第21話 限界の先で、息が整う
十七階層——雪山。
雪は膝の高さまで積もっていた。
一歩踏み出すたび、足は重く雪に取られ、次の一歩を出すだけで体力がどんどん削られていく。
空からは、細かな雪片が静かに降り続けていた。
視界を白くかすませるそれに、ダリウスは目を細める。
「……吹雪いてきたな」
前を歩くエドガーが、魔法で映し出した羊皮紙の地図に視線を落とす。淡く光る線が、雪の中の進路を示していた。
「少し先に洞窟があります。恐らく……次の階層への入り口かと」
「助かった……もう腰が限界だ……」
オットーが、盾の柄を杖代わりにしながら呻く。
雪深い道に、大盾持ちの足取りもさすがに重い。
いつも元気なミラも、さすがに今日はぐったりだった。マフラーに鼻まで埋まり、赤くなった鼻先から、ずるりと鼻水を垂らす。
「……私はただただ、焚き火にあたりたいです……」
魂の底から漏れた本音だった。
やがて、白の世界の向こうに、ぽっかりと黒い口が現れる。
洞窟だ。
入口には、槍のように尖ったつららが何本もぶら下がり、その下で、暗い空間がぽっかりと口を開けている。中は思ったより広く、雪はないが、冷え切った空気が肌にまとわりついた。
「ダリウス、早く火をつけようよ!」
ミラが半べそで袖を引っ張る。
「はいはい、ちょっと待ってくれ」
ダリウスは手早く薪を組み、火打石を取り出した。痺れる指先で、それでも慣れた動作で火を起こそうとする。
——その時。
地面の底から響いてくるような、低い振動が足裏を揺らした。
ずしん、ずしん、と重い足音が、洞窟の奥から近づいてくる。
闇の向こうで、不意に、赤い光が二つ灯った。
目だ。
「……くそっ」
エドガーが顔をしかめる。
「ミノタウロス!!」
「くそっ、こんな時に……!」
オットーも思わず悪態をついた。
二足で闇から現れたそれは、紛れもなく“脅威”と呼べる存在だった。
大人の三倍はあろうかという巨大な身体。引き締まりながらも異様に膨れあがった筋肉。
全身の毛は鎧のように密で、黒鉄のごとく重さを感じさせる。
頭上から伸びるツノは鋭く、少し動くだけで空気を裂きそうな切っ先をしている。
真っ赤な眼光が、洞窟の入り口に固まる四人を一気に捕らえた。
ミノタウロスは、どしり、と前足をつく。
四つ足へと姿勢を変え、頭を低く構える。
——突進の構え。
「オットー!!!」
ダリウスが叫ぶ。
「わかってる!!!」
オットーは地面を蹴り、盾を正面に構えたまま走り出す。
次の瞬間、ミノタウロスの角と、オットーのシールドバッシュが、真正面から激突した。
耳をつんざく衝撃音。
ぶつかり合った一点から衝撃が洞窟全体へと波紋のように広がり、天井のつららがわずかに揺れる。
「——っ!」
大盾ごと受け止めたオットーの身体が、土を削りながら後ろへ押し戻されていった。
「!? 大丈夫か、オットー!!」
思わず、ダリウスが叫ぶ。
オットーはたまらず片膝をつき、盾を支えにしながら、顔をしかめた。
「今ので……腰がいった……っ……ちょっと……まずいかもな……」
額に脂汗が浮かんでいる。盾はまだ握っているが、その指先には力が入っていない。
その背後で、エドガーはすでに魔導書を開き、黙々と詠唱に入っていた。
雪でかじかんだ指が、震えながらも確かに文字を辿っている。
「オットー、後衛まで下がれ! ミラとエドガーを死守してくれ!
——ミラ! オットーの腰を治療してくれ!」
「わかった!!」
オットーは自力では立ち上がれない。
ミラが慌てて駆け寄り、彼の腕を肩に回して支えた。
「よいしょっ……!」
ふらつく巨体を、少女ひとりでは支えきれない——はずなのに、必死の形相で一歩、また一歩と後ろへ引いていく。
その様子を、ミノタウロスの赤い目が四つ足の姿勢のままじっと追っていた。
オットーを離さない。
まるで、次に潰す獲物を決めているかのような、粘つく視線だった。
(——俺が止める!!)
ダリウスは一度大きく息を吸い、地面を蹴って飛び出した。
ミノタウロスの懐へ、一気に踏み込む。
「<スラッシュ!!>」
低く呟き、刃を閃かせる。
剣先がすれ違いざま、ミノタウロスの前脚の腱をかすめた。
ぶちん、と嫌な音がして、巨体がわずかによろめく。
ダリウスの額から、汗が一気に噴き出した。
(……この位置はまずい! ここは、あいつの間合いのど真ん中だ……!
さっさと——こいつの“外”へ出ないと!!!)
