表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
塔の頂きへ  作者: けんぽう。


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/82

第18話 酒樽の牢獄


 ——初日。


 どれくらい時間が経ったのかは分からない。

 時計も窓もなく、煉瓦と酒樽とテーブルしかない空間で、オットーは大きく息を吐いた。


「へへ……たった二週間だ」


 自分に言い聞かせるように笑う。

 声はやけに乾いていた。


「落ち着いて深呼吸すりゃ……耐えられる……」


 吸えば、酒の匂いが肺の奥まで入り込んでくる。

 吐いても、喉の奥に残った幻の味が、もう一度蘇る。


 それでもオットーは壁に背を預け、目を閉じた。


(俺は……変わったんだ。前みたいに、酒に全部持ってかれるような真似は、もうしねぇ……)


 そう呟きながら、ゆっくり、ゆっくりと呼吸を数える。

 一回、二回、三回——。


 そのたびに、樽の中で液体が揺れる音が聞こえた気がした。



 ——三日後。


 何度、眠ろうとして目を閉じただろう。

 どれだけ体を横たえても、脳だけがギラついている。


 オットーの寝不足は、とうに限界を超えていた。

 眠れてもせいぜい二時間。浅い夢にうなされ、すぐに目が覚める。


 目の下には濃い隈。

 口の中はずっと乾いているのに、唾を飲むたび、あの酒の残り香を思い出す。


「大丈夫だ……」


 オットーは、ふらつく脚で立ち上がる。

 樽に背を向けて、煉瓦の壁に額を押し付けた。


「大丈夫だ……俺は変わったんだ……昔のようにはならねぇ……」


 声に力はない。

 それでも、言葉にしなければ、今すぐグラスに手を伸ばしてしまいそうだった。


 初日から続く手の震えは、もう隠しようがないほど大きくなっていた。

 指先が勝手に震え、空を掴むみたいに何度も開いては握る。


 胸は絶えず早鐘を打っている。

 焦燥感が、じわじわと皮膚の下を這い回っているようだった。


 頭では分かっている。

 理解もしている。

 それでも——。


 ほんの一瞬でも、あのグラスに口をつける自分の姿が、あまりにも鮮明に想像できてしまう。


 オットーは歯を食いしばり、震える両手を自分の胸に押し当てた。


「……変わったんだ……っ」



 ——七日後。


 煉瓦の部屋を、オットーはぐるぐると歩き回っていた。

 まるで檻の中の獣だ。


 時計がないのに分かる。

 たぶん、もう一週間が過ぎた。


 足音が、酒樽と壁のあいだに乾いた音で跳ね返る。


「あんな美味い酒……飲んだことがなかったな……」


 誰に聞かせるでもなく、ぶつぶつと呟きが漏れる。


「あの酒……もう一度飲みたいな……」


 唾液が、じわりと口の中に溜まる。

 舌の上に、あの甘みと酸味が、はっきりと蘇る。


「飲みたい……飲みたい飲みたい飲みたい飲みたい……!」


 早歩きが、次第に早足になる。

 肩で息をしながら、樽の列の前を何度も往復する。


 頭の中は、もう“あの一杯”のことでいっぱいだった。

 樽の木目、グラスの重み、液体の色。

 それらが、記憶から何度も何度も再生される。


 オットーは、不意に足を止めた。


 テーブルの上には、空のグラス。

 指先が、勝手にその縁へ伸びていく。


「……っ」


 掴んだ瞬間、視界が揺れた。

 喉の奥から、こみ上げるものがある。


「……ぉ……おぇっ……!」


 次の瞬間、胃が反乱を起こした。


 オットーはテーブルから離れ、煉瓦の隅に膝をつく。

 何も食べていないはずなのに、胃液だけが熱く喉を焼いた。


 えずくたびに、背中の筋肉が痛む。

 額から汗がぼたぼたと床に落ちる。


 吐き終えたあとも、胃はきしむように痛み続けた。

 視界の端で、樽の影が揺れている。


(……飲めば……楽になるのか……?)


