第27話 生き残った者たちの食卓
ミラは胸の前でペンダントを握り、そっと目を閉じた。
「——女神の風よ、ひかりを運んで、この傷にそよげ。《聖癒の環》」
足元から、淡い緑がかった光の輪がふわりと広がっていく。
風にほどける花びらのような光粒が、ダリウスの肩へ吸い込まれるように集まり、噛み千切られた傷口を内側から撫でるように包み込んだ。
じん、と鈍い痛みが、ぬるま湯に溶けていくように引いていく。
ダリウスはゆっくりと腕を上げ、肩をぐるりと回してみせた。
「……よし。もう平気だ。ありがとう、ミラ」
「ほんとに?」
ミラはまだ不安げだ。ダリウスの肩を指でつつきながら、じっと表情を覗き込む。
「無理してる顔してない?」
「してないしてない。今んとこは、腹が減った顔しかしてないな」
冗談めかして笑うと、ミラもようやく口元をゆるめた。
「……じゃあ、約束ね。ちゃんと休んでから次、だからね」
「ああ。まずは飯だ」
ダリウスは立ち上がり、焚き火のそばに鍋とフライパンを並べる。
油を落とし、厚切りベーコンを一枚、二枚と鉄板に載せる。
じゅわああ——。
洞窟内に、景気のいい音が弾け、焦げかけの脂と肉の香ばしい匂いが広がっていく。
ナイフがまな板を刻む、軽やかな「トン、トン」という音と隣では白いスープ鍋が、ぐつぐつと小さく息をしている。
やがて、食卓代わりの低いテーブルに、湯気を立てるスープ皿が並んだ。
大きめの白いスープ皿の中には、とろりとしたクリーム色のスープが、ふちギリギリまでたっぷりと注がれている。
その表面の主役は、肉厚なベーコンだ。こんがりきつね色の焼き目がつき、軽く押せばじゅわっと肉汁がにじみ出る。
ベーコンのすきまからは、くたっと煮えたキャベツが顔をのぞかせて、スープをたっぷり吸い込んで、淡い黄緑色にふやけている。
その合間には、きのこがぽこぽこと浮かぶ、焚き火とランプの光を受けて、てらりと光って見えた。
仕上げに粗挽きの黒こしょうがひと振り——白いスープの上に散った黒い粒が、皿全体の印象をきゅっと引き締める。
牛乳と出汁が溶け合ったまろやかな湯気が、冷え切った身体の奥までほどいていくようだった。
「さ、冷めないうちに食べようか」
ダリウスがそう言ってスプーンを取ると、三人も無言でそれに続いた。
一口すくって、そっと口に含む。
やさしい塩気と甘みが舌の上でほどけ、ベーコンの旨味とキャベツのとろりとした食感が追いかけてくる。
「……ああ、生きてるって感じがする……」
誰ともなくこぼれたその言葉に、焚き火のはぜる音だけが、静かに応えるように響き、しばらくのあいだ、ただスープをすくう音と、焚き火のぱちぱちという音だけが洞窟に満ちていた。
ダリウスは、熱い湯気をふっと吹き、ゆっくりと口に運ぶ。
「……なんとか、今回も生き残れたな」
噛みしめるようにそう言うと、向かい側のエドガーが顔を上げた。
「ダリウス。さっきの動き……また“超集中”に入ってましたね?」
真面目な視線。
ダリウスは少しだけ目を細め、しばし考えるようにスプーンを弄んだあと、静かに頷く。
「ああ。多分だけど——もう、感覚は掴んだと思う」
その言葉に、オットーの手がぴたりと止まる。
「そりゃあ心強ぇな」
と、すぐさまニヤリと笑い、またスープをがぶっと飲む。
「前線が、やっと“まともに”機能し始めるってわけだ」
当のミラはといえば、そんな重大な話題などどこ吹く風で、
「おかわりありますか!」 と、すでに二杯目に突入していた。
エドガーは、そんなミラの様子を横目だけで確認してから、慎重に言葉を選ぶ。
「ですが……」
スプーンを皿のふちに軽く当て、音を立ててから続ける。
「まだ“作戦”に組み込むのは危険です。あれは再現性が不明ですし、私の魔法で沈める形が、今のところ最も確実です」
さすがに“超集中”に全幅の信頼は置けない——そんな論理的な口調だった。
オットーが、そこでぐるりとスプーンをエドガーに向けて突きつける。
「おいおい、待て。今回みてぇに魔法を阻害されたら、一気に総崩れだろうが」
やや怒気を含んだ声になる。
「前線が“時間を稼げない”構成は、もう卒業すべきだぜ。ここはしっかり前で受けて、刻んでいく戦い方を—」
「理想論です」
