第2話 原書写しの魔法使い
昼下がりの陽光が、ダリウスの家の木窓をやわらかく照らしていた。
昼食を終えたばかりの食卓には、まだ温かいスープの香りが残っている。
その空気の中で、ダリウスだけが背筋を立てていた。
「ミラ、話を聞いてほしい」
声は低い。掠れていないのに、重い。
ミラはスプーンを置き、首をかしげる。
「どうしたの、ダリウス?」
ダリウスは背もたれから身を離し、机に両手を置いた。指が木目を押す。
「——老齢の塔に挑もうと思う」
ミラの眉が落ちた。口元が結び直される。
「……それは、私のため? 危ないよ、そんなの……」
ダリウスは目を逸らさない。ミラの青い瞳を正面から受けた。
「いいんだ。俺はミラに救われた。だから今度は、俺が返す番だ」
ミラの視線が下がる。
金髪が肩から滑り、頬の線を隠した。
「ダリウス……私こそ、何も返せてないのに……」
スープの湯気が薄くなる。誰も器に触れない。
時計の針の音が、食卓の端で一つずつ鳴った。
やがてミラが顔を上げる。目が大きく開き、頬が上がった。
「——あっ!」
立ち上がる勢いで椅子が鳴る。ミラは胸を張った。
「じゃあ私もついて行くわ! それで解決ね!」
勝ち誇った笑み。頭の中で何かが噛み合った顔だ。
ダリウスは瞬きが遅れた。
「……ミラさんや」
声が柔らかくなる。叱るというより、熱を冷ます口調だった。
「老齢の塔は三十五歳以上じゃないと入れないんだよ」
ミラは引かない。
むしろ、そこからが本番と言わんばかりに前のめりになった。
「塔を X と置き、ダリウスの年齢が Y だわ……
まずは左辺の和を分解して……ここをこう……」
ミラは黒板にチョークを走らせる。粉がぱらぱら落ちた。
数字と文字と記号が跳ね、収拾がつかない。
Y>35 ⇒ X解放条件
Σ(冒険者年齢)/n ≥ 35
∵35≒π×10+5(※註:なぜかπが混入)
√ミラ+ダリウス²=愛
ゆえに、入れる(確信)
ミラは真顔だった。瞳は濡れたみたいに光り、手元だけが忙しい。
最後にチョークを掲げる。
「——つまり!
パーティの平均値か中央値でも入れる可能性があるわ!」
沈黙。
ダリウスはこめかみを押さえ、額を指で擦った。首を振りながら、息が漏れる。笑い声になった。
ミラは一度言い出したら止まらない。
どうせパーティは必要だ。ならば、現実の方を先に詰める。
「ならまずは、あいつだな」
「え? あいつ?」
ミラが首を傾げる。
ダリウスは目尻だけがふっと緩み、視線が一瞬だけ遠くへ逃げた。
「あぁ。戦闘において魔法職は欠かせない。
それに——35歳以上で、腕の立つ魔法使いとなれば……」
ミラの顔がぱっと明るくなる。発想が先に走った。
「わかったわ!
マジカルおじさん を探すのね!!」
「いや、そんな呼び名では……」
ダリウスの制止は届かなかった。ミラはもう次の場面に立っていた。
*
北の国、セラフィム。
空は白く、昼でも薄暗い。屋根には雪が重くのしかかり、時折、塊が落ちて鈍い音を立てた。
軒先にはつららが連なり、潮の匂いが鼻を刺す。冷たい風の向こうに港が見えた。
ミラとダリウスは首にマフラーを巻き、凍った道を滑らないように歩いた。
足裏が慎重になる。歩幅が小さくなる。吐く息だけが白い。
三日間、聞き込みを続けた結果、目的の家が見つかった。
「すみません!
