12話 慣用句
『温風機』を入手して、その分析を行っている間、探索の方では問題が発生した。
それは『レベルの壁』だ。つまり金策前の状況に、ただ戻っただけとも言える。
レベルアップと言う理の外にいる竜は、レベルアップと言う恩恵を得る事が出来ない。
竜としては当然インプラント探索を行いたいと思っているが、現状では西側はあれ以上は無理だと言う事も理解している。
で有れば、どうするのが一番良いのか、それを考える。
(金は必要だ。残金は4万チョイ、心許ない。レベルアップできないのがやっぱりネックになっているな……)
竜の現在の身体能力は、一般冒険者のレベル4~5程度だ。草原で活動する他の冒険者達の戦闘を見て同程度と思われる者にレベルを聞く形で出したモノである。
5人の冒険者に確認したもので、その確度は高い。
ただ、この世界のレベルアップは、あくまで成長できる幅が上がるだけであり、無条件で上がる能力値は僅かでしか無い。
その為、レベルアップ後鍛えた者と全く鍛えていない者では大きな差が生まれる。
場合によっては、全く鍛えずパワーレベリングだけでレベルを上げたレベル10が居たとしたら、随時鍛えたレベル5の者に満たない身体能力しか持たない可能性がある。
ただし、パワーレベリングそのものは悪では無い。回復系や探索系などの非戦闘系加護持ちを成長させるにはもってこいの手法なのだ。
問題は、パワーレベリング後に鍛えるかどうかと言う事だ。貴族などが、レベルだけを誇る為にパワーレベリングするのは無駄以外の何ものでも無いが……
竜は限界まで鍛えたレベル1であり、一般のある程度鍛えている冒険者のレベル4~5と同等と言う事だ。
とは言え、それはあくまで身体能力のみの事で、戦闘経験に伴う戦闘力と考えれば遙かに満たないモノなのは確かだ。
多分、レベル3と同程度と考えてるべきかもしれない。
となれば、出来る事は限られてくる訳だ。
(ダンジョンは…… 俺の適正エリアは成り立てや未成年者であふれてるからな……)
この街のダンジョンは初心者向けと呼ばれるほど弱いモンスターが出るダンジョンである。
ただ、ここで言う初心者とは、他のダンジョンと比較した上での事で、成り立て冒険者でも深く潜れるという意味では無い。
レベル1~5程度の成り立て冒険者であれば、1階層から2階層辺りが良い所だと言われている。
そして、この街は街中にダンジョンがあるダンジョン都市と言う特異性から、他の町に比べて冒険者の数が多い。
よって、成り立て冒険者の数も多く、彼らにとって適正エリアである1~2階層は常にごった返している。とてもでは無いが効率の良い狩りなど出来ない。
さらに言うと、1階層に至っては、冒険者ですら無い素人の子供達すら入っており、芋洗い状態だ。
そのおかげも有って、入って直ぐの屎尿廃棄場所周辺にモンスターが存在せず、屎尿廃棄作業が楽だったのだが……
実際、それでも最低限の生活をするだけの生活費程度は十分に稼げる。
だが、他のマジックアイテムを購入する為、貯蓄する必要がある現状では、それではダメなのだ。
結局ダンジョンがダメであれば、あとは草原地帯しか無いと言う事になる。全てインプラント探索済み地帯だが、この際それには目をつぶるようだ。
そして、時期的に薬草採取系依頼に出ている種類の薬草が多い、北草原と言う事になる。
北草原で、薬草採取で最低限+αを稼ぎつつ、モンスターを殺し、魔石で補完すると言う方法を選択した。
実際は選択したと言うより、それ以外手が無かったというのが正しいのだが……
さて、竜にとって半年ぶりと言って良い北草原地帯だが、本日の目的は以前と違って『薬草類を出来るだけ多く採取して生活費を賄う』と言う事だ。
