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息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む  作者: けんぽう。


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第23話 想定内、想定外


 二十階層——ボス部屋前。


 山頂付近の洞窟を抜けた先は、ぽっかりと空いたような広大な空間だった。

 天井は暗闇に溶けて見えず、壁際に等間隔で並んだ松明だけが、ぱちぱちと小さく爆ぜながら光を投げている。


 その正面。

 闇の中に、黒々とそびえ立つ巨大な扉があった。人間が何十人と肩車しても届かないほどの高さだ。


「……ふぅ。着いたな」


 ダリウスは肩から荷を下ろし、短く息を吐いた。


「野営にしよう」


 その一言で、四人はそれぞれ持ち場へ散っていく。


 オットーは無言でテントを組み立てはじめ、

 エドガーは折り畳みの机と椅子を出して、ランプの位置を調整し、

 ミラは洞窟の入口から周囲をぐるりと回り、小さな印を確かめながら結界にほころびがないか入念に確認していく。


 ダリウスは焚き火の前に腰を下ろし、鉄板を据えた。


 じゅわ、と油に何かを落とす音が響く。

 薄くスライスしたニンニクが熱に踊り、香ばしい匂いがあっという間に洞窟中へ広がった。


「……いい匂い」


 結界を見ていたミラが、つい足を止めて振り返る。


 続いて、分厚い肉塊が鉄板の上にどさりと置かれた。

 ジュウウウウ——と力強い音が洞窟の天井にまで反響し、脂が弾ける。

 溶け出した肉汁がニンニクの香りと混ざり合い、塩と胡椒がぱらぱらと振りかけられた瞬間、香りは一気に暴力的なまでの破壊力を持ちはじめた。


 表面はこんがりと焦げ目がつき、端の方はカリッと色づいていく。

 しかし肉の中央はまだふっくらと厚みを保ち、ナイフを入れれば柔らかく押し返してきそうな弾力が残っていた。


 頃合いを見計らってダリウスが鉄板から肉をすくい上げ、皿に並べていく。

 その上に、きつね色に揚がったニンニクチップをどさっと山のように乗せた。


「できたぞ。食べよう」


 ダリウスが振り向きながら声をかけると、三人の視線が一斉に皿へ吸い寄せられた。


 分厚いステーキの表面はカリッときれいな焼き色がつき、皿の縁にはあふれた肉汁がじわりと広がっている。

 ナイフを入れれば、中からはほんのり赤みを帯びた断面が顔を出し、そこへ熱でとろけかけた脂とニンニクの香りが重なった。


「……これは反則ですね」


 エドガーが感心とも呆れともつかぬ声を漏らしながら、ナイフを入れる。


「いただきまぁーす!」


 ミラはすでに待ちきれず、口いっぱいに肉を頬張っていた。

 噛むたびにじゅわっと肉汁が溢れ、ニンニクチップがカリッと砕けて香りを弾けさせる。


「んーっ、おいしい……! 身体の中からレベルアップしていく感じがする……!」


「それはよかった」


 ダリウスも自分の皿へナイフを入れ、ようやく一口頬張る。

 しばしの間、四人の周囲には「咀嚼音」と「小さな感嘆」だけが満ちた。


 ひとしきり肉にありついたあと、ダリウスが骨付き部分を手づかみでかじりながら、ふと口を開く。


「……で、ボス、なんだと思う?」


 エドガーはステーキをきれいに切り分けながら、少し考えるように目線を上へ向ける。


「二足歩行系でいけば……イエティでしょうか。

 この階層は山と雪でしたし、寒冷地の怪物としては妥当な線かと」


「その場合は——」