マジカルおじさんの家、知りませんか!?」
通りがかりの老人がぎょっとして立ち止まる。肩が跳ねた。
「マジ……カル……?」
困惑というより、警戒だった。目が細くなる。
「はい! 実は——こうこうこうで……!」
ミラは前のめりになり、手を大きく動かして説明を始める。
老人は半歩後ずさる。
ダリウスは後ろで苦笑し、深く頭を下げた。
「すみません、妙な呼び方をしてしまって……
魔法使いのエドガーという男を探しているんですが——」
老人は息を吐き、「ああ、あの家だ」と奥の細い道を指差した。
ミラはスキップし、雪を蹴り飛ばしながら走っていく。
ダリウスはその背中を追い、頬が緩むのを止められなかった。
「……さて、エドガー。元気にしてるといいんだが」
雪は降り続けていた。肩に積もり、払うたびに冷たさが残る。
*
雪に埋もれた古い家が、凍った風の中にぽつんと立っていた。
煙突から煙は上がっていない。窓は曇り、庭には足跡ひとつない。
ミラの足取りが遅くなり、ダリウスも無意識に声を落とした。
「ここ、か……?」
ダリウスは門を押した。ぎぃ、と重たい音が鳴る。
錆の匂いが立つ。
「エドガーー? エドガー、いるか?」
返事はない。
雪が屋根からどさっと落ちる音だけが響く。
しばらくして、玄関の扉がゆっくり開いた。
「……誰ですか? ——ダリウス、ですか?」
細い影が姿を現した。
茶色のまっすぐな長髪。顔色は悪く、頬がこけている。だが、目だけは鋭いままだった。
「久しいですね……どうぞ、中へ」
家の中は薄暗い。ランプの光が本棚に線を引く。
床から天井まで本、本、本。古い紙の匂いに、埃が混ざる。
膨大な量なのに、並びは妙に整っていた。背表紙の位置まで揃っている。
「……少し痩せたか?」
ダリウスの口が先に動いた。言ってから唇を噛む。
「本の代わりに食事を削ってるんですよ」
エドガーは口角だけ上げ、すぐ引っ込めた。視線が本棚へ逃げる。
ダリウスは老齢の塔のこと、ミラの病気のこと、仲間を集めていること。全部を話した。
言葉が途切れるたびに、ランプの芯が小さく鳴った。
エドガーは最後まで遮らずに聞いていた。
そして、ふっと笑う。
「馬鹿馬鹿しい。
私はもう45歳、あなたは40歳。
引退して何年経ってると思ってるんです?」
表情は崩れない。言葉は辛辣だ。
けれど声の奥が揺れた。笑いではない、別の呼吸が混ざっている。
「頼む。エドガー、お前の魔法が必要なんだ」
「私は……無理です。父もいますし」
ぶつかっては戻り、またぶつかる。
言い返すたびに、エドガーの指先が本の背をなぞり、強く押した。
不意に廊下で物音がした。
「飯は……まだかのう?」
ふらりと現れたのは、エドガーの父だった。
白髪は乱れ、目線は宙を泳ぎ、足元はおぼつかない。壁に手をつき、遅れて体がついてくる。
「父さん、さっき昼ご飯食べたでしょう?」
エドガーは微笑んだ。
慣れた調子で、声だけを柔らかくする。
目の下の影は濃いままだった。
老人はミラをじいっと見つめた。
数秒、口が開きっぱなしになる。
「婆さん……あの世から戻ってきたのか……?」
「私はバーさんじゃないわ。ミラさんよ」
ミラはきょとんとしながら口を半開きにして瞬きを二回し、それから首をこてんと傾けた。
エドガーは頭を抱えた。指が髪に食い込む。
それでも口元だけは、わずかに緩んでいた。
「……お願いです、帰っていただけませんか?」
エドガーは静かに言った。
声に棘はない。代わりに、疲れが平らに滲む。逃げ場のない静けさがそこにあった。
*
北の国セラフィム、港近くの小さな酒場。
夜の客足はまばらで、海風が時折ドアを揺らしていた。蝶番が鳴り、すぐ止む。
