表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む  作者: けんぽう。


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/41

第2話 原書写しの魔法使い

 昼下がりの陽光が、ダリウスの家の木窓をやわらかく照らしていた。

 昼食を終えたばかりの食卓には、まだ温かいスープの香りが残っている。

 そんな穏やかな午後にしては、ダリウスの顔は真剣そのものだった。


「ミラ、話を聞いてほしい」


 重く、それでいて静かな声。


 ミラはスプーンを置き、首をかしげる。


「どうしたの、ダリウス?」


 ダリウスはゆっくりと息を吐いた。


「——老齢の塔に挑もうと思う」


 ミラの表情が、ぱっと曇った。


「……それは、私のため? 危ないよ、そんなの……」


 ダリウスは、彼女の青い瞳をまっすぐ見つめた。


「いいんだ。俺はミラに救われた。だから今度は、俺が返す番だ」


 その言葉に、ミラはうつむいた。

 長い金髪が肩から滑り落ち、顔を隠す。


「ダリウス……私こそ、何も返せてないのに……」


 二人の間に、静かな沈黙が落ちた。

 時計の針の音だけが、部屋に響く。


 やがてミラは顔を上げ、目を輝かせた。


「——あっ!」


 閃いたように立ち上がると、胸を張って言った。


「じゃあ私もついて行くわ! それで解決ね!」


 勝ち誇った笑み。まるで世界の理を発見した科学者のようだった。

 ダリウスの思考は、一瞬で停止する。


「……ミラさんや」


 彼は幼子を諭すように、やさしく口を開いた。


「老齢の塔は三十五歳以上じゃないと入れないんだよ」


 ミラの無茶苦茶な“数式作戦”は、まるで雷のように唐突だった。


「塔を X と置き、ダリウスの年齢が Y だわ……

 まずは左辺の和を分解して……ここをこう……」


 ミラは黒板に、誰にも読めない謎の式を勢いよく書いていく。

 数字と文字が入り混じり、記号が飛び跳ね、もはや呪符のようだった。


 Y>35 ⇒ X解放条件

 Σ(冒険者年齢)/n ≥ 35

 ∵35≒π×10+5(※註:なぜかπが混入)

 √ミラ+ダリウス²=愛

 ゆえに、入れる(確信)


 彼女は真剣だった。瞳はキラキラと輝き、まるで世界の真理に触れているかのようだ。

 そしてチョークを掲げ、勝ち誇った。


「——つまり!

 パーティの平均値か中央値でも入れる可能性があるわ!」


 沈黙。


 ダリウスはこめかみを押さえたが、すぐにため息とともに笑った。

 ミラは一度言い出したら止まらない。

 どうせパーティは必要だ。ならば——。


「ならまずは、あいつだな」


「え? あいつ?」


 ミラが首を傾げる。


 ダリウスはどこか懐かしい遠くを見るように微笑んだ。


「あぁ。戦闘において魔法職は欠かせない。

 それに——35歳以上で、腕の立つ魔法使いとなれば……」


 そこまで言うと、ミラはぱっと顔を輝かせた。


「わかったわ!

 マジカルおじさん を探すのね!!」


「いや、そんな呼び名では……」


 ダリウスの制止は、風に消えた。



 北の国、セラフィム。

 雪国の空は白く、昼でも薄暗い。

 屋根には積もった雪がずっしりと重く、

 時折、どさっと落ちてくる音が街に響く。


 軒先にはつららが連なり、

 冷たい潮風の向こう、遠くには港が見えた。


 ミラとダリウスは首にマフラーを巻き、

 凍った道を滑らないように歩いた。


 三日間、聞き込みを続けた結果——

 ついに目的の家が見つかった。


「すみません!