エドガーがすぐさま言葉をかぶせる。
「ダリウスの“あれ”は負荷も大きい。持続時間もコントロール不能。頼り切るわけにはいきません」
「頼り切れなんて言ってねぇよ。ただ——」
オットーの声が一段階低くなる。
「お前の魔法が通らなかった時の“次の一手”も、そろそろ真面目に考えねぇと、老体にはキツいって話だ」
焚き火の火が、ゆらゆらと二人の顔を照らす。
言っていることはどちらももっともで、だからこそ火花が散りかけていた。
「……まあまあ」
ダリウスはスープ皿をテーブルに置き、両肘をついて腕を組む。
その顔は叱るでも宥めるでもなく、ただ穏やかだった。
「二人とも、言ってることは正しい」
エドガーが眉をひそめ、オットーも口を結んだまま、ダリウスを見る。
「エドガーの言うとおり、“超集中”を前提に組むのは危ない。あれはまだ、技じゃなくて“現象”だ」
ダリウスは指を一本立てる。
「でも、オットーの言うとおり、今回のワーウルフみたいに、魔法を殺しにくる連中がいるのも事実だ。どっちか一方だけを信じてたら、間違いなく足をすくわれる」
ミラは三杯目のスープをすすりながら、きょろきょろと三人の顔を見回している。
「だから、こうしよう」
ダリウスはゆっくりと言葉を区切った。
「これから先の階層で、“試す”。
——どのくらいの確率で超集中に入れるのか。
入りっぱなしじゃなく、どのくらいの時間持つのか。
それをひとつひとつ測っていく」
「検証……ってことですか」
エドガーは顎に手をやり、真剣に考え込む表情になる。
「ああ。俺の身体を実験台にしてな」
ダリウスは苦笑しつつ、肩をすくめた。
「エドガーは今まで通り、“一発で終わる”前提で魔法を組み立てろ。
同時に、“外れた時”の逃げ道もいくつか想定しておいてくれ」
エドガーは、少しの沈黙のあと、スプーンを持ち直した。
「……了解しました。
計画に“不確定要素”が増えるのは怖いですが……あなたの動きが戦略の幅を広げたのも事実ですからね」
オットーの方を振り返る。
「そしてオットー。前線の負担が増えるのは間違いありません。腰のケアも含めて、もう少し慎重になってください」
「へいへい、先生は相変わらず口が達者だな」
オットーはぼやきながらも、どこか満足そうに笑う。
「まあ、今まで“エドガーの詠唱が終わるまで耐えりゃ勝ち”だったのが、
“耐えながらダリウスがゾーンに入ったらガンガン削る”って選択肢が増えるってことだろ?」
「雑なまとめ方をしないでください」
エドガーがむっとし、しかしすぐにふっと笑った。
「……ですが、だいたい合っています」
「なら上等だ」
オットーは残りのスープを一気に飲み干し、椀をテーブルに置く。
「結局のところよ」
ダリウスは二人を交互に見ながら、静かに続けた。
「俺たちはもう若くない。
力押しも、ワンパターンの必勝法も、どっちも通用しない階層に来ちまってる」
焚き火の火がぱちりと弾け、その火の粉が一瞬だけ天井近くまで舞った。
「だからこそ——」
ダリウスはわずかに口元を緩めた。
「頭を使うエドガーと、前で踏ん張るオットー、そして俺の“変な感覚”。
ぜんぶ欲張って使ってやろう。地味で、ズルくて、しぶとい戦い方でな」
エドガーは肩の力を抜き、スプーンを置いた。
「……わかりました。
では私も、魔法側から“ズルい手”をいくつか用意しておきます」
「いいじゃねぇか、そういうの」
オットーはニカッと笑い、二人の肩を順に拳で軽く小突く。
「なんだかんだで、こういう話してる時が、一番“冒険してる”感じがするぜ」
そのやり取りを聞きながら、ミラがぽつりと呟いた。
「……私は、今日もダリウスのごはんが食べられてよかったなぁって思ってる」
「おい、一番大事なこと言ったな」
ダリウスが思わず吹き出す。
エドガーも肩を震わせ、オットーは「だな!」と声を上げる。
食器の底が見えはじめ、腹にじんわりと温もりが広がるころには、
洞窟の中も、さっきまでの殺気立った気配がすっかり薄れていた。
それぞれが椅子の背にもたれ、満腹のため息をひとつ。
「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど」
