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塔の頂きへ  作者: けんぽう。


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第16話 歳なりの正解


 大空洞に響いたのは、勝利の咆哮ではなかった。


 ミラはその場に倒れたまま気絶し、

 エドガーは魔導書を抱えたまま俯いている。

 ダリウスは仰向けになり、岩の床に背を預けて、大きく息を吸い込んだ。

 トドメを刺したオットーは、ぐちゃぐちゃに潰れたオーガの死体の前で膝をつき、肩を上下させていた。


 しばらく、誰も言葉を発しなかった。

 ただ荒い呼吸だけが、薄暗い大空洞に反響している。


 やがて——

 ダリウスが、静かに口を開いた。


「……今日はここで野営にしよう」


 異論は出なかった。

 四人は、もはや「疲れた」と口にする気力すらないまま、

 粛々と野営の準備を始める。


 ダリウスはミラをそっと抱き上げ、テントの中の寝袋へ寝かせた。

 ランプの灯りに照らされたミラの顔は、少し青いが、安らかだった。


「ミラは?」


 エドガーが声を落として問う。


 ダリウスはミラの顔を覗き込み、安心させるように微笑む。


「気絶しているだけだよ。大丈夫だ」


 テントの入口から顔を出したオットーが、ボソリと呟いた。


「……生き残ったな」


 ダリウスは、オーガだった肉塊を一瞬だけ見つめ、それから短く答える。


「あぁ」



 それからもしばらく、焚き火のまわりには重い沈黙が続いた。


 ダリウスは何も言わず、鍋とナイフを手に取る。

 水を張った鍋に、ざくざくと野菜が落ちていく。

 皮を剥いたじゃがいもがごろりと沈み、

 刻んだ玉ねぎと人参が、ささやかな色を添えた。


 ぐつぐつと煮立つ音が、やがて静寂を上書きしていく。


 ベーコンから溶け出した脂が、湯面に薄い膜をつくった。

 肉の旨味と野菜の甘みが溶け合い、

 ほのかな塩気とともに、優しい匂いが広間に広がっていく。


 冷たく、血生臭かった空気が、

 ゆっくりと「人間の食卓」の匂いへと塗り替えられていった。


 ——ポトフの、とても良い匂いだった。


 くたくたに煮込まれたじゃがいもは、

 スプーンを入れればほろりと崩れそうで、

 ベーコンは表面にほんのりと焼き目が残ったまま、中からじわりと脂がにじむ。

 スープをひとすくいすれば、湯気と一緒に、

 心まで温めてくれそうな匂いが立ちのぼる。


 その瞬間——


「いい匂い!!!」


 テントの中から、元気いっぱいの声が響いた。


 バッと入口の布がめくれ、ミラが勢いよく顔を出す。


「ポトフ!? ポトフでしょ!? ねぇダリウス、ポトフだよね!?」


「ミラ、起きたのか!!」


 ダリウスの顔に、一気に笑みが広がった。

 さっきまで空洞を満たしていた重苦しさが、

 その一言と匂いだけで少しずつ薄れていく。


「お腹すいた〜! ねぇねぇ、一番具がごろごろしてるところちょうだい!」


 ミラは寝袋から飛び出し、焚き火のそばへ駆け寄ってくる。

 オットーは「やれやれ」と言いながらも口元を緩め、

 ダリウスは苦笑しつつ、たっぷり具材をよそってやった。


 焚き火を囲む輪には、いつものような、

 どこか賑やかで楽しげな食事の空気が戻りつつあった。


 スープを飲む音。湯気。

 それでも、ひとりだけ、手を止めた者がいる。


「……」


 エドガーはスプーンを皿の上に置き、視線を落としたまま動かなくなった。


 ポトフをおかわりしようと鍋に手を伸ばしていたダリウスは、その様子に気づき、

 オットーの皿へ具をすくいながら、何気ない声色で問いかけた。


「どうしたんだ、エドガー?」


 エドガーは肩をびくりと震わせた。

 しばらく迷った末、小さく搾り出すように言う。


「……私は、あなた達を殺しかけました」


 オットーはちょうどおかわりの皿を受け取ったところだった。

 「うまそうだな」と言いかけた口を止め、不思議そうに眉をひそめる。


「どういうことだ? お前はお前の仕事を果たしたぞ」


 エドガーは顔を上げない。

 悔しさと、申し訳なさと、自分自身への怒りが混じった声だった。


「あの時……シールドが切れかけるのを見て、私は詠唱を一行、省略しました」


 焚き火の光が、エドガーの横顔を照らす。

 唇がかすかに震えていた。


「リズムも乱れ、声も上ずり、発音も乱れました。

