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3-5 花のナナハチ組

 当代切っての名優と謳われる涼木忠四郎(すずきちゅうしろう)を父に持つ忠太郎(ちゅうたろう)は、十三歳にして初主演を務めた舞台の出来を評論家に酷評され、すっかり気力を喪失していた。役者としての力量を疑われ、初めて自分の将来に不安を覚えた。本当に役者になりたいのか、分からなくなっていた。

 そんな時、A国に住む祖父の忠吉(ちゅうきち)から電話がかかってくる。電話に出た忠太郎は、今の自分の辛い心境を打ち明ける。そして最後に、消え入りそうな声で呟く。じいちゃん、おれもうこの国にいたくないよ、と。

 不憫に思った忠吉は、忠太郎に会うため帰国する。その日のうちに忠四郎と話し合い、忠太郎を留学という名目でA国へ出発させる手筈を整える。

 やがて桜が咲き始める季節、忠太郎は進級と同時に、逃げるように故国を出るのであった。


 A国の学校に転入した忠太郎は、自己紹介の時、たどたどしいA国語を披露する。教室の後ろの方にいるクラスメイトが盛んにはやし立てたが、忠太郎にはそれが罵倒しているのか歓迎しているのかさえ分からない。当然、そのあとのA国語で行われる授業も何を言っているのかほとんど理解できなかった。こんなことなら事前にもっと勉強しておけばよかった、と臍を噬んでいると、隣の席の女子生徒が聞き慣れた言語を口にする。

 大丈夫? と。

 その生徒は、エチュードと名乗り、少し片言ではあるが、忠太郎の国の言葉で授業内容を説明してくれた。

 忠太郎は、その気遣いにいたく感激し、いつか恩に報いたいと思うようになる。

 それからというもの、エチュードは、忠太郎に翻訳したノートを見せてくれたり、放課後にA国語を教えてくれたりするようになった。二人で過ごす時間は楽しかった。忠太郎はいつの間にか以前の活力を取り戻していた。

 ある日、忠太郎は尋ねた。助けられてばかりでは申し訳ない、何か困っていることはないか、と。すると彼女は、私と同じ部活に入ってほしい、と答えた。エチュードの所属している部活、それは演劇部だった。

 体育館のステージ上では演劇部の生徒が稽古に励んでいる。それを見つめる顧問の先生は、なんと忠吉だった。それならばエチュードが忠太郎の国の言葉を話せるのも、どうしてすぐに勧誘しなかったのかも頷ける。忠吉は気を遣って、なるべく忠太郎を演劇から遠ざけていたのだ。

 忠太郎も、もう芝居はやらないと心に決めていた。しかし、エチュードと過ごすうちに、芝居に対する嫌悪感は薄れていた。忠太郎は演劇部に入部する。部員たちは舞台の経験がある人材の登場に大いに喜んだ。


 演劇部での忠太郎はまさに水を得た魚、今までになくのびのびと役を演じられるようになっていた。ようやくずっと何かに気兼ねしていた自分を脱ぎ捨てられた気分だった。

 また、同じ年頃の部員たちと一から舞台を作り上げるのも楽しい体験だった。演劇部は秋の学園祭での発表を目標に、時に意見をぶつけ合いながら、一つにまとまっていく。忠太郎は、いつまでもこんな時間が続けばいいのに、と願うほど、演劇部への思い入れが強くなっていた。

 ある日の部活終了後、忠太郎は帰ろうとしていたところを忠吉に呼び止められる。

 忠吉は忠太郎一人をステージ上に立たせ、「外郎売り」をやってみなさい、と言った。

 外郎売りとは、ある伝統芸能の劇中に出てくる長科白のことで、発声練習や滑舌の練習によいとされ、演劇の稽古などに取り入れられている。

 忠太郎も幼い頃、忠四郎や忠吉の前で練習させられた。

 そんなことを思い出しながら、忠太郎は素直に応じ、科白をそらで言い始める。

 忠吉はわが孫の成長に驚く。科白は音吐朗々、自信に満ちあふれていた。今ならば舞台の主演も立派に務めることができるのではないか。きっと今のこんな環境こそが、忠太郎にとって必要だったのだ。

