第19話 山に試される足取り
十二階層セーフエリア。
二階層と同じく、この場所では魔物たちの空気が違っていた。視線が刺さらない。近づいても牙を見せない。手は武器ではなく荷車や包みを握っている。
足元には柔らかな草原が広がる。踏むと湿り気が返り、靴底が少し沈む。
中央には大樹が一本、根を張っていた。幹は太く、触れれば手のひらがかすかに濡れる。
その周りに煉瓦造りの家が並ぶ。背丈はばらばらで、壁の色も統一されていない。窓の形も不揃いだ。
二階層の街に比べると魔物の数は少ない。
それでも市場は開いている。宿屋の看板は読めないが、入口の灯りが揺れていた。
角の生えた魔物が荷車を押し、毛むくじゃらの魔物が串焼きを返し、甲殻の魔物が宿の前を掃いている。箒の音が草に擦れて小さく鳴る。
その中を四人の人間が進む。
背丈も服も、歩き方も目立つ。魔物たちの視線が集まり、すぐに逸れる。警戒ではなく、珍しさに近い。
「とりあえず……宿に運びましょう……」
エドガーが汗だくで言う。声を出すたびに喉が鳴った。
肩には巨体の男が全体重を預けている。エドガーの肩が沈み、足が一段遅れる。
「あぁ……しかし重いな……」
反対側でダリウスも息を切らせながら、オットーの腕を担いでいる。
オットーは目を開けているが、脚が棒のように動かない。靴底が草を引きずり、跡が残る。
三人の後ろで、ひとりだけ跳ねている。
「フレーフレー、ダリウス! エドガー!」
ミラは両手をぶんぶん振り回しながら声援を送っている。動きがやけに揃っていて、どこで覚えたのか分からない。
「……お前が一番元気だな……ミラ……」
「応援係も大事なんだよ? 心のポーションだから!」
「……そのポーション、筋肉には一滴も効いてない気がするんだが……」
ダリウスはぼやきながらも、口元が少し緩んだ。息を吐き直し、もう一歩踏み出す。
そうして三人がかりの「大荷物」は、魔物の営む宿屋へ運び込まれていった。
扉の前で立ち止まった魔物が道を開け、無言で中を指した。灯りの匂いがふっと強くなる。
*
一日後の夜。
草原に月明かりが落ち、空気が冷え始めていた。
飲み屋のテラス席。ランプの炎が揺れ、木のテーブルの上に小さな明るさが丸くできる。
その輪を四人が囲んでいた。
「——乾杯!」
ダリウスが杯を掲げる。
「乾杯!」
他の三人もグラスを持ち上げ、音を立ててぶつけ合った。
オットーが待ちきれないとばかりに酒を流し込む。喉が鳴り、肩が一度落ちる。
「くぅう……なんだか久しぶりに飲んだ気がするぜ!」
「久しぶり?」
ダリウスは呆れたように眉をひそめる。
「毎日飲んでるだろ、お前」
エドガーは杯を揺らし、琥珀色の液体を眺めながら肩をすくめた。
「アルコールで脳がやられたくなかったら、一日二杯までですよ。
……もっとも、オットーの場合はすでに手遅れになっているかもしれませんが」
「誰が手遅れだ! 誰が!」
オットーが即座に噛みつき、ミラがくすっと笑う。笑い声が短く弾む。
「それよりさ、 オットー。試練ってどうだったの? 何かと戦うとか?」
ミラは首をかしげる。眉が少し上がり、口元が強がりみたいに持ち上がる。
オットーは困ったように頭をかいた。指が耳の後ろを何度も掻く。
「それがな……覚えてないんだよ……。なんか、めちゃくちゃいい酒を飲んだ気がするんだが」
言い終えたあと、喉の奥を一度鳴らした。
杯を回す指が止まり、縁を親指でなぞる。笑いが続かない。
ダリウスは杯をそっと置き、表情を引き締める。
「……まさか、試練の間の記憶を食われたんじゃないか?」
エドガーは顎に手を当て、推理するように目を細めた。
「確かに……あの衰弱具合からして、相当な試練を受けたはずです。それなのに内容を覚えていない。妙ですね……」
ミラはひゅっと息を呑み、肩をすくめる。胸元のネックレスに指が触れて止まる。
「失敗したら今までの人生の記憶、成功しても……試練の記憶が食べられちゃうってこと?」
ダリウスは腕を組み、月の方へ視線を上げた。喉仏が上下する。
「どちらにせよ、塔の“栄養”になるってわけか。よくできているというか、なんというか……性格が悪いな」
「まぁ俺もよく分からねぇがよ……」
オットーは杯を見つめた。しばらく黙り、やがて口元を緩める。肩の力が抜けた。
「なぜかわからんが——お前たちと酒を飲めて、 心底嬉しいぜ……」
声が落ち着いていた。いつもの大声じゃない。
