第11話 中年の無理と、少女の無茶
三階層は——一階層と寸分違わぬ洞窟だった。
松明の火は薄暗く、湿ったカビの匂いが鼻につく。
ただし違うのは、天井がやけに低く、横幅も三メートルほどしかないことだ。
ミラは小石をコツンと蹴り、肩を落とす。
「また洞窟?」
ダリウスは逆にうれしそうに口角を上げた。
「だいたいのダンジョンは、ボス部屋までは似た構造なんだ」
エドガーは眼鏡を押し上げ、ニヤリ。
「しかし——」
オットーも同じタイミングでニヤリ。
「ラッキーだぜ」
ダリウスは顎を触りながら誇らしげに言う。
「あぁ、この階層なら楽勝だ」
ミラは首を傾げた。
「どういうこと?」
ダリウスは肩をすくめ、ミラに指を向ける。
「見てればわかるさ」
エドガーが突然、指先を通路奥へ向けた。
「正面、十体来ますよ」
前方から、ゴブリンが十体——。
弓矢、ボーガン、剣、盾、槍。武装はまちまち。
ギャアアア、と威嚇しながら、狭い通路を埋めて前進してくる。
オットーは「待ってました」とばかりに前に出る。
「任せろや」
巨体を揺らしながら、通路のど真ん中へ。
「——シールドバッシュ!」
圧倒的な光の壁が、通路を隙間なく覆った。
壁のような一枚盾が、ズンと地面に根を張る。
ゴブリンたちは突っ込み、斬りつけ、噛みつき、弓矢を撃ち込む。
——が、びくともしない。
オットーは平然と笑った。
「エドガー、魔法頼む。茶でも飲んでゆっくりでいいぞ」
「はいはい、少しお待ちを」
エドガーは目薬をさし、虫眼鏡を取り出し……
おそろしく丁寧に詠唱を始めた。
「フ……ォォ……ル・イ……ンフェ……ルノ……」
ミラは思わず小声でつぶやく。
「遅っ……」
しかし、完成した魔法は凄まじかった。
「——《業火の抱擁》!」
炎が通路いっぱいに広がり、十体のゴブリンが一瞬で消し炭に。
骨すら残らないほど完全に燃え尽きる。
ダリウスはミラへ人差し指を立て、得意気に。
「な? 言っただろ?」
「すごい……燃えたら……保険おりるのかな」
ダリウスは思わず答えた。
「多分おりないと思うぞ」
その時、エドガーがわざとらしく声を上げた。
「しまった!」
ダリウスは驚いて振り返る。
「ど、どうした!?」
エドガーは虫眼鏡をくるりと回し、ニヤリ。
「火加減を調整しておけば、食料になったのに……失敗しました」
オットーは豪快に腹を抱えて笑う。
「はっはっは! 確かにな!」
ミラは完全に引いていた。
「………………(なんでみんな食べる方向なんだろう)」
しかし、行軍は続く。
しばらく進むと、再びゴブリンの軍勢が鳴き声を上げて突進してくる。
だが——
「シールドバッシュ!」
「……イン……フェル……」
数分後、そこにはただの灰と静寂だけが残っていた。
ミラは震える声で言う。
「この階層、ヤバいくらい楽なんだね……」
ダリウスは肩をすくめる。
ゴブリンを十体、二十体と薙ぎ倒し、道は灰と焦げた匂いで満ちていた。
その先に待っていたのは——またしても、同じようにギャアギャアと鳴きながら迫ってくるゴブリンの集団だった。
ただし誰も、その“異変”に気づかなかった。
オットーは肩を揺らして大笑いしながら言う。
「はっはっは! また丸焦げにされに来たぞ!」
ダリウスも苦笑し、空気のゆるさを拭えずにいた。
「みんな、油断せずに行こう……と言いつつ、俺もちょっと油断してるな」
ミラは苦笑しかけたが、何か胸騒ぎがして言葉を飲み込む。
「——シールドバッシュ!」
オットーが通路いっぱいに展開した巨大な光壁に、ゴブリンたちが再び突っ込んでくる。
ドンッ、ガッ、ガンッ。
だが、今回も破れない。
いつもの流れ——そう、誰もがそう思っていた。
「エドガー、頼む!」
「了解で……す……」
エドガーは虫眼鏡を取り出し、詠唱の一節を口にした、その瞬間だった。
——ガクン。
「エドガー!?」
彼の身体が前のめりに崩れ、地面へ倒れ込んだ。
若い頃と変わらぬつもりで魔力を流し続けたツケが、一気に今の身体に回ってきたのだ。
ダリウスは思わず駆け寄る。
