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息切れ・痛風・老眼おっさんパーティ、“老齢の塔”に挑む  作者: けんぽう。


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第17話 一杯の奇酒

 十階層を抜け、十一階層へと続く石の階段を、四人はきしむ膝をだましながら登っていた。


 先頭を行くダリウスの背後で——


 パンッ、と乾いた音が洞窟に響く。


「……あぁ、そうだ。忘れていました!」


 手を打ったのはエドガーだ。


 ダリウスは振り返り、眉をひそめる。


「どうしたんだ、いきなり」


 エドガーは、なぜかやたらと自信満々な顔をしていた。


「昨日のミラの“奇跡”を見て思ったんです。そろそろ、通り名が必要だと」


 その言葉を聞いた瞬間——


「……」


 ミラの顔から、さぁっと血の気が引いた。


 エドガーは気づかないまま、得意げに続けようとする。


「奇跡を起こすということで、“天界の——”」


「いやぁあああああああ!!」


 ミラは耳を両手で塞ぎ、階段の途中でしゃがみ込んだ。

 ぶんぶんと首を振りながら、下を向いて全力で拒否する。


 オットーはぽかんと目を丸くし、その顔を覗き込んだ。


「どうしたミラ、今いいところだったぞ?」


「本当にやめて!!」


 ミラはガタガタと震えながら叫ぶ。


「私まだ十六歳よ!? 汚れたくないわ!!」


 エドガーはきょとんとしたまま首を傾げる。


「ミラ? 私たちの頃はですね、通り名といえば“一流の証”で——」


「それ、おじさん臭いって言ってるよね!」


 ピシャリ、と切り捨てるような一言。


「……おじさん……」


 エドガーの顔から、音がしそうな勢いで血の気が引いた。


「……そうか……」


 なぜか隣のオットーまで、一緒になって遠い目をしている。


 ダリウスは苦笑し、二人の間に割って入った。


「まぁまぁ。今の子には今の子の流行ってやつがあるんだよ、きっと」


 ミラはまだ警戒するようにエドガーを睨みつつ、そろそろと耳から手を離す。


「ほんとよ? 変なのつけたら一生根に持つんだから」


「……善処します……」


 エドガーは小さく肩を落とし、階段を一段踏み外しそうになって慌てて体勢を立て直した。


 そんな他愛もないやり取りを交わしながら——


 四人は、十一階層の“儀式の間”へと、一段一段、足を運んでいった。



 階段を登り切った——その瞬間だった。


 視界が、ふっと切り替わる。


 さっきまでの冷たい岩肌も、湿った空気も、天井から落ちる水滴の音も、すべて消え失せていた。


 そこは、真っ白な空間だった。


 床も、天井も、壁も——すべて白。

 光源がどこにあるのかも分からない。

 けれど影は薄く落ち、確かに“立体”としてそこに世界が存在している。


「……白いね」


 ミラがぽつりと呟く。

 きょろきょろと首を動かしながら、指を伸ばす。


「どこからが壁か、よく見ないとわかんない」


 踏み込めば、そのまま空間の端を踏み外してしまいそうな、不思議な不安感があった。


 ダリウスは一歩前へ出て、周囲を観察する。

 右手は自然と剣の柄へ伸びている。


「ここが……儀式の間、ってやつか」


 その肩越しに、エドガーが目を細めた。


「……あそこに台座がありますね」


 指差した先、白の中にぽつんと浮かぶように、灰色の石の台座がひとつ。

 他には何もない。


 オットーはというと、緊張感の薄い声で尻をぼりぼり掻きながら言った。


「とりあえず、なんだ……まぁ、行ってみようぜ」


 四人は慎重に、しかしためらわず台座へ近づいていく。

 台座の表面だけが僅かにくぼみ、誰かが手を置くのを待っている。


 そのとき——


『よく来たね。ずっと待ってたよ』


 声がした。


 耳から聞こえたのか、頭の中に直接響いたのか。

 あるいは、この白い壁そのものが喋っているのか。


 判別できない。

 ただ感情だけが、妙に薄い。

 喜びでも怒りでもなく、湿り気のない“事実”のような声。


 オットーはびくりと肩を揺らし、反射的に盾へ手を伸ばした。


「どこだ!?」


『どこでもだよ』


 声は笑っているのか、笑っていないのかも分からない調子で続ける。


『僕はこの塔さ。儀式の間で挑戦者を待っているんだ。ずっとね』


「……ずっと?」


 エドガーが眉をひそめる。


『君たちが“獣”だった時からさ』


 オットーは一瞬ぽかんとし——次の瞬間、腹を揺らして笑い出した。


「俺たちが獣だった? はっ、はっ、はっ! そんなわけあるかよ!」


 ミラは首を傾げながらも、すぐにもっと大事なことを口にした。


「それより儀式は? どうやったら受けられるの?」


 声は、あっさりと答えた。


『台座に手を当てればいい。ただし——挑戦者は一人だ。そして挑戦者は、僕が選ぶ』


 ダリウスの指先に、ぴんと緊張が走る。


「……わかった。選んでくれ」


 一拍の沈黙。

