国と民の仲介者、その昇進と苦悩
アィビッド帝国北方自治領北部、旅人組合北方拠点コルディリー支部。
北の文字が幾つくっついてんだって話だ――そんなことをぼやいても益体のないことではあるが、なにぶんこの長ったらしい文を何度も書いているのだ。
手首も指先も痛い。
仕事柄、書類仕事から逃れられない立場ではあるが、うんざりすることに変わりはなかった。
オグゼル・アリーは、たった今自身で書いたコルディリー支部の副支部長だ。
正確には、見習いとでも呼んだ方が良いかもしれない。
正式に副支部長と名乗るためには研修課程を修了する必要があり、彼はその研修を受けるため、大陸北端の辺境からはるばる帝都フロリナセンブルへ赴いたところだった。
旅人組合帝都本部は外壁と入口付近を見た限りでも、ものものしい黒い石造りの巨大な要塞のごとき建造物で、四階層もあるらしく室内の移動には時間がかかった。
さらに時間を取られた理由は、手荷物や装備に不審物がないか検査されたことではない。
到着証明やら身元照合用書類に滞在許可申請などなどと、様々な受付書類の内容を了承した上で、署名を求められたことによるものだった。
旅の疲れも相まって見る間に不機嫌になるが、受付担当者はそういった反応の変化を前にしても態度には表さない。見慣れているのだろう。誰もが不機嫌になるはずだから当然だろうなと、オグゼルは胸中でさらに悪態をついた。
書いたものに間違いがないかと、さっと目で追っては一枚ごとに机上を滑らせ担当者へと渡していく。
担当者も全ての項目が間違いなく埋まったことを確認し終えると、ようやくオグゼルは解放された。
廊下へ出ると、受付担当者とは別の案内役に促され階段を上った。
三階部分に滞在用の部屋や食堂などの区画があるとのことだ。
そういった場所まで本部内にあることに驚愕する。
コルディリーでは、来客には宿屋を案内することになるし、食事はさらに近場の食堂などに出なければならない。
虚しいことだが、田舎者の気後れを悟られまいと取り繕いつつ、はぐれないよう案内役の後を追った。
割り当てられた部屋へと入ると、室内を見る余力は残っておらず、ベッドを見るなり疲労に抗うことなく倒れるように眠った。
だから翌朝、何気なく窓を開けて、あんぐりと口を開いた。
澄み渡る空の下、オグゼルの目の前には、城があった。
この本部よりも広大で、色は明るめの灰色でありながら、ものものしさは負けず劣らずのごつごつとした城塞だ。
馬が体調を崩し馬車の進みが悪かったため、到着時には日が沈んでおり、周囲はよく見えなかったことが大きいのは確かだ。
しかし城は、夜半でも城壁の上には一定間隔で灯りが掲げられている。
夜に窓を開いていたなら、気がつけただろう。
「アィビッド王の住まう城か」
ふと敬礼をしたが、これまで特に忠誠心など意識したことはなく、そんな自分の行動に呆れたものを感じ身を翻した。
さっそく、研修と言う名の苦行が始まるのだ。
手早く準備を整えると部屋を出た。
◇
副支部長候補に推薦するからと、支部長の座を譲り受けて間もないへディ・ブランチェッドに告げられたのは、一年も前になる。
「席が長く空いてると俺の仕事が増える。そろそろ、副支部長を選ばにゃならん」
準備しておけと言われ、領内の法や旅人組合の規定など全てを確認しなおし、あらゆる緊急事態への対処に関す先例を調べるなどして過ごした。
オグゼルは、コルディリーで生まれ育った。
この町に、実際的な貢献のできる仕事は、旅人組合職員しかないと信じてきた。
だから他の候補者に負けまいと、意欲を燃やしていたのだ。
だというのに、他の候補について尋ねたとき、ブランチェッドは大口を開けて笑い出した。
「あぁ? そんなもん、いねぇよ」
選ぶなどと候補の存在を仄めかすような言い方をしておいて、実はそんなものは露ほども存在しなかったのである。
「あのたぬき親父が!」
もちろん、本当に引き受けるつもりなのだから無駄な努力ではない。
まったく腹の内の知れない男だ。オグゼルはやり辛くて仕方がなかった。
反りが合うとは思わないが、わざわざ副支部長へと推薦したほどなら、もう少し信頼があっても良いだろうと腹を立てていたのだ。