エドガーはふっと笑みを浮かべ、杯を軽く掲げて見せる。
「もう酔いましたか? まだ一杯目ですよ」
「ちっとも酔ってねぇよ!」
オットーは照れ隠しのように笑い、もう一口ぐいっと飲み干した。
ミラも笑い、ダリウスも肩の力を抜いて杯を傾ける。
魔物たちのざわめきが遠くで続き、木のグラスが当たる音が混ざる。ランプの炎が一度大きく揺れた。
*
翌日。
四人は市場で食料やポーションを買い込んだ。
刃を研ぎ、革紐を締め直し、荷の重さを確かめる。肩にかけて、下ろして、また背負う。息の上がり方がそれぞれ違う。
準備が整ったころ、四人は入口の方へ体を向けた。
ミラは一度だけ振り返って宿屋の灯りを見たが、すぐ前を向いた。
次の階層へ。
*
十三階層。
足を踏み出した瞬間、視界が明るくなった。
空が広い。草が長い。風が通る。洞窟の匂いが薄れていく。
草は膝に届きそうで、歩くたびに濡れた先がすねを撫でる。
風が吹くと草が倒れ、また戻る。さらさら音が揃って動く。
前方に山がそびえていた。
雪はないが、頂は遠い。岩肌が切り立ち、森が貼りつくように続いている。斜面には獣道みたいな細い道が雲の中へ伸びていた。
「うわーっ、 気持ちいいね!」
ミラは両手を広げ、草原をぴょんぴょん跳ねながら進んでいく。金髪が流れ、スカートの裾が舞う。
足取りが軽すぎて、石につまずいても笑って誤魔化す。
ダリウスは半眼でその背中を見つめた。呼吸が一度長くなる。
「……一旦、 引き返すか」
「えっ?」
ミラが勢いよく振り返る。草がはね、頬に当たる。
エドガーは早々にため息をついた。
「……そうですね」
「だな」
オットーは頭をかきながら山を見上げる。首の後ろが赤くなっている。
「ちょっと待って!」
ミラは草をかき分けて戻ってくると、三人を順番に睨んだ。鼻が膨らむ。
「なんでなんで!? あんなに綺麗なところなのに!」
ダリウスは肩をすくめた。笑いながらも、目は山を外さない。
「山だから、 だよ」
「???」
*
十二階層・セーフエリアの市場。
煉瓦造りの家々の間に屋台が立ち、魔物たちが品物を売り買いしている。
干し肉。保存食。ロープ。鉄具。ピッケルに見えるものもある。
ミラは頬をぷくっと膨らませたまま歩いていた。
「なんで戻ったの!? すごく綺麗なところだったよ?」
不貞腐れた声。
ダリウスは歩きながら息を吐き、言葉を選ばず返す。
「あぁ、 綺麗だったな。けどあれは“登頂してください”って山の顔だ」
エドガーは市場全体を見回しながら言葉を継いだ。指先が道具の値札へ伸びて止まる。
「装備を軽くしないといけません。
魔物に遭遇した時、 『息が上がっていて動けません』では——その場で終わりですよ」
オットーも腕を組み、空を仰ぐ。喉が鳴る。
「軽くしすぎるのもいけねぇしな。
それに山は天候も変わりやすい。晴れてるからって油断して登って、 途中で吹雪かれた日には……地獄だぜ?」
言い終えたあと、オットーは舌打ちしそうになって飲み込んだ。
握った拳が少しだけ強くなる。斜面で足を取られた時の体の感覚が戻ったのか、肩が固くなる。
ダリウスは真剣な表情でミラへ視線を戻す。
「魔物と出くわした時も、 基本的に“あっちが上”を取ってる可能性が高い。
高所から石を落とされるだけで、 こっちはひとたまりもない」
「……」
ミラの口が閉じる。
さっきまで跳ねていた足が止まり、荷紐を握り直す。指がきゅっと締まる。
ダリウスはその変化を見て、笑みを和らげた。
「まぁ、 フィールドに合わせないと大変だってことだよ。
“綺麗だからそのまま突っ込んだ”って理由で、 足をすくわれた冒険者は山ほどいる」
「山だけに、 ですね」
エドガーがさらっと付け足し、ダリウスが肩を落とす。
オットーが小さく吹き、ミラが一瞬だけ口角を上げた。
ミラは少し考え、観念したようにうなずいた。
「……じゃあ、 ちゃんと“登山用の支度”してからだね?」
「あぁ」
ダリウスはうなずき、背負っていた荷を一度下ろす。
紐をほどき、荷を分け、必要なものを頭の中で並べ替える。手が止まらない。
「ここから先は、 一歩間違えれば命を落とす。
だからこそ——準備で、 半分はもう決まってるんだ」
そう言って、ダリウスは市場の奥へ歩き出した。
ミラはその背中を追いかけながら、自分の荷物の重さを持ち直した。肩に食い込む感触がさっきより重く感じる。