今までのフィールドワークでは『インプラント探索』の為、常に意識の何割かは『違和感察知』に使用していた。
だが、今回はそちらに意識を奪われる事なく作業に集中できる。さらに、ローラー探索の為自由な探索が出来なかった以前と違い、『薬草探索』に関して言えば遙かに密な探索が行える事になる。
とは言え、時期的な事もあり低級冒険者達が竜同様北草原へと訪れている関係で、競争率も高くそれほど多くは入手できない。
そんな状況ではあるが、一日中歩き回る事で規定量以上には十分に入手出来ていた。まあ、8000円ではあるが、宿代と最低限の食事代を支払った上で4000円以上は貯蓄できる。
ただ、予定外だったのがモンスターの数が少なすぎたと言う事だ。
先ず冬場と言う事で、竜に取って最も効率よく狩る事の出来る殺人蜂が冬眠期に入っており現れなかったと言う事。
さらに、冬期の木材採取依頼が大々的に行われている関係で、草原と森との境界線に多くの人員がいる為、その集団にモンスターが誘われ草原にいるモンスターの数が著しく少なくなっていた。
おかげで、副収入としてあてにしていた魔石があまり入手出来なくなった訳だ。
無論モンスターの数がいない分、薬草の探索が楽に行えるのだし、薬草の入手量も予定より多くはある。
だが自身の『リアル戦闘スキルを上げる』と言う事から考えれば全体として確実にマイナスだった。
レベルアップと言う成長が不可能な竜としては、いわゆるリアルスキルと呼ばれる力を成長させる以外には無い。
竜は肉体能力的にはレベル1と言う範囲で限界まで鍛えられてはいるが、その肉体を効率よく使用する術がまだ不完全であり、そこに成長の余地がある。
この成長には筋トレなどは無意味であり、実戦の中で身体を動かしつつ思考し試行し続ける事で最適で高効率の動きを見つけ出し、その動きを身体に染み付かせるより他に無い。
ゲームやファンタジー系小説などでは、『強い敵と戦った方が…』と言う設定が多い。
だが、自身より強い敵と戦っている状態では、守りに比重を置かざるを得ず、自身の動きを精査するような余裕などあるはずがない。
それが出来るのは自身より確実に弱い敵と対している時だけだ。つまり、それが竜に取ってはこのエリアのモンスターだった訳だ。
金銭的にはともかく、魔石の入手量とリアルスキルの上昇と言うモンスターに関わる予定だけは完全に予定外となってしまった。
若干当初の予定とは違うモノの、金銭的には許容範囲内の収入を得つつ北草原での活動を続けている竜だった。
その日は北西方面で薬草の採取を実施していた。
北西と言う事は、西草原方面に近いと言う事で、当然ながら若干モンスターの数と強いモンスターが増えてくる。その為、あまり西によりすぎない範囲で薬草採取を実行していた。
そして、その音が聞こえてきたのは昼食をとった直後の事だ。
その音は馬が疾走する際の音に近く、竜は即座に間違いなく4足歩行ないしはそれ以上の多足歩行生物の足音だと判断する。つまりモンスターである。
急いで音源方向である森側に視線を向けるが、その視界にモンスターはおろか人影すら見当たらない。
(? いない? まさか透明モンスター!?)
音だけが間近に聞こえ、それでいて姿が見えない事から透明・光学迷彩などを想像して身構える。意識を『ジャンプ』へと向け、直ぐに上空へと待避できるように準備。
だが、数秒後それが杞憂である事が分かる。
なぜなら500メートル以上離れた場所に音源であるモンスターの姿を発見したからだ。
そのモンスターの蹄が地を蹴る音が500メートル以上離れて、数十メートル先を普通の馬が駆ける音と同じ音量で聞こえていたのだった。
(デカい… 全長5メートルは優に超えてるぞ… !! 人がいる!!)
