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マスクの下のあなた

作者: おたふく

 薄紫色をした空、もうすぐ夜が明けようとしている。じんわりとし染み渡っていくような寒さ、それは一歩一歩確実に近づく冬の到来を告げていた。

 見渡す限りの草原を私は走っていた。何者からか逃げているのだ。追ってくるのは体中を包帯で巻かれた男。目と口以外は、頭のてっぺんから足の先まで全てを白い布で覆われた、正に映画で見たままのミイラ男の姿をしている。一体、それは何者なのか。

 嗚呼、絶望の声をあげ、私の足は止まってしまう。深い底の見えない闇へと転がっていく小石・・・・、目の前の地面は途切れて、谷底になっていたのだ。そり立つ崖の端に追いつめられて、なす術もなく振り返る。

 ゆっくりと、だが着実に近づいていてくる包帯の男。そのわずかなすき間から覗く瞳は、執念深い狂気の色に染まって、獲物である私をひたととらえて離さない。まるで蛇に睨まれたカエルだ。もうその場から、凍り付いたように動けない。

 あと数歩で捕まるというところで、男は立ち止まり、私と無言で向き合った。何をしようというのだろう。

 すると魔術でも見ているように、スルスルと自然に包帯がとかれ、男の足許に包帯の山が築かれいく、するとそこに現れた顔は。

「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 驚きのあまり後ずさった私は、足を滑らせてバランスを失いそのまま谷底へと落ちた。絶壁に悲鳴をこだまさせ、どこまでも落ちていく。底知れない深い暗闇へと落ちていく。


「おっと、危ない」

 木の根っ子に足を引っ掛けて転びそうになった私の体を、彼は反射的に支えてくれた。

 十月の秋晴れの日曜日、私はボーイフレンドの”鈴坂吉成”くんと、”XX山”までハイキングに来ていた。

 彼が大学で山岳部に所属しているという理由から、久し振りのデートにと誘われた場所がここだったが、山登りなんて、それこそ中学生の遠足以来で、疲れるし、汗をかくだろうしで、正直気が進まなかった。

 しかしどうだろう、実際来てみると真っ青に澄んだ大空のもと、小鳥のさえずりを聞き、風を肌に感じながら、土を踏みしめて歩くのは爽快で、来て良かったと考えを改めるのも時間の問題だった。

 街中では少し頼りない感じのする鈴坂くんも、木々の生い茂るこの場所は自分のテリトリーだとばかりに、生き生きとし、足場の悪い箇所ではすぐに手を差し伸べてくれたり、指示をだしてくれたりと、その後ろ姿もいつになく頼もしい。惚れ直してしまいそう・・・・.


 そして、お昼過ぎには予定通り目的の頂上について、下界を見おろしていた。住んでいる町の全景や、遠方に緩やかにうねる湾岸線を一望の元に見渡すのは気分がよかった。のんびりと空を舞うトンビ、ゆうゆうと流れる白い雲。顔を見合わせて二人、微笑みを交わし合う。平日だからか、他に登山客の姿もなく、静かなものだ。

「広い世界を二人占めってかんじだね」

 そう言って無邪気に笑う鈴坂くんの顔は子供のようにかわいらしい。


 大きな杉を見つけた私達は、その下にブルーのシートを広げて、昼食をとることにした。おにぎりに唐揚げ、ポテトサラダにソーセージ、丹精を込めて作ったお弁当をおいしそうに食べてくれる。人がいないのをいいことに、つまんでお互いの口に入れたりと、はしゃいだ。まるで子供みたいだ。

 食事を終えると、二人で草の上に寝転がり秋の陽射しを浴びながら、とりとめのない会話を交わす。学校のこと、家族のこと、私生活のこと、そして二人の将来のこと・・・・。鈴坂くんの朴訥と喋りに心は癒されていく・・・・ああ、このまま時が止まってしまえばいいのに・・・・。

 そしていつしか話すことが無くなっても、居心地のいい沈黙がそこにはあった。隣に寝ている鈴坂くんの横顔、ぽっちゃりとした鼻を、おでこを、唇を見つめる。

 付き合ってかれこれ半年くらいたつだろうか、逢うたびごとに好きになっていくのが判る。彼と出会えて良かったと心から思う。優しくて、ハンサム(私の目にはそう映る)で、話があって、なにより一緒にいて心が安らぐ。

「何?」

 視線に気づいた彼が、照れ臭そうに笑っている。

「う、ううん」

 首を振る私、えっ?その時、さりげなく彼の顔が近づいて・・・・・。

 ・・・・・・・・・・・・。

 キス。

 キスをしたの?今、私に?甘い感触が唇に残っている。

 それはファーストキスだった。


 「彼とはまだキスもしてないの」そう友達に告白したら随分とからかわれたものだった。「付き合って半年たつんでしょ?今時いないわよ、そんな男女」って。

 そうかしら?いいじゃない。余計なお世話よ。大事なのは心の結びつき、早いの遅いのってそんな問題じゃないわ。

 ずっとそう思ってきたけれど、ああ、ついに私と鈴坂くんも、キスをしてしまったのだ。二人きり、この山の頂上で。


 その後の二人、急によそよそしくなってしまって、会話も途切れ勝ちだ。なんだか目も合わせられない。鈴坂くんたら、あれからずっと、そっぽを向いて口笛をふいてばかりいるし。

 それにしても誰か、この高鳴る胸の鼓動を止めてほしい。ドキドキとさっきから鳴り止まないの。彼に聞こえてしまうんじゃないかと、心配になるほどに。


 ドキッ。

 突然、動いたので驚いてしまった。起きていたのか。私が作ったスープの匂いに、反応し”彼”がこちらに身を傾けたのだ。

「どう?痛みはもう治まった?」

 コーンスープをすくいながら尋ねても「・・・・・・・・・」無言のままだ。

 体中、ひどい火傷を負ったショックから今だ立ち直れないのだろう、虚ろな目をした”彼”は、ただ機械的に差し出された食事を黙々と飲み下しているばかり。

 変わり果てたその異様とも思える姿に、また私の瞳に涙があふれてきた。可哀想に。いつまでここにいなければならないのだろう。助けはくるのだろうか。悪い想像ばかり浮かび、黒雲に覆われたように不安で胸が一杯になる。

 駄目だ!しっかりしろ。涙を拭い、賢明に自らを奮い立たせた。気を引き締めて行動するんだ。全身火傷で身動き出来ない”彼”を守れるのは、私しかいないのだから・・・・・。そう。必ず、一緒に帰ってみせる!


