第18話 酒樽の牢獄
——初日。
どれくらい時間が経ったのかは分からない。
時計も窓もなく、煉瓦と酒樽とテーブルしかない空間で、オットーは大きく息を吐いた。
「へへ……たった二週間だ」
自分に言い聞かせるように笑う。
声はやけに乾いていた。
「落ち着いて深呼吸すりゃ……耐えられる……」
吸えば、酒の匂いが肺の奥まで入り込んでくる。
吐いても、喉の奥に残った幻の味が、もう一度蘇る。
それでもオットーは壁に背を預け、目を閉じた。
(俺は……変わったんだ。前みたいに、酒に全部持ってかれるような真似は、もうしねぇ……)
そう呟きながら、ゆっくり、ゆっくりと呼吸を数える。
一回、二回、三回——。
そのたびに、樽の中で液体が揺れる音が聞こえた気がした。
*
——三日後。
何度、眠ろうとして目を閉じただろう。
どれだけ体を横たえても、脳だけがギラついている。
オットーの寝不足は、とうに限界を超えていた。
眠れてもせいぜい二時間。浅い夢にうなされ、すぐに目が覚める。
目の下には濃い隈。
口の中はずっと乾いているのに、唾を飲むたび、あの酒の残り香を思い出す。
「大丈夫だ……」
オットーは、ふらつく脚で立ち上がる。
樽に背を向けて、煉瓦の壁に額を押し付けた。
「大丈夫だ……俺は変わったんだ……昔のようにはならねぇ……」
声に力はない。
それでも、言葉にしなければ、今すぐグラスに手を伸ばしてしまいそうだった。
初日から続く手の震えは、もう隠しようがないほど大きくなっていた。
指先が勝手に震え、空を掴むみたいに何度も開いては握る。
胸は絶えず早鐘を打っている。
焦燥感が、じわじわと皮膚の下を這い回っているようだった。
頭では分かっている。
理解もしている。
それでも——。
ほんの一瞬でも、あのグラスに口をつける自分の姿が、あまりにも鮮明に想像できてしまう。
オットーは歯を食いしばり、震える両手を自分の胸に押し当てた。
「……変わったんだ……っ」
*
——七日後。
煉瓦の部屋を、オットーはぐるぐると歩き回っていた。
まるで檻の中の獣だ。
時計がないのに分かる。
たぶん、もう一週間が過ぎた。
足音が、酒樽と壁のあいだに乾いた音で跳ね返る。
「あんな美味い酒……飲んだことがなかったな……」
誰に聞かせるでもなく、ぶつぶつと呟きが漏れる。
「あの酒……もう一度飲みたいな……」
唾液が、じわりと口の中に溜まる。
舌の上に、あの甘みと酸味が、はっきりと蘇る。
「飲みたい……飲みたい飲みたい飲みたい飲みたい……!」
早歩きが、次第に早足になる。
肩で息をしながら、樽の列の前を何度も往復する。
頭の中は、もう“あの一杯”のことでいっぱいだった。
樽の木目、グラスの重み、液体の色。
それらが、記憶から何度も何度も再生される。
オットーは、不意に足を止めた。
テーブルの上には、空のグラス。
指先が、勝手にその縁へ伸びていく。
「……っ」
掴んだ瞬間、視界が揺れた。
喉の奥から、こみ上げるものがある。
「……ぉ……おぇっ……!」
次の瞬間、胃が反乱を起こした。
オットーはテーブルから離れ、煉瓦の隅に膝をつく。
何も食べていないはずなのに、胃液だけが熱く喉を焼いた。
えずくたびに、背中の筋肉が痛む。
額から汗がぼたぼたと床に落ちる。
吐き終えたあとも、胃はきしむように痛み続けた。
視界の端で、樽の影が揺れている。
(……飲めば……楽になるのか……?)