 結果……魔法が乱れ、オーガを一撃で屠れなかった……」


 自分のミスを反芻するように、

 エドガーは握った拳を膝の上でぎゅっと締め付ける。


 ミラは、一番近くでその詠唱を見ていた。

 エドガーが、老いた身体に鞭を打ちながら必死で言葉を紡いでいたのを知っている。


「エドガー……」


 責めるでも、慰めるでもない。

 ただ、そこに込められた全力を知っているがゆえの声音だった。


 シン……と空気が重くなりかけた、その瞬間——


「はっはっはっは!」


 オットーが突然、腹を抱えて笑い出した。


 あまりの唐突さに、ミラもダリウスも、ぽかんと彼を見る。


「気にすんな、エドガー」


 オットーは豪快に笑いながら、スプーンをひょいと振った。


「その判断で正しかったんだよ」


 ダリウスも、ふっと口元を緩める。


「あぁ、そうだな」


 オットーは腕を組み、少しだけ真面目な顔になる。


「ギリギリだったんだよ。俺のシールドバッシュはな——

 もう、あと五秒も持たなかった」


 エドガーが、はっと顔を上げる。


「……そう、だったんですね……」


「おう。だからお前が早く撃とうとして、詠唱を削ったのは正解だ。

 あれで、もしきっちり完璧な魔法を目指してたら、その前にシールドが割れてた」


 オットーはわざとらしく肩をすくめて見せた。


「完璧なんて求めてる余裕はねぇよ。あの場にあったのは“間に合わせろ”だけだ」


 エドガーは、焚き火の光の中で目を瞬かせた。

 胸の奥を締め付けていたものが、少しだけ緩む。


「……そう、ですか……」


 その声には、まだ自分を責める棘が残っている。

 だが、それでも——


「少しだけ……ホッとしました」


 エドガーがポトフをひと口すする。

 湯気とともに、肩から力が抜けていくのが見えた。


 鍋の中身はもう半分ほどになっている。

 その温かさが、ようやく全員の胸の内にも染み込み始めていた。


 ふと、オットーが自分の右足をじっと見つめた。

 あれほど派手に吹き飛んだはずの脚は、今や何事もなかったかのようにそこにある。

 指も、膝も、重心の感覚も——全部、元どおりだった。


「そっ、それよりさ……」


 巨大な体躯に似合わず、声はおそるおそる震えていた。


「ミラ。俺の右足を……治療、いや、再生したのは……加護っていうか、もはや奇跡のレベルだったが……」


 ミラはというと、あっけらかんとポトフの縁に口をつけたまま、軽い調子で答えた。


「あー、あれね。

 前に大司教様がやってるの、一度見たから」


 ——カチン。


 エドガーの手から、スプーンの音がした。

 そこでぴたりと動きが止まる。


「……は?」


 ゆっくりと、ぎぎぎ、とでも音がしそうな動きでミラの方を見る。


「!? “見て”できるものではありませんよ!!」


 声が裏返るほどの絶叫だった。


 対してダリウスは、腕を組み、妙に誇らしげな顔でニヤニヤとミラを見ている。


「ミラは主席だからなぁ」


「そうそう!」


 ミラは胸を張り、自信満々に宣言した。


「容姿端麗、成績優秀——神は二物を与えたのね!」


 堂々と言い切るその姿に、エドガーの中で何かがプツンと切れた。


「いや! 奇跡を“一度見ただけ”でおかしいでしょう!!」


 スプーンを握った手が震える。


「数十年の修行が……! 祈りが……! 積み重ねが……!!」


 エドガーは両手を宙に突き上げ、見えない何かに抗議するかのように叫んだ。


 オットーも、ダリウスとミラを交互に見つめながら、眉を寄せる。


「そうだぜ。勘定が合わない。

 “見ただけ”でって、何だよそれ……」


 しかしダリウスだけは、やっぱりどこか当然といった顔だ。


「特技なんだよ。ミラの——一度見れば、大体できる」


 あまりにもさらっと言うものだから、逆に言葉が出ない。


 ミラは「えっへん」と胸を張ってみせる。


 ……もう凄すぎて、

 エドガーもオットーも、何も言えなくなった。


 焚き火の音と、ぐつぐつと煮えるポトフの小さな泡の音だけが、

 しばしの沈黙を埋めていた。


 沈黙を破ったのは、やはりダリウスだった。


 彼は鍋の火加減を確かめるふりをしながら、ふっと息を吐く。


「……でもまぁ、たかがオーガにこのザマってのは——さすがに歳を感じるな」


 言葉こそ軽いが、声の奥には悔しさが滲んでいた。


 エドガーは、その気配を察してか、わざと肩をすくめてみせる。


「そうですね」


