犬になる
ほとほと人間生活に嫌気がさしたので、今日から僕は犬として生きようと思う。
ビジネスバックと革靴を河川敷の茂みへと放り投げ、ジャケットとワイシャツの袖を捲って両手を地面につける。冬の冷気にさらされた土の地面はひんやりと冷たく、思わず手を引っ込めそうになる。それでも四つん這いでなければ犬とは言えないのだから、これくらいの我慢は必要だ。それにこうしているうちにも自然と冷たさを感じなくなってきた。
「バウッ、バウッ!」
僕は腹の底から声を出してみる。少しばかりわざとらしいが、初めてにしては上出来ではないだろうか。咳で喉の調子を整え、もう一声鳴いてみる。先程よりは犬らしいがまだまだ。これからの成長に期待と言ったところか。
僕は一呼吸置き、澄んだ冬の空気を思いっきり吸い込んだ。突き抜けるような青空を仰ぎ、風にそよぐすすきを一瞥し、僕は目の前の石畳の道を四本脚を使って駆け出していく。慣れない走り方で足が時々もつれそうになりながらも、僕は弾丸のように河川敷を走り抜けていった。いつもより低い視線から見える景色が僕の後ろに流れていく。草野球をしている子どもたちの歓声が聞こえる。すれ違うランナーの息遣いが聞こえる。そして何より、僕の身体が風を切る音が聞こえる。僕は犬になったんだ。そういう実感が心の底から泉のように湧き上がってくるのを身体全身で感じることができた。
僕はゆっくりとスピードを落としながら、立ち止まった。僕の目の前に現れたのはこの河川敷を住処にしているであろう、雌の野良犬だった。灰色の毛並みにくるりと巻かれた短いしっぽ。ピンクの舌を口から垂らしながら、彼女は二つの黒い瞳で新参者の僕をじっと見つめていた。家で飼いならされたお行儀の良い犬とは違う、野性的な女の匂いに僕の身体の奥から熱い何かが込みあがってくる。一目惚れ。犬になってから初めて経験するその気持ちを、それ以外の言葉で説明することはできなかった。
「キャン、キャン」
僕は甘い声で彼女に呼びかける。彼女は眉をひそめ、困ったような表情を浮かべる。僕は高ぶる気持ちに突き動かされるまま、一歩ずつ彼女に近づいていく。しかし、それと同時に彼女の後ろから、彼女より一回り大きい野生の雄犬が姿を現した。するどい犬歯をむき出しにし、汚れてボサボサの毛を逆立てながら、僕に威嚇している。僕は瞬間的に、彼女が目の前の雄犬の女だということを理解した。強いものが美しい雌犬を手に入れることができる。これは野生の摂理なのだ。
僕は雄犬の威嚇声を真似しながら一歩ずつ前進していく。雄犬と視線をぶつけ合いながら、距離は少しずつ縮まっていく。元人間である僕のほうがあいつよりも一回り以上身体が大きい。僕の心はそういう慢心がなかったといえば嘘になる。僕は大胆不敵にさらに大きく一歩を踏み出した。しかし、その瞬間、相手は勢いよく僕の方へと飛びかかり、ジャケットの上から僕の右の前足に噛み付いてきた。
「痛っ!!」
反射的に鳴き声が僕の口からこぼれ出る。僕は痛みに耐えながら、後ろ足で立ち上がり、噛まれたほうの腕を大きく縦横に振り回す。それでも雄犬は僕の前脚に食らいついて離さない。僕は噛まれていない左の前脚を振りかぶり、がら空きになっていた雄犬の腹部に強烈なブローをお見舞いしてやった。
雄犬は腕を離し、そのまま固い地面に背中から落下する。僕はそのまま雄犬の前脚を掴むと、そのまま河川敷の茂みの方へと思いっきり放り投げた。情けない鳴き声を上げながら宙を飛んでいき、雄犬はそのまま茂みの中へと消えていった。
僕は額に浮かんだ汗を拭い、再び四つん這いになる。それから僕たちの闘いを見守っていた雌犬へと視線を向けた。
「キャンキャン。キャンキャン」