そんな声が、脳のどこかで囁く。
オットーは、荒い呼吸の合間に、かすれ声で呟いた。
「……だったら……なおさら……飲めねぇだろうが……」
震える手で口元を拭い、うつ伏せに崩れながら、歯を食いしばる。
煉瓦の部屋には、樽の香りと、胃酸の酸っぱい匂いと、オットーの荒い息だけが残った。
*
——十日後。
「……一杯だけなら、いいよな」
オットーは、床に座り込んだまま呟いた。
声はかすれているのに、言葉だけははっきりしていた。
「少し記憶を持っていかれるだけで……アレを飲めるんだ……」
目の前にはテーブル。
その上には、いつも通り空っぽのグラス。
すぐそばには——あの葡萄酒の樽。
手を伸ばす。
指先が、樽の栓に触れた。
カタカタカタ……。
震えが、止まらない。
栓を抜こうとしても、うまく力が入らず、何度も滑った。
「……っ」
歯を食いしばり、両手で栓を掴む。
ぐい、と力を込めると、ようやく抜けた。
とたんに——。
ふわり。
あの香りが、鼻先を撫でた。
ただ栓を抜いただけなのに、頭の芯まで痺れるような感覚が走る。
「……たまんねぇな……」
自嘲とも呻きともつかない声を漏らしながら、グラスをつかむ。
注ごうとするが、手が震えて液面がざばざばと踊る。
とく……とく……とくとく……。
鼻先に近づける。
一息吸い込む。
喉が、勝手に鳴った。
ごくり——。
——飛び起きた。
「……っ!! ……はっ!!!??」
オットーは荒い息を吐きながら、ぐしゃぐしゃの寝床の上で上体を起こした。
視界に飛び込んでくるのは、やっぱり煉瓦と酒樽とテーブルだけの空間。
手には、何も持っていない。
グラスも、酒も——口の中の味も、ない。
「……夢か……」
呟いた声は、ひどくかすれていた。
ここ数日、毎晩この夢を見ていた。
グラスに注ぎ、口をつけるところまで行って——飛び起きる。
それを何度も、何度も繰り返す。
眠った気がしない。
睡眠時間はとうに三十分を切っていた。
汗は止まらず、シャツはいつも肌に張り付いている。
瞳孔は開きっぱなしで、視界の端がにじんでいた。
手の震えは、とうの昔に全身へ広がっている。
オットーは、ぼさぼさの髪をかきむしった。
「……くそ……」
息を吐くと、酒の匂いを嗅いだような錯覚すら覚える。
ここには何もないはずなのに、脳が勝手に“香り”を補ってくる。
(ダメだな……こりゃ……)
笑おうとしたが、喉から出たのは笑いとも咳ともつかない音だった。
*
——十三日後。
オットーは、床に倒れ込んだまま動けなくなっていた。
顔はやつれきって、頬はこけ、目の下には隈が深く刻まれている。
全身汗でびっしょりだというのに、体の芯は寒気に震えていた。
手足に力が入らない。
もう、立ち上がることすらできなかった。
「……やったぜ……」
乾いた唇が、かすかに動く。
「試練とやらも……あと一日……」
声はほとんど息になっていた。
「……俺の勝ちだ……馬鹿野郎が……」
笑ったつもりなのか、口の端だけがぴくりと上がる。
(あと一日……あと一日耐えりゃ……)
思考が、ふらつく。
まともに考えようとしても、すぐに“酒”の記憶に乗っ取られる。
それでも——“あと一日”という数字だけが、辛うじて彼を現実へつなぎ止めていた。
「……勝ちだ……勝ち、だ……」
オットーは、ふらりと上体を起こした。
膝が笑い、肩が揺れる。
それでもどうにか四つん這いになり、テーブルの脚へ手を伸ばす。
爪が木の表面を引っ掻き、ようやく縁を掴んで身体を引き上げた。
テーブルの上には——いつものグラス。
視界が揺れ、輪郭が二重にも三重にもぶれて見える。
「……試練の……達成に……」
オットーは笑った。
脂汗と涙とが混ざった顔で。
「勝利の……美酒だ……」
立ち上がろうとするが、足がもつれてテーブルに肩をぶつけた。
それでも倒れない。
倒れたら、もう二度と立ち上がれない気がした。
樽へ近づく。
グラスを持つ手が震えて、ガチガチとガラスと歯が触れ合う。
栓を抜く。
何度も何度も空振りしながら、やっとのことで。
とく……とく……。
琥珀色の液体が、グラスの中に満ちていく。
鼻先をくすぐる芳香は、あの日と何も変わらない。
いや、今は、七割増しに甘く、三倍は魅力的に感じられた。
オットーはふらつく足で一歩下がり、グラスを胸の前まで持ち上げる。
「……これで……終わりだ……」
口元へ近づける。
ガラスが唇に触れる——その、瞬間。
死んだように濁っていた瞳の奥に、かすかな光が宿った。
オットーはグラスを見つめた。
そこに揺れる酒の色を、じっと、じっと見つめた。
俯き——
次の瞬間。
ガシャンッ!!