 マジカルおじさんの家、知りませんか!?」


 通りがかりの老人がぎょっとして立ち止まる。


「マジ……カル……?」


 困惑というより、もはや恐怖に近い。


「はい! 実は——こうこうこうで……!」


 ミラは前のめりになり、身振り手振りで説明を始める。


 その勢いに雪国の老人は半歩後ずさり、

 ダリウスは後ろで苦笑しながら頭を下げた。


「すみません、妙な呼び方をしてしまって……

 魔法使いのエドガーという男を探しているんですが——」


 老人は「ああ、あの家だ」と奥の細い道を指差した。


 ミラは喜びのあまりスキップし、

 雪を蹴り飛ばしながら走っていった。


 ダリウスはその背中を見て、

 思わず頬を緩めた。


「……さて、エドガー。元気にしてるといいんだが」


 雪は静かに降り続けていた。



雪に埋もれた古い家が、凍った風の中にぽつんと立っていた。


 煙突から煙は上がっていない。

 窓は曇り、庭には足跡ひとつなかった。


「ここ、か……?」


 ダリウスは不安そうに門を押した。

 ぎぃ、と重たい音が鳴る。


「エドガーー? エドガー、いるか?」


 沈黙——

 雪が屋根からどさっと落ちる音だけが響く。


 しばらくして、玄関の扉がゆっくり開いた。


「……誰ですか? ——ダリウス、ですか?」


 細い影が姿を現した。

 茶色のまっすぐな長髪、顔色は悪く、頬はこけている。

 しかし、目だけは昔のまま鋭さを失っていなかった。


「久しいですね……どうぞ、中へ」


 家の中は薄暗く、わずかなランプの光が本棚を照らしていた。

 床から天井まで本、本、本。

 古い紙の匂いと、ほんのり埃の混ざった空気。


 だが、その膨大な量の本は奇妙なほど整然と並んでいた。


「……少し痩せたか?」


 ダリウスは思わず口にした。


「本の代わりに食事を削ってるんですよ」


 エドガーは肩をすくめ、どこか照れたように微笑んだ。


 ダリウスは老齢の塔のこと、

 ミラの病気のこと、

 そして仲間を集めていること——すべてを話した。


 エドガーは静かに聞いていたが、最後にふっと笑った。


「馬鹿馬鹿しい。

 私はもう45歳、あなたは40歳。

 引退して何年経ってると思ってるんです?」


 表情は冷静で、言葉は辛辣。

 しかしダリウスには分かった。


 ——その声の奥に、微かな“疼き”があった。


「頼む。エドガー、あんたの魔法が必要なんだ」


「私は……無理です。父もいますし」


 話は平行線のまま、幾度もぶつかった。


 不意に廊下で物音がした。


「飯は……まだかのう?」


 ふらりと現れたのは、エドガーの父だった。

 白髪は乱れ、目線は宙を泳ぎ、足元はおぼつかない。


「父さん、さっき昼ご飯食べたでしょう?」


 エドガーは微笑んだ。

 優しく、慣れた調子で。

 しかし、その目には深い疲労と愛情が浮かんでいた。


 老人はミラをじいっと見つめた。

 数秒後——。


「婆さん……あの世から戻ってきたのか……?」


「私はバーさんじゃないわ。ミラさんよ」


 ミラはきょとんとしながら微笑む。


 エドガーは頭を抱えたが、どこか笑ってもいた。


「……お願いです、帰っていただけませんか?」


 エドガーは静かに言った。

 その声には、呆れ、諦め、そして——孤独が滲んでいた。



 北の国セラフィム、港近くの小さな酒場。

 夜の客足はまばらで、海風が時折ドアを揺らしていた。


 ダリウスとミラは温かいスープを前に、静かに座っていた。

 カウンターではマスターがグラスを磨いている。


「……エドガー、いつからお父さんの介護を?」


 ダリウスは深刻な声で口を開いた。


「10年ほど前からだなぁ」


 マスターは淡々と答えたが、その声には同情が滲んでいた。


「養老院に入れる案もあったらしい。

