第10話 忘れた兄弟
洞窟の奥へ進むと、急に空気が変わった。
そこだけ世界が切り替わったように、照明の暖かい光がふわりと広がる。
カーペット、ソファ、磨かれたテーブル。
壁には本棚がぎっしりと並び、羊皮紙の山はきれいに分類され、
小さな暖炉には火が静かに踊っている。
ここがダンジョンの中だとは、到底思えなかった。
「……すごい」
ミラがぽかんと口を開けた。
「まるで宮廷みたいだな」
オットーも呆れ声を漏らす。
コンラートは紅茶のポットを持ち、慣れた手つきで皆のカップに注いだ。
動作はどこか貴族のように落ち着いている。
「さて——モンスターの分布だったな」
ソファに腰掛けたコンラートは、紅茶の湯気を鼻先で一度吸い込みながら淡々と続けた。
「基本的に二足歩行型だ。ホブ、オーガ、トロールなど……人型に近い連中が多い。
ボス部屋もオーソドックスな大型の魔物だ。ドラゴンが出ることもある」
「ドラゴン、か……」
ダリウスは顎に手を添え、思案する。
「速度で攻められない分、動きにクセがあるのは助かるな。読みが効く」
エドガーは紅茶を一口飲み、口元を拭ってから本題を切り出した。
「それよりも儀式の方はどうです? 精神を『食べる』という話でしたが」
コンラートはカップを置き、静かに視線を上げる。
「ボス部屋の後に続く試練室……挑戦者は一人だ。
課題はランダムだが、精神的なものが多い。過去、後悔、恐怖……そういった類だな」
「失敗すれば記憶を取られる……だったな」
オットーが紅茶をぐびっと飲み干し、大きく息をついた。
「じいさんは……何か取られたのか?」
コンラートは少しだけ目を細め、遠くを見るように言った。
「……おそらく兄弟がいたと思う」
「兄弟?」エドガーが眉を上げる。
「あぁ。名前も、顔も、何も思い出せん。だが……
“いた”という確信だけ、霧の底に残っている。
妙な感覚だよ。何かが欠けたまま何十年も過ごし続けてきた
家の記憶を辿ると、いつも椅子が一脚余る。
そこに誰が座っていたのかだけ、どうしても思い出せん」
淡々と話す声に、深い寂しさがにじむ。
ミラは俯き、カップを両手で包み込んだ。
「……さびしいね」
ぽつりとつぶやくように。
「もし……もし、ダリウスのこと忘れちゃったら……
私……私じゃなくなっちゃう気がする」
——最初にダリウスが作ってくれた、あのスープを思い出す。
質素で、でもやさしい味だった。
湯気の向こうで笑っていた顔が、霧みたいにほどけて消えていくところなんて——想像したくもなかった。
ダリウスが驚いて彼女を見る。
ミラは普段の明るさも強がりもなく、ただ怖がる少女のようだった。
ダリウスは息を呑み、エドガーは目を伏せ、オットーは紅茶のカップを握る手を強くした。
コンラートはしばらくミラを見つめていた。
暖炉の火がぱちぱちとはぜる音だけが、静かな部屋に響く。
やがて、わざとらしいほど大きく息を吐くと、冷めかけた紅茶をひと口あおった。
——その空気を、コンラートがぱんっと手を打つように切り替えた。
「よし、湿っぽい話はここまでだ」
ニヤリと怪しく笑う。
「それとな、このダンジョンにはもう一人、滞在者がおる」
「本当か!?」
ダリウスは一気に姿勢を正し、手帳をばっと開いた。
「記録では……五十年前、あんた以外——」
「ふふん、記録なんぞ当てにならんよ」
コンラートは意地悪く笑った。
「まぁ会ったときのお楽しみだ。
もし遭遇したら、“コンラートが貸しを返せと言っていた”と伝えろ。
そうすれば手を貸してくれるはずだ」
ミラはぱっと顔を上げ、大真面目に頷いて——
「その人……魔法少女の衣装を着てるとか?」
部屋が静まり返った。
エドガーはゆっくりとミラを見る。
紅茶を飲みかけた手を止め、ため息とともに言った。
「……さっき食べたマシュマロ、まだ頭に残ってるんですか?」
「えっ、違うの?」
ミラは本気で驚いている。
オットーは紅茶を噴きそうになり、ダリウスは額を押さえる。
コンラートだけが腹を抱えて笑った。