「そろそろ帰ろうか」

 鈴坂くんのよびかけに、私達は帰る仕度をし、登山道を下り始めた。午後二時を過ぎた辺りでまだ早いように思えたが、秋の日は落ちるのが早い。何より登山には慣れた彼の意見に、間違いはないだろう。

 それにしても並んで歩く二人の間には、キスのせいでまだよそよそしさが残り、何を話していいのかわからない。我ながらうぶだわ、などと思っていると、「あっ、待って!」声をあげ、道をそれて、鈴坂くんがガサガサと草をかきわけていくではないか。

「どうしたの?」

「いや、これ、ハナイカリじゃないかと思って」

 後を追い、彼の後ろから顔を出してみると、そこには船の錨の形に似た白い綺麗な花が咲いていた。そう、鈴坂くんは植物マニアで、色々な草花を採取しては写真を撮ったり、押し花にしたりして、スクラップしているのだ。部屋を訪ねた時に、棚の一段をうめつくすそれらを、解説入りで見せてもらった時のことを思い出す。

「あっちにもありそうだ」

「ちょっと待ってよ」

 鈴坂くんはそうした草花のことになると夢中で我を忘れてしまう。そんなところが可愛らしくもあるのだが、何もデート中に・・・・・。

 そんな気持ちも知らずに、鈴坂くんときたら森の奥へずんずんと進んでいく。その姿はものに憑かれたもののようで、黙って後を追うしかなかった。

「ほら、ウチョウランを見つけたよ」

 楽しげなその声は明らかに浮かれている。考えてみればデートをここに選んだのは、趣味を兼ねてということもあったのだろう。もはや夢中になった彼を、誰も止めることは出来ない。

 

 そして気が付けば、沢山の枝が折り重なったそこは日も差し込まない深い森の奥だった。人の手が介在していない、荒れ放題に伸びた木々や草の生えている様子は暴力的なほどで、腰の辺りまである草の海原で先へ進めなくなっていた。

「鈴坂くん、どこまで行くの?」

 我知らずヒステリックな悲鳴のような声を上げ、抗議する。

「えっ?」

 やっと我に返った鈴坂くんは、首を左右に振り、目を丸くして「ここ何処?」と、とぼけた声を出す。全く、それはこっちのセリフだ。


 結局私達は森の奥で迷ってしまった。まさかこんな目に合うなんて、悪い冗談のようだ。不安と怒りで自分を抑えきれずに不機嫌な顔になってしまう。

「そんな恨めしそうな目で睨むなよ、綾ちゃん」

「だって・・・・、鈴坂くんのせいよ、もう日が暮れるわ、どうするつもり?」

 腕時計の針は午後六時を指し示めし、木々の隙間から、今にも沈もうとする太陽がチラチラと最後の陽を投げかけている。

「大丈夫。確か、こっちへ進めば戻れる・・・・と思うんだけど・・・」

 すっかり信用を失いつつある鈴坂くんの背中を見つめ、深くため息を吐いた。


 秋の日は短い。あっという間に辺りは暗闇に包まれてしまった。これ以上歩くのは危険だ、ここらは崖や急な傾斜が所々にある。鈴坂くんがそう言うので、私達はとりあえず、大きなブナの下、開けた場所に座り込んだ。彼が持っていたビスケットが夕食の代わりだ。

「心配ないよ、一晩くらいなんとかなるさ。逆になんだかワクワクしないか」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「ここらは熊も出ないし、危険な蛇とか虫もいないからね、平気だよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「まだ怒ってるの?綾ちゃん」

 やはり責任を感じているのか、憮然としている私に向って、鈴坂くんは過去に経験した登山での出来事を、面白可笑しく話し始めた。絶対笑うもんか、と我慢していたのに、ある箇所で思わず、ぷっ、と噴き出してしまう。すると調子に乗ってさらに大げさに身振り手振りを交えて話し続けるものだから、最終的にはけらけらと笑い転げていた。

「今鳴いたカラスがもう笑った、って感じだね」

「もう・・・・」

 全く、喧嘩してもいつもこんな風で、憎めない人だ。まあ、こういうところが好きな点でもあるのだが。

「見てよ、ほら、すっげー。あんな沢山の星が見えるぜ」

「あ、本当・・・・、凄いね。こんな綺麗な夜空を見たの初めてかも」

 空一面に輝く星のパノラマ。都会では決して見ることの出来ない圧倒的な光景を、恋人と二人きりで見上げているという状況は、随分とロマンチックで、道に迷ったのも悪くないかも・・・なんて思ったりして・・・・。

 はっ!

 肩と肩が触れあって、まるで電流が走ったように体が震えた。いやだ、また胸がドキドキと高鳴り始める。

 そう。私が怒っていた、というより困惑していたのは、今晩二人きりで過ごすことを心配していたからだ。だってやっぱり、それはどうなんだろう。なんたってファーストキスをしたばかりの関係なのだ・・・・・。あせっちゃう!


