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甘い牢獄  作者: 葉野菜
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前編

 夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。

 一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。

 音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。

 男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。

 力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。 



……


 目覚めると、外は薄暗く、肌寒い。

 僅かに歪んだ鏡を見て、顔を洗い、髪を整える。その後さっさと台所に向かい、ボタンを押して明りを灯す。最も、この明りはもう少し外が明るくなった消すものだ。この明りは魔力を使用した高級品で、普通の家じゃそうそう買える物ではない。それと台所、そちらにも数多くの高級品が備え付けられている。火力台や冷蔵庫、調理台もかなりの高級品を使っている。かといって、別に貴族という訳ではなく、ごく普通の家に2人暮らししている。ラケトという男と2人。

 約1年前の話だ、私はすべての記憶を失っていた。目覚めるとそこはもう今現在の家にいて、目の前で看病していた男は旦那だと言った。僅かに残る記憶が、夫がいるという事を告げていたので、納得いったが。その全ての記憶を失っているので、本当かどうか定かじゃない。だから、しばらくはラケトの事を警戒していた。今考えると凄く失礼な態度を取ったと思う。その度に彼は少し寂しそうに笑って「記憶がないなら仕方ないよ」と言った。

 男は高給取りだったようで、次から次へと高級なものを家に運び入れた。まずベット。私は動揺したが、彼は私を気遣って別々の部屋にしてくれた。それがどんなに彼にとって切ないものだったのだろうか、今になってみればわかる。ラケトは私を凄く愛してくれていたからだ。いつでも気遣ってくれたし、優しく対応してくれたし、嫌がる事は全くしなかった。

 いつしか彼の愛情に私も惹かれるように。

 その時の彼の嬉しそうな顔と言ったら、今思い出しても顔が緩む。結局私の記憶が戻ることはなかったが、新しい思い出を彼からたくさん貰った。

 包丁を取り出して料理をする。不思議なもので、料理は普通にする事ができたし、日常生活にはなんら問題はなかった。自分の思い出だけがすっぽりと抜け落ちていたのだ。

 幸い彼は私を別の街へと移動させていた。そのために知り合いに会うことはない。思い出せない苦しみなんて、彼だけで十分だ。同じ街に暮らしていたなら、私はきっともっと苦しんで暗くなっていたはずだ。事あるごとに以前の自分と比べられ、そして思い出さない事に悲しまれる事もない。

 この街は皆私を知らなかったので、その苦しみはラケトだけで済んだ。そんな彼も、私を責める様な事はしなかった。「もしまた記憶を失っても、惚れさせてみせるよ」と甘い笑みを浮かべる彼の顔を、今でも忘れられない。あんなに自信満々に言いきれるのが凄い。顔良し、性格良し、お金も持ってる。これだけ言い条件の男なら、そりゃ自信もでるか。近所の娘さんにも好かれているようだし。毎度「いいなぁ、リサの旦那さん。優しいしカッコいいし……」と聞かされている。そんな彼が記憶を失ってもなお私の事をまっすぐに想ってくれている事が嬉しくて仕方ない。他の男と話していると、物凄く嫉妬するのも可愛らしい。それだけ愛してくれていてくれているという事実が、私の心を温かくしてくれる。これで、前の記憶があったなら、もっと彼を喜ばせる事ができるのに。と、自分に嫉妬を覚えてしまう。

 自分のことながら、記憶がないので他人のように感じるのだ。以前の自分の同じように愛した彼を独占していた自分に腹が立つ。この幸福者め。


「全く、重症ね」


 やれやれ、と小さく溜息を零す。


「何が重症なの?」


 背後からの声に振り返る。どうやら私の愛しいラケトが起きたようだ。眠そうな目を擦って、あくびをしながら椅子に腰かける。その彼の前に温かい飲み物を置いてあげる。そうすると、目元を緩めて「ありがと」とかすれるほどの声で礼を言ってくる。この何気ない彼の言葉にも喜びを覚えるのだから、本当に重症だ。


「ねぇ、何が重症なの?」


 暖かい飲み物を2、3口飲んでからハッと思いだしたのか、そう聞いてくる。私は彼をニヤニヤ眺めながら「なんでもないわ」と答える。

 そんな私を不満そうに見つめていたが、やがて口元を緩ませて。


「まぁ、リサが嬉しいならいっか」


 全く、本当にラケトはできた男だと思う。私には勿体ないくらい。私は彼に少しでも満足できるような幸福を分け与えられているだろうか。彼はいつでも満足そうに微笑んでいるけれど、なにかないだろうか……。