 だがよ、エドガーは片親でな……

 魔法大学まで育ててくれたのは父親一人だ」


 グラスについた曇りを丁寧に拭きながら、マスターは続ける。


「きっと……最後まで一緒にいたいんだろうよ」


 ダリウスは手のひらで顔を覆い、深く息を吐いた。


「そうか……

 俺は……エドガーに悪いことをしたな」


 ミラはスプーンを置き、真っ直ぐにダリウスを見つめた。


「多分……違うよ」


「……ミラ?」


「だってね、お家の中、魔導書だらけだったもん」


 ミラは指で机をトントンと叩きながら言う。


「冒険者を諦めたんなら、全部処分しちゃうと思うんだ」


 ダリウスははっと息を呑んだ。

 あの部屋——びっしりと並ぶ魔導書。

 埃をかぶっているのに、一冊一冊が整然と並べられていた。


 諦めた人間の部屋ではなかった。


「……ミラ。お前……よく見てるな」


 ダリウスはため息を吐き、そして深く深呼吸した。


「よし……

 別のやり方で、もう一度行ってみるか」


「うん!」


 ミラは嬉しそうに笑い、スープをすくった。


 寒い夜の酒場に、小さな決意の火が灯った。



 翌朝。

 白い息が空に溶け、夜明け前の静けさをわずかに揺らした。

 セラフィムの空は淡い橙に染まり、家々の屋根の雪がきらきら反射している。


 ダリウスは玄関前に立ち、そっと扉を叩いた。

 エドガーが出てくる前から、微笑みが口元に浮かんでいた。


「また来たぞ。

 ——ちょっとダンジョンに散歩でもしないか?」


 扉が開き、寝癖のついた髪のエドガーが顔を出す。


「……バカですかあなたは?」


 エドガーは呆れたように言ったが、心の奥で動揺したのか視線を逸らした。


「それに父が——」


「私が看ておくよ!」


 ミラが後ろから飛び出し、目をきらきら輝かせた。


 そして胸を張り、ポケットからカードを取り出す。


「見て!

 物忘れスタンプカードよ!

 おじいさんがボケたタイミングでスタンプ押していくの!」


 ——沈黙。


「な……何が大丈夫なんですか?」


 エドガーは異国語を聞かされた学者のように眉をひそめた。


「い、いや……初級用ダンジョンに行くだけだ」


 ダリウスが両手を前に出し、慌てて取りなす。


「あなたって人は……昔から……」


 エドガーは深いため息をついたが、その目の奥は微妙に揺れていた。



 町を離れ、雪の積もる森へ入ると空気が一変した。

 ひんやりとした静けさ、踏みしめた雪の音、

 わずかな陽光が樹々の間を抜けて落ちている。


「久しぶりだな」


 ダリウスは胸が高鳴っていた。


「俺が前で、お前が後ろだ」


「……怪我しても知りませんよ」


 エドガーは無愛想に言い返したが、

 その頬はほんのり赤く、声もわずかに弾んでいた。


 ダリウスは横目でエドガーの手元を見る。


「とか言ってさ……

 さっきから魔導書、綺麗に拭いてたよな?」


「ほ、ほっておいてください!」


 エドガーは耳まで赤くして、慌ててローブで顔を隠した。


 二人の間に、昔と変わらない温かい空気が流れる。


 森の冷たい風が頬を掠めたが、

 その温もりは消えるどころか、ますます濃くなっていった。



 ダンジョン一階層。

 薄暗い通路に、湿った石と苔の匂いが漂っていた。

 天井からぽたりと水滴が落ちるたび、響く音が静寂を揺らす。


 その空気を裂くように——。


「ガァァアッ!!」


 ホブゴブリンが棍棒を振り下ろしてきた。

 筋肉が膨れ上がり、目は血走っている。


「っと——!」


 ダリウスは地面を蹴って後方へバックステップ。

 棍棒が着地した石床が砕け、粉塵が上がる。


 呼吸はすぐに荒くなり、胸が痛む。

 昔なら軽い一撃だった動きも、

 今は全身を使わないと避けきれない。


(くそ……老いは正直だな)