 二人きり、それがこんなにも重く、息苦しいものだとは思いもしなかった。真夜中、沈黙で満たされた山小屋の中。

 ぞっとするような悪夢に眠りを妨げられた私は、暗闇の中で目を開いていた。何て嫌な夢だろう。そこにまたあの男が現れたのだ。沼田要一、高校生の時のクラスメイト。夢の中であいつはいつものように、私に襲い掛かってきた。逃げても逃げても、あの粘着質な蛇のような無気味な瞳を光らせて追ってくる。ぬめぬめとした手を伸ばし・・・・私は髪をつかまれて・・・・・、そこで悲鳴をあげて目を覚ましたのだ。思い返すと寒気がした。

 そして私は”彼”を見る。部屋の片隅に横たわる体中を包帯でぐるぐる巻きにされた”彼”を。”彼”は・・・・・・・・・・・・。

 確かに鈴坂くん、である筈。それは間違いない、多分・・・・。

 頭を振る。おかしな妄想に頭を支配されて、それがどうしても離れてくれない。

 鈴坂くんと沼田、その性格は全く逆で比べるまでもない、それははっきりしているのだが、この二人、見た目がよく似ているのだ。顔の輪郭、身長、体型、体重も似たようなものだろう。

 いや、まさか、でも・・・・。

 私があの火災の中から助け出したのは、鈴坂くんだった、筈・・・とはいえ確証は無い。何故なら倒れていたその男は火傷で顔、そして全身もまた黒ずみ爛れて、誰であるか見分けがつかなかったからだ。

 つまり”彼”は、沼田要一、である可能性もあるのだ・・・・。

 ごくり、と唾を飲み込み、暗闇の中じっと動かない、包帯に包まれた”彼”を見つめる。


 鈴虫の鳴き声が響く暗闇の中で何やら作業を進めている彼、鈴坂くんを私は見つめていた。

「これくらい集めればいいだろう」

 地面を掘って、その上に集めてきた枯れ枝を交互に重ねると、持参していたというライターで紙切れに火種をともし、枝へ火を移した。ノートを仰いで風を送り、無事に火は燃え上がった。

 夜になり、忍びよってきた寒さを私が訴えると、たき火を起こそうということになったのだ。

「よしっ、どうだ暖かくなったろ」

「うん・・・・」

 手をかざすと、かじかんでいた指先がじんわりと熱くなる。微笑み交わす私と鈴坂くん。

 燃え盛る赤い炎、そしてパチパチと木のはぜる音を聞いていると、小学生の頃に言った林間学校のキャンプを思い出し、楽しい気持ちになってくる。

 その時だ、背後に気配を感じて振り返った。森の奥は真っ暗で目をこらしても何も見えない。でも確かに何かを感じた・・・・・。

 人にじっと見られているような・・・・・。

「どうした?」

 緊迫した表情に気づき、尋ねる鈴坂くんに、私は頭を横に振って。

「ううん、誰かに見られているような気がしたの・・・」

「熊かもしれない」

「えっ!さっきここにはいないって言ったじゃない」

「たまたま発見されていないだけで、実際はいるのかも・・・」

 そう深刻に呟いた後に、なんてね、と舌を出す。

「もうやだ・・・」

 こんな時に冗談を言うなんて。でも熊の方がはるかにましかもね、あいつ、沼田要一に比べれば。


 沼田要一。

 その姿を思い浮かべるとゾッとせずにはいられない。あの執念深い目、とがった鼻、薄い唇、変に整っている分、今となっては嫌悪感を覚えるその容姿。記憶からきれいに消去してしまいたいと何度願ったことか。しかし意に反して、ことあるごとにその姿は頭にちらついて離れようとしない。それだけ強烈な印象が残っているのだ。

 あの頃。まだ男の子と付き合ったことのない高校生だった私は、ある日唐突に告白されたのだ。

「ずっと好きだったんだ。よかったら交際してくれないか」と。

 その相手が沼田要一だった。

 戸惑い、舞い上がり、訳も判らぬうちに頷いて、とりあえず付き合うことになっていた。それが過ちの始まりとも知らず。

 しかし結局、数回デートしたきりで、二人の関係は終わってしまった。

 沼田という男の気味悪さが判ってきたからだ。

 確かに一見すると格好は良かった。整った顔立ち、均整のとれた体つき、スポーツや勉強もそこそこ出来るようだったし、友人の中にはうらやましいという子までいた。

 しかし二人きりになり行動を共にした途端に、即座にうんざりしてしまった。

 神経質で口うるさく、粘着質でグチグチと絡む癖があり、独占欲が強いその性格はとてもうまくやっていける相手ではなかった。すぐに顔を見るのも嫌になり、三、四回目だかのデートの途中、はっきりと別れを告げた。

 すると沼田は激昂し喚きだした。俺の心をもてあそびやがって、騙したな、ふざけんじゃねえ、この淫売と口汚く罵られ、殺気のこもった目付きで睨まれて、今思い返してもゾッとする。しまいにはおまえを永遠に呪ってやる!とまで言われ、その後、無事に家に帰ることが出来たのが不思議なくらいだ。

 しか本当に大変だったのはそれからだった。そう、沼田の嫌がらせが始まったのだ。

 無言電話、罵詈雑言をつらねた手紙、ネットに悪口を書き込まれたこともあった。そしてスト-カー行為。下校中は勿論、休日にどこかに遊びに出掛けた後をつけてくるのだ。そして他の男の子と親しくなろうものなら、即座にあらゆる手段で邪魔してくる。

 両親や先生に相談して、注意してもらっても治まるのは数日だけ(奴は先生の前では優等生になりすます)で、すぐに元通りになってしまう。

 ほとんどノイローゼになり、恐くて外へも出られなくなって・・・・。高校生活は散々なものになってしまった。

 私が実家の千葉県を離れて、遠く神戸の大学を選んだのは、沼田の手が届かない所へ逃げたかったからというのが真相だったりするほどなのだ。


 メチャクチャにされた高校時代の分を取り戻す勢いで、大学生となった私は毎日を活動的に過ごした。友人を沢山作り、サークルやイベントに参加して、遊びに勉強にと精を出す。自分がこんな積極的な人間だったなんて、と驚く程に。

