔導書。
「……あれが、最初の出会いでしたね」
ページを開いた瞬間、世界が反転したような感覚があった。
わからない言葉だらけ。
意味の通らない文。
それでも、線と記号が織りなす“何か”に、心臓が高鳴った。
写本した。
日に何度も、何度も。
羊皮紙にインクを落とし、一文字ずつなぞっていくたびに、自分の内側に、知らない世界が立ち上がっていく気がした。
——その本が、どれほど高価なものかを知ったのは、ずっと後になってからだ。
漁師の稼ぎで、到底買える代物ではない。
どうやって手に入れたのか何度尋ねても、父は同じように笑っただけだ。
『子供が気にすることじゃない』
皺だらけの目尻を細め、そう言って頭をくしゃりと撫でる。
あのとき、彼の手に、ほんの少し震えがあった。
そこから、父の衰弱は少しずつ始まっていたのだと、今ならわかる。
大学には特待生で入った。
魔導の才を褒めた教授たちは、まるで自分のことのように喜んだ父の表情を知らない。
冒険者になってからは、実家に戻る頻度も減った。
帰るたびに、父は少しずつ痩せていった。
指は骨ばって、背中は丸くなっていく。
何度も仕送りをした。
魚の値が悪いと聞けば、いつもより多めに。
もっと厚い服を買ってほしかったし、食事も増やしてほしかった。
だが、父はいつも同じボロボロの上着を着ていた。
後になって、エドガーは知る。
自分が送った金は、布袋に入れられ、そのまま戸棚の奥にしまわれていたことを。
封も破られず、たたまれたまま、きれいに。
『おまえの金は、おまえの未来の金だ』
父はそう考えたのだろう。
冒険者を引退したとき——ようやく、まとまった時間を作って故郷に戻った。
海風の匂いを含んだ小さな家。
扉を開けて出迎えた父は、痩せて、皺だらけで、それでも笑っていた。
ただ一つだけ、決定的に違っていた。
『おまえさんは——誰じゃったかのう?』
その一言で、胸の内側にある何かが、音もなく崩れた。
父は、自分の未来のために、自分自身の未来を売り払ってしまったのだ。
命も、体も、記憶すらも削って。
(今度は、私の番だ)
魔導書を見つめる視線が、静かに、しかし揺るぎなく定まる。
塔が何を奪おうと、構わない。
三十年積み上げた知識が消えようと、詠唱を一から覚え直すことになろうと、かまわない。
父との記憶だけは——渡さない。
庭のブランコ。
潮風の中で笑う顔。
粗末な手で撫でてくれた感触。
初めて魔導書を手渡してくれたときの、照れくさそうな誇らしさ。
それらを失ってしまったら、自分が自分でなくなってしまう。
エドガーは、愛してやまない魔導書を胸元に抱きしめるように持ち上げると、机にそっと広げた。
指先で紙の端をつまみ、一ページ、一ページ。まるで恋人の頬を撫でるような手つきで、ゆっくりと目を走らせていく。
一時間ほど経ったころだった。
「……ん?」
見慣れているはずの一文の途中で、ふと視線が止まる。
そこにあるはずの単語の意味が、すっぽり抜け落ちていた。
(……大丈夫だ。前後の文脈で補完するんだ)
眉間に皺を寄せながらも、エドガーは冷静に判断する。
類推は得意だ。欠けた一語くらいなら、いくらでも埋め合わせられる——そう自分に言い聞かせ、読み進めた。
*
二日目の夜。
声に出して詠唱をなぞっていたエドガーは、不自然に途切れた自分の声に気づいて舌打ちした。
喉まで出かかった音が、形にならない。
唇は正しく動いているつもりなのに、耳が「違う」と告げている。
(まずいですね……発音が、抜け始めている)
額に、じわりと嫌な汗がにじむ。
(まだだ。まだ詠唱できる魔法はある。音を多少外したところで、構文さえ保てば発動はする……はずだ)
そう理屈を積み上げながらも、胸の奥の不安は消えない。
(威力は落ちるか? 発動はできるか? 取り戻すのに何年かかる?
……クソォ。父さんとの記憶だけは、絶対に渡さない)
呟きは、魔導書に落ちた。
*
三日目。
詠唱にリズムが乗らない。
何度繰り返しても、フレーズの“拍”がずれる。
魔法は意味だけでは動かない。音と間合い、呼吸の波が、術式の骨格を形づくる。
「……文法まで、怪しくなってきましたか」
読み進めていると、今度は文章そのものが理解できない箇所が出てきた。
単語は追える。なのに、文として頭に入ってこない。
(文字通り、大半は持って行かれましたね。三十年以上の研鑽が、こうもあっさりと)
乾いた笑いが漏れる。
だが、椅子に沈み込むことはなかった。
(……だが、まだやれることはある。まだパーティに貢献できることはある。
ダリウスに返すんだ、あのときの恩を。
オットーを楽にするんだ、前衛で一人にならないように。
ミラには——未来を)
そう心の中で繰り返しながら頁をめくる手は、知らず知らずのうちに震えていた。
*
四日目。
ほとんどの魔導書は、もはや黒い線の集まりにしか見えなかった。
記号の意味も、構文も、音も、あやふやだ。
この世界の基礎法則そのものが、薄い膜越しに歪んで見えるような感覚。
そんな中で、エドガーは一冊の本を手に取った。
擦り切れた背表紙。
角の丸まった装丁。
他のどれよりも、古く、薄い魔導書。
——初めて、父が買ってくれた魔導書だった。
そっとページを開き、紙に顔を近づける。
インクと紙と、ほんのかすかな潮の匂い。
深く息を吸い込み、その香りを肺の奥まで満たした。
エドガーは、自然と微笑んでいた。
「……この記憶だけは、取れなかったみたいですね」
ページを指でなぞる。
ブランコの揺れる小さな庭。
照れくさそうにこの本を差し出した父の顔。
それを抱いて眠った夜の布団の固さまで、昨日のことのように思い出せる。
(あれから始まった。
あの一冊から、全部が)
文字はもうまともに読めない。
だが、ここにある「始まり」だけは、どれほど記憶を削られても薄れなかった。
「この思い出さえあれば、できますよ。
——もう一度始めましょうか。ゼロから、魔法を」
静かな宣言が、真っ白な空間に落ちた。
その瞬間。
塔の声が、愉快そうに響いた。
『合格だ。……おまけして、知識は戻しておくよ』
視界が、白く弾け飛ぶ。
*
エドガーが瞬きをしたとき、彼は再び、真っ白な部屋の中に立っていた。
背後にはダリウスたちの気配。
壁一面の本棚も、机も、父の家も——どこにもない。
ただ、頭の中には、失われたはずの魔導の知識が、何事もなかったかのように整然と並んでいた。
(……試練は?)
何をしたのか。
何を奪われ、何を選んだのか。
その過程だけが、きれいに抜け落ちている。
けれど、胸の奥に残る温かさだけは、確かにそこにあった。
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今回は、エドガーが第二の試練を乗り越えました!
父との思い出を、決して手放さなかったエドガーが本当に好きです。
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