そのことが、長いことオグゼルの心にわずかながらブランチェッドに対する垣根を築いてしまった理由となった。
帝都で研修を過ごすことになる半年間で、オグゼルは上層部というものに抱いてしまった抵抗感を、拭い去ることが出来なかった。
ブランチェッドと反りが合わないと感じるのも、恐らくその部分の価値観が違うせいだと考えてしまったのだ。
オグゼルは、国とは違い、旅人組合は民に近いものであるべきだと考えている。
ブランチェッドなら、国や本部から命令されれば、どんなことだろうがいつもの調子でほいほいと頷くのだろうと思えた。
実際に、そういった場面を目にしてきた。
オグゼルは一職員であったときも、少しでも現状を良くするためならと、昇進を待つことなどしなかった。
誰もが支部長になれるわけではないし、なったからと一人だけ好き勝手に動けるわけでもない。
周囲の意識も変える必要があると考えた。
指示系統を乱すことを推奨しているわけではない。
問題があるなら、立場のせいで口を噤むなんてことがないようにと思ってだ。
その通り、立場は関係ないと意志を貫いてきた。
ブランチェッドとは意見を戦わせることも多かった。
そんな事柄を思い返していて、眉間に皺を寄せるのも何度目だろうか。
ならばなぜ、俺を選んだのだろうかと、それが不思議でならなかった。
◆
オグゼルが副支部長に任命されてから、実際に研修の期間が決定し、帝都本部へと赴任するまでには半年を要した。
任命後に長いこと待たされたのは、他の支部からの参加者と予定を合わせるためだった。
一々対処するのでは手間がかかるのは分かるが、ならば初めからそう告げておいてほしいと、そのときもうんざりしていたような気がする。
そうして、いよいよ始まった研修内容だったが、かなり大変なものだった。
甘く見ていたつもりもないが、どのような内容か大して想像できなかったことが痛かった。
自分は勤勉な方だと思っていたが、短期間に詰め込まれた副支部長以降の立場の者が手にする権利や振る舞い、連絡を取れるようになる機関や連絡方法についてなど、覚えるべきことは幾らでもあった。
これまでも、領内の法については徹底的に学んだ。
しかし各自治領にまたがる国の法は、最低限よそに迷惑をかけない程度で、自分達に関係のあることしか触れなかったのだ。
せめてもの救いは、研修とはいえ役職つきだったことだろう。
商家に丁稚奉公したり、工房の見習い職人などの若者たちは共同部屋で過ごすのだが、個室を与えられたこことだけは心からありがたかった。
晩飯も食堂で取ることはやめて部屋に持ち帰り、寝るまで復習をする日々を送った。
講習は室内で受けるだけではない。
最も多岐に渡る依頼形態に慣れているだろう本部だ。
彼らの仕事に加わる、実地の研修もあった。
慣れているはずで意外と苦労したのが、旅人達に教えるためと習う護衛依頼に向けた訓練だった。
現場主義だから体は常に動かしているものの、よくよく考えれば剣などいつから触っていないか覚えていないほどだった。
どうにか途中から勘を取り戻したものの、担当官の表情を見るに、評価はどうにか合格といったところのようで冷や汗をかいた。
符を扱うことは得意なほうで、なかなかの高評価を得たことで、気を取り直すしかなかった。
そんな頭も体力も連日駆使し、疲労はなかなか回復しない。
「こんなところで、歳を感じるとはな……」
オグゼルは、不満気味に三十代に乗った我が身を見下ろす。
それまで何処吹く風の支部長に不満を抱くこともあったが、あれでこの苦行を乗り越えた者なのだと思うと、気力が戻った。
「あんな親父にできるんだ。見返してやるさ!」
支部長だって、研修を受けたのはもっと若い頃なのだが、すっかり頭から抜け落ちていた。
最も苦手な研修は、実地の中でも、帝都の各組織を巡ることだった。
いざというときに連携を取る必要があるなら、嫌でも関わることとなる。
城内の各領地との連絡部署や、軍の司令部、商人組合の本部など、一般市民のオグゼルにとって、まさに上層部と呼べる者達がいる場所だ。
現場で住民や旅人らと共に働いてきたオグゼルには、この上層部のどこか頭から押さえつけるような感覚は不快で仕方がなかった。