その象よりも巨大と思われるモンスターを見て驚く竜をさらに驚かせたのが、そのモンスターの50メートルほど先を逃げている四人の人影だった。
『肉体操作』によって改造された竜の目は、500メートルほど先を疾走する冒険者と思われる男達の表情までハッキリと映し出していた。
汗だくで、何かをわめき散らしている。
そして、この時点での彼らの走る軌道は、竜のいる場所の左100メートルほどの場所を通って街の方へと向かうものだった。
その為、竜は自身の危険についてはさ程ど慌てる必要を感じておらず、ただただ彼らの事を心配するのみだ。
これがアニメや漫画の主人公であれば、彼らを助けるべく行動を開始するのだが、彼はレベル1なのだ。
遠方を疾走するモンスターとそれから逃げている冒険者と思われる者達の走る速度は明らかに時速60キロを超えている。
竜自身が全力疾走した状態の速度は、おおよそ50キロ代半ばで有る事を検証している。
つまり、確実に彼らはレベル5以上であり、身体能力だけでも竜を凌駕している事になる。
そんな彼らが必死に逃げている状態で、それ以下の能力しか有せずリアルスキル的にも遙かに劣る竜に対処する術があるはずがない。
インプラントと言う特異な力を有してはいても、その能力もこの場では自身だけを逃がすのにしか使えない。
全く無力である。
そして、ただ無事を祈りつつ彼らを見ていた竜の目が、先頭を疾走する30代と思われる冒険者の目と合った。
無論彼の目は竜ほど良くなく、竜の表情まで見て取れた訳では無いだろう。だが、そこに人がいる事は十分に認識できた。
そして、その男の顔に微笑みが浮かぶ。暗い微笑みが……
そして男は後方の仲間達に声を掛け、次の瞬間軌道を変えた。竜のいる地点に向かって。
彼らが軌道を変えた時点で、竜までの距離は300メートルを切っていた。
時速60キロと言うのは元の世界の100メートル世界新記録クラスの1.5倍以上の速度である。厳密にはトップスピードで言えば若干違うのだが大差は無い。
100メートルを6秒程と言う事だ。実際は彼らの速度は時速65キロは出ている為もっと短い。
竜の元まで来るのに18秒と掛からない。
脳の機能も『肉体操作』によって改造強化されていた竜は天才では無いが秀才と呼べるレベルであり、正確な数値では無いが感覚的なものとして瞬間的にその時間を理解した。
そしてダッシュでその場を逃げ出す。
(MPKかよ!!)
MPK、MMORPG等におけるモンスターを使ったプレイヤーによるプレイヤー攻撃の通称である。
今回の場合は、竜を殺す事を目的としているのでは無く、追いかけてくるモンスターを竜になすり付ける事で自分たちの身を守る行為だ。
目が合った瞬間の暗い微笑みが無ければ、純粋に助けを求めて向かって来たと見る事も出来るが、そうでないのは明らかだった。
この時点において、竜は十分に逃げる手段を有していた。『ジャンプ』によって上空へと逃げるだけで良いのだから。
だが、こちらに向かってくる四人の冒険者らしき者達に『ジャンプ』を見られる事を考え躊躇してしまった。愚かな選択である。
そして、逃げ出した竜とそれを追う冒険者達、それをさらに追うモンスターという3重の逃走と追跡劇が生まれる。
だが、竜の走る速度と、冒険者達とモンスターの速度では10キロ以上の差があった。故に徐々に、そして確実に彼我の距離が縮まって行く。
そして、ついに冒険者達が竜に並び、彼を追い越して行った。四つのニヤニヤ笑いを残して。
そんな、竜を右手側から追い越した彼らは、直ぐに竜の前に移動して彼らとモンスターの間に竜を挟む位置をキープする。そして、その上で竜との距離を開けていく。
完璧ななすり付け行為である。誤用として一般化している方の意味で完璧な確信犯だ。
竜が冒険者達に抜かれた時点で慌てて後方を確認すると、件のモンスターは50メートル程後方にいた。
そのモンスターは遠方から見たとおり、全長5メートルを超え6メートルに近く、一番高い背中の位置は3メートルはあった。
(黒い猪? ……鋼殻獣!?)
