指 〜Transient Melody〜
なんというか・・・そう、刹那的。
同級生がはしゃぐのを見て香奈は思った。
最新ヒット曲が暗に自分に、おまえは不釣り合いだと投げ掛けている気がした。
新入生歓迎会などこんなものだ。
そう考えて、もう一度舞台に目をやる。
照明が落とされた舞台の真ん中には、今までのばか騒ぎに不釣り合いなほど静かにピアノが鎮座していた。
そして急に音もなく女の人が現われた。
規定通りに着こなした制服が、とてもよく似合っている。
高飛車ではない。
むしろ逆。
緩やかな細い肩から繋がるほっそりとした白い指が、深慮深そうに鍵盤に乗せられた。
そして、まるで呼吸をするぐらい自然に、その人は弾き始めた。
ひそやかなその曲は、あの可憐な指と共に、いつまでも香奈の記憶の中にあった。
次にその人に会ったのは、中間考査明けの肌寒い日だった。
いつもは行かない旧校舎の前を通った時、ふと聞き慣れないピアノの音色が聞こえた。
香奈は音楽関係はからっきしだ。
楽譜が読める人は、もはや人間ではないと思っている。
だから、当然、クラッシックも聞かないし、興味もない。
けれど、気付いたら、曲が流れてくる保健室の扉を開けていた。
「あら・・・」
大して驚きもせず、先客は顔をあげた。
保健室には似付かわしくない黒のビロード張りのソファーに腰掛け、膝には本が開かれている。
その上に投げ出された白い指に、香奈は目を奪われた。
「入ってこないの?」
扉を開けたまま茫然と立ちすくむ香奈に、由佳は微笑んだ。
そして、
「どうぞ」
と白い長い指で近くの椅子を指し示した。
「あ、で、でも私、怪我なんかしてないんです」
香奈は、我ながら見事な慌てぶりだと内心思った。
完全に雰囲気負けしてしまっていた。
「見たらわかるわ。怪我をしてるよりそのほうがいいでしょう?」
そんなこと最初から分かり切っている。
そう暗に含ませ、また由佳は本に目を落とした。
「いてもいいんですか?」
そっと扉を閉める。
現実から切り離された異空間に香奈はいた。
「ここはそういう所よ」
ピアノの音が変わった。
保健室は、まるで別荘のような作りだった。
真っ白なカーテンが縁取る、張り出しの窓。
アンティークな本棚には、普通保健室にあるような応急処置なんかの説明がなされた本はなく、詩集や洋書が当たり前のように並んでいた。
それら全てが、自分を拒絶しているようだった。
壁だの床だのアンティーク家具だのから拒絶され、孤立しているように感じた。
時折、夕日に反射して光る、由佳の胸元の無機質な『工藤由佳』という名札だけが、唯一自分と同じそぐわない物だった。
軽快な音楽が立派なオーディオセットから流れている。
「ヴィヴァルディの春よ」
由佳は香奈の疑問をすくい取るように言った。
「時期はずれているけれど、好きなのよ」
とも。
それからしばらく香奈は保健室に通った。
由佳は当たり前のようにそこにいて、CDの曲と共に香奈は時間を過ごした。
ずいぶんクラッシックの曲にも詳しくなった。
好きな曲さえもできた。
けれど、家に帰るとその曲はまるで違うもののようになる。
由佳がいて初めて曲が曲として成り立っていた気がした。
夏休みの前の日は雨だった。
保健室に流れる曲は、知らない曲だった。
「雨垂れって曲なの。ちょっと安易だったかしら」
窓の向こうに降る雨を見ながら由佳は呟いた。
「今、何を考えてるの?」
珍しい由佳からの突然の質問だった。
「特に何も」
少し躊躇して香奈は答えた。
真意は読み取れなかった。
「うそ」
穏やかに由佳は囁いた。
「何を思ってるの?教えて」
「クラスの人って、なんか刹那的」
少し迷って香奈は答えた。
刹那的の意味はよく知らなかったけれど、少し前に由佳が使っていたのの響きがとても魅力的だったのを覚えている。
「なぜ?」
楽しそうに由佳は言った。
「夏休みの予定のたてかたとか」
「その瞬間しか楽しめないのね」
香奈はそういう愛がある由佳が好きだった。
他人のことにも傷付ける由佳は優しい人だった。
由佳は少し黙って言葉を選んだ。
「仕方ないわね。いろんな人がいるから。でも、少し足を入れてみるのも、手かもしれない」
由佳のは提案ではない。
決定。
由佳はいつも先のことをきちんと決めている。
香奈は、もうここに来ることはないだろうな、とふと思った。
「由佳さんは、刹那的だって思ったことはないですか?」
最後に、と香奈は立ち上がって聞いた。
「いつも感じているわ。同時にこの瞬間が永遠だとも」
あの時、憧れた白い長い指を組んで由佳は微笑んだ。
夏休み、流れているクラッシックを聞いて思い出すのは、ピアノの上を密やかに舞う、あの指。