 それでも足は止まらない。


 ホブゴブリンが再び突進してくる。

 その動きを見切り、ダリウスは棍棒を腕で受け流して体勢を崩す。


「エドガー! 魔法を頼む!」


「わかりました!——30秒待ってください!」


 後方から張りのある声。


「あぁ頼むぜ……相棒!」


 ダリウスは背中越しにニヤリと笑う。


 棍棒の風切り音、足音、白い息。

 受け流し、回避し、食い止める。

 とにかく“間合い”を保ち、少しでも体力を残す。


 冷静さを欠けば即座に押し潰される。

 だがダリウスには、背後にいる“魔法使い”への信頼があった。


「エドガー! そろそろだな!!」


 ダリウスが背後へ声を張った、その瞬間だった。


 振り返ったダリウスの視界に飛び込んできたのは——

 地面に魔導書を広げ、

 這いつくばるようにして顔を近づけたり遠ざけたりしているエドガーの姿だった。


「……何してんだ、お前」


 ホブゴブリンの棍棒を剣で受け止めながら、ダリウスが悲鳴を上げる。


 だがエドガーは堂々としていた。

 むしろ「当然でしょう?」と言わんばかりの表情で振り返る。


「老眼が進んでましてね。読みにくいんです。あと——40秒頼みますよ」


「40!?」


 ダリウスは思わず棍棒の直撃を受けそうになり、慌てて身をひねる。


「待ってくれ! 俺の体力が死ぬ!!」


 だがエドガーは、やれやれと肩をすくめた。


「仕方ありませんね……秘策があります」


 そう言うと、腰のポーチから何かを取り出した。

 その所作は、まるで伝説級の聖剣を抜くかのように荘厳だった。


 ——だが出てきたのは、虫眼鏡。


 ダリウスが思わず剣を取り落としそうになる。


「虫眼鏡!?」


 エドガーは気にせず、魔導書の上に虫眼鏡を構えた。

 そして、ゆっくりと、実にゆっくりと詠唱を始める。


「フ……ォォ……ル・イ……ンフェ……ルノ……」


 発音は完璧。

 リズムも寸分の狂いもない。

 専門家が聞けば泣いて喜ぶ精度だ。


 ただし——遅い。


 あまりにも遅い。


「エドガー!! 俺、もう……! ちょっと……!!」


「老眼の詠唱には、情緒があるんですよ」


 ダリウスの視界が揺れ始める。

 息は上がり、膝が笑い、腕はしびれて剣が重い。


 そして、ようやく最後の言葉が響いた。


「——《業火の抱擁ヘルフレア・エンブレイス》!」


「ダリウス、下がってください!」


 反射的に飛び退いた直後、

 エドガーの足元から爆炎が立ち上がった。


 轟音。

 炎の奔流がホブゴブリンを包み、

 一瞬で影が灰に変わった。


 硝煙と焦げた臭いが広がる。

 炎が鎮まり、静寂が戻る。


 ダリウスは剣を杖代わりにして息を整えた。


「……相変わらず、出力だけは桁違いだな」


 エドガーは虫眼鏡を懐に戻し、淡々と言う。


「歳を取ると、無駄撃ちはできませんからね。狙った一撃で終わらせるんです」


 ダリウスは笑った。


「ったく、お前らしいよ」


 苔の匂いの奥、静まり返った通路に、

 二人の笑い声だけが響いていた。



 この世界で魔法を行使するには、まず“原書アーク・コード”と呼ばれる古代の魔導書を写し取る必要がある。


 原書は世界に数えるほどしか存在せず、その一冊一冊が魔力の源泉とされている。

 魔法使いはそこから自らの魔導書へと文様を模写し、呪文の式を再構成して使う。

 ただし、どんな天才でも写しは“写し”でしかない。

 筆のかすれ、インクの滲み、意識の乱れ——そのわずかな誤差が、発動の威力を削ぐ。


 模写の精度が八十を超える者は百人に一人。

 九十を超える者は、一国に数人。

 そして——


 ただ一人、百に届いた男がいる。


 エドガー・フェルン。

 人々は彼をこう呼ぶ。


 《原書写しの魔法使い》


 原書を開き、一字一句、筆の震えすら再現する。

 まるで古代の魔法そのものが、彼の手を通して再びこの世に呼吸しているかのようだった。



 夕暮れの森は、戦いの熱をすっかり呑み込んでいた。

 雪の上を踏むたびに、靴底が小さく軋む。

 木々の隙間からこぼれる橙の光が、二人の影を長く伸ばしている。