 そしてついには理想の恋人まで見つけてしまった。その人の名は鈴坂吉成・・・・・。今目の前にいる彼なのだ・・・・。


「また、ぼんやりして」

 コツン。鈴坂くんが私の頭を軽く小突いた。

「うふふふふふ」

「何を考えていたの?」

「ふふふ、内緒」

「気になるな。あっ、もしかして俺のことか?いひひひひ」

「ばーか、んな訳ないじゃん」

「いや、的中したな。だって綾ちゃん、ほっぺが赤くなってるぜ」

「えーっ!嘘よ嘘」

 もーっ!バカバカ、乙女心が判らない人ね、恥ずかしさに顔を膝にうずめる。鈴坂くんなんて知らないっ!心の中で呟いた。

 他人が見たら鼻で笑われそうなやり取りを、ついしてしまったのは、夜二人きりという状況もあるけど、何よりも胸にせまる嫌な予感を振り払いたいがためだったのだが・・・・。


 さてさて、そんなこんなで時は過ぎ、いつしか眠っていたようだ。

 目を開くと、たき火の炎はまだ勢いよく燃えている。腕時計を見れば午前一時を過ぎた辺り、深夜だ。

 えっ?

 戸惑う私。隣にいた筈の鈴坂くんの姿がないので。やだ、どこへ行っちゃったの?森の中に一人きり。うるさい程だった虫の声も何故か全く消えて、重苦しい沈黙がのしかかるよう。今にも暗がりから何かが飛び出してきそうで、身を強張らせ、左右に目を光らせた。もう・・・・やだ・・・・。

 バサッ。草を踏む音?鈴坂くんかしら。

 バサッ。

「・・・・・・・・・・」

 バサッ。

 鈴坂くんに決まってる。他に誰がいるっていうの?

 バサッ。

「誰?」

 手のひらが汗でびっしょりだ。

 はっ!立ち上がり、振り返ったその後ろに立っていたのは!


 ガチャーン!

 誰?

 驚きのあまり、手にしていたカップを落としてしまった。恐怖に身がすくみ動けない。外は暗闇。ここは人里離れた山の上にある小屋だ、他に人はいない、筈・・・・。

 しかし確かに、今ガラス窓に人影が映っていたのだ。白髪で皺だらけの痩せこけた老婆が、落ちくぼんだ鋭い瞳でこちらを睨んでいた。まるでおとぎ話に出てくる魔女のような風貌の。

 恐る恐る、窓を開け首を出して確かめる。人の気配は無く、夜に沈んだ黒い森の木々が微かに風にざわめく音がするだけだ。

 疲れているせいだ。ドアを閉めると、椅子に座り込んだ。割れたカップを片付ける気にもなれず、背もたれにぐったりと身を預け、長い吐息をはく。

 ガタン!

 床の振動する音に顔を向けると、横たわり眠っていた”彼”がビクビクと、さながら陸に打ち上げれた魚のように、痙攣して体を小刻みに震わせているではないか!

 ただ事ではないと、あせり、駆け寄って呼びかけた。

「どうしたの?どこか痛むの?」

 苦痛から逃れようとするように、無言で更に体をくねらせている”彼”。どうしたらいいのかわからずに、おろおろと”彼”の周りをうろつくことしか出来ない自分の無力さがもどかしい。

 すると、ガッ!と”彼”が腕を伸ばし、私の足首をつかんだ。見ると包帯が解け、中から人間のものとは思えないような赤黒く変色した手が覗いている。

「きゃああああああ!」

 思わず悲鳴をあげてしまった。

 ”彼”は助けを求めるように、なおも強く足首にその指を食い込ませてゆく。

「ぐっ、ぐふっ、ぐはあああああああ・・・・」

 管からガスがもれるような無気味な声を発しながら。


 気を失うかと思う程驚いて、振り向いた私が目にしたのは、背格好は似ているが鈴坂くんとは別人の、それは。はっはっはっはっ・・・・・、飢えた犬のように荒い息を吐き、汚れたジーンズにTシャツ、浅黒い顔にはギラギラとした執念深い炎に燃えた瞳がはりついた、異様な姿の男。

 沼田要一!

 奴だった。

 ああ・・・・・、何故・・・・、どうして、あなたが?ガクガクと膝が震えて止まらなくなった。

「綾、綾、綾、綾・・・・・」

 地の底からのような声が響く。

「ど、どうして、あなた・・・・。まさか千葉から追ってきたの?」

「そうだよ。黙って消えてしまうなんて、ひどいじゃないか。ずっと探しまわっていたんだ。やっと見つけた」

「それにしてもこんな山の上まで・・・・」

「昼間、綾のアパートに行き着いたんだ。友達から恋人と出掛けたと聞いて、調べて追いかけてきた」

「そんな・・・・。と、とにかく幾ら追ってきても駄目よ。私とあなたはもう何の関係もないんだから!」

「それは綾が一人で勝手に決めたことだ。俺の方は今でもずっと恋人だと思ってる!」

「あなた頭おかしいんじゃない!?私達、ただ数回、デートのようなもの、をしただけでしょ!」

「忘れたのかよ!綾は確かに、俺の告白に頷いたろ!」

「だから、その後ちゃんと断ったじゃない」

「こ、この・・・・。じゃあやっぱり俺を騙したってことか?」

「騙す?何言ってんの?本当にあんた、おかしい、狂ってる。一回お医者にでも・・」

 私に向って沼田が飛びかかってきた。

「きゃああああああああ!」

 最早その目はあちらの世界へ行っており、話など通じる状態ではない。全速力で逃げ出した。

 あっ!