 ミラが、もぐもぐと肉を噛みながら当然のように続けた。


「オットーが大斧で前に出て、私がその周りに簡易結界、だよね?」


 口の中いっぱいの肉で少し言葉がもごもごしているのを、ダリウスはおかしそうに見ていた。


「よく分かってるじゃないか」


 その笑みに、ミラは「えへへ」と照れたように笑って、また肉を口に運ぶ。


「だがよ」


 オットーがフォークを指先でくるくる回しながら、グラスを片手に続ける。


「コンラートのじいさん、ドラゴンも出るって言ってたからな。

 二足歩行だの何だのに、あんまり囚われすぎねぇ方がいいぜ」


「そうだな……」


 ダリウスは少しだけ真剣な顔つきになり、オットーの腰へ視線を落とした。


「オットー。……腰の具合は大丈夫か?」


「問題ない」


 オットーは頭をかいて、わざとらしく笑ってみせる。


「コンディションとしては、万全とは言えねぇがな」


「私たちの年齢で、“万全”なんて言える日が残ってると思わない方がいいですよ」


 エドガーはそう言いながら、手慣れた動作で目薬を差す。


「どこかが痛い。どこかが重い。それが標準装備です」


「夢も希望もねぇな、おい」


「だからこそ、準備とシミュレーションがものを言うんです」


 エドガーはナプキンで口元を拭い、ダリウスを見た。


 ダリウスはグラスを卓に置き、短く頷く。


「——よし」


 焚き火の火がぱちっと弾ける。


「十階層のときに想定したパターンに加えて……オットーの腰が逝ってしまった場合も含めて、もう一度シミュレーションしよう」


「おい、そこを“デフォルト想定”みたいにするな」


 オットーが即座に噛みつき、ミラがくすっと笑う。


「でも、たしかに考えておいたほうがいいかも。オットー、重いし」


「おいミラ、そこはフォローしろや!」


 笑いが一度起き、それから、静かに真剣な作戦会議へと流れ込んでいく。


 分厚い肉の香りと、ニンニクチップの香ばしさがまだ残る洞窟の中で——

 中年三人とひとりの少女は、この先に待つ見えない怪物に備えて、何度も何度も「もしも」を積み上げていった。



 重い扉が、背後で軋みを上げながら閉まっていく。


 ギ……ギギギ……バタン。


 厚い石扉が完全に噛み合う音が、腹の底に響いた。

 もう、引き返す道はない。


 広大な空間の中央、ぼう、と天井付近の松明が一斉に灯る。

 ぼんやりとした橙色の光が、暗闇の中に“それ”の輪郭を浮かび上がらせた。


 二本足で立つ、巨大な狼。


 大人二人を縦に積み上げたほどの巨体。

 毛皮は煤けた灰色で、ところどころ剛毛の束が逆立っている。

 唇がめくれ上がり、鋭く長い牙がずらりと並んでいた。

 一噛みで、人ひとりの胴など簡単に千切ってしまえそうな牙だ。


 黄色い目玉が、ギョロリと四人を舐めるように見回す。


「……ワーウルフ、か」


 エドガーが小さく呟いた時には、ダリウスはすでに前に一歩踏み出していた。


「オットー、斧!」


 短い指示が飛ぶ。


「了解!」


 オットーは背負っていた大盾を地面に突き刺し、大斧へと持ち替える。

 ダリウスと並ぶようにして、二人は一気に前線へと駆け出した。


 ボス部屋の床石を蹴る音が、ワーウルフの低い唸り声と混ざり合う。


 ——間合いのギリギリを保て。

 ——集中しろ。


 ダリウスは自分に言い聞かせるように心の中で繰り返し、ワーウルフの懐へと飛び込んだ。


 次の瞬間、ワーウルフの右腕がぶれた。


 右手の爪が、風を裂きながらダリウスの喉元めがけて振り下ろされる。


「っ——!」


 紙一重。