「おいっ、エドガー!? まさか——魔力切れか!? こんな早くに、嘘だろ……!」
オットーは焦りながら声を張り上げる。
「ミラ! エドガーにマナポーションを!!」
シールドの向こう側で、ゴブリンたちはなおも壁を破ろうと暴れ続けていた。
その表情が——なぜか、笑っているように見えた。
ミラは急いでカバンからポーションを取り出し、エドガーの口元へ運ぶ。
「飲んで……飲んで、エドガー……!」
だが。
エドガーの喉は動かない。
完全に気絶した身体は、液体を受け付けない。
「だめ……飲み込めない!」
ミラの手が震える。
「どうしよう……どうすれば……っ!」
オットーはシールド越しに叫んだ。
「ミラ、何やってんだ! エドガーを起こせ! 早くしないとシールドが——!」
「やってるよ! でも……飲めないの!」
ゴブリンの攻撃音が、腹の底に響いてくる。
いつもなら不快なだけだったその音が、今は凶兆に聞こえた。
ダリウスは剣を握り、決断する。
「……俺が前に出る!」
「ダリウス!?」
ミラとオットーの声が重なる。
だがダリウスは、迷うことなく一歩前に踏み出した。
通路は狭く、彼が立てば一体ずつしか前に出られない。
「この狭さなら……少しずつ削ればいい!」
オットーは歯を食いしばり、シールドに力を込めながら叫んだ。
「無茶すんなよ! 前に出すなら俺が——!」
「ここで大斧は使えない! 今はお前が前を離れるな! 少しでも隙ができれば押し潰される!」
ダリウスが一歩踏み出すたび、通路の砂利がジャリ、と小さく悲鳴を上げる。
狭い。天井も低い。真正面のゴブリンを倒すスペースしかない。
(だが……これなら読みやすい)
ダリウスは息を吸い、眼前のゴブリンへ踏みこんだ。
剣が水平に走る。
——一体、斬り伏せる。
その瞬間だった。
ヒュンッ——!
喉のわずか数ミリ横を、矢が風を裂いて通り抜けた。
「ちっ……厄介だな」
奥の弓兵まで距離がある。
この狭さでは、横に抜けて踏み込む余裕がまったくない。
さらに——
「ガァアッ!」
棍棒が真横から振り抜かれ、ダリウスのこめかみを狙う。
死角だった。
(まずい——!)
足元に転がっていた小石につまづき、ダリウスの身体は倒れ込むようにして棍棒を回避した。
ギリギリの回避。
だがそれでいい。
ダリウスは地を蹴って立ち上がろうとする。
「オットー! 一旦シールドに——」
その瞬間。
ブスッ。
「……ッ!!」
鋭い痛みが左足をえぐった。
矢だ。
ふくらはぎに深く刺さり、熱い血が靴を濡らしていく。
「くっ……!」
片足を引きずりながら、必死に後退を始める。
シールドまであと数歩。
だがゴブリンたちが、矢の命中を機に一気に押し寄せてくる。
「オットー! 前を!」
「わかってるが——間に合わん!」
オットーはシールドを限界まで広げ、前線を上げようとするが……
ほんの数秒、いや一秒遅い。
ゴブリンの刃が、ダリウスの胸元へ迫る。
その時だった。
「ダリウスーーーッ!!」
考えるより先に、ミラは地を蹴っていた。
細い脚が、空気を裂いて通路を駆ける。
「ミラ!? 危ない、戻れ!」
ダリウスの声は届かない。
ミラは涙を滲ませた目で、ただ一直線にダリウスへ飛び込んだ。
バシュッ!
ゴブリンの刃がミラの髪をかすめる。
「くっ……!」
ミラは滑り込みながら、ダリウスの腕を掴んだ。
そのまま全身の力で彼をシールドの中へ押し込むように支える。
「立って! ダリウス!!」
彼女の細い肩が震えるほど力を込める。
ようやく、オットーのシールドが前へ持ち上がり、ゴブリンとの間に分厚い壁が形成された。
安全圏へ引きずり込まれた瞬間、ダリウスは叫んだ。
「——ミラ!! 無茶するな!!」
ミラは振り返り、涙に濡れた目で言い返した。
「ダリウスだって!!」
その叫びには、怒りと恐怖がまじっていた。
大事な人を失いかけた瞬間の、むき出しの感情。
ダリウスは言葉を失い、数秒だけ見つめた。
そして、悔しそうに息を吐き、かすれた声で言った。
「……ごめんよ。助かった」
ミラはきゅっと唇を噛み、顔をそむけた。
その肩は小刻みに震え続けている。