 転んでしまう。土のくぼみに足をとられて。すぐに起き上がろうとして、やめた。そのまま這いつくばって、子供程の高さもある草むらに身を隠していた方がいい、と判断したのだ。

「綾ー、どこだ出て来いー!」

 沼田の怒号が近くに聞こえる。

 私はそのまま草むらに隠れ、じっと息をひそめていた。トクン、トクン、トクン・・・。心臓が早鐘のように胸を打っている。

 バサ、バサ。草をかきわける音が次第に近づいてくる。目を閉じ、開き、また閉じ・・・・。冷汗が背中を伝う。

 バサッ!ひときわ大きい音がすると、すぐ目の前にアシックスのシューズがあった。

 ゆっくり、顔を上げれば、そこには。

 ニターッと、黄ばんだ歯を見せて笑う、狂気に歪んだ沼田の顔が!


 きゃあああああああああ!

 自分の悲鳴に驚いて目を覚ました。思い出したくもない悪夢、もう何度目になるだろう。夢の中に、あいつ、沼田が現れて追いかけられるのは。もう大概にしてほしい

 山小屋の中へ窓から斜めに朝日が差し込んでいる。とっくに夜は開けていた。

 部屋の片隅には体中を包帯に巻かれ、静かに横たわっている”彼”をしばらく見つめ続けて思い出す。”彼”に足首をつかまれて、驚きのあまりそのまま意識を失ってしまったことを。

 火傷による痛みのせいだったのだろう、あんなに苦しみ悶えていたのは。現在、おとなしく寝ているところを見ると、それは治まったようだが・・・・。

 包帯はところどころ黄ばんでよごれている。傷口から出た膿みのせいだ。消毒して新しい包帯に変えてあげなければ。ここに救急道具が常備してあって本当に良かった。

 大きく深呼吸をすると、汚れた包帯を解き始めた。手の震えを止めることが出来ない。

 ああ・・・・なんてことだろう。再び”彼”の変わり果てた姿を前に、いたたまれない気持ちになる。火に焼かれたせいで、”彼”の皮膚のほとんどは、ただれ、むけていた。赤黒いその肌はもはや原型をとどめない程ぐしゃぐしゃだ。そう、”彼”が鈴坂くんであるかすら、判断出来ないくらいに。

 消毒液を含ませた脱脂綿で、顔、体を拭きながら、流れ出す涙を止めることが出来ない。早く病院に連れていかないと、このままでは”彼”は死んでしまうだろう。しかし、その術は今のところ無いのだ。それにもし万が一、助かったとしても、彼が元の顔、姿に戻れることは・・・・ないだろう。

 私が愛した鈴坂くんの、目、鼻、口、全ては焼けただれ、決して元に戻らないのだ。

 何よりショックを受けるのは彼本人だろう。自分で顔を見た時のその大きな衝撃を思うと・・・・・。ああ、自分が非力さを痛感して悔しかった。出来ることといったら、こうして焼けただれた今は腫れてしまった手を握り、元気づけることだけ。鈴坂くん・・・しっかりして。

 はっ!

 身をすくめ、握ったその手を見つめた。一瞬感じた違和感は何だろう?

 それは・・・・。思い出していた。登山中、私の手をとってくれた鈴坂くんの手の感触を。その時と今とでは・・・。確かに変わり果てた手だから、なのかもしれないけど、何かが、違うような気がした。そう、別人のような・・・・・。

 じっとして動かない”彼”をまじまじと見つめ、尋ねる。あなたは・・・・鈴坂くんだよね?

 無言のまま答えない”彼”は眠っているのか、それとも。

 まさか、まさか・・・・ああ、想像したくもないけれど・・・あなたは沼田要一では・・・ないよね?


 沼田に髪を引っ張り上げられ、私は無理矢理立たせられた。

「こっちに来い!このアマ!」

「いやっ、やめてえ!」

 しかし暴れたところで、異様な昂揚状態にある沼田の体はびくともしない。ギロリと凶悪な瞳に一睨みされ、私の体は畏縮した。

 すると突然、草むら飛び出してきた黒い影、それは疾風のように突進してきて、あっ!沼田の腰を抱えたまま地面に転がった。

 それは、鈴坂くん?倒れた沼田に馬乗りになって、殴る殴る!

「逃げろ、綾ちゃん!」

 何が起こっているのか、状況がつかめないのか、沼田は振り下ろされる拳を交わすので精一杯だ。

 と、「うがああああああああああああっ」雄叫びをあげて反撃に出た。馬乗りにされた状態のまま体を起こし、腕をめちゃくちゃに振り回す。その勢い良く回したこぶしが鈴坂くんの顎へと命中した。

 悲鳴をあげる私。

 ふき飛ばされた鈴坂くんは、脳震とうでも起こしたのか頭をふっている。すかさず反撃のチャンスとみたのか、沼田が飛びかかった。パンチ、キックの応酬が始まった。

「やめて、やめてえええ!」

 絶叫を繰返したところで、もはや戦う獣と化した二人はどちらかが倒れるまで争いは止まらない。

 ゴキ!

 ひときわ大きく鈍い音を響かせ、右ストレートが男の顔面を直撃し、一方の男がもんどりうって地面に突っ伏す。闇に溶け込みどちらがどちらだか判らない。果たして勝利したのは誰なのか?