次の瞬間、激昂したミノタウロスの拳が、振り抜かれた。
視界いっぱいに、こぶし大の岩を束ねたような腕が迫る。
それでも、ダリウスの身体は、考えるよりも先に動いていた。
——反転。
半歩だけ、靴底一枚ぶんだけ、後ろへ滑るように退く。
本当に紙一重で、拳が目の前を掠めた。
「……っ!」
洞窟の空気が揺れるほどの風圧だけが、ダリウスの頬を叩いた。
「「!?」」
後方でエドガーとオットーが、同時に息を呑む声がした。
ダリウスは転がることもなく、そのまま滑り出すように後ろへ距離を取る。
振り下ろされた拳の余韻を背中で感じながら、なんとかミノタウロスの“間合い”の外へと抜け出た。
(……今の、避けられた……?
死んでいてもおかしくなかった……なんだ、さっきの“感じ”は……)
胸の奥がざわつく。
だが、考える暇はない。ミノタウロスが、赤い目で再びこちらを睨んだ。
ダリウスは、剣先を下げたまま、じり、と一歩前へ出た。
ミノタウロスの攻撃が届く“ギリギリの外側”——そこへ、自分の足を固定する。
間合いを読む、というより、
相手の動きの“始まり”が、皮膚の裏側で震えとして伝わってくるような、不思議な感覚。
エドガーが、詠唱の合間に低く呟いた。
「……あの距離なら、攻撃は全部届きません。
その間に、詠唱を完了させる……」
(さあ、来いよ……)
ダリウスは、鼻で笑った。
(全部——“間合い”でかわしてやる)
ミノタウロスは、じっとダリウスを一瞥する。
だがその赤い目は、すぐに後方のオットーとミラへと向けられた。
標的の切り替え。
一瞬で最も“脆い”方を選び取る、獣に似つかわしくない、冷たい判断の光。
「なっ……!?」
ダリウスの喉から、思わず声が漏れた。
次の瞬間、ミノタウロスはダリウスに背を向け、再び四つ足へと移行した。
筋肉がうねり、巨大な身体が、雪と石を砕きながら——オットーたちへと突撃した。
間合いの勝負で不利と見れば、即座に捨てる。
その判断の速さは、もはや“怪物”というより、“戦士”に近かった。
四つ足に体勢を落とし、重心を低く構え——そのまま、一直線にオットーたちへ照準を合わせる。
土と岩を蹴り飛ばす音が、洞窟に響いた。
「——来るぞ!!」
突撃。
弾丸のような速度で、巨大な牛頭の影が走る。
オットーも、それを迎え撃つしかなかった。
片膝をついたまま、歯を食いしばり、盾を前に突き出す。
「シールドバッシュ……っ!!」
足は万全ではない。それでも、彼は立った。
ミノタウロスとオットーの盾が、真正面からぶつかり合う。
(足の腱は切った……突進力は、落ちてるはずだ……!
——オットー、耐えてくれ!!)
ダリウスは祈るように叫びながら、横からその様子を見ていた。
結果として——それは、“耐えた”と言えなくもなかった。
だが。
「ぐっ——はっ!!」
鈍い衝撃音と共に、オットーの身体が、盾ごと宙を舞った。
洞窟の壁まで一直線に吹き飛ばされ、岩に叩きつけられる。
「オットー!!」
ミラが悲鳴のような声を上げ、真っ先に駆け寄る。
大盾ががしゃりと音を立てて転がり、オットーはその下でうめき声をあげた。
一方、ミノタウロスは、次の標的を見失わない。
赤い目が、すっとエドガーへと向けられる。
エドガーは——。
眉ひとつ動かさなかった。
魔導書の上に広がる文字だけを見つめ、口元だけが絶え間なく動き続けている。
詠唱を、止めない。
(一歩でも動けば、発動が遅れる……
だからこいつは、あえて動かない……!)
ダリウスは、息を荒げながらそれを理解した。
「——<ダブルスラッシュ!!!>」
ダリウスの叫びと共に、剣を振る風切り音。
ミノタウロスの背後へと回り込んだダリウスが、再び刃を閃かせる。
今度は、残されたもう一方の脚の腱を狙って。
ぬるりとした手応え。
ミノタウロスの脚が崩れ、バランスを崩した巨体がよろめきながら膝をつく。
ぎしり、と音を立てながら、ゆっくりとダリウスの方へ振り返る。
洞窟の中で、荒い息が二つだけ響く。
一つは、黒い毛並みと角を持つ怪物の、湯気混じりの呼気。
もう一つは——ダリウス自身のもの。
だが、そのリズムは、さっきまでとはどこか違っていた。
息は上がっているのに、足元は揺れていない。
重心が、地面に吸い付くように安定している。
(……ここで、逃げたら終わりだ)
ダリウスは、わずかに笑った。
喉が渇いているのに、声だけははっきりと出た。
「近間で……お前の“制空権”で、勝負してやるよ」
それは、老いた今なら決して口にしない台詞だ。
怪物のリーチと速度を前にして、「あえて近距離で戦う」と宣言するなど——蛮勇以外の何物でもない。
だが今は、違った。
宣言の直後、ミノタウロスの左拳が突き出される。
速い——はずだ。
ただ、その軌道が、なぜか「見える」。
ダリウスは、まるで拳の出るタイミングを“知っていた”かのように、軽く半歩だけ引いた。
足の裏を滑らせるだけの、極小の後退。
拳は、目の前をかすめていく。
皮膚が空気ごと押される感覚だけが残り、肉体には一切触れない。
(なんだ……この感覚……?こんなに遅かったか……?