 ダリウスは首をわずかに引き、半歩、間合いの外へ滑るように下がる。

 頬をかすめた風が、爪の鋭さを物語っていた。


 すれ違いざま、すぐ背後から斧のうなりが聞こえる。


「ぉらぁ!」


 オットーの大斧が、ワーウルフの右腕へと叩きつけられた。

 分厚い毛皮と筋肉が悲鳴を上げ、血飛沫が飛ぶ。


 間髪入れず、ダリウスも踏み込み直す。


「——っ!」


 低く腰を落とし、最小限の剣筋で右腕に斬り込みを入れる。

 オットーの斧とダリウスの剣が交互に食い込み、じわじわとダメージを重ねていく。


 そのパターンを、二度、三度。


 前へ出て爪を誘うダリウス。

 すれ違いざまに半歩退き、オットーの斧がその腕をかすめ取り、

 すぐにダリウスの剣戟が追い討ちをかける。


 大技ではない。派手さもない。

 だが、確実に削るためだけに研ぎ澄まされた、中年らしい手堅いコンビネーションだった。


 やがて、ワーウルフの喉奥から、地鳴りのような咆哮が絞り出される。


「グゥゥゥ……ガァァァァオオオオオオオッ!!」


 毛が逆立ち、全身の輪郭が一瞬ぐにゃりと歪んだ。


 次の瞬間、その巨躯は地を蹴って四つ足に落ちる。

 人型から、完全な“狼”の形態へと変化したのだ。


「形態変化かよ……!」


 オットーが舌打ち混じりに呟くのと同時に、ダリウスが叫ぶ。


「オットー! シールドバッシュ!」


「おうっ!」


 オットーは即座に大斧を背中に戻し、地面に立てかけていた盾へと飛びつく。

 前方へと突き出した瞬間、透明な光の盾——《シールドバッシュ》が展開された。


 狼となったワーウルフは、低く身を沈めると、まるで矢のような速度で突進してくる。

 鋭い爪と牙がバリアに打ちつけられ、火花のような魔力のきしみが弾けた。


 衝撃でオットーの足が半歩、二歩と下がる。

 それでも、バリアは破られない。


 その後ろで、ダリウスはようやく大きく息を吐いた。


「……はぁ、はぁ……」


 肩が上下する。肺が焼けるように熱い。

 それでも、ワーウルフの視線が完全にオットーに固定されているのを見て、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「……よし。完全に、こっちを向いた」


 盾の向こう側で、オットーが「お前が言うな」と言いたげに笑った気がしたが——

 今は、誰もツッコむ余裕はなかった。


 オットーの《シールドバッシュ》は、なおも唸り声を上げるワーウルフの猛攻を受け止めていた。


 爪が叩きつけられるたび、光の盾がぎしりと軋む。

 だが——破れない。


 ワーウルフは数合ぶつかってみせると、ピタリと動きを止めた。

 ギロリと黄色い瞳だけが、オットーの後ろへと向きを変える。


 ——後衛。


 エドガーとミラの方角へ。


「……来るぞ」


 ダリウスが低く呟いた一瞬後、ワーウルフは地を蹴った。

 狙いをオットーから後方へと切り替え、一気に横合いへと回り込む。


 バリアの正面から外れた瞬間——。


「そのパターンも、想定内だ!」


 ダリウスが床石を蹴って飛び出した。


 ワーウルフの進路の先へ、無理やり身体をねじ込むように割り込む。

 そのまま盾を構えた。


「《シールドバッシュ》!」


 オットーのものより一回り小さな威力はない簡易版、しかし確かな光の盾が前方に展開される。


 次の瞬間、ワーウルフの牙がそれに食らいついた。


 ガギィッ——!


 耳をつんざくような音とともに、バリアに亀裂が走る。

 光の盾は一拍、踏みとどまった……ように見えたが——。


 パリンッ!