圧力だけでなくとも、人々は手を取り合ってまとまることができる。そう信じているし、その光景を何度も目にしてきた。
それが見知った関係で、小規模の集まりだからなのだと理解はしていても、心は納得出来なかったのだ。
理想に燃えた青年だった。
北方自治領は広さの割に町が少ない。
コルディリーの北に位置し、本来の北方拠点だったパスルーの町と周辺の村が災害で消滅した後は、コルディリーを拠点とするためにかなりの投資をしただろう。
そのためだろうか、領主はもっと西の町から居館を移した。
しかし、管理はすれども領主陣営の存在は地味なもので、上層部といった実感が湧かずにいた。
そのせいで馴染みが薄かったことも、オグゼルの信念を後押ししてしまったのだろう。
表に出ないのは、住民主体で町を盛りたてて欲しいとの領主の方針によるもので、仕事を奪わない、もしくは仕事を作る配慮でもあった。
当然オグゼルの立場では知ることはなかった。
まんまとオグゼルは、上の奴らは役に立たないと断じ、俺達が踏ん張らなければと奮起していたのだった。
それでも、本当の危機に際しては、帝国側とも協力することになるし、誰もがそれぞれに出来ることを、やった。
数年前の異変で、それはオグゼルも重々承知しているはずだった。
上層部に属していようと、一人一人の考えに違いはあるだろう。
咄嗟の行動には、自身でも思いも寄らない行動を取る。
緊急時だったからこそ、そうだったのだと思うのだ。
しかし、現在は日常を取り戻しつつある。上層部の傲慢さも同じくだ。
だからこそ余計に、オグゼルは奮起した。
「皆さん、大変ご苦労様でした。こちらが修了証明です」
冷たく険しい表情を崩さなかった担当官が、笑みを作って副支部長候補らに手渡した。
不慣れなのだろう、その笑みはぎこちなかったが十分な労いとなった。
やり遂げた充足感を見せ、新副支部長らはそれぞれの町へと帰っていった。
あいつらにはあいつらの、俺には俺の仕事と信念がある。
オグゼルは随分と苦悩したと感じていたが、あっけなくも、それでいいと気付いた。
辺境の町に求められているのは、大枠で動く国の力ではない。
仲立ちをするように存在するのが旅人組合なのは、確かなのだから。
支部長は飄々とオグゼルの熱血を受け流す。
はっきりしないし腹の内も見えないこの親父には、つい反発してしまう。
でも、これで回るなら間違いではないのだろう。
◇◇◇
オグゼルは新副支部長として、支部長の後に付き従い、領主の館へ顔見せに訪ねていた。
広々としてはいるが華美さのない応接室に待っていたのは、領主だけでなく前支部長もだった。
領主はいかにも紳士然とした質素ながら品の良い衣装を、力仕事とは無縁な細い体にまとっている。
そんな見た目とは違い、意外なことに豪快に笑う男だった。
勝手な印象ではあったが、領主は気弱で軟弱で優柔不断であちらこちらの顔色を窺う男だと思い込んでいたのだ。
だから引っ込んで、滅多に表に出ないのだと納得していた。
目の前に立つ者は、とてもそうとは思えなかった。
領主は一言だけだが、オグゼルに明確な命令を下した。
「町は、住民のものだ」
内容には、はっきりとした指示の一つもないが、オグゼルには命令だと感じられた。
旅人組合は、国と領地ごとの法に追従しなければならないのは当然のことだが、各国に渡る組織構造でもある。そのために、緊急時の対策を独断で決行できる権限を有す。
いざとなってそれを忘れさせないように、普段から支部長は領主と同等の立場と認められてもいる。
組織系統も違い、領主に命令される謂れはない。
しかし副支部長以下職員は、一市民と同じである。
だから、常日頃から自分自身を支えてきた信念を、言葉にした。
「はい、そのための旅人組合です」
実際に口にしてみて、考えた以上に真剣に、そう信じている自分に驚いた。
そして、口にした以上は、必ず成し遂げねばならない任務となった。
民の側に立って働くと、領主に誓ったのだ。
領主は満足気に笑顔を浮かべ、頷いた。
まさか、これが支部長と認められるための最期の試練だったのだろうか。
そう困惑しつつも、受け入れられたようだということに安堵していた。