 そんな声が、脳のどこかで囁く。


 オットーは、荒い呼吸の合間に、かすれ声で呟いた。


「……だったら……なおさら……飲めねぇだろうが……」


 震える手で口元を拭い、うつ伏せに崩れながら、歯を食いしばる。


 煉瓦の部屋には、樽の香りと、胃酸の酸っぱい匂いと、オットーの荒い息だけが残った。



 ——十日後。


「……一杯だけなら、いいよな」


 オットーは、床に座り込んだまま呟いた。

 声はかすれているのに、言葉だけははっきりしていた。


「少し記憶を持っていかれるだけで……アレを飲めるんだ……」


 目の前にはテーブル。

 その上には、いつも通り空っぽのグラス。

 すぐそばには——あの葡萄酒の樽。


 手を伸ばす。

 指先が、樽の栓に触れた。


 カタカタカタ……。


 震えが、止まらない。

 栓を抜こうとしても、うまく力が入らず、何度も滑った。


「……っ」


 歯を食いしばり、両手で栓を掴む。

 ぐい、と力を込めると、ようやく抜けた。


 とたんに——。


 ふわり。


 あの香りが、鼻先を撫でた。

 ただ栓を抜いただけなのに、頭の芯まで痺れるような感覚が走る。


「……たまんねぇな……」


 自嘲とも呻きともつかない声を漏らしながら、グラスをつかむ。

 注ごうとするが、手が震えて液面がざばざばと踊る。


 とく……とく……とくとく……。


 鼻先に近づける。

 一息吸い込む。


 喉が、勝手に鳴った。


 ごくり——。




 ——飛び起きた。


「……っ!! ……はっ!!!??」


 オットーは荒い息を吐きながら、ぐしゃぐしゃの寝床の上で上体を起こした。

 視界に飛び込んでくるのは、やっぱり煉瓦と酒樽とテーブルだけの空間。


 手には、何も持っていない。

 グラスも、酒も——口の中の味も、ない。


「……夢か……」


 呟いた声は、ひどくかすれていた。


 ここ数日、毎晩この夢を見ていた。

 グラスに注ぎ、口をつけるところまで行って——飛び起きる。

 それを何度も、何度も繰り返す。


 眠った気がしない。

 睡眠時間はとうに三十分を切っていた。


 汗は止まらず、シャツはいつも肌に張り付いている。

 瞳孔は開きっぱなしで、視界の端がにじんでいた。

 手の震えは、とうの昔に全身へ広がっている。


 オットーは、ぼさぼさの髪をかきむしった。


「……くそ……」


 息を吐くと、酒の匂いを嗅いだような錯覚すら覚える。

 ここには何もないはずなのに、脳が勝手に“香り”を補ってくる。


(ダメだな……こりゃ……)


 笑おうとしたが、喉から出たのは笑いとも咳ともつかない音だった。



 ——十三日後。


 オットーは、床に倒れ込んだまま動けなくなっていた。


 顔はやつれきって、頬はこけ、目の下には隈が深く刻まれている。

 全身汗でびっしょりだというのに、体の芯は寒気に震えていた。


 手足に力が入らない。

 もう、立ち上がることすらできなかった。


「……やったぜ……」


 乾いた唇が、かすかに動く。


「試練とやらも……あと一日……」


 声はほとんど息になっていた。


「……俺の勝ちだ……馬鹿野郎が……」


 笑ったつもりなのか、口の端だけがぴくりと上がる。


(あと一日……あと一日耐えりゃ……)


 思考が、ふらつく。

 まともに考えようとしても、すぐに“酒”の記憶に乗っ取られる。


 それでも——“あと一日”という数字だけが、辛うじて彼を現実へつなぎ止めていた。


「……勝ちだ……勝ち、だ……」


 オットーは、ふらりと上体を起こした。


 膝が笑い、肩が揺れる。

 それでもどうにか四つん這いになり、テーブルの脚へ手を伸ばす。

 爪が木の表面を引っ掻き、ようやく縁を掴んで身体を引き上げた。


 テーブルの上には——いつものグラス。

 視界が揺れ、輪郭が二重にも三重にもぶれて見える。


「……試練の……達成に……」


 オットーは笑った。

 脂汗と涙とが混ざった顔で。


「勝利の……美酒だ……」


 立ち上がろうとするが、足がもつれてテーブルに肩をぶつけた。

 それでも倒れない。

 倒れたら、もう二度と立ち上がれない気がした。


 樽へ近づく。

 グラスを持つ手が震えて、ガチガチとガラスと歯が触れ合う。


 栓を抜く。

 何度も何度も空振りしながら、やっとのことで。


 とく……とく……。


 琥珀色の液体が、グラスの中に満ちていく。


 鼻先をくすぐる芳香は、あの日と何も変わらない。

 いや、今は、七割増しに甘く、三倍は魅力的に感じられた。


 オットーはふらつく足で一歩下がり、グラスを胸の前まで持ち上げる。


「……これで……終わりだ……」


 口元へ近づける。

 ガラスが唇に触れる——その、瞬間。


 死んだように濁っていた瞳の奥に、かすかな光が宿った。


 オットーはグラスを見つめた。

 そこに揺れる酒の色を、じっと、じっと見つめた。


 俯き——


 次の瞬間。


 ガシャンッ!!