 次の瞬間、ガラスを砕いたように、光が弾け飛ぶ。


「っ……!」


 噛みつき一撃。

 ダリウスの《シールドバッシュ》は、正面から力任せに破られていた。


 そのわずかな時間稼ぎの間に、オットーはすでに後方へ走り出している。


「ったく……! 忙しいな!」


 肩で息をしながらも、後衛の前へ滑り込むと、盾を突き出した。


「《シールドバッシュ》!!」


 再び後衛前に、厚く強固な光の壁が張り出す。

 ミラがほっと息をつき、エドガーは視線を前方から逸らさないまま詠唱を続けていた。


 ワーウルフは一度足を止め、ちらりと後衛のバリアを一瞥する。


 ……すぐさま、ダリウスへと顔を戻した。


 骨が軋むような音を立て、肉体が捻じ曲がる。

 狼の時よりもさらに長い四肢、しなやかな筋肉。

 二足で立った獣の姿——人狼形態へと移行していく。


 ワーウルフの口元が、笑った。


 ゆっくりと、じりじりと、ダリウスとの距離を詰めてくる。


「……来いよ」


 ダリウスもまた、腰を落とし、剣先を低く構える。

 間合いの中に入るタイミングを、爪の届く限界を、必死に計り続ける。


 再び始まる、間合いの攻防。


 鋭い爪がきらりと光ったかと思えば、一歩踏み出した瞬間にはもう目前に迫っている。

 ダリウスは半歩引き、あるいは最小限の体捌きで紙一重を抜けていく。


 一撃、二撃、三撃——。


 だが、じわじわと消耗が現れる。


 足が、もつれる。


 息が、上がり始める。


「……っ、はぁ……はぁっ……!」


 喉が焼け、胸が苦しい。視界の端がじんじんと熱を帯びる。


 ワーウルフはそれを見逃さない。

 間合いを詰める速度をわずかに上げ、攻撃のリズムを乱し始めた。


「エドガー! まだか!?」


 ダリウスは爪をいなしながら叫ぶ。


 後方では、エドガーが必死に魔導書へ視線を走らせていた。

 目尻に皺を寄せ、片手で目薬をさしつつ、ページをめくる。


「……あと、少しです!」


 息を荒げながら、それでも呪文の節は崩さない。

 ただし、声は以前よりわずかに掠れていた。


「ファイ……グラ……フォルン……」


 震えを押さえ込むように、一語一語を噛み締める。

 最後の詠唱が口をついて出た。


「——《業火の抱擁》!」


 ボス部屋の空気が、一瞬で灼熱へと反転する。


 エドガーの前方に、紅蓮の奔流が立ち上がった。

 炎は蛇のようにうねりながら、ワーウルフへと殺到する。


 まともに逃げ切れる距離ではない。


 ——はずだった。


 ワーウルフはその瞬間、顔を歪めて吠える。


 次の鼓動が打たれるより早く、その身体が再び“崩れた”。

 筋肉が縮み、骨格が変形し、毛皮がうねる。


 完全な“狼”の姿。

 四足歩行の、炎を嫌う獣の形態へ。


 紅蓮の炎が、正面からその身を飲み込んだ。


 轟音。爆風。舞い上がる火の粉。


 全員が腕で顔を庇い、熱風に目を細める。


 やがて——炎が、すうっと収束していく。


「……よし」


 ダリウスが、荒い息のまま呟いた。

 エドガーも、肩を落としながら「ふ……」と息を吐く。


 その時だった。


 炎の煙の中から、低い唸り声が聞こえた。


 もやが晴れていく。

 そこに立っていたのは——狼のままのワーウルフだった。


 焦げた毛先から、うっすらと煙が上がっている。

 だが、その眼光はまったく死んではいない。


 むしろ、先ほどより鋭く、冷静だった。


「……は?」


 最初に声を漏らしたのは、エドガーだった。


 続いて、ダリウスとオットー、そしてミラまでもが息を呑む。


「なっ……!?」


「嘘だろ、おい……」


「ぜんっぜん、効いてない……!」


 ワーウルフは、炎の名残を払い落とすように身を一振りした。

 湿った獣臭と、こげた毛の匂いが、むわりと広がる。


 そして、四人を見回し——嗤ったように、唇を吊り上げた。


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