ダリウスとミラは温かいスープを前に、黙って座っていた。
カウンターではマスターがグラスを磨いている。布がガラスを擦る音が一定だった。
「……エドガー、いつからお父さんの介護を?」
ダリウスが低い声で言う。
「10年ほど前からだなぁ」
マスターは淡々と答えたが、語尾がわずかに落ちた。
「養老院に入れる案もあったらしい。
だがよ、エドガーは片親でな……
魔法大学まで育ててくれたのは父親一人だ」
マスターはグラスの曇りを丁寧に拭く。指先が止まらない。
「きっと……最後まで一緒にいたいんだろうよ」
ダリウスは手のひらで顔を覆った。唇が動きかけて、止まる。
息だけが鼻から出た。
「そうか……
俺は……エドガーに悪いことをしたな」
ミラはスプーンを置き、まっすぐダリウスを見る。背筋が伸びた。
「多分……違うよ」
「……ミラ?」
「だってね、家の中、魔導書だらけだったもん」
ミラは指で机をトントンと叩く。音が小さく跳ねる。
「冒険者を諦めたんなら、全部処分しちゃうと思うんだ」
ダリウスの手がスプーンの上で止まった。瞳が細くなる。
本棚の並びが蘇る。埃はあった。それでも、揃え直した跡があった。
諦めた人間の部屋ではなかった。
「……ミラ。お前……よく見てるな」
ダリウスは拳を作り、ほどく。肩を一度だけ回した。関節が鳴りそうで鳴らない。
「よし……
別のやり方で、もう一度行ってみるか」
「うん!」
ミラは嬉しそうに笑い、スープをすくった。
湯気がまた立つ。二人の間に、熱が戻った。
*
翌朝。
白い息が空に溶け、夜明け前の静けさをわずかに揺らした。
セラフィムの空は淡い橙に染まり、屋根の雪がきらきら反射している。
ダリウスは玄関前に立ち、扉を叩いた。
叩く前から口元に小さな笑みが浮かんでいた。
「また来たぞ。
——ちょっとダンジョンに散歩でもしないか?」
扉が開き、寝癖のついた髪のエドガーが顔を出す。
「……バカですかあなたは?」
呆れた声。だが視線が一瞬逃げた。まばたきが速い。
「それに父が——」
「私が看ておくよ!」
ミラが後ろから飛び出し、目をきらきら輝かせた。
胸を張り、ポケットからカードを取り出す。
「見て!
物忘れスタンプカードよ!
おじいさんがボケたタイミングでスタンプ押していくの!」
沈黙。
「な……何が大丈夫なんですか?」
エドガーは眉をひそめた。理解しようとして、脳が先に疲れている顔だ。
「い、いや……初級用ダンジョンに行くだけだ」
ダリウスが両手を前に出し、慌てて取りなす。
「あなたって人は……昔から……」
エドガーは口を開きかけて閉じた。言葉の跡だけが残る。
目の奥が微妙に揺れたままだった。
*
町を離れ、雪の積もる森へ入ると空気が変わった。
静けさが深く、足音がやけに大きい。踏みしめるたび雪が軋み、樹々の間を抜けた陽光が細く落ちる。
「久しぶりだな」
ダリウスの歩幅が勝手に速くなる。靴が雪を余計に削った。
体が前へ行きたがっている。
「俺が前で、お前が後ろだ」
「……怪我しても知りませんよ」
エドガーは無愛想に返した。
頬はほんのり赤く、声もわずかに弾む。
ダリウスは横目でエドガーの手元を見る。
「とか言ってさ……
さっきから魔導書、綺麗に拭いてたよな?」
「ほ、ほっておいてください!」
エドガーは耳まで赤くして、慌ててローブで顔を隠した。
二人の間の空気が少し緩む。
森の冷たさが頬を刺しても、それは崩れなかった。
*
ダンジョン一階層。
薄暗い通路に、湿った石と苔の匂いが漂っていた。
天井から水滴が落ちるたび、響きが静寂を揺らす。
その空気を裂くように。
「ガァァアッ!!」
ホブゴブリンが棍棒を振り下ろしてきた。筋肉が膨れ上がり、目は血走っている。