 それから、穏やかすぎる口調で名が呼ばれた。


『まずは——オットー君に頼みたい』


「お、俺か」

 オットーは胸を張り、ぐっと顎を上げる。

 自信に満ちた顔だ。


「いいぜ。というか、俺の名前知ってんだな」


『入り口で、君たちの記憶は見たからね。さぁ、手を置いて』


 ミラとエドガーが息を呑むのが分かった。

 ダリウスも一瞬だけ表情を固くする。


 それでも——

 オットーは振り返って仲間に片目をつぶると、迷いなく台座へ歩み寄った。


「ちょっくら、行ってくるぜ」


 そして、ドン、と豪快に手のひらを窪みに叩きつける。


 その瞬間——


 光が弾けた。


 白い空間の白よりもなお白い、目を焼くような光。

 オットーの巨体がその光に包まれ、輪郭が溶けていく。


「オットー!」


 ミラの声が届くより早く、光は収束した。


 そこには、誰もいなかった。



 オットーが次に目を開いた時——

 そこに広がっていたのは、まったく別の光景だった。


 赤茶色の煉瓦造りの壁。

 ずらりと並ぶ木製の樽。

 鼻孔をくすぐる、濃厚な酒の香り。


 床は石畳。

 天井は低くないが、声を出せばすぐに反響しそうな密度がある。


 そして——不自然なほどの“閉ざされ方”。


 扉がない。

 窓もない。

 階段もない。


 ただ、樽に囲まれたこの部屋だけが、世界のすべてだと言わんばかりに、完璧な密室としてそこにあった。

 感情の薄い声が、ふわりと満ちた。


『ようこそ、試練の空間へ。まずは——乾杯しよう』


 テーブルの上には、すでに一本の葡萄酒と、一脚のグラス。

 赤黒い液体が、ランプもないはずなのにわずかに光を宿している。


 オットーは鼻を鳴らし、にやりと笑った。


「この酒をくれるってか。悪いな、遠慮なく」


 分厚い指で瓶を取り、グラスへと注ぐ。

 とく、とく、と、とろみのある音が石壁に反響する。


 香りが立った。


 熟れきった黒葡萄の濃さに、干し無花果のような甘い影。

 樽の木が焦げたような香ばしさと、湿った土を思わせる重たさ。

 その全部が、鼻腔の奥で一度に花開く。


「……へぇ」


 オットーは思わず唸り、期待と好奇心をそのまま口元へ運んだ。


 ひと口。


 ——脳が、弾けた。


 舌に触れた瞬間、味が層になって押し寄せる。

 最初に来るのは、黒い果実の濃密な甘み。

 すぐさま、きりっとした酸がそれを引き締める。

 樽の香りが煙のように立ち上り、舌の側面をスパイスの刺激が撫でていく。


 喉を通るときには、不思議なくらい軽い。

 霧のようにするりと落ちていくのに——

 胃に着いた瞬間、そこからじんわりと温かさが広がった。


 満たされる。


 腹ではなく、胸が。

 ひび割れた心の隙間ひとつひとつに、この酒が液体の金のように入りこんでいく。


「こ、これは……!?」


 オットーの目が見開かれる。

 その瞳に宿る色が、いつもの呑兵衛のそれから、獲物を見つけた獣のものに変わっていく。


 気づけばグラスは空だった。

 一滴残らず、舐め取るように飲み干していた。


 ――うまい。うまい、というより、“こういうのを求めていた”が正しい。


 オットーは木杯を樽の口に叩きつけるように差し出した。中年の腕が、若者みたいに速い。


「もしかして、ここの樽は全日この酒か!? もっとだ、もっとくれ!!!」


 声は淡々と告げる。


『そうだよ。飲みたいだけ飲んでいい。その代わり——記憶を、もらうよ』


「……っ!?」


 胃の底が冷たくなる。

 さっきまで、酒で温まったはずの場所が、氷を流し込まれたように冷えた。

 口の中にはまだ酒の甘さが残っているのに、舌の裏が乾く。


「……つまり、これが試練か」


 絞り出すように呟く。


『その通り』


 塔の声は、少しだけ愉快そうに聞こえた。


『二週間、我慢してもらうよ』


「……は?」


 オットーの顔から、血の気が引いていく。


「二週間、だと……? ふざけているのか……?」


『大丈夫。仲間のいる空間とは時間の流れが違うから、安心していいよ』


 声は優しいほど滑らかだ。


『お腹も減らない。体力も落ちない。ただ——ここで、酒を飲まなければいい』


 オットーは、わなわなと肩を震わせた。


「そうじゃ、ねぇ……」


 唇が乾いていく。

 さっきまであれほど潤っていたはずの口内が、一瞬で砂漠になった。


「二週間も……酒が飲めないのか……?」


 その言葉を自分で口にした瞬間、手が震え出した。


 指先から始まった震えが、手首に、腕に、肩に、少しずつ広がっていく。


「おい」


 オットーは、見えない天井を睨みつける。


「おい! 他の試練はないのか!? 腕の一本でも、足の一本でもくれてやる! もっと殴り合いでもなんでもいい! なぁ、聞いてんのか! おい! おい!!」


 煉瓦の壁が、ただ沈黙で返す。

 樽は黙ったまま、香りだけを放ち続ける。


 塔はもう、何も答えなかった。


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