「はっはっは! いやいや、面白い娘だ!」
笑い終えると、コンラートは机の引き出しを開け、小袋を取り出した。
「それとな。これを持っていけ」
じゃら、と七色の光が溢れる。
袋の中には宝石にも似た硬貨がぎっしり詰まっていた。
ミラの目がいっきに輝く。
「なにこれ!? きれい!!」
「このダンジョン内の通貨だよ」
コンラートは軽く手を左右に振る。
「わしにはもう使い切れん。
昔はこれで調査を続けていたが……
老いぼれが使い切れなかった“未練の残りかす”だ。好きにしろ」
ダリウスは袋を手に取り、重さを確かめるように揺らした。
中の硬貨が淡く光る。
「……本来なら、受け取るべきじゃないんだろうけど」
ゆっくりとコンラートの目を見る。
「ありがたく、使わせてもらうよ」
コンラートは小さくうなずき、湯気の立つ紅茶を口にした。
その横顔には、どこか晴れたものがあった。
「行け。
若いお前たちが進む道の先に、わしらの忘れた何かがある。
そして——失くしたものを取り返すかどうかは、そなたら次第だ」
洞窟の奥で、火がぱちりと音を立てた。
旅立ちの前触れのように。
*
コンラート宅を出ると、薄暗い通路の奥にぽつんと灯る看板が見えた。
「オーク料理屋・肉の穴蔵」と雑に墨で書かれている。
中へ入った途端、こんがり焼けた肉の香りと、刺激的な香辛料の匂いが、むっとした熱気といっしょに押し寄せてきた。
脂が焼けるじゅうじゅうという音に、どこか獣臭まじりの、野性の濃い匂いが混ざっている。
鉄のような血の気配と、骨の髄まで炙ったような香りを、胡椒や香草のスパイスが包み込み、鼻腔の奥をじわりと刺す。
濃厚な肉汁の甘さと、野趣あふれる匂いが絡み合い、喉の奥がきゅっと鳴った。思わず唾を飲み込まずにはいられない。
天井は低く、テーブルは粗削り。
だが店は妙に賑わっていた。
オークが肉を焼き、リザードマンが魚を捌き、
スライムが皿洗いをしている。
どの種族も、食事を楽しむことにだけは全力だ。
四人は空いた丸テーブルに腰を下ろした。
ダリウスは、肉らしきものにフォークを突き刺しながら言った。
「まずはパーティの役割を調整したいと思う」
ミラは皿を見つめ固まっている。
オットーは、骨についた肉をしゃぶりつつ頷いた。
「現役の時と違って、誰かが途中で動けなくなる可能性がある」
エドガーは器用にフォークとナイフで“何かの肉塊”を美しく切り分けながら言う。
「なので、柔軟性を持って役割を入れ替えられるようにしておくべきでしょう」
ミラはまだ動かない。
ダリウスは腕を組み、少し考えてから結論を出した。
「となると——オットーだな」
「オットーですね」
「俺だな」
三人の声が完璧なハーモニーで重なった。
その横で、ミラだけがガタガタと震えている。
「……」
ダリウスは気づき、ミラの皿を覗き込む。
「どうしたミラ? 全然食べてないじゃないか?」
ミラはゆっくり顔を上げた。
真っ青だ。唇まで震えている。
「……ダリウス……これ……食べ物なの?」
オットーは当たり前のように答えた。
「??? どうした。ゴブリンの丸焼きは初めてか?」
「ッ!!」
ミラの呼吸が止まる。
ダリウスはゴブリンの“目玉”をフォークで串刺しながら言う。
「ダンジョン初めてだもんな? うまいぞ。俺は特に目玉が好きだ」
エドガーは落ち着いた手つきで、ゴブリンの頭蓋を開きながら微笑む。
「やはり脳みそですね。クリーミーで——いや、たまりません」
「——ひっ」
オットーは耳を切り落としながら自慢げに言う。
「いや、まず初心者は耳だ。カリカリしてて香ばしい」
ミラは机に額を何度もぶつけた。
「いやぁあああああああああ!!」
三人が同時に固まる。
「……?」
ミラは涙目で叫び散らす。
「みんなおかしいよ!!
だってコレ、ゴブリンだよ!?
こっち見てるよ!?
“こんにちは”って言いそうだよぉ!!」
ダリウスはオットーとエドガーへ視線を向けた。
「おい……俺たちがおかしいのか?