竜は当初、単純にその大きさだけに気をとられ、次いで見つけた冒険者達に意識を向けていた関係で問題のモンスターの姿を良く確認していなかった。
その為この時点になって初めてその姿を詳細に確認したのだった。
その姿は、鼻面から頭頂部に掛けて大きな出っ張りのある猪の形をしている。
だが、その全身は通常の猪のような体毛に覆われておらず、カブトムシのような光沢のある黒い外骨格に覆われていた。
その外骨格は、アルマジロのように身体の動きを阻害しない範囲で分割されており、さながら恐竜図鑑に描かれている鎧竜を思わせる構造だ。
そして、その姿を確認した時点で以前受付嬢より注意勧告された事を思い出す。『数日前に北の森で鋼殻獣と思われるモンスターが目撃されました』と言う…
あれから何ヶ月も経つが、討伐報告はもちろん、発見の報告すら無かった為、冒険者協会内でも見間違いによる誤報だったのだろうと言われていた。
鋼殻獣、それはモンスターや動物の特殊変異体である。
生まれながらに鋼殻と言う固い殻を持っており、その鋼殻は同じ質量の紙より軽く鋼よりも固い。その上で魔法すら反射する特製を持つ。
(軽自動車じゃないじゃないか!! 普通車ですら無いぞ!! 4トントラックだろ!!)
鋼殻獣の話を聞いた時、竜は『魔法すら反射する軽自動車』をイメージして恐怖した。だが、現物を見てその考えを改めさせられた。
その大きさは軽自動車ではなかった。4トントラックと言うべき大きさだ。しかも荷台に過積載状態の、だ。
そんな過去の自分の想像を自ら罵倒している間に彼我の差は瞬く間に埋まっていく。
50メートルの距離は時速10キロだと、わずか18秒である。あっという間だ。
この時点においても、前方でこちらを伺いながら逃走している冒険者達の目を気にして竜は『ジャンプ』を使用するのをためらっていた。
そして、彼我の距離が15メートル程に成った時点で竜がとった行動は、急激な進路変更だった。
全速力で走りながら、出来るギリギリの力で地面に穴を穿ちながら左側に大きく進路を変える。
当然進路を変える為に、その速度を犠牲にすることになり、彼我の距離は一瞬にして数メートルにまで縮まる。
だが、竜は思った以上に大きく進路を変更できたことに満足していた。
仮にモンスターとの距離が縮まったにしても、猪のモンスターに急激な進路変更は出来ないはずなので大きく距離を引き離せるだろうし、場合によっては彼を見失い前方にいる冒険者達を追いかけることになるかもしれないと考えたからだ。
しかし、次の瞬間、竜の右目の視界に黒い影が大きく現れた。
鋼殻獣が竜より若干大回りになってはいるが、竜の進路変更に追随する形で追ってきていたのだ。
(おい!! 猪突猛進じゃないのかよ!!!!)