 忠吉は忠太郎に、帰国する準備を整えておきなさい、と告げる。


 迎えた学園祭。この三日間の催しには生徒の家族や他校の生徒まで多数の人が来校する。演劇部の劇は開演が午後二時からで、忠太郎はそれまでの間、一人体育館の裏手で念入りに最終確認を行っていた。エチュードに校内を見て回ろうと誘われたが、そんな気分にはなれなかった。というのも、今回の劇は、忠太郎が酷評に遭ったあの舞台をA国風にアレンジしたものだったからだ。細かな設定や科白は変えてあるものの、緊張するなという方が無理な話だった。

 実は、本来なら別の内容だったのを、忠太郎が無理を言って急遽変更してもらった。帰国する前に、今の自分がどこまでやれるか、大舞台でリベンジしたかったのだ。学園祭まで時間はあまりなかったが、演劇部の皆は快諾してくれた。台本の翻訳は忠太郎とエチュードが担当し、そこから脚本や小道具を完成させ、稽古を行い、やがてこの劇を作り上げた。

 開演五分前になった。体育館の舞台の袖の暗がりの中で、忠太郎の胸は高鳴っていた。

 開始のブザーが鳴る。忠太郎は全身に力を込めた。すると、エチュードが手を握ってきた。

 大丈夫、あなたならやれる、と。

 忠太郎は前を向いて頷き、舞台の中央に躍り出た。

 劇は大成功だった。体育館が明るくなると、忠太郎の熱演に心を打たれた観客から割れんばかりの拍手が起こった。忠太郎は、故国では得られなかった賞賛を浴びることができたのである。感無量とはこのことだった。

 一度上演すると、この劇にも改善点が見えてきた。二日目、三日目の午前中は、演劇部が揃って体育館の裏手で忠太郎に付き合った。回を重ねるごとに、良くなっている感触があり、見に来てくれる人も増えていった。来年もまた来よう、そんな声も聞かれて忠太郎は嬉しかった。

 三日目の上演が終わると、忠太郎もやっと肩の荷が下りた気分になった。模擬店でいろいろ食べ物を買い、校内の展示を見てから、演劇部の打ち上げに顔を出した。


 学園祭の後片付けを終えて、学校を出た頃には、日はとっくに沈んでいた。忠太郎とエチュードは学園祭の余韻に浸りながら帰っていた。二人の前後には、同じく学校から帰る生徒の姿があった。二人を見かけた生徒は皆、演劇部のことを褒めて通り過ぎていく。二人はその度に、お互いの照れた顔を見合わせた。エチュードは言った。

 あなたがいてよかった、忘れられない時間をありがとう、と。

 忠太郎も、思いは同じだった。

 こちらこそ、感謝してもしきれない、きみがいたからおれはここまで来られたんだ、おれが自信を持って帰れるのは、きみのおかげなんだ。

 いつの間にか、エチュードの家の前まで来ていた。明日また会えるのに、別れたくなかった。忠太郎はなんとかして二人でいる時間を引き延ばそうとする。

 帰国しても、新しい自分を試せるなら、エチュードのいない日常にも耐えられる自信はあった。それなのに今この瞬間、一時的であっても離れることができない。目の前のエチュードが、愛しくてたまらないのだ。

 忠太郎はエチュードの肩をつかんでじっと目を見つめた。エチュードは何も言わず見返してくる。忠太郎はとうとう、エチュードを抱き締めた。周りには誰もいなかった。エチュードも忠太郎の背中に手を回した。今夜、エチュードの両親は家にいないという。

 この日、忠太郎は家に帰らなかった。

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