 握りしめた手に力を込め、そのままグラスを床へ叩きつけた。


「だめだ……」


 血の混じった声が漏れる。

 割れた破片が足元に散り、酒が床を濡らした。


「だめだ……だめだ……!」


 オットーは歯をむき出しにして叫んだ。


「美味い酒……こんな酒全然うまくねぇえええぞおおおお、クソ野郎!!!!」


 喉が裂けるほどの怒声だった。

 酒樽に、煉瓦の壁に、この見えない“塔”そのものに向けて。


 足元の酒を、靴でぐちゃりと踏み潰す。


「本当に……本当に……美味い酒ってのはなぁ……!」


 オットーの脳裏に、いくつもの光景がよぎる。


 ダリウスの淹れるコーヒーの向こうで飲んだ、安酒の味。

 ギルドの片隅で、クエスト成功のあとに交わしたジョッキ。

 若い頃、初めて難敵を倒した夜の、むせ返るような酒場の匂い。


「難敵を倒したあと……仲間と飲む酒だぁあああ!!!」


 まっすぐ立っているはずなのに、身体はふらつく。

 それでも、叫びだけは真っ直ぐだった。


「本当に沁みる酒ってのはなぁ……!」


 脳裏に浮かぶ、墓の前で飲んだ酒。

 失った仲間の名前を呼びながら、涙と一緒に喉へ流し込んだ酒。


「仲間がおっ死んだ時だぁあああ!!!」


 涙と汗が混ざって、顔中を濡らす。

 鼻水も流れて、もう見た目はぐちゃぐちゃだった。


「本当に楽しい酒ってのはなぁ……!」


 最近の記憶。

 四十を過ぎた身体で、もう無茶なんかしねぇと言いながら——

 それでも再びダンジョンに潜ることを決めた日。


 不安と高揚と、懐かしい恐怖と。

 そんなものを全部抱えながら、乾杯した夜。


「四十超えてダンジョン潜った時だぁああああ!!!」


 最後の叫びは、もはや言葉になっていなかった。

 それでも、魂はすべてそこに込められていた。


 酒樽が静まり返る。

 塔も、何も言わない。


 床には割れたグラスと、こぼれた酒。


 息は荒く、身体は震え続けている。

 だが——その瞳だけは、はっきりと前を見据えていた。



 ——十四日目。


 震えは止まらなかった。


 全身が小刻みに揺れ、歯がカチカチと鳴る。

 額からは滲むどころか、流れるように汗が滴り続けていた。


 熱は高く、呼吸は浅く早い。

 ひゅう、ひゅう、と肺が擦れる音が耳の内側に響く。


 時間感覚は、もう完全に壊れていた。


(何日目だ……? 俺は……何をしてる……?)


 問いかけても、答えは霧の中に消えていく。


 だが——


 目の奥だけは、曇らなかった。


 視線はまっすぐ前へ。

 樽でも、酒でもなく、その先にいる“誰か”を見据えるように。


(……負けねぇ。ここまで来て……今さら、負けてたまるか)


 その瞬間。


『おめでとう。合格だ』


 あの声が、どこからともなく降ってきた。


 次の刹那——


 オットーの身体が眩い光に包まれる。


 足元の煉瓦が遠ざかり、酒樽も、テーブルも、白い光の向こうに溶けていく。



「——オットー!?」


 真っ白な儀式の間。

 台座の前で待っていたダリウスが、目を見開いた。


 光の粒が集まり、形を取り——


 ドサッ、と。


 オットーが床に崩れ落ちた。


「もう帰ってきたのか……!? どうした、オットー!!」


 ダリウスは慌てて駆け寄り、その巨体を抱え起こす。


 熱い。

 信じられないほどの熱が、腕を焦がすようだった。


 ミラもすぐに隣へ膝をつき、心配そうに覗き込む。

 エドガーは震える指で脈をとり、瞳孔の反応を確かめた。


「生きてます。……ギリギリですが」


 その言葉に、ダリウスは大きく息を吐いた。


「オットー!」


 呼びかけると、うつろだったまぶたが、かすかに動いた。


「……へ、へっ……」


 乾いた笑いが漏れる。


「やったぜ……お前ら……」


 かすれた声。

 それでも、その口調はいつものオットーだった。


「とりあえず……乾杯でも……しようや……」


 そこまで言うと、糸が切れたように、オットーの意識は途切れた。


「オットー!!」


 ミラが慌てて回復魔法の詠唱に入り、エドガーはポーションを取り出す。

 ダリウスはその巨体をしっかりと抱え、床へそっと寝かせた。


 そのとき——


 ゴウン……。


 低く重たい音が、白い空間に響いた。


 四人の視線が、一斉に正面へ向く。


 いつの間にか現れていた巨大な扉が、

 ゆっくりと、内側へ開いていく。


 四十を越えた中年冒険者たちの旅路は——

 仲間の命を削った試練を越え、

 新たに開いた扉の向こうへと続いていくのだった。



—————————————————————————————————————

第一の試練、なんとか越えました!オットー頑張りました!

もし「面白かった」「続きが気になる」と思ってもらえたら、

評価や感想コメントをいただけると本当に嬉しいです。

—————————————————————————————————————

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