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3-6 花のナナハチ組

 帰国した忠太郎を待っていたのは、以前と変わらぬ日常だった。変わったのは、忠太郎の熱意だった。芝居をやりたいという意欲が増し、父の忠四郎に頼んでこの冬から新たな舞台に出演していた。

 この日も、夕食の時になって、忠四郎に演技のアドバイスを請う。忠四郎も忠太郎の態度に感心して、役者の教えを説く。

 とそこへ、一本の電話がかかってくる。忠四郎は立ち上がり、廊下に向かう。けたたましく鳴る固定電話の受話器を取り、耳に押し当てる。忠吉からだった。

 忠四郎か。困ったことになった。うちの演劇部の生徒が、忠太郎の子を妊娠したと言っている、と。

 おい、それは間違いねえのかい、と忠四郎。

 ああ。こんなことになるとは思わなかった。どうする。産ませるか、と忠吉。

 忠四郎は、いや、そいつはできねえ。その子はA国人なんだよな。待ってな。忠太郎と話をつけるから、と言って電話を切った。

 次の瞬間、忠四郎は怒号を飛ばすのと同時に、忠太郎の頬をひっぱたいた。忠太郎は訳も分からず父の顔を見上げた。そこで初めて、エチュードが妊娠したことを知らされる。自分が彼女と関係を持ったことが明るみに出て、恥ずかしい気持ちが込み上げた。だがすぐに、自分の過ちに気づいて、後悔の念に襲われることになる。事態は最悪の方向へ進もうとしていた。

 忠四郎は頭を抱えて言った。また面倒を起こしやがって。お前をじいさんの元へやったのは失敗だったか、と。

 忠四郎から放たれる怒りに恐れをなし、忠太郎は声すら出すことができない。

 金を渡すから、堕ろしてもらえ、と忠四郎が言った。

 忠太郎はその意味を理解できなかった。

 そんなことも分からねえでやったのか。中絶してもらえ、ってことだ、と忠四郎。

 忠四郎から中絶の説明をされても、今一つ実感が湧かなかった。男は出産も中絶も体験することはない。ほとんど傍観者である自分や父が、産むとか産まないとかを決めてもいいのか。

 忠太郎は、彼女が産みたいのなら産ませてやりたいです、と言った。忠四郎は片方の眉を吊り上げた。

 お前は、中学生に子供が育てられると思うのかい。養育費だ何だと言って、金をせびられたらどうする。お前に用意ができるのか。できねえよな。一番迷惑を(こうむ)るのはその子のそばにいるじいさんだ。せっかくA国に逃がしてくれたってのに、恩を仇で返すようなことをするのかい、と。

 忠四郎の流れるような啖呵に、反論ができなかった。エチュードはそんな子じゃない、そう言い返したかった。

 このことは誰にもばらしちゃならねえ。今から、お前にできる最後の仕事を言ってやる。その子に手紙を書くんだ。費用を渡すから中絶すること。もう二度と会わないと約束すること。書いたらおれに見せろ、と忠四郎。

 忠太郎にはどちらも書けそうになかった。これからも休みを見つけて彼女に会いに行くつもりだった。たった一度の軽率な行為がそれを叶わなくしたのか。

 忠四郎は頑なに産むことを認めない。忠四郎には、外国人との間にできた子などにわかには受け入れられないのだった。

 昔から忠太郎は父には逆らえない。すごすごと自室へ引っ込み、仕方なく手紙を書き始める。

 はじめは、A国語で文章を書いた。これなら、忠四郎の目をくぐり抜けてエチュードに本当の気持ちを伝えられる。だがその魂胆はすぐに見抜かれた。忠四郎は忠吉に電話をかけて、エチュードがこの国の言葉を理解できることを聞き出したのだ。忠太郎もこの時ばかりは忠吉を恨んだ。

 再び自室に籠もって手紙を書き直す。ペンが重かった。お腹の子は中絶してほしい。その費用はじいちゃんから受け取ってくれ。お互いのことは忘れよう。連絡はしてこないでくれ。こちらからも一切取ることはない……。書いていて悲しくなった。違う。妊娠した彼女にかけるべきなのは、こんな言葉じゃない。なあ、エチュード。きみはどうしたいんだ。今のおれは、意思の確認すらさせてもらえない。

 忠太郎の目には、こちらに冷たい目を向けて離れていくエチュードの姿が浮かんだ。忠太郎は必死に手を伸ばす。涙がこぼれた。

 待ってくれ、誤解だ。こんなのをおれの本心だと思わないでくれ。A国できみや部の仲間と過ごした時間をなかったことにするわけない。忘れることなんてできない。将来、もし結婚するとしたら、相手はきみしかありえない。おれは、きみのことを、こんなにも、愛しているんだ!


 エチュードは忠吉から手紙を受け取り、中身を読んだ。

 絶句。絶望。そして怒りが込み上げる。許せなかった。どうしてこんなことが言えるの。

 忠吉の方を見る。忠吉はさっと顔を背けた。手紙の内容は知っているらしい。

 こんな手紙、今すぐぐしゃぐしゃにして破り捨てたかった。だが、すんでのところで思いとどまる。よく見ると、文字と文字の間に、涙の落ちた跡がある。ボールペンのインクが滲んでいる。

 エチュードは悟った。きっとこれは本心ではないのだと。言葉にはできないけれど、変わらず思いは寄せてくれているのだと。

 こうなった責任は自分にもある。こうして周りの人を巻き込んで、たくさんの迷惑をかける。批判にもさらされる。それでも、決心をした。

 先生、私、産むよ。頑張って子供を育てる。後悔したくないから。これが正しい選択だって、思うから、と。

 いつか、家族が笑って会える日が来る。そうだよね、忠太郎。信じて、待ってるから!

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