 ホブゴブリンとの戦闘を終え、帰路についた二人の間には、静かな安堵があった。

 息は白く、風は冷たいが、どこか心地よい沈黙だった。


 ダリウスがふと口を開く。


「変わってないな、お前。……虫眼鏡を除いて、だけどな」


 エドガーはわずかに笑みを浮かべる。


「当然です。模写も、魔法も、私のやり方は変わりません」


 そう言いながらも、その横顔には以前より柔らかいものが宿っていた。

 雪の反射に照らされた瞳が、どこか晴れている。


 次に口を開いたのは、エドガーだった。


「……ただやはり」


 前を向いたまま、小さく呟く。


「ん?」


「“時間”ですよ」


 エドガーは、自嘲するように口元だけで笑った。


「魔法の威力は落ちていません。

 原書の式も、頭の中では昔どおりに並ぶ。

 でも——読めない。行を追うのに、昔の倍以上の時間がかかる」


 ダリウスは、言葉を挟まず耳を傾ける。


「さっきのホブゴブリン、あなたが前で稼いでくれた時間を、私はほとんど“読解時間”に使いました」


「戦闘じゃなくて、読書にか?」


「そうですとも」


 乾いた冗談の形をしていたが、そこに笑いは乗らなかった。


「塔は、あんな温い相手ばかりじゃない。

 今の速度のままじゃ、詠唱が終わる前に——誰かが先に倒れます」


 ようやく、ダリウスが口を開いた。


「それでも——撃てたろ」


「撃てましたね」


 エドガーはあっさりと認める。


「撃てたからこそ、余計に始末が悪い。

 “昔ほどじゃないけど、まだやれる”という錯覚を、

 老いは一番うまく作る」


 その言い方があまりに冷静で、ダリウスは返す言葉を喉の奥で飲み込んだ。


 しばらくは、雪を踏む音だけが続く。


 やがて、エドガーはふう、と長く息を吐いた。


「……だからこそ、簡単には返事できません」


「さっきの誘いか」


「ええ」


 エドガーは足を止め、ようやくダリウスの方へと振り向く。


「父を置いて塔に行く、という覚悟だけじゃないんです。

 “今の自分の速度で行く”という覚悟も、一緒に問われている」


 その瞳には、怖さと未練と、わずかな高揚が同居していた。


「正直に言いましょう。今日、久しぶりに魔法を撃って——楽しかった。

 体が覚えているラインに、まだギリギリ、指先が乗る感覚もあった」


 その告白に、ダリウスの胸に、少しだけ救われるような熱が灯る。


「でも、楽しいだけで踏み込める場所じゃありません、“ダンジョン”は」


 エドガーは静かに首を振った。


「さっきの一発、あれを何十層分も繰り返すと考えるだけで……今は『行きたい』と『行けない』が、頭の中で喧嘩しています」


 ダリウスはしばらく黙ったまま、足元の雪を軽く蹴る。

 白い粉が、ふわりと舞い上がった。


「……それで、答えは?」


 エドガーは短く答える。


「まだ出ません」


 そして、少しだけ口元を緩めた。


「ただ、一つだけはっきりしました。

 “諦める理由”に父を使うのは、もうやめにしないといけない」


 その言葉に、ダリウスは目を見開いた。


「じゃあ——」


「……自分の足で『行かない』と決めるか。

 自分の足で『行く』と決めるか。

 どちらにしても、今夜ひと晩ぐらいは、もがかせてください」


 それは、“逃げ”ではなく、“覚悟の準備”の宣言だった。


 ダリウスは、ゆっくりとうなずく。


「エドガー……あぁ、もちろんだ。時間はいくらでもある」


 言葉は短かった。

 けれどその一言に、信頼も、待つ覚悟もすべて込められていた。


 風が吹き抜け、木々の枝がざわめく。

 夕陽が森を包み、二人の背中が並ぶ。

 その間に、かつてと同じ静かな絆が確かに流れていた。


 ——ただ、その夜。

 エドガーの家で起こった“たったひとつの出来事”が、

 十年続いた介護と迷いの意味を、まとめて塗り替えることになる。


 ダリウスが「時間はいくらでもある」と信じていたその答えが、

 ほんの一晩で出てしまうとも知らずに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