 たき火の炎が風をうけて大きく揺らぎ、立っている男の顔を照らし出した。

「鈴坂くん!良かった、どこへ行ってたの?」

「いやあ、ションベンさ」

 駆け寄ろうとして・・・・「きゃあ、後ろ!」叫んでいた。

 鼻からべっとりと血を流し、怒りで目を血走らせた沼田が、炎についた枝を持って仁王のように立っていた。たき火から拾い上げたのだろう、それを差し出して鈴坂くんのシャツに火をつけた。

「うわああああああああっ!」

 炎はあっという間に広がり鈴坂くんの体を包んだ。

「あははははははは、ざまあみろ。綾に近づく男はみんなこうしてやる!」

 悪魔のように笑う沼田。なんて奴だろう。すると炎をまとったまま鈴坂くんが沼田を抱え込んだ。

「うわっ、離せ!こいつ、離せえええええっ!」

 沼田にも炎が燃え移り、そのまま地面に転がる二人。

 もう何が何だか判らずに、絶叫していた。記憶もあやふやだ。炎に巻かれたまま二人はなおも取っ組み合い、転げ回る。そして火は周りの草木にも燃え移り、見ると木が燃えていた。ここのところ雨はなく空気は乾燥している。炎の範囲はすぐに広まって、さらにその勢いを増していく。

「鈴坂くん、鈴坂くん!」

 半狂乱になりながら、何とか助けなければと思うのだが、実際どうしたらいいのか。ただオロオロするばかりで自分が情けなくなる。

 それに駄目、物凄い煙に取り囲まれて何も見えなくなっていた。真っ暗だ。

 こほ、こほ、こほ、こほ、こほ、こほ、こほ、こほ。

 ああ、鈴坂くん・・・・・。

 思わず吸い込んでしまった煙に、激しい呼吸困難に襲われる。くしゃみ、鼻水、そして目が!目が痛くて開けていられない。流れ落ちる涙。げほごほぐふぶほっ!ああ・・・意識が遠くなる・・・苦しい苦しい・・・・す・・・すずさ・・・かく・・・・ん・・・ああ・・・・・。


 私は気を失った。


 *

 草木が焼け焦げ、黒くなっている地面を歩いていた。思った以上に炎は広範囲に及んでいた。

 立ち止まる。そう、確かこの辺りだ、鈴坂くんと沼田が争っていたのは。数日前の悪夢が、ついさっきのことのように思い返される。

 そう、あの後・・・・・。


 顔を激しく打つ水滴によって意識を取り戻した私は、激しく咳き込みながらも立ち上がった。体はフラフラとうわついて、二日酔いのような頭痛、そしてむかむかと吐き気に襲われていた。空は黒い雲に覆われて、土砂降りの雨だ。どのくらい前から降っていたのか。髪や服は水を吸ってびっしょりと重い。

 辺りを見回すと白い煙が焦げた草木の間から立ち昇っているばかりで、もう炎はなかった。雨だ、この豪雨が、炎を消火してくれたのだ。

 まって、そうだ!そんなことよりも!

「鈴坂くん!」

 気になるのは鈴坂くんのこと。炎に全身を包まれた彼の姿が脳裏をよぎる。ああ、もしや、そんなことがあってはならない・・・・。血眼でその姿を捜し回り・・・・。

 !

 燃え尽き倒れた木の下に隠れるようにして横たわる人間を見つけて駆け寄った。が、思わず息をのみ立ちすくんでしまう。ひどい・・・・。

 その体からは今だ白い煙が立ち昇り、顔といい、腕といい、足といい、どこもかしこも真っ黒で、ミイラのような姿になっていたのだ。声もなく、ただ震え、何も考えられなかった。

 いや、いやよ、こんな。・・・・・・・・すずさかくん・・・・・すずさかくん・・・・・。

 呪縛がとけたように

 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。

 絶叫していた。

 

 泣き喚き、抱きしめて、彼の心臓がまだ脈打っているのを知った時、嬉しいというより困惑した。生きている?こんな状態で?彼は・・・・まだ生きている??


 もしかしたら・・・・、あのまま死んでいた方が幸せだったのでは、とふと思った。あの焼けただれた姿は・・・・もはや人間とは思えない。正気を取り戻した彼が、あの姿を見たら・・・・それこそ気が狂ってしまうのではないか。そう考えるとまた瞳には涙があふれ、泣いていた。


 取り乱していた私は、倒れている人間が一人しかいないことを不審にも思わずに、それを鈴坂くんであると決めつけてしまった。しかし、そう。倒れているべき人間はもう一人いる筈なのだ。あの憎き男、沼田要一もまた同じように紅蓮の炎に包まれていたのだから。

 しかし改めて捜索してみても、他に倒れている人の姿はなく、どこへ消えてしまったのか疑問に思うばかり?

 気が付けば空は茜色に染まり、ひんやりとし始めた空気に身を震わせる。秋の日は短い。山小屋へ帰らなければ。


 何度も自分に言い聞かせた。落ち着け、落ち着くんだ。ここで私がしっかりしなければ、誰が鈴坂くんを助けるというのか。なおも降り続ける土砂降りの中、大きく深呼吸をして自らを奮い立たせるよう頬を叩いた。大丈夫、出来る、私は歩いていける!

 とはいえどう考えても、全身火傷で瀕死の状態にある鈴坂くんを背負って山をくだることは無理だった。だとしたら一人でふもとまで行き、助けを呼んで戻ってくるしかない。

 鈴坂くんの体を引きずって、雨の当たらない大きな木の下に移動させると、下山を始めた。下りの山道は決して容易いものではないのは判りきっている。でこぼこの岩を超えたり、手をかけて降りねばならぬ斜面もある。そしてこの雨だ。視界は遮られ、土はぬかるみ、岩肌は滑る。危険に満ちたそれは行程だった。しかし文句を言っている暇はない。一刻も早く助けを呼ばなければならないのだから。

 半分まで降りた辺りだろうか、私の足は止まっていた。なんてことだ。確かに来た時にはあった筈の道が消えていたのだ。ある箇所からぷっつりと。

 土砂崩れ。この豪雨のせいで崖が崩れ、道を塞いでしまっている。どろどろの赤土や、岩石、根っ子ごと引き抜かれ横倒しになっている木。これを超えることは不可能だろう。しかも迂回しようにも、脇はすぐに崖となっていて、ここを降りることもまた無理だった。

 ああ、どうして?こんな非常時に!頭をかきむしる。

 早くしないと、鈴坂くんが死んじゃう!