しかし、彼女は僕の方をちらりと視線を向けただけで、先程雄犬が投げ飛ばされた河川敷の茂みの方をじっと見続けていた。僕はもう一度彼女に呼びかける。彼女は少しだけ躊躇うように僕の方を見た後で、小走りで、雄犬が消えていった茂みへと去っていった。
残された僕はただ呆然と彼女の背中を見届けることしかできなかった。犬生活における初めての恋はこうして儚くも散っていった。僕は負け犬らしく頭をたれ、とぼとぼと河川敷の道を歩いていった。傷心した僕の心を映し出すように、太陽は川の向こうにそびえ立つ建物の影に隠れ、空は藍色と朱色に分けられた切なげな色に移り変わっていた。無情な木枯らしが僕の身体に吹きすさび、首に巻いていたネクタイがばたばたとはためいた。
「あらあら、可愛いワンちゃんね」
僕は顔をあげた。目の前にいたのは、スーパーの買い物袋を右手にぶら下げた二十代後半くらいの少しやつれた女性だった。
「くぅーん、くぅーん」
弱々しく鳴きながら僕は彼女を見上げた。彼女は僕の頭をわしゃわしゃと撫で、うっすらと髭が生えた顎を優しくさすってくれた。彼女の弱々しい茶色の瞳には母性が宿っていた。僕はもう一度鳴いた。彼女は僕のささくれだった心を慰めてくれるかのように、うっすらと微笑みかけてくれた。
「うちにくる?」
僕は少しだけ躊躇った後、「バウッ」とありったけの声で返事をした。
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「奈美恵! てめぇ、何度いったらわかるんだ!」
狭いアパートの一室に入るやいなや、部屋の中にいた男が奈美恵と呼ばれた女性に怒鳴り声を上げた。赤ら顔の男は飲みかけのビール缶を座卓の上に置き、おぼつかない足取りで僕と奈美恵と呼ばれた彼女に近づいてくる。
「だって……可哀想だったんだもん。たっくんだって、子供の時に犬を飼ってたって言ってたじゃん」
奈美恵さんは萎縮しながらも、たっくんと呼ばれた男に言い返す。男は奈美恵さんの横にいる僕をぎらりとにらみつける。蛇に睨まれたカエルのように、僕はその男の雰囲気に気圧されてしまう。
「良いでしょ、犬の一匹くらいさぁ」
「ああ? うちにそんな金あるわけねぇだろうが。それによく見えねぇけど……こいつ、本当に犬なのか」
僕は男の疑念を晴らそうと弱々しく鳴き声をあげた。それでもたっくんと呼ばれた男は額に皺を浮かべたまま、僕の方を見下ろし、そのまま小さく舌打ちをした。
「こんなわけわからない生き物、早く捨ててこい」
「いや!」
奈美恵さんが大声で叫ぶ。たっくんは腕を組み、僕の身体を舐め回すように眺めてくる。そして、不敵な笑みを浮かべながら奈美恵さんに語りかける。
「おい奈美恵知ってるか。中国のある地域ではな……犬の肉を食うらしいぞ」
「何を言ってるのたっくん……」
犬を食べる? こいつは本気でそう言っているのか。しかし、僕の目に映る男の表情は真剣そのものだった。僕の身体から冷たい汗が吹き出してくる。鼓動が脈打つスピードが徐々に高まっていく。
男は僕を捕まえようとぐっと右手を伸ばしてくる。僕は反射的にそれを避け、身体を玄関横の柱にぶつけてしまう。恐怖で足が震え、呼吸が浅くなる。
「たっくん、違うよ! これは犬じゃないの! 別の生き物なの!」
奈美恵さんがたっくんの腕を掴み、必死に静止しようとする。しかし、たっくんはその腕を強く振り払う。僕は助けを求めてキャンキャンと吠え立てる。たっくんはそんなのお構いなしに僕を家の端っこに追いつめ、むんずと僕のワイシャツの襟元を掴んだ。
「おい、お前は犬だよな?」
たっくんが顔を近づけ、悪魔の形相でそう尋ねてくる。酒気を帯びた息が僕の顔に吹きかかる。このままだと食べられてしまう。死への恐怖の中、僕はゆっくりと首を横に振り、かすれるような声で返事を返した。
「にゃ、にゃ~ん」