竜の脳内に自身の絶叫が響く。
『猪突猛進』、よく使われる慣用句である。猪のよう真っ直ぐに進み脇にそれない様を表す言葉だ。
この慣用句によって、多くの者が『猪は真っ直ぐ進み、左右への進路変更は得意では無い』と認識している。竜もそのクチだ。
だが、これは全くの誤りである。
猪は確かに速いスピードで突進して、その牙で敵を貫き引き裂く攻撃を行う。その攻撃によって多くの猟犬が腹を割かれ死亡しているし、猟師も足や腹を貫かれたり切り裂かれたりして死亡するケースすら有る。
だが、別段左右に曲がることが不得意と言う事は無い。それどころか、華麗なステップで左右に曲がり、Uターンすら楽々出来る。
全くの嘘なのだ。
この『猪突猛進』のように慣用句の中には全く事実と違うものが多く存在している。
特に、鳥に関するものが顕著で、『鳥目』『鳥頭』等はその筆頭だろう。
多くの者が『鳥目』という言葉を知っており、それによって『鳥は暗くなると目が見えない』と認識している。
それを前提として多くの漫画や小説などでもそういった事が描かれて、その誤りを流布する役目をかっている。
ファンタジー系の小説でも、『鳥型獣人は鳥目の為、夜間は目が見えない為活動できない』などと言う文章をよく見る。
だが、ハッキリ言って誤りである。別段鳥は『鳥目』では無い。その種族によるが、人間程度には見えるモノが大半だ。
それどころか、フクロウなどのように夜行性の鳥も存在している。
それ以外に、サギ系の鳥も普通に夜間水辺で活動しており、夜間川沿いの道を車で走っていて川から急に白く大きな鳥が飛び立って驚いたことの有る者多いのでは無いだろうか。
鶏ですら、月明かりがあれば普通に闊歩しているくらいだ。
『鳥目→鳥は夜目が見えない』は全くの誤りである。
そして、『鳥頭』も『鳥は記憶力が悪く、3歩歩くと忘れてしまう』と認識している者が多いが、全くの誤りである。
オームや九官鳥などで考えれば簡単だろう。それらは普通に人間の言葉を覚え、そして真似て鳴く、『鳥頭』に出来るはずが無い。
カラスなどに至っては、九官鳥などのように人語を覚え鳴くだけでなく、人間の顔を個別に覚えて個々人を認識していることが分かっている。
鶏にしても、飼った事のある特異な者なら知っているだろうが、虐めた者、可愛がっている者を完全に理解して犬猫などと同じように振る舞う。
間違っても『3歩歩くと忘れてしまう』と言う事は無い。
慣用句には、この様に現実に全く即していないものが多く存在している。
そして、それを鵜呑みにしていると窮地を招く事があると言う事だ。現在の竜のように……
慣用句を罵った竜だったが、即座に逃走を再開する。
質量の関係で竜よりも小回りが利かなかった鋼殻獣を右手に見ながら、さらに進路を左方向に変え鋼殻獣が後方になる方向を向き全力疾走する。
そして、右側遠方に速度を落としながらも尚も街に向かって移動し続けている四人組の冒険者達を見る。
(全力で走れよ!!)
彼らの視界から離れないと『ジャンプ』が使えないと考えている竜は、彼らを心の中で罵倒しつつ彼らの移動速度と鋼殻獣の移動速度から最終的地点の位置関係を計算すした。
その概算上の位置関係は、若干近すぎるきらいがあったが、冒険者達から遠ざかる方向に進路を変える余裕は無い。
そして、『ジャンプ』だけで逃げることを諦める。
急激な進路変更によって一旦開いた彼我の距離は、瞬く間に縮まり竜の背に鋼殻獣の鼻息が強く感じるまでになっていた。
そして、一瞬だけ後方を振り向き、位置関係を再確認した竜は『ジャンプ』による重力制御で上方へと飛び上がる。
『ジャンプ』による重力制御は1/2Gで有る。つまり体重が半分になったのと同じだと言う事だ。
その状態でジャンプすれば、それは通常の倍の高さまで飛び上がれることになる。厳密には空気抵抗などの影響がある為、完全な倍では無いが、この場合誤差の範囲だ。
そして、竜の身体は『肉体操作』によって筋力を大幅に増大されており、通常時の垂直ジャンプで3メートルを跳ぶのだが、全力疾走からと言う不完全状態ではあるが5メートルの高さまで跳ぶことを可能としていた。
