第26話 静かな時間の終わり
ダリウスの「静かな時間」は、永遠には続かなかった。
最初におかしいと感じたのは——足だった。
(……重い)
一歩、踏み込む。
さっきまで地面からまっすぐ伸びていた“軸”が、途端に粘土のように重く、鈍く感じられた。
もう一歩、引く。
足裏が雪を引きずり、膝がきしむ。
ほんのわずかな体重移動だけで、ふくらはぎにじくじくとした疲労が滲んだ。
ワーウルフの爪が迫る。
軌道はまだ、見えている。起こりも、肩の線も、腰の捻りも——わかる。
わかるのに。
(……間に、合わない)
剣を回避の軌道に乗せようとして、初めて気づく。
腕が、遅い。
さっきまで「軸」に任せていた剣筋が、急に“生身の腕力頼り”に逆戻りしたような、嫌な重さを取り戻していた。
ガキンッ!
刃と爪がかち合う。
とっさに受けた剣が、容赦のない一撃を真正面から食らう。
痺れるような衝撃が腕を駆け上がり、肩まで突き抜けた。
「っ……!」
ダリウスは、剣を振るのではなく、「置く」ように構え直した。
攻撃ではなく、防御。
いつの間にか、動きが“受け身”に傾き始めている。
(見えてる……のに)
視界の中のワーウルフは、まだ大きく、はっきりと見えている。
振りかぶる肩、踏み込む爪先、わずかな目線の揺れ——すべてが情報として頭に入ってくる。
だが、その情報を「体」が処理できない。
剣で受ける。
次は、肩でいなす。
それでも間に合わず、盾の縁を利用して辛うじて爪を滑らせる。
受ける、受ける、受ける——。
さっきまでほとんど動かなかった呼吸が、急に荒くなり始めた。
「はっ……は、っ……!」
肺が燃えるように熱い。
胸が上下するたび、肋骨が軋む。
(なんだ……急に……)
さっきまで遠くで聞こえていたはずの心臓の鼓動が、耳元で叩きつけられているかのようにうるさい。
ドクン、ドクン、と一拍ごとに、世界の輪郭が細くなっていく。
(視界が……)
周囲の景色が、わずかに暗くなった。
洞窟の端、雪、岩壁——そういったものがぼやけ、ワーウルフの輪郭だけが異様に強調される。
だが、それは「集中」ではなかった。
むしろ逆だ。
視界の真ん中しか、見えなくなっている。
(まずい——)
そう思った瞬間だった。
ワーウルフの眼光が、低く光る。
獣の肩が沈み、腰が捻られ——次の瞬間、上体がしなって迫ってきた。
牙だ、と理解した頃には、もう遅かった。
「——っ!!」
ガブリ、と。
肩口に、灼けるような激痛が走る。
肉が裂ける音と共に、骨のすぐ近くにまで牙が食い込んだ感触が、はっきりと伝わってきた。
次いで、世界がぐるりと反転する。
ワーウルフが首を振り上げる。
その動きに合わせて、ダリウスの体が宙に放り投げられた。
岩の天井が見え、次の瞬間には逆さまの地面が迫る。
ドンッ——!
背中から叩きつけられた衝撃が、肺の中の空気を一気に吐き出させた。
「が、っ……!」
肺が空になった。
息を吸おうとしても、空気が肺ではなく傷口を通っているような錯覚に襲われる。
「ダリウスーーー!!」
遠くで、ミラの悲鳴が響いた。
岩を蹴る足音がする。
立ち上がろうとする気配の直後、何かがそれを制した。
「行くな! ミラ!」
オットーの腕が、彼女の肩をつかんでいるのだろう。
顔は見えない。だが、声色だけで、それがわかった
ダリウスの意識が、すとん、と落ちそうになる。
(……ダメだ)
闇が、視界の端からじわじわと染み込んでくる。
そのまま身を委ねれば、どれほど楽だろうと思うほど、甘い誘惑だった。
(ダメだ……足止めを……)
自分でも驚くほど、はっきりとした言葉が頭の中に浮かんだ。
(俺が倒れたら、あいつは……オットーたちの方に行く)
ダリウスは、軋む体を無理やり動かす。
剣に手を伸ばす。
指に、冷たい鉄の感触が触れた——その瞬間、肩の傷にズキンと電撃のような痛みが走る。
「っ……!」
握力が抜けた。
指先から、剣の感触がこぼれ落ちていく。
(持て、ない——だと?)
思考が一瞬、白くなった。
よろめきながら、左腕で地面を押す。
右肩は、力を入れた瞬間に激痛が走って言うことをきかない。
(……あいつ、狙いやがったな)
ワーウルフが牙を立てた位置。
そこは、利き手側の肩、そのものだった。
(利き腕さえ潰せば、俺の剣は“封じられる”ってわけか)
ぼやけた視界の中、獣のシルエットが揺れる。
今まで単純に狡猾と思っていた相手に、はっきりとした“意志”と“戦略”を感じて、背筋が冷えた。
それでも——。
「……まだ、終わりじゃないだろ……」
掠れた声で、自分に言い聞かせるように呟く。
剣は握れない。
しかし、立つことだけはできる。
左腕と脚だけで、ダリウスはなんとか膝をついた姿勢から体を起こそうとした——その時。
背後から、重いページをめくる音が止んだ。
「——完了です」
エドガーの声が、洞窟に静かに響く。
振り返る余裕はない。けれど、言葉だけでわかる。
その声は、迷いを捨てた術者の声だった。
「《穿炎連鎖》——!」
エドガーの詠唱が終わると同時に、炎の線がいくつも走った。
ワーウルフの体を貫くように、赤い槍が連続で突き抜ける。
貫通術式を付与された炎が、骨と肉を選り分けるように内部を焼き裂いていく。
獣の体が、一瞬だけ硬直した。
次の瞬間——。
ズタズタに裂かれた布のように、ワーウルフの肉体が崩れ落ちていった。
洞窟に、重たい肉の崩れる音が響く。
漂っていた魔力の気配が、ふっと軽くなった。
遠くで、石が動くような鈍い音がした。
ボスの撃破を感知した塔が、機械的に“次”への道を開ける音。
ごごご、と。
奥の壁の一部が沈み込み、新たな階層への扉が、ゆっくりと姿を現した。
ダリウスは、その音をぼんやりと聞きながら——ただ、荒い息を吐き続けていた。
さっきまで掴んでいたはずの「超集中」の感覚は、もうどこにもなかった。
残っているのは、疲労と痛みと——それでも立ち続けた自分の、かすかな誇りだけだった。




