第19話 山に試される足取り
十二階層セーフエリア。
二階層と同じく——この場所では、魔物たちの「敵意」はすっかり抜け落ち、「知恵」を得て暮らしていた。
足元には柔らかな草原が広がり、踏みしめるたびにしっとりとした感触が返ってくる。
中央には、天井まで届きそうなほどの大樹が一本、どっしりと根を張っていた。その幹のまわりを囲むようにして、煉瓦造りの家々が大小さまざまな背丈で無造作に並んでいる。
二階層の街に比べれば、人通り——いや、魔物通りは少し静かだ。
それでも、市場はきちんと開かれ、宿屋の看板には魔物文字で「営業中」とでも書いてあるのだろう、黄色い灯りが揺れている。
角の生えた魔物が荷車を押し、毛むくじゃらの魔物が屋台で串焼きを売り、甲殻に覆われた魔物が宿の前を掃き清めていた。
そんな異様でどこか牧歌的な光景の中を——四人の人間がひときわ目立ちながら進んでいた。
「とりあえず……宿に運びましょう……」
エドガーが汗だくになりながら言う。
その肩には、巨体の男が全体重を預けていた。
「あぁ……しかし重いな……」
反対側でダリウスも息を切らせながら、オットーの腕を担いでいる。
オットーは意識こそあるものの、脚が棒のように動かず、ほとんど引きずられる形だった。
そんな三人の後ろで——ひとりだけ元気な少女がぴょんぴょん跳ねていた。
「フレーフレー、ダリウス! エドガー!」
ミラは、どこで覚えたのか分からないチアリーダーのような動きで、両手をぶんぶん振り回しながら声援を送っている。
「……お前が一番元気だな……ミラ……」
「応援係も大事なんだよ? 心のポーションだから!」
「……そのポーション、筋肉には一滴も効いてない気がするんだが……」
ダリウスはぼやきつつも、どこか救われたように小さく笑った。
そうして、三人がかりの「大荷物」は、魔物の営む宿屋へと運び込まれていった。
*
一日後の夜。
月明かりが淡く草原を照らし、十二階層の空気は静かに冷え始めていた。
セーフエリアの一角にある飲み屋のテラス席では、ランプの炎が揺れ、木製のテーブルの上に温かな光の輪を作っている。
そのテーブルを、四人の影が囲んでいた。
「——乾杯!」
ダリウスが杯を掲げる。
「乾杯!」
他の三人もグラスを持ち上げ、音を立ててぶつけ合った。
オットーが、待ちきれないとばかりにグビグビと酒を流し込む。
「くぅう……なんだか久しぶりに飲んだ気がするぜ!」
「久しぶり?」
ダリウスは呆れたように眉をひそめる。
「毎日飲んでるだろ、お前」
エドガーは杯を揺らし、琥珀色の液体を眺めながら肩をすくめた。
「アルコールで脳がやられたくなかったら、一日二杯までですよ。
……もっとも、オットーの場合はすでに手遅れになっているかもしれませんが」
「誰が手遅れだ! 誰が!」
オットーが即座に噛みつき、ミラがくすっと笑う。
「それよりさ、オットー。試練ってどうだったの? 何かと戦うとか?」
興味半分、心配半分といった顔で首をかしげる。
オットーは、困ったように頭をかいた。
「それがな……覚えてないんだよ……。なんか、めちゃくちゃいい酒を飲んだ気がするんだが」
そう言いながらも、喉の奥に、説明できないざらつきが残っている気がした。
楽しい酒のあとに残る余韻とは、少し違う何かだ。
ダリウスは杯をそっと置き、表情を引き締める。
「……まさか、試練の間の記憶を食われたんじゃないか?」
エドガーは顎に手を当て、推理するように目を細めた。
「確かに……あの衰弱具合からして、相当な試練を受けたはずです。それなのに内容を覚えていない。妙ですね……」
ミラはひゅっと息を呑み、肩をすくめる。
「失敗したら今までの人生の記憶、成功しても……試練の記憶が食べられちゃうってこと?」
ダリウスは腕を組み、月を仰ぐように視線を上げた。
「どちらにせよ、塔の“栄養”になるってわけか。よくできているというか、なんというか……性格が悪いな」
「まぁ俺もよく分からねぇがよ……」
オットーは言いながら、杯を見つめた。
しばらく黙っていたが、やがて口元を緩める。
「なぜかわからんが——お前たちと酒を飲めて、心底嬉しいぜ……」
それは、飾り気のない、本音の言葉だった。
エドガーはふっと笑みを浮かべ、杯を軽く掲げて見せる。
「もう酔いましたか? まだ一杯目ですよ」