 パニックになって、無理矢理その崩れた土砂を越えようとしたものの、足をすべらせ、危うく崖から転落しそうになって・・・諦めた。

 泣きじゃくり、服を泥だらけにして、元来た道を引き返す私の胸には絶望しかなかった。


 山小屋を発見したのは運が良かった。不幸中の幸いというべきか、他に下る道がないかと紛れ込んだ横道の先にあったのだ。

 もしかして人がいるのではと期待したものの、中はガランとして、天井には蜘蛛の巣がかかっていた。鍵もかかっていないところからして、この辺に紛れ込んでくる人もいないような場所なのか。

 必死の思いでそこまで鈴坂くんを背負ってきて、小屋にあった救急道具で出来る限りの手当を施した。

 一息ついて小屋の中を探索してみると、間取りは寝室、居間、小さなキッチン、トイレ、シャワーと生活出来る環境が揃い、倉庫にはハムや缶詰、パックの水など、何日分かの非常用食料や毛布なども置いてある。机の引き出しにしまわれていた備品から、どうやらここは夏の間、山の監視員が寝泊まりに利用している小屋だと判った。

 とりあえずの衣食住を手に入れ、安堵した私は倉庫で見つけたエアベッドに倒れこみ、あっという間に眠りについていた。


 暗闇の中に、包帯で体中を巻かれた”彼”の後ろ姿が、浮かび上がるように現れる。ググググ・・・グキッ。頭だけを百八十度回転させて、こちらを向くと、閉じていた目をカッ!と開いて食い入るように私を見つめた。

 ゴルゴンの首に睨まれ者のように恐怖で体が動かない。その瞳は執念深く青白い炎のように、愛憎が入り混じって、激しく燃えていた。

 ・・・・・・誰なの、その包帯の下に隠れている人は?今や暗闇の中で、その妖しく光る両目だけが宙に浮かんでいる。

 あなたは・・・・・・鈴坂くんなの?それとも・・・・沼田?

 どっちなの、あなたは??


 夢か。この頃はこんな夢ばかり見て、安らかに眠ることもかなわない。

 一方、”彼”は静かに寝息をたてていた。さっき飲ませたトランキライザーが効いているのだろう。

 新鮮な空気を吸いたくなって、外へ出た。見上げれば今晩も綺麗な夜空で、宝石のような星が無数に散らばっている。

 もう疲れてしまった。こんな緊張状態があとどのくらい続くのか、すでに精神は限界にきていて、倒れてしまいそう。その前に助けが来てくれることを祈るばかりだ。

 私達の遭難はすでに知っている筈だった。この山にデートしに行ったことは友人に喋っていたし、鈴坂くんも誰かに話していることだろう。

 もう少し、あともう少し、がんばろう。きっと助けはくる。それを信じてがんばるのだ。


 それから数日たっても、助けはこなかった。

 山の中腹まで再び下ってみたが、崩れた土砂はそのままで、復旧作業が行われている様子もない。どうなっているの?

 私は毎日、”彼”と自分の為の食事を用意し、介護と手当をして、救援が来るのを待ち続け・・・・、そして恐怖に怯えていた。

 相変わらず言葉も発せず、横たわったまま、虚ろな瞳で天井を見ているだけの”彼”、そう”彼”が恐ろしくてたまらない。一体、”彼”は鈴坂吉成なのか、それとも沼田要一なのか・・・。誰か教えてほしい。どちらなの?

 日ごと、混乱の度合いはまし、追いつめられていく精神、かといって確かめる術もない。恐怖だけが大きくなっていくのだった。


「さあ食事よ」

 私は缶詰のサーモンをスプーンですくい、”彼”の口許に運んであげた。もぐもぐ・・・・。機械的にただ食物を摂取しているといった調子の”彼”。

「おいしい?さあもっと食べて、体力をつけなきゃ」

 なんだか大きな赤ちゃんを世話しているみたいだ。

 あ!

 ”彼”の力無く開いた口から、噛んでいた食べ物がポトポトとこぼれ落ちていた。

「もう、しっかり噛んでよ!」

 つい、きつい口調で叱っていた。世話ばかり焼かせるんだから!

 しかしそれでも”彼”は抜け殻みたいに、ぼんやりとしているだけで、私の声はどこにも届いていないのだ。

 もう、もう、もう!

 何のリアクションも返ってこない、そのことに苛立ちはつのり、急激に怒りの発作が襲ってくる。緊張の糸が切れてしまったように、気づくと彼のことを叩いていた。

「何か言いなさないよおおお!誰、あんた誰なの?誰なのって聞いてんの!返事しなさい!」

 自分を制御出来ずに、絶叫していた。泣きながら。もう訳がわからない。


 そして夜が来て、また朝が来て。

 看病に疲れてしまった。助けはこない、そんな気がした。このまま永遠に、ここで二人きり・・・・。抜け出せない悪夢のような日々が続くのだろう・・・・。


 はっ!

 目覚めると小屋の窓から差し込む朝日を受けて、半身を起こした”彼”の姿があった。

「あなた・・・・一人で起き上がれるの?」

 震える声で、呼びかける。

「す、鈴坂くん、あなた鈴坂くんよね?」

 すると、何ということか、”彼”は反応をしめして、ゆっくりと顔をこちらに向け始めたのだ。息を飲み、見つめる私の目と”彼”の目がぶつかる。長い果てしない時間が過ぎたような気がした。

 ”彼”の目、それはこれまでのような焦点の定まっていない虚ろなものではなく、明らかに自分の意志を取り戻した理知的な輝きを放っていた。

 そう、”彼”はようやく、自分を取り戻したのだ。

 唇が微かに開き、それが私を求めているように思えた。

 ファースト・キス。あの日のことが鮮やかに思い返された。鈴坂くんと私、青空の下、山頂で交わした甘い口づけ。

 そうだ。”彼”とキスをすれば、そうすればきっと、”彼”が鈴坂くんか、そうでないのか判る筈だわ。そう確信した。あの時との唇の感触は、今でもはっきり覚えているから。


 そして私は。


 彼の唇に、そっと、自らの唇を、重ねた・・・・・・。


 いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。


 混乱

 いや、

 誰

 誰なの?