それとも……ミラがおかしいのか?」
オットーは爪楊枝で歯の隙間の肉片を取ってから、当然のように言う。
「ミラだろ。十六歳、そういう年頃なんだ」
エドガーは目を閉じ、微かに微笑んだ。
「えぇ。私もあの頃は反発したものです」
ダリウスは腕を組んで、真剣な顔で頷いた。
「そうか……難しいんだな。
でもミラ、好き嫌いは良くないぞ」
「いやぁあああああああ!!!!」
料理屋中のモンスターが、一斉にこちらを振り向いた。
ミラが泣き叫ぶ中、三人のおっさんは
「青春とはこういうものか」とうなずきあうのだった。
ダリウス一行が市場へ足を踏み入れると、
そこはまるで夜の祭のように賑わっていた。
防具屋、薬屋、道具屋、食材屋——
天井低い洞窟とは思えないほど活気に満ち、
モンスターも人間も当たり前のように品物を物色している。
ダリウスはミラの手にある“巨大パフェ”を見て、深いため息をついた。
「パフェばかり食うと太るぞ、ミラ?」
ミラはスプーンを持つ手すら覇気なく、
魂が抜けたような声で答えた。
「……いいの……別腹だから……」
完全に、オーク料理屋の“ゴブリンショック”から立ち直っていない。
そんなミラを横目に、オットーが声を上げた。
「おいダリウス、これなんかどうだ?」
手にしているのは大斧。
広い肩で重さを受け止め、
軽く振ってバランスを確かめる。
酒を抜けてきたせいか、動きが妙にキレている。
エドガーも腕を組んで見つめ、真面目にうなずいた。
「良さそうですね。斧の重心が綺麗です」
ミラはパフェを抱えたまま首を傾げた。
「オットーが……バリアのおじさまを辞めるの?」
ダリウスはミラの横にしゃがみ込み、優しく微笑んだ。
「いや、盾は続けてもらうよ。
ただ、本来の戦闘スタイルというのがあってな」
ミラは素直にメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。
「教えて教えて!」
ダリウスは市場の喧騒の中、真剣な顔で言った。
「本来の基本は——
前衛の剣士が敵を押さえている間に、盾役が後衛を守り
後衛の魔法使いが攻撃する、これがセオリーだ」
ミラ、こくこくと大きくうなずく。
しかしダリウスの視線が、ゆっくりとエドガーへ向いた。
「だが……エドガーの魔法は強力だ。
強力だが……老眼で詠唱まで時間がかかりすぎる」
エドガーは目を閉じ、
口元に薄い笑みを浮かべて答えた。
「情緒があっていいでしょう?」
「情緒で押し切られたら死ぬぞ」
ダリウスは頭を抱える。
「物量で押し込まれる状況なら、俺一人じゃ捌けない。
オットーの盾は巨大だが、側面に回られたらそこで全滅だ」
ミラはパフェのスプーンを止め、真剣にメモを取った。
「……確かに。側面が弱点なんだね」
オットーは大斧を肩に乗せ、
どこか昔を思い出すように笑った。
ダリウスはオットーを見据えた。
「だからオットーには、盾と攻撃を柔軟に動いてもらう」
オットーは胸を張り、腹を揺らしながら大斧を肩に乗せる。
「普通の盾職は後衛の近くで盾を張るが、俺は違う。
かなり広範囲に展開できる。前線で盾を張れるってわけだ」
それはまるで、誇りを取り戻した子どものような声だった。
しかしダリウスは冷静に、やれやれとため息をつく。
「でも前線で痛風が出ると下がれなくなる。
そもそも太りすぎて移動が遅い」
「そういう考え方もあるな」
オットーは胸を張ったまま、なぜか堂々としている。
ダリウスは露店の盾を一つ手に取った。
軽い、小ぶりな盾だ。
そして構えた瞬間——
「シールドバッシュ」
小規模ながら、確かに“シールド”が展開される。
空気がたわむように光が円形に広がった。
ミラは目を丸くする。
「ダリウス、剣士なのにシールドバッシュできるの?」
エドガーは鼻で笑い、どこか誇らしげに言った。
「ダリウスは器用なんですよ。
簡単な戦闘系スキルなら一通りできます。
昔、前線と後衛の潤滑油として動いていたのは、この特技のおかげです」
ダリウスは後頭部をかきながら、居心地悪そうに笑う。
「まぁ器用貧乏だがな。
気休め程度だが……ないよりはマシだ」
ミラは何度も頷き、メモ帳に「ダリウス=器用貧乏」と書き込んだ。
その後、一行は市場を歩き、
ポーション、道具、食料(もちろん“モンスター食”は除外)を手際よく買い込んだ。
荷物を背負い直し、ダリウスはひとつ深呼吸した。
「よし——行こう。次の階層へ」
ミラのパフェのスプーンが止まる。
オットーが大斧を振って肩の力を抜く。
エドガーは虫眼鏡ケースを丁寧に閉じた。
腰がきしんで、ダリウスは小さく苦笑する。
——それでも、こうして肩を並べて歩ける時間くらいは、ちゃんと覚えていたい。
市場のざわめきが、彼らの背中を押す。
——中年冒険者たちが、“失いたくないもの”を賭ける旅が、ようやく始まる。