「っと——!」
ダリウスは地面を蹴って後方へバックステップ。
棍棒が着地した石床が砕け、粉塵が上がる。
吸うたび、喉がひりついた。冷たい空気が刺さる。
昔なら軽い動きで済んだはずなのに、今は全身を使って避ける。足首がきしむ。
(くそ……老いは正直だな)
それでも足は止まらない。
ホブゴブリンが再び突進してくる。
ダリウスは棍棒の軌道に剣を当て、腕で受け流す。衝撃が肩まで突き上げ、体勢が少しだけ崩れる。
「エドガー! 魔法を頼む!」
「わかりました!——三十秒待ってください!」
後方から張りのある声。
「あぁ頼むぜ……相棒!」
ダリウスは背中越しにニヤリと笑う。
棍棒の風切り音。足音。白い息。
受け流し、回避し、食い止める。とにかく間合いを切り、体力を残す。
ミスが一つ出れば、その場で終わる。
だが背後には、魔法使いがいる。背中の皮膚がそれを覚えている。
「エドガー! そろそろだな!!」
ダリウスが背後へ声を張った、その瞬間。
振り返った視界に入ったのは、地面に魔導書を広げ、這いつくばるように顔を近づけたり遠ざけたりしているエドガーの姿だった。
「……何してんだ、お前」
棍棒を剣で受け止めながら、声が悲鳴になる。
エドガーは堂々としていた。むしろ当然の顔で振り返る。
「老眼が進んでましてね。読みにくいんです。あと——四十秒頼みますよ」
「四十!?」
ダリウスは棍棒の直撃を避け損ねかけ、身をひねる。膝が笑う。
「待ってくれ! 俺の体力が!!」
エドガーは肩をすくめた。
「仕方ありませんね……秘策があります」
腰のポーチから何かを取り出す所作だけは、やたら丁寧だった。
出てきたのは、虫眼鏡。
ダリウスは思わず剣を落としかけ、握り直した。
「虫眼鏡!?」
エドガーは気にせず、魔導書の上に虫眼鏡を構えた。
そして、ゆっくり詠唱を始める。
「フ……ォォ……ル・イ……ンフェ……ルノ……」
発音は完璧。リズムも崩れない。
ただし遅い。腹立つほど遅い。
「エドガー!! 俺、もう……! ちょっと……!!」
「老眼の詠唱には、情緒があるんですよ」
ダリウスの視界が揺れる。息が上がる。腕が痺れ、剣が重い。
棍棒の一撃を受け流すたび、骨の内側が鈍く鳴った。
そして、ようやく最後の言葉が響いた。
「——《業火の抱擁》!」
「ダリウス、下がってください!」
反射で飛び退く。
直後、エドガーの足元から爆炎が立ち上がった。
轟音。
炎の奔流がホブゴブリンを包み、影が一気に崩れた。
硝煙と焦げた臭いが通路に広がる。
静けさが戻る。
ダリウスは剣を杖代わりにして息を整えた。唾を飲み込み、喉の痛みを押し下げる。
「……相変わらず、出力だけは桁違いだな」
エドガーは虫眼鏡を懐に戻し、淡々と言った。
「歳を取ると、無駄撃ちはできませんからね。狙った一撃で終わらせるんです」
ダリウスは笑った。
「ったく、お前らしいよ」
苔の匂いの奥、静まり返った通路に、二人の笑い声だけが残った。
*
この世界で魔法を行使するには、まず“原書”と呼ばれる古代の魔導書を写し取る必要がある。
原書は世界に数えるほどしか存在せず、その一冊一冊が魔力の源泉とされている。
魔法使いはそこから自らの魔導書へ文様を模写し、呪文の式を再構成して使う。
ただし、どんな天才でも写しは写しだ。筆のかすれ、インクの滲み、意識の乱れ。わずかな誤差が発動の威力を削ぐ。
模写の精度が八十を超える者は百人に一人。
九十を超える者は一国に数人。
そして。
百に届いた男がいる。
エドガー・フェルン。
人々は彼をこう呼ぶ。
《原書写しの魔法使い》
*
夕暮れの森。戦いの熱が引き、息が白くなる。雪の上を踏むたび、靴底が小さく軋んだ。