握りしめた手に力を込め、そのままグラスを床へ叩きつけた。
「だめだ……」
血の混じった声が漏れる。
割れた破片が足元に散り、酒が床を濡らした。
「だめだ……だめだ……!」
オットーは歯をむき出しにして叫んだ。
「美味い酒……こんな酒全然うまくねぇえええぞおおおお、クソ野郎!!!!」
喉が裂けるほどの怒声だった。
酒樽に、煉瓦の壁に、この見えない“塔”そのものに向けて。
足元の酒を、靴でぐちゃりと踏み潰す。
「本当に……本当に……美味い酒ってのはなぁ……!」
オットーの脳裏に、いくつもの光景がよぎる。
ダリウスの淹れるコーヒーの向こうで飲んだ、安酒の味。
ギルドの片隅で、クエスト成功のあとに交わしたジョッキ。
若い頃、初めて難敵を倒した夜の、むせ返るような酒場の匂い。
「難敵を倒したあと……仲間と飲む酒だぁあああ!!!」
まっすぐ立っているはずなのに、身体はふらつく。
それでも、叫びだけは真っ直ぐだった。
「本当に沁みる酒ってのはなぁ……!」
脳裏に浮かぶ、墓の前で飲んだ酒。
失った仲間の名前を呼びながら、涙と一緒に喉へ流し込んだ酒。
「仲間がおっ死んだ時だぁあああ!!!」
涙と汗が混ざって、顔中を濡らす。
鼻水も流れて、もう見た目はぐちゃぐちゃだった。
「本当に楽しい酒ってのはなぁ……!」
最近の記憶。
四十を過ぎた身体で、もう無茶なんかしねぇと言いながら——
それでも再びダンジョンに潜ることを決めた日。
不安と高揚と、懐かしい恐怖と。
そんなものを全部抱えながら、乾杯した夜。
「四十超えてダンジョン潜った時だぁああああ!!!」
最後の叫びは、もはや言葉になっていなかった。
それでも、魂はすべてそこに込められていた。
酒樽が静まり返る。
塔も、何も言わない。
床には割れたグラスと、こぼれた酒。
息は荒く、身体は震え続けている。
だが——その瞳だけは、はっきりと前を見据えていた。
*
——十四日目。
震えは止まらなかった。
全身が小刻みに揺れ、歯がカチカチと鳴る。
額からは滲むどころか、流れるように汗が滴り続けていた。
熱は高く、呼吸は浅く早い。
ひゅう、ひゅう、と肺が擦れる音が耳の内側に響く。
時間感覚は、もう完全に壊れていた。
(何日目だ……? 俺は……何をしてる……?)
問いかけても、答えは霧の中に消えていく。
だが——
目の奥だけは、曇らなかった。
視線はまっすぐ前へ。
樽でも、酒でもなく、その先にいる“誰か”を見据えるように。
(……負けねぇ。ここまで来て……今さら、負けてたまるか)
その瞬間。
『おめでとう。合格だ』
あの声が、どこからともなく降ってきた。
次の刹那——
オットーの身体が眩い光に包まれる。
足元の煉瓦が遠ざかり、酒樽も、テーブルも、白い光の向こうに溶けていく。
*
「——オットー!?」
真っ白な儀式の間。
台座の前で待っていたダリウスが、目を見開いた。
光の粒が集まり、形を取り——
ドサッ、と。
オットーが床に崩れ落ちた。
「もう帰ってきたのか……!? どうした、オットー!!」
ダリウスは慌てて駆け寄り、その巨体を抱え起こす。
熱い。
信じられないほどの熱が、腕を焦がすようだった。
ミラもすぐに隣へ膝をつき、心配そうに覗き込む。
エドガーは震える指で脈をとり、瞳孔の反応を確かめた。
「生きてます。……ギリギリですが」
その言葉に、ダリウスは大きく息を吐いた。
「オットー!」
呼びかけると、うつろだったまぶたが、かすかに動いた。
「……へ、へっ……」
乾いた笑いが漏れる。
「やったぜ……お前ら……」
かすれた声。
それでも、その口調はいつものオットーだった。
「とりあえず……乾杯でも……しようや……」
そこまで言うと、糸が切れたように、オットーの意識は途切れた。
「オットー!!」
ミラが慌てて回復魔法の詠唱に入り、エドガーはポーションを取り出す。
ダリウスはその巨体をしっかりと抱え、床へそっと寝かせた。
そのとき——
ゴウン……。
低く重たい音が、白い空間に響いた。
四人の視線が、一斉に正面へ向く。
いつの間にか現れていた巨大な扉が、
ゆっくりと、内側へ開いていく。
四十を越えた中年冒険者たちの旅路は——
仲間の命を削った試練を越え、
新たに開いた扉の向こうへと続いていくのだった。
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第一の試練、なんとか越えました!オットー頑張りました!
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