第25話 地に立つということ
——硬いものがぶつかり合う、鋭い音が、どこか遠くで鳴っていた。
(……どれくらい、寝てた?)
ダリウスは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界はまだ少し滲んでいる。けれど、耳に届く音だけはやけに鮮明だった。
ガキン、ガキン、と金属を殴りつけるような衝撃音。
そちらへ目線を滑らせると——光の盾を前に突き出し、よろめきながら後退していくオットーの背中が見えた。
《シールドバッシュ》の光は、今にも消えそうに点滅している。
一撃ごとに、バリアがきしみ、押し戻され、オットーの足が岩を削って下がっていく。
(……限界が近いな)
そう思ったのに、不思議と心は波立たなかった。
焦燥は、ある。怖さも、当然ある。
けれど、それらは胸の奥底に静かに沈み、表面の思考には、ただ穏やかな水面のような静けさだけが広がっていた。
ダリウスは、地面に片手をつきながら、ゆっくりと上半身を起こす。
「……助けないと」
呟きは、驚くほど落ち着いていた。
その瞬間、世界の輪郭が変わった。
ワーウルフが振りかぶった爪が、こちらからも見える。
だが、その振り下ろしは、さっきまでとは明らかに違っていた。
——遅い。
重たい鉄球が空中を落ちていくのを、ゆっくりと眺めているような感覚。
筋肉が収縮する「起こり」、肩の線、腰の捻り。
その一つひとつが、はっきりと見える。
ダリウスは、立ち上がりながら剣を構えた。
ワーウルフの背後に、影が差し込む。
「《グランドスラッシュ》——」
足元から地面を蹴り上げる感触が、やけに鮮明だった。
踏みしめた地面の硬さ、足裏から脚へ、腰へと伝わる反動。
それに剣を「乗せる」だけでいい、と体が知っている。
跳ね上がるような斬撃が、ワーウルフの右腕をなぞった。
ぼとり、と。
大剣を握っていた右腕が、肩の付け根から、あっけないほど軽い音で地に落ちる。
洞窟に、獣じみた咆哮が響き渡った。
ワーウルフが振り向きざま、黄色い両目を見開く。
けれどダリウスの胸は、相変わらず静かだった。
(……息が、上がらない)
自分で驚くほど、呼吸は穏やかだった。
肺は焼けるようには痛まず、喉も乾いていない。
ただ、体の芯——背骨のあたりから、じんわりとした熱が沸き上がっている。
ワーウルフの肩が揺れた。
次の一歩を踏み込む前に、腰が、ごくわずかに沈む。
(来る)
声に出すより早く、体が動いた。
わずかに首を傾け、剣を引きつける。
さっきまでなら見えなかったはずの“予備動作”が、今は手に取るようにわかる。
「《ダブルスラッシュ》!」
一太刀目が、ワーウルフの頬を裂く。
二太刀目は、その目のすぐ下を抉るように走った。
血飛沫が、赤い花びらのように散る。
ワーウルフが吠え、初めて——恐怖ではなく、「怒り」の感情を露わにしてダリウスを見た。
その視線が、「獲物」を見る目から「脅威」を測る目に変わったのを、ダリウスははっきりと感じ取る。
(……体が、楽だ)
まるで、誰かが背中から支えてくれているような感覚。
(そうか……軸か)
ふと、稽古場の記憶がよぎった。
若い頃、師範に何度も言われた言葉。
『体で振るな。地面から生えている“軸”で振れ』
その時には、頭でしか理解できなかった感覚が——今、ようやく「体」でわかる。
(俺の体は……地面から生えている柱みたいなもんで、剣はその枝先か)
ダリウスは、一歩踏み込んだ。
足裏が地面を押し、その下の岩を押し、その反作用が膝、腰、背骨へと帰ってくる。
その「軸」を、ほんの少し回転させるだけで、剣の切っ先は自然と獣の急所へ向かう。
ワーウルフの爪が、再び迫る。
だが、その軌道は、すでに見えていた。
肩の高さ、肘の角度、腰の捻り——そのすべてが、次にどこを狙ってくるかを教えてくれる。
ダリウスは、ほんのわずかに足を引いた。
剣の腹で爪をいなし、その勢いが通り過ぎる瞬間を狙って、逆袈裟に斬り上げる。
「《スラッシュ》」
刃が、ワーウルフの太腿裏をかすめた。
アキレス腱を狙った一閃が、獣の脚を切り裂く。
ワーウルフの表情に、初めて「焦り」が宿った。
(……変な感じだな)
ダリウスは、ゆっくりと瞬きをした。
目の前の巨体を見上げる。
(ワーウルフって、こんなに……小さかったか?)
さっきまで、壁のように感じていたはずの敵が、今は、ほんの少し背の高い相手に見える。
距離感も、攻撃の届く範囲も、すべてが手の内に収まっているような——そんな錯覚。
ワーウルフが片膝をついた。
かろうじて残った腕でバランスを取りながら、ギリ、と奥歯を鳴らす。
恐怖とも怒りともつかない感情が、黄色い瞳の奥で渦巻いていた。
「——《グランドスラッシュ》」
ダリウスは、もう一度、深く腰を落とした。
地面から突き上げる力を、今度は左の腕へと乗せる。
剣が、閃光のように走った。
ワーウルフの左腕が、肩口から切り飛ばされる。
飛んだ腕が、地面の上に落ちるまでの間でさえ、ダリウスはその軌道を「見て」いた。
腕を失った獣は、ついに——怯えた。
喉の奥で搾り出されるような低い呻き。
さっきまで獲物を嘲笑っていた口元が、震えている。
静寂が、戦場を包んだ。