 ほんの少し口元を吊り上げ、ウィットを利かせて続けた。


「昔だったら、“あ、素材が目の前に転がり出てきましたね”くらいにしか思ってませんでしたからね。

 討伐対象というより、“ドロップ品を運んでくれる便利な巨体”でしたよ」


 ミラが「素材……」と小声で繰り返し、オーガだった“何か”からそっと目を逸らす。


 オットーはというと、ポトフを食べ終わり、爪楊枝で歯の間を掃除しながらぼそりと呟いた。


「……歳なりの戦い方が必要だな」


 湯気の向こうで、その横顔はどこかしみじみしている。


 エドガーはやれやれといったふうに肩を落としながらも、その言葉にうなずいた。


「そうですね……。

 若い頃の“力押しの正解”が、そのまま通用するほど、世界も身体も甘くない、ということでしょう」


 焚き火がぱちりと弾ける。


 ダリウスはマグを両手で包み、湯気越しにふたりを見た。


「……だったら、これからの正解を探せばいいさ。

 三十過ぎても、四十過ぎても、生きてるうちは更新できる」


 ミラはその言葉を、じっと聞いていた。

 彼らの“歳なりの戦い”という言葉が、なぜか少し誇らしく思えた。


 こうして老いた三人は、自分たちの衰えを笑い合いながら——

 それでもなお、前に進むための形を、静かに確かめ合っていた。



その夜——。


 洞窟の天井は相変わらず黒一色で、今が本当に夜なのかどうかすら分からない。

 ただ、焚き火の小さな炎だけが、ここに「一日の終わり」があるのだと教えてくれていた。


 ぱち、ぱち、と薪が静かに弾ける音がする。


 皆が寝静まったあと、ミラはそっと寝袋から抜け出した。

 焚き火のそばに腰を下ろし、右手を炎へとかざす。


 橙色の光が、右手の皮膚を照らした。


 そこだけ、石のように白く硬く、指先にかけてまだら模様が広がっている。

 昼間より、範囲が明らかに増えていた。


 ミラはその手を、じっと見つめた。


「……これが、奇跡の代償ね……」


 言葉は軽く冗談めかしているのに、声の奥にはかすかな震えがあった。

 焚き火の光が揺れるたび、石化した部分と、まだ柔らかな肌の境目がくっきりと浮き上がる。


 握ろうとした指は、途中でぎこちなく止まった。


 少しだけ眉を寄せ、それでもミラはふっと笑う。


「……大丈夫、大丈夫。右手がちょっと石っぽいくらい……なんとかなるもん」


 自分に言い聞かせるように呟いてから、後ろを振り返った。


 寝袋が三つ、焚き火の光の届く範囲に並んでいる。


 ひとつ目——ダリウス。

 仰向けで、静かに眠っていた。眉間の皺は少しだけ緩んでいて、昼間の険しい顔からは想像できないほど穏やかな寝顔だった。


 ミラは小さく笑う。


「……ダリウス、ちゃんと寝てる」


 ふたつ目——オットー。

 豪快ないびきが洞窟の壁に反響している。寝袋からはみ出したお腹が、呼吸に合わせて上下していた。


「もー……うるさいなぁ、おじさん……」


 文句を言いながらも、その声はどこか安心していた。


 みっつ目——エドガー。

 彼は横向きに丸くなりながらも、両腕でしっかりと魔導書を抱きしめていた。寝ているはずなのに、指先はページの端を掴んだままだ。


「寝てるときまで本、離さないんだ……」


 くす、とミラは喉の奥で笑う。


 焚き火の音と、オットーのいびきと、三人の穏やかな寝息。

 その全部が、この小さな空間を満たしていた。


 ミラは右手を胸元に戻し、焚き火の炎を見つめる。


(……私の決断は、間違いじゃない)


 オットーの右足が飛んだ瞬間。

 迷わず走り出した自分。

 躊躇わず《神光再命》を使った自分。


 代償に右手の石化が進んだ。

 たぶん、これからも少しずつ進んでいく。


 それでも——あの時、なにもしない未来の方が、よほど怖かった。


(ダリウスがいて、オットーがいて、エドガーがいて……みんな笑って、ご飯食べてる)


 石になりかけた指先で、そっと寝袋の方角を撫でるように握る。


(それを守れたなら……私は、ちゃんと冒険者だ)


 ミラは小さく息を吐き、目を細めた。

 焚き火の揺れる光が、その横顔を柔らかく照らす。


 真っ暗な洞窟の中——。


 結界に守られた小さな焚き火の輪の中で、

 ミラはひとり、胸の奥で静かにそう繰り返した。


(私の決断は、間違いじゃない)


 炎がまたひとつ、静かに弾けた。


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