定点からそのジャンプを見ていた者があれば、進行方向斜め前方に跳んでいる姿が見えただろう。
だが、竜及び鋼殻獣の視点からは直上にジャンプした感覚だ。
突然高速で上方に跳んだ竜を鋼殻獣は見失い、そして竜の下を通り過ぎようとする。
鋼殻獣の頭部が竜のちょうど下に達した時、彼は『ジャンプ』のもう一つの能力である足場を時間差で二つ発生させる。
先ず自身の前方胸部付近一つ。そしてその足場を両手で押して身体を地面と平行になる方向へと倒す。
傾斜する身体が45度程度になった時点で、足下にもう一つの足場を発生させ、それを蹴って鋼殻獣の後方へと跳んだ。
鋼殻獣の上を抜け、後ろの位置に達した時点で身体を捻り、2回程足場を発生させそれを手で押すことで体制を入れ替え足から着地する。
その間出来る範囲で鋼殻獣に視線を向けていたのだが、どうやら彼を見失ったようで速度を落としつつ左右に首を振っているのが見えていた。
それを再度確認した竜は、素早く二回深呼吸をすると、地面に向かって水泳の飛び込みのようにして飛び込んでいく。『透過』を発動だ。
『透過』は非生物に対して身体を通り抜けさせる事が出来るインプラントである。
この場合、対象物が液化する訳ではなく、肉体が何らかの作用によって物体の隙間を抜けられるようになるというモノだ。
その際、感覚的には地面や壁などの対象物の方に粘度が発生しているように使用者である竜には感じられる。あくまでも竜自身の感覚的にはだ。
対象物は変化しないのだが、感覚的には対象物が液化しているように感じるという現象だ。
そして、その粘度を調整することによって発生する水中における浮力や抵抗にあたるモノを使い、沈み込みを防いだり泳ぐことで移動する事を可能としている。
その『透過』を使った竜は、『粘度』を調整して浮力がちょうど釣り合った状態を作り、ドルフィンキックで鋼殻獣のいた方向と反対方向に向かって泳いでいく。
この『透過』中は、当然のごとく視界がその周囲の物質に依存する。つまり土中で有れば全く見えないと言う事だ。
その上、呼吸も不可能なので息が続かなくなれば窒息する可能性も有る。
現在の『肉体操作』によって改造された彼の身体は、静止状態から深呼吸などを実行して身体を動かさない状態での無呼吸でいられる時間は8分を超えている。
実際は慣れて脳の酸素消費量を落とせるようになれば、15分でも可能だろう。
だが、現状の全力疾走後、全力でのドルフィンキックと言う条件ではさすがに3分と持たない。
全く目視が聞かない状態で、誤って地中深く潜ってしまったとしたら息が切れてそのまま地中で死亡するだろう。
それを理解していた竜は、出来るだけこの逃走方法は取らないように心がけてきた。
その為、今回は『透過』によって鈍ってしまっている重力の感覚を最大限に感じるようにして、地中を出来るだけ水平に移動することに全力を掛けた。
そして2分程泳ぎ続け、息に余裕がある状態で、進みながらゆっくりと浮上していく。
幸い彼の感覚に狂いは無かったようで、5秒程で頭頂部に当たる感覚が変わった。それを感じた時点で背泳の体制に体を入れ替え、顔だけが地面から出た状態にする。
その状態で泳いできた方向に視線を向けると、100メートル以上離れた場所で鋼殻獣が地団駄を踏むように暴れている姿が見えた。
竜は念のためそのままの状態で移動し、地面に半分埋まっている50キロ程の岩の横に隠れ、顔だけを出して経過を見送る。
竜が確認してから1分程地団駄を踏んで地響きを轟かせていた鋼殻獣は、突然ある方向を向くと、その方向に向かって掛けだしていった。
その方向を地面から頭を出して除くと800メートル程先に、あの時の冒険者達らしき人影が見えた。
彼らの元に向かって走り出した鋼殻獣が500メートル程離れた時点で地面へと上がり、『透過』を止めた。
その時点で竜の中で、彼ら四人の安否を気遣う余地は全くなくなっている。
(まあ、人間なんてこんなもんだよな)
竜の中の性悪説がこの世界に来てさらに定着した瞬間だった。