 え?

 いや、いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや、

 彼は、

 彼は?


 鈴坂くん

                   では


      ない・・・・・。


 そんな、嘘、でも、

        違う

 あの

        唇の感触     


 違う      別人だ        とすると

 

 あれは・・・・・・・・沼田・・・・・・?????


 錯乱状態で小屋を飛び出した。


 そして


 

 あっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 足がもつれ、転び、急な斜面を滑り、転がって・・・・

 落ちる

    落ちる

        落ちる


           闇の底に・・・・・落ちてゆく・・・・・・・・・


 そして

    世界は闇に包まれた・・・・・・・。

 


 XX署の発表によると、十月X日未明、XX県XX町XX山にて遭難していた牧之原裕二さん(22)を無事救出した。全身打撲、骨折などの怪我により衰弱していたが命に別条はない模様。

 XX大学の山岳部に所属している牧之原さんは一週間前、単独で登山中にこの附近を襲った集中豪雨にあい、行方不明となり連絡が途絶えていた。

 雨による土砂崩れ、陥没などで捜索が遅れていたが、このたび山腹にある小屋に避難していたところを確保された。

 

 同じくXX県XX町XX山、牧之原さんが見つかった山小屋裏にある崖下より、女性の遺体が発見された。原因は足を滑らせて転落した際に、頭部を強打したための過失死と思われる。XX署は牧之原さんと何か関係があるのではないかとみて回復を待ち次第、事情を聞く模様だ。

 

 以上、新聞の記事より抜粋。

 そしてある雑誌に怪我より回復し、無事退院となった牧之原裕二さんのインタビューが掲載された。以下がそれである。


 ええ、突然の豪雨で慌ててしまって。丁度、急な岩場を下っているところだったから。足を滑らして、一気に下まで転がり落ちてしまった。その時にここ(左足の膝を指さす)を折ってしまったんです。ありえない方向に曲がってましたよ。少しでも動くと刺すような激痛が走るから立ち上がることも出来ない。後で知ったんですが、助骨と指の骨も折っていたんです。頭も打ったみたいで血が出てるし、雨は更に激しさを増すしで、ボロボロの状態だった。結果、気を失っていたんです。

 で気が付いたら、あの山小屋で寝ていた訳です。神経質そうな痩せぎすのおばさんが僕を見ていた。運良く助けられたんだって、そう思いました。

 でもね、しばらくして異変を感じた。ここには、そのおばさん一人しかいないと気づいたんですよ。部屋の中も殺風景で病室には見えないし。

 ここはどこか尋ねても、連絡をとらせてくれと言っても、とんちんかんな答えしか返ってこない。挙動不審で明らかに様子が変だから、これはやばいかもしれないと思い始めて・・・・恐かったですね。逃げた方がいいと思ったけど、怪我で動けないし。

 それで今思い出してもゾッとするけど、ある日そのおばさんは急に、僕の体を包帯でグルグル巻きににして、ミイラ男みたいにしたんです。身動き出来ないし、息苦しいしで、あんなに恐い思いをしたことはない。ほらホラー映画であるじゃないですか。そんな風に、最後は殺されてしまうんだって覚悟してました。

 で、どうなったとかというと別に何もないんです。飯を用意して、怪我の手当をして、とこれまで通り看護してくれるだけで。

 それと気になったのが、おばさんの僕を見る目付きでした。勘違いかもしれないけど、色目を使っているというか、こっちを見てうっとりしているような気がして・・・。かと思うと急に怯えたようになって睨み付けたり。何だったんだろう?独り言もよく言ってました。スズサカ・・・くん?だとか、あとは、ヌマタ?とか人の名前のようだったけど。

 体が日ごとに回復していくのが判ったのである朝、起き上がってみたんです。包帯で全身を巻かれているから大変だったけど、出来ればそのまま逃げ出そうと思って。

 そうしたら目を覚ましたおばさんに気づかれて、近寄ってきたんです。あの時は恐かった。もう駄目だと思って・・・そしたらキスされていた・・・ええ本当ですよ。訳わからない。急にキスしてきたんです。次の瞬間、身を引いて、「あなたは誰なの!」とか叫び出して、外へ飛び出していったんです。

 後で聞きました。そのおばさんが崖から転落して亡くなったって。でもその時は何が起こったのか判らずに、動くこともまだ無理だったので、いつ戻るか怯えながら待っていました。結局、おばさんは帰ってこずに、次の日は救助隊に発見されて・・・・。

 今思うと淋しい人だったんですね。あのおばさん。理解してくれる人がいなくて、おかしくなっていたのかもしれない。せめてお礼を言いたかったです。恐い思いもしたけど、あの人に助けられなければ死んでいたかもしれないんだから。


 その後の編集部の調査により、その山小屋に住んでいた”おばさん”の名前が判明した。矢崎綾。年齢は五十八歳。彼女が若い頃、恋人だったという青年の名が鈴坂吉成。彼は若くして火事による全身火傷で亡くなっている。その死のショックから矢崎綾は精神に異常をきたし、病院に入院していたことがある。保護者である両親が亡くなった数年前から、XX山の小屋を買い取り、そこで一人自給自足の生活をしていたそうである。そして今回、不慮の事故によって崖から転落死した。

 心よりご冥福を申し上げたい。


 完

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― 新着の感想 ―
[良い点] ストーリーが好きです! どんどん引き込まれていきました! [気になる点] 悪い点というか、 最初は、‘沼崎’だったのに 途中から‘沼田’に変わっていますよ!
2015/07/09 16:03 退会済み
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