 そんな考え事をしながら調理をしていると、後ろで「ぐぅ」と腹の虫が鳴った。思わずクスリと笑って。


「もうすぐできるわよ」




 ラケトの朝は早い。どんな仕事なのかは詳しくは知らないが、とても早くに出発して、夕方に戻ってくる。時折残業する事があるらしく、遅い日もあるが、基本的に同じ時間に帰ってくる。その時に、おかずや重たい物を買ってきてくれる。こんなに気の付く旦那はいない、とご近所さんも太鼓判を押してくれた。その後のご近所さんの旦那の愚痴が長い事長い事。そんなに不満がでるようなモノなのだろうか。

私は彼に不満を持った事が全くない。逆にそれが不満かもしれない。

 もしかすると、彼は私を気遣いすぎてリラックスできていないのかもしれない。もう少し我儘でも言ってくれたらいいのに、なんだかいつも申し訳なくなる。そう言うと、「はいはい、あんたの惚気はもういいわよ」と言われて追い払われる。惚気なのだろうか。幸せすぎて不安になるのは贅沢すぎるだろうか。

 部屋の掃除、食器や服を洗う、料理。それだけすれば、あとは私の自由時間となる。何か足りないものがある時、ラケトが買い足してくれるので買い出しなんて行かなくてもいいのだ。

 本当は何もしなくてもいいのに、という彼に、それは甘やかしすっぎだと言って家事を勝ち取ったのだ。記憶がなくてもそれくらいはしないと落ち着かなかった。今ではこれだけでも足りないよう気がしている。全然恩が返せていない気がするのだ。勿論彼はそんな事言わないだろう。「リサが笑ってくれているだけで幸せさ」くらい平然と言ってのけそうだ。いや、言う。確実に言う。何か要望を言ってくれないと、叶えてあげる事も出来ない。彼に何か、何かしてあげたいのに……。


「そんなん、あたしを貰って!って言えばあの旦那飛んで喜ぶんじゃない?」

「……」


 相談した相手が悪かった。この街に来て出来た友人シャロル。年齢も近い事もあって、かなり打ち解けることが出来た。彼女には私が記憶喪失であった事を話している。あまり言いふらす事はしないように

と彼は言っていたが、彼女は信用しても良いだろうと話したのだ。彼女は誰にも言っていないようで、やっぱり信用できる人間だったとさらに仲良くなった。女同士なのに、ラケトが嫉妬するくらいには仲が良い。シャロルには旦那もいるわよ!と言っても、「それでもムッとするんだからしかたないでしょ」なんて言う。そんな所も愛しいと思ってしまうのだから仕方ない。

 しかし、自分を貰って……か。彼とはもう何度も体を許しているが、「好き」や「愛してる」などは言った事がない。なんだか今さら恥ずかしいのだ。


「まぁ、あれだね。真面目に答えると、何かプレゼントしてから好きやありがとうを伝えたらどうかしら?」

「そうね!良い考えだわ!でも、ラケトが欲しがるようなもの、思いつかないのよねぇ」


 うーん、と2人で頭を悩ませる。

 彼はお金を持っているので、大抵のモノは簡単に手に入れる事ができるだろう。私が用意できないような高級なものをポイポイ買っちゃうくらいだし。


「じゃあ、何か手作りしたら?もう寒くなるし、手袋とか」

「そうね!……でも、作った事ないわ」


「時間ならあるし、教えようか?」

「お願い!」


 そうして、私はマフラーをプレゼントする事にした。編み物をやった事がないから最も簡単な奴がいいと思ったのだ。それに、セーターや手袋と違ってサイズをはからなくてもいいので、内緒で用意する事も出来る所が良い。

 そう思って、早速作る事にした。とりあえず練習をしてから、本番に入る。何事も慣れが肝心だ。

 彼が帰ってくる夕方までひたすら編む。彼が帰る時間帯になると片づけて、夕食の用意をしていく。

その繰り返しだ。


 次第に編み目も整ってきて、いよいよプレゼント用の物を編む事にした。ここまでくると、少しだけ模様も入れたくなって、四苦八苦している。なんとか期日までに間に合わせたい。期日というのは、私とラケトが出会った……というか、夫婦なのだからその表現も少しおかしいが……その日が近いのだ。