「ちっとも酔ってねぇよ!」
オットーは照れ隠しのように笑い、もう一口ぐいっと飲み干した。
ミラも笑い、ダリウスも肩の力を抜いて杯を傾ける。
魔物たちのざわめきと、笑い声と、木のグラスのぶつかり合う音——。
十二階層の穏やかな夜は、静かに、更けていった。
*
翌日。
ダリウスたちは市場で食料やポーションを買い込み、
武器や防具のメンテナンスを済ませた。
刃を研ぎ、革紐を締め直し、背負う荷物の重さを一つひとつ確かめていく。
それぞれの準備が整ったころ——四人は、再びダンジョンの入口へと向き直る。
次の階層へ。
老いた身体で、なお前へ進もうとする者たちの背に、セーフエリアの風がそっと吹いた。
*
十三階層。
視界いっぱいに、空が広がっていた。
そこは眩しいほどの青空と、柔らかな草原だった。
足元の草は膝まで届きそうなくらい伸びていて、風が吹くたび、緑の波がさらさらと揺れていく。
そして——目の前には、山がそびえていた。
雪はかぶっていないが、見上げても頂上が遠い、二千メートル級はある険しい山脈。
切り立った岩肌と、ところどころに貼りつくような森。山の斜面には、獣道のような細い道が、雲の中へと続いている。
「うわーっ、気持ちいいね!」
ミラは両手を広げ、草原をぴょんぴょん跳ねながら進んでいく。
金髪が風に流れ、スカートの裾がふわりと舞う。洞窟続きだったせいか、その嬉しさは限界突破しているらしい。
そんな背中を、ダリウスは半眼で見つめた。
「……一旦、引き返すか」
「えっ?」
ミラが勢いよく振り返る。
エドガーは早々にため息をついた。
「……そうですね」
「だな」
オットーも頭をかきながら、山を見上げる。
「ちょっと待って!」
ミラは草をかき分けて戻ってくると、三人を順番に睨んだ。
「なんでなんで!? あんなに綺麗なところなのに!」
ダリウスは、まるで「ここからが本題だ」とでも言うように、苦笑しながら肩をすくめた。
「山だから、だよ」
「???」
*
十二階層・セーフエリアの市場。
煉瓦造りの家々の間に屋台が立ち並び、魔物たちが品物を売り買いしている。
干し肉、保存食、ロープ、登山用のピッケルに見える鉄具……。
それらを横目に見ながら、ミラは頬をぷくっと膨らませていた。
「なんで戻ったの!? すごく綺麗なところだったよ?」
不貞腐れた声に、ダリウスはまたひとつため息を落とす。
「あぁ、綺麗だったな。けどあれは“登頂してください”って山の顔だ」
エドガーは市場全体を見回しながら、冷静に言葉を継いだ。
「装備を軽くしないといけません。
魔物に遭遇した時、『息が上がっていて動けません』では——その場で終わりですよ」
オットーも腕を組み、空を仰ぐ。
「軽くしすぎるのもいけねぇしな。
それに山は天候も変わりやすい。晴れてるからって油断して登って、途中で吹雪かれた日には……地獄だぜ?」
焚き火のない、凍える夜。足を取られる傾斜。視界を奪う雪。
オットーの声には、現役時代の経験からくる重みがあった。
ダリウスは真剣な表情で、ミラへと視線を戻す。
「魔物と出くわした時も、基本的に“あっちが上”を取ってる可能性が高い。
高所から石を落とされるだけで、こっちはひとたまりもない」
「……」
ミラは、さっきまでの“遊覧気分”が少しずつ薄れていくのを自覚した。
ダリウスはそんな彼女の表情を見て、ふっと笑みを和らげる。
「まぁ、フィールドに合わせないと大変だってことだよ。
“綺麗だからそのまま突っ込んだ”って理由で、足をすくわれた冒険者は山ほどいる」
「山だけに、ですね」
エドガーがさらっと付け足し、ダリウスが「今それ言うか」と肩を落とす。
ミラは少しだけ考えてから、観念したようにうなずいた。
「……じゃあ、ちゃんと“登山用の支度”してからだね?」
「あぁ」
ダリウスはうなずき、背負っていた荷を一度下ろす。
余計な荷物を外し、必要な物資のリストを頭の中で組み直す。
「ここから先は、一歩間違えれば命を落とす。
だからこそ——準備で、半分はもう決まってるんだ」
そう言って、ダリウスは市場の奥へと歩き出した。
ミラはその背中を追いかけながら、自分の荷物の重さをもう一度確かめた。
さっきまで“ピクニック”みたいに思えていたこの冒険が、急に本物の山登りに変わった気がした。