木々の隙間からこぼれる橙の光が、二人の影を長く伸ばしている。
ホブゴブリンとの戦闘を終え、帰路についた二人の間には静かな安堵があった。
風は冷たいのに、歩調だけは揃っている。
ダリウスがふと口を開く。
「変わってないな、お前。……虫眼鏡を除いて、だけどな」
エドガーの頬が一瞬だけ上がり、すぐ真面目な顔に戻った。
「当然です。模写も、魔法も、私のやり方は変わりません」
そう言いながら、横顔はどこか柔らかい。瞳が落ち着いている。
次に口を開いたのはエドガーだった。
「……ただやはり」
前を向いたまま、小さく呟く。
「ん?」
「“時間”ですよ」
エドガーは口元だけで笑った。自嘲の形だけが残る。
「魔法の威力は落ちていません。
原書の式も、頭の中では昔どおりに並ぶ。
でも——読めない。行を追うのに、昔の倍以上の時間がかかる」
ダリウスは口を挟まない。足音だけが続く。
「さっきのホブゴブリン、あなたが前で稼いでくれた時間を、私はほとんど“読解時間”に使いました」
「戦闘じゃなくて、読書にか?」
「そうですとも」
冗談の形をしていたが、声は乾いていた。
「塔は、あんな温い相手ばかりじゃない。
今の速度のままじゃ、詠唱が終わる前に——誰かが先に倒れます」
ダリウスは足元の雪を軽く蹴った。白い粉がふわりと舞う。
それを見送ってから、短く言う。
「それでも——撃てたろ」
「撃てましたね」
エドガーはあっさり認めた。
「撃てたからこそ、余計に始末が悪い。
“昔ほどじゃないけど、まだやれる”という錯覚を、老いは一番うまく作る」
ダリウスの喉が小さく鳴った。返事が出ない。
しばらく雪を踏む音だけが続く。
やがてエドガーが長く息を吐く。
「……だからこそ、簡単には返事できません」
「さっきの誘いか」
「ええ」
エドガーは足を止め、ようやくダリウスへ向き直った。
「父を置いて塔に行く、という覚悟だけじゃないんです。
“今の自分の速度で行く”という覚悟も、一緒に問われている」
瞳が揺れている。怖さと未練と、薄い高揚が混ざる。
「正直に言いましょう。今日、久しぶりに魔法を撃って——楽しかった。
体が覚えているラインに、まだギリギリ、指先が乗る感覚もあった」
ダリウスはうなずいた。喉のつかえが少し落ちる。
「でも、楽しいだけで踏み込める場所じゃありません、“ダンジョン”は」
エドガーは首を振る。小さく、確実に。
「さっきの一発、あれを何十層分も繰り返すと考えるだけで……
今は『行きたい』と『行けない』が、頭の中で喧嘩しています」
ダリウスは黙ったまま、呼吸を整える。
手袋の中で指を曲げ伸ばしした。
「……それで、答えは?」
エドガーは短く答える。
「まだ出ません」
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ただ、一つだけはっきりしました。
“諦める理由”に父を使うのは、もうやめにしないといけない」
ダリウスのまばたきが止まる。
「じゃあ——」
「……自分の足で『行かない』と決めるか。
自分の足で『行く』と決めるか。
どちらにしても、今夜ひと晩ぐらいは、もがかせてください」
ダリウスはゆっくりうなずく。
「エドガー……あぁ、もちろんだ。時間はいくらでもある」
言葉は短い。だが背中の力が抜けない。
待つ、と決めた体の立ち方だった。
枝が擦れ、風が抜ける。
夕陽が森を染め、二人の背中が並ぶ。歩き出すまでの間が、妙に長かった。
そして、その夜。
エドガーの家で起こった出来事が、十年続いた介護と迷いの意味をまとめて塗り替える。
ダリウスが「時間はいくらでもある」と信じていた答えが、ひと晩で出てしまうとも知らずに。