 雪がしんしんと降り積もるあの雪の日。彼が私を見つけてくれなかったらそこで死んでいたかもしれない。実際、見つけられた時は冷たくなってしまっていて、脈は弱く死にかけだったらしい。彼がもう少し見つけるのが遅ければ危なかっただろう、と町医者に言われたのだ。本当に、彼には感謝してもし足りない。

 これでも足りないかもしれないが、少しでも伝わればいい。そう、願っていた。



「でっきたわ!」


 彼の暗い髪色にあった、少しだけ髪色よりも明るいマフラー。彼は喜んでくれるだろうか。プレゼントした時の事を想像して、顔がほころぶ。出会ったあの雪の日が明後日にまで近づいて、ようやく完成した。

 カタンと玄関の方で音がした。

 今日は彼が遅く帰ってくると言ってたので、彼ではない。誰かお客さんだろうか、この時間に珍しい。そう思って、完成品を彼に見つからないような所に隠して玄関に向かう。

 玄関には、見知らぬ長身の男が立っていた。左側の顔に、目から頬にかけてバッサリと何かできられたような大きな傷痕が印象的。彼の肩に雪が僅かにのっており、雪が降り出した事に今さら気付いた。

ずっと編み物をしていて気付かなかった。ラケトは濡れていないだろうか、と少し心配になる。

 男は、私を見つけた瞬間に大きく目を見開いて涙を流した。


「アリッサ……!」


 そう呼んで、私を強く抱きしめた。咄嗟に抵抗しようとしたが、頭が痺れて上手く動かない。

 ぎゅうぎゅうと息が苦しくなる程に抱き込まれ、呆然とする。グラグラ揺れる思考の中で、抱き込まれた体の力強さや、彼の懐かしい匂いが私を占める。


 ……知ってる。

 私、この人、知ってる。


 失くしたはずの記憶が警笛を鳴らす。

 思い出してはいけない記憶が、私を揺り動かす。

 彼の声が、彼の体温が、息が、匂いが、私に思いだせと警告を出してくる。

 本来あったはずの私の記憶。消し去ったはずの、私の。


「いやっ!」


 何かを思い出せそうで、必死で抵抗する。

 私の抵抗に虚を突かれたのか、男はあっさりと私への拘束を緩める。


「アリッサ?どう、したんだ?」

「……あなた、誰?」


 後ろににじりよりながら、必死で記憶を封じ込める。思い出しちゃいけない。私はきっと、思いだしちゃいけない。


「誰って……俺だ!ベルドだよ!忘れたってのか?お前の夫だぞ!?」


 驚愕に染まったその顔は嘘はついていない。彼が嘘を付かないと知っている。

 知らない、私は知らない。こんな人知らない知らない知らない。

 必死に頭を振って記憶を推し戻す。


「……なんだ、死んでなかったのか」


 ひやりと、冷たい声が響いた。ラケトが玄関で抜き身の剣をその手にして、立っていた。顔には能面のように表情がなかった。今までこんな顔見た事ない、その、はず、だ。そう言い聞かせるのに、何故かはげしいデジャヴを感じてクラクラする。


「僕の妻から離れてくれるかな?」


 そう言いながら、ラケトは剣を構える。

 ベルドと名乗った男も、剣を構えた。その表情に怒りを湛えて。


「妻だと?ふっざけるな!……俺の妻だ、返して貰う!」


 その瞬間、室内に金属音が鳴り響く。狭い室内で、どうやって剣を振るっているのか、2人に乱れはない。ベルドは片方の視界が塞がれている為、その死角をついてラケトが何度も切り込むが、難なくいなしていく。そんな事は想定済みだとばかりに、余裕の笑みを浮かべて。

 ザクリとベルドの剣がラケトの肩を捉えて深く切り裂いた。鮮血が部屋に飛び散る。


 赤い。

 血だ。

 殺される。

 怖い。

 死ぬ。

 やめて。

 こないで。

 殺さないで。

 お願い。

 怖い。

 触らないで。

 ああ。

 ああ。

 ああ。


 パキリ。私の何かが壊れた音を、確かに聞いた。

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