ミノタウロスの動きって、こんなものだったか……?)
脳裏に浮かぶのは、過去何十年も積み重ねてきた、膨大な数の一対一。
剣と剣。拳と拳。魔物と人間。
その全てが、今この瞬間、一つの線になって繋がったような——そんな錯覚。
ミノタウロスの角が、下から突き上げてくる。
ダリウスは、腰をひねるだけでそれを避ける。肩も腕も、余計な力を使わない。
続けざまに、拳の連打。
上段、中段、足元にツノと拳が交互に襲いかかる。
ダリウスは、ふらふらと歩く酔っ払いのように見える動きで、それら全てから外れていく。
だが、足の裏が接地している位置は、ほとんど動いていない。
最小限の体捌きだけで、全攻撃を“外へ捨てる”。
(こいつが“遅くなった”んじゃない……
俺の目と——いや、身体の“感じ方”が変わってる……)
ミノタウロスの荒い息が、次第にひどくなっていく。
反対に、ダリウスの呼吸は、むしろさっきより落ち着いていくのを自分で感じていた。
奇妙な光景だった。
普段なら真っ先に息が上がる中年の剣士が、今はまるで静止しているかのように、少しも乱れていない。
巨大な怪物の方が、明らかに息を切らし、苛立ちを募らせている。
後方でミラの治療を受けているオットーが、片目だけ開けてその様子を見た。
「……なんだよ、あれ……
あんな動き……見たこと、ねぇぞ……」
その時、奥で低く響いていた詠唱がぴたりと止まる。
ぱたん、と魔導書の閉じられる音が洞窟に小さく響いた。
「準備できました!」
エドガーが顔を上げる。
額に汗を滲ませながらも、その瞳は静かに燃えていた。
「ダリウス、下がってください!」
「もうか! 早いな!」
ダリウスは口元だけで笑い、ミノタウロスの間合いからすっと後退する。
ふらつくことなく、まるで最初から退路が見えていたかのような足運びだった。
エドガーは一歩前に出ると、右手を振り上げる。
「——<滅火の碑>!」
次の瞬間、足元から炎が噴き上がった。
それはただ燃え広がるのではなく、幾重もの紋様を描きながら渦を巻き、ミノタウロスの足元へと収束していく。
燃え盛る炎の柱が、まるで“碑”のように立ち上がり、牛頭の巨躯を中から焼き尽くした。
ミノタウロスの咆哮が洞窟内に木霊し——やがて、ぱたりと途切れる。
黒い影が崩れ落ちた。
毛皮は炭へと変わり、角は熱でひび割れ、やがて炎も静かに収まっていく。
残ったのは、焦げた匂いと、白い湯気だけだった。
「……ふぅ」
エドガーが小さく息を吐く。
ダリウスは剣を下ろし、すぐさま振り返った。
「オットー! 大丈夫か!!」
洞窟の壁際。
ミラに上体を支えられながら、オットーは頭を押さえていた。
「あぁ……頭がガンガンする……」
額のあたりにたんこぶができかけており、雪の上には彼が吹き飛ばされた軌跡がくっきりと刻まれている。
ミラはその様子を見て、真剣な顔で腰のあたりに手を当てた。
「ぎっくり腰だね。あと頭も強く打ってるから……少し時間かかるよ」
「ぎっ……」
オットーは情けない声を漏らし、天井を仰いだ。
「ミノタウロスより厄介じゃねぇか、それ……」
「動かなければ悪化はしませんよ」
エドガーがいつもの調子を少しだけ取り戻し、軽く肩をすくめる。
ダリウスは周囲を見回した。
洞窟の入口からは、まだ吹雪の気配がうっすらと流れ込んでいる。
自分の呼吸音、仲間の荒い息、焦げた肉の匂い。
全てが、“限界に近かった”ことを物語っていた。
「……そうか」
ダリウスは小さく頷き、決断する。
「とりあえず、消耗が激しい。
急いで野営の準備をしよう」
その声には、安堵と、まだ終わってはいないという静かな緊張と——
そして、仲間全員を生きて次へ運ぶ、と決めた男の意地が滲んでいた。