ミラが、スプーンをくるくる回しながら首をかしげた。
「魔物って、あんなに賢いものなの?」
ダリウスは、腕を組んだまま天井をあおぎ、ふうと息を吐く。
「……そこなんだよなぁ」
エドガーは真剣な目でカップの中を覗き込み、静かに続ける。
「この間のミノタウロスもですが、明らかに不可解でしたね。
“怒り任せの猛獣”ではなく、“戦況を読んでいた”」
「魔物の習性や浅知恵じゃねぇ」
オットーが机に肘を突き、前のめりになる。
「あれはもう、明確な戦略と戦術があった。
まるで手だれの盗賊団とやりあってるみたいだったぜ」
焚き火の光が、壁の影を揺らす。
ダリウスは目を細め、その影をしばらく見つめてから、低く言った。
「……やっぱり、この塔の“特徴”なんだと思うんだ」
「えーっと……」
ミラが両手を組んで考えるように目を細める。
「記憶を食べる、ってやつ?」
「ああ」
ダリウスはミラの方へ顔を向け、教師のように穏やかに続ける。
「ダンジョンってのは普通、冒険者の血や死骸を食って成長する。
増えた魔力で、撒き餌になる宝箱を作ったり、階層を広げたりするんだ」
そこでエドガーが肩をすくめ、やや皮肉を含んだ笑みを浮かべる。
「ですが、この塔はそれに“人の記憶”まで加えているのかもしれませんね。
食べた記憶から知恵をつけた魔物を、生み出しているとしたら——」
「魔物の力と、人間様の知恵のセットかよ」
オットーが渋い顔でテーブルを指先でとんとん叩く。
「めんどくさすぎるぞ。
ただでさえ腰が限界なのに、頭まで使わなきゃならねぇとはな」
「……まぁ、まだ仮説だ」
ダリウスは苦笑し、少しだけ空気を緩めるように肩を回した。
「けど、ここから先は——地形、風向き、高低差、数、伏兵。
あらゆる要素を、今まで以上に警戒して進まないといけない」
ミラはその言葉をきょとんと聞いていたが、ぽんっと手を打った。
「じゃあそのうち、テスト勉強してる魔物とか出てくるのかな?」
三人の視線がゆっくりとミラに集まる。
「ほら、“期末試験の過去問の記憶を食べたスライム”とか。
出会った瞬間、テスト範囲を全部教えてくれるの。
——でも問題を解ける知能は無いから、すっごくイラっとするやつ」
「……」
エドガーが額を押さえ、ため息をついた。
「発想は面白いですが、そんな魔物に遭うくらいなら、まだ普通のオーガの方がマシですね」
オットーは頭をかきながらも、ふっと口元を緩める。
「まぁ、色々懸念はあるが——」
彼はダリウスの方を向き、真面目な声音で言った。
「ダリウス。助かったぜ」
エドガーも姿勢を正し、眼鏡の位置を直すような仕草で真っすぐダリウスを見る。
「そうですね。今回の功労者は、間違いなくあなたです」
そして、すっと指を立てた。
「あの流麗な動きに、もし名前をつけるとするなら——」
「エドガー!」
椅子をがたんと鳴らして、ミラが立ち上がる。
「やめてって言ってるでしょ!!」
「いえ、今回は引けません」
エドガーは珍しく譲らない声を出した。
「歴戦の冒険者に通り名をつけるのは、後世への義務です!
“老剣士の——”」
「ほんとにやめて!!」
ミラは必死だ。
「神学校で言いふらすよ!? エドガーの老眼とドライアイ!
“魔導書より、まず目薬”って噂、一瞬で広がるからね!」
その一言に、エドガーの動きがぴたりと止まった。
「……それは、やめなさい」
そこへ、オットーがエドガーの前に片手をすっと差し出す。
「引け、エドガー」
妙に重々しい声だった。
「この年頃の女の子の“拡散力”は、マジで脅威だ。
一か月もすりゃ、国全体に“老眼魔導士”の噂が広まるぞ」
「……そこまでですか?」
「そこまでだ」
ダリウスは堪えきれずに吹き出した。
「なんだよそれ。
魔王より、ミラの口の方がよっぽど危険じゃないか」
「失礼ね!」
ミラが頬をふくらませる。
「私は、必要なことしか広めないもん!」
「それを世間では“余計なお世話”と言うんですよ」
エドガーがぼそりと返し、オットーが「ははっ」と喉を鳴らす。
——さっきまで、死線をくぐり抜けていたとは思えない。
焚き火の明かりと、空になった皿。
そして、四人の笑い声だけが、静かなボス部屋跡の洞窟にいつまでも響いていた。




