母の罰
私は自分の母のことをその時もママと呼んでいた。高校生なのにそんなのおかしい、恥ずかしいなどと当時の友達はからかったが、私が生まれた時からずっとママはママだったし、きっとこれからもそうなのだから、今更言い方を変えたりすることの方がおかしいと私は思っていた。
私にはずっと母しかいなかった。私が小さい頃に母は父と離婚してずっと一人で私を育ててきた。困ったことに私の小さい頃の“ドウシテ?”はいつも父の不在につながった。どうしてママはいつもお仕事で忙しいの?どうして小さな妹や優しいお兄ちゃんが私にはいないの?どうしてかわいいクツとかみんな持ってるおもちゃを買ってくれないの?・・・それは私にはパパがいないから?どうして私にはパパがいないの?・・・私は母に聞いた。こんな質問をすると母はいつも困った顔をして「ママにもいないんだから我慢して。」と答えた。この答えに私は納得出来なかった。私はさらに、じゃあどうしてママにもいないの?と聞いた。母はもっと困った顔をして「ママにもわからない」と答えた。こんな質問をすると母はいつも悲しそうな顔をした。私は“ドウシテ?”をやめる事にした。大きくなるにつれ家庭の経済的な事情について理解できるようになったし、優しい母さえいればそれで良いと思えるようになったからだ。それでも母の悲しそうな顔は消えなかった。
私はいつも母が仕事から帰ってくるのを夜遅くなっても待っていた。夜を逃してしまうともう昼間には顔を合わせることができないからだ。でもその日の私は疲れていた。受験勉強も忙しかったし、ハードな部活動もずっと続けていたからだ。私は帰宅してすぐに眠ってしまった。はっとして目覚めたのはもう深夜の3:45分だった。いつの間にか私には毛布が掛けられていた。きっと母だ。たぶんもう眠っているだろう。あきらめの気持ちが強かったが、いつもの習慣で私はリビングへ向かった。母はまだ起きていた。仕事着のままひとりリビングのソファーに腰掛けていた。私は少し驚いて母に話しかけようとしたが、少し異様な雰囲気を感じて思いとどまった。母は写真を手に持って眺めていた。しかし心はそこに無くその目はうつろで何も捉えていないように見えた。いったい何の写真だろう。私は気づかれないようにそっと背伸びしてそれを覗き込んだ。その写真には二人の若い男女が仲睦まじげに写っていた。女性のほうはすぐに若いときの母だと分かった。男性のほうは・・・私は今まで一度も父を見たことがなかったが、直感的に父だと分かった。その時の私にはとうに父への憧憬などなく、むしろ母と私を捨てた父に対して軽蔑さえ覚えていた。私は写真を見てショックを受けた。私が今まで勝手に思い描いていた冷酷な父のイメージとはまったく違った穏やかそうな人だったからだ。幸せそうに体をぴったりとくっつけて並んでいる二人がなぜこのあと破局することになったのか私にはまったく検討がつかなかった。私は息を殺してそっと後ずさった。これ以上ここにいてはいけない気がした。音を立てないように廊下を摺り足で歩いて自分の部屋にたどり着いた。私は毛布を頭からかぶって一人考えこんだ。うつろな目をして写真を眺めている母の姿が頭に焼きついて離れない。母は今父のことをどう思っているのだろうか。どうしたら母の悲しみが癒えるのだろうか。どうすれば母が幸せに暮らせるようになるのだろうか。
その日から私は母が誰かと再婚して欲しいと願うようになった。いまさら見知らぬ誰かが自分の家族になるなんて違和感があったが、それでも母に幸せになって欲しいという気持ちが強かった。
高校生になって私は浮かれていた。地元の進学校にスポーツ推薦で入学した私の学校生活は部活動でさらに忙しかったが、勉強もそれなりにできたし、仲のいい友達も多くいて毎日が楽しかった。ずっと理想としていた生活を実現することが出来ていた。そして人生で初めて彼氏もできた。前から少し気になっていたのだが、彼のほうから私のほうに告白してきた。そのせいもあって私はいつも彼をからかうような、本当は好きではなくて仕方なく付き合っているのだというような思わせぶりな態度を取っていた。でもこんな態度を取るのは彼が本当は私を好きじゃないんじゃないかと怖かったからだった。どうしていつもこんな愛情を試すようなことをしてしまうんだろう?私は後悔して失った点を取り返すように彼にある約束をした。明日、お弁当を作ってきてあげる。焦るあまり私は軽はずみな約束をしてしまった。
その日も私はいつもと同じようにリビングのソファーでゴロゴロしながらテレビを見たり、ケータイをいじったりしながら母が帰ってくるのを待っていた。夜の11時ごろになって母はやっと帰ってきた。遅かったねと聞くと母はコンビニで買ってきたアイスクリームを私に差し出しながら、今日も明日もあさっても忙しい。と答えた。私はこれ以上何かを言い出すのが躊躇われた。母に彼氏の存在を伝えたことは今まで一度もなかった。あの約束は必ず果たされなくてはいけなかったが、最近料理を始めたばかりの私の実力では到底うまく作れるわけはない。言葉に詰まってただ母の顔を見つめていた私に母はどうしたの?と尋ねた。私は意を決した。
「ねえ、ママお願いがあるんだけど・・・」
「何?・・・愛美がお願いなんて珍しいね。」
私は少し目を伏せて
「あのね・・・お弁当作って欲しいの・・・」
と言った。言葉の慎重さのわりにたやすいお願いだったので母はきょとんとして私を見据えた。
「それくらいかまわないけど・・・料理うまくなりたいから高校生になったら自分でお弁当作るって言ってたじゃない。もうあきらめたのね?」
母は茶化しつつも私の真意を探るようにそういった。
「だって・・・料理下手ってバレちゃうし・・・二つ作るから・・。」
「誰の分を・・・?」
私はうつむいてこれ以上何も言わなかった。きっと顔が赤くほてっていたに違いない。母はしばらくまじまじと私を見つめていたが、やがて何かを察したようだった。
「分かった。明日の朝作ってあげる。でもズルしちゃだめよ。あんたも一緒に朝早く起きて手伝うのよ?好きな子に嘘つくのはよくないから。」
母は微笑みながら私の顔を覗き込んだ。私は無表情を取り繕い、母の視線に目を合わせないようにしながら分かったと呟いた。
私が目覚めたのはすでに7時30分になったころだった。キッチンからは何かを焼く音とかすかな香ばしい淡いにおいがする。私はしばらくベッドに座ったままぼんやりとしていた。さらに10分ほどしてやっと目が冴えてきたので私はキッチンに向かった。
母はパジャマのままキッチンに入って牛乳を飲みだした私を見て気合が足りないわと私の志の低さをなじった。母は私以上に気合が入っているように見えた。私はのろのろと顔を洗ったり着替えたりして学校へ行く支度をしてから母の手伝いをする事にした。やっぱりズルするつもりね。もうお弁当ほとんど出来ちゃったじゃない。たまご焼きだけは自分で作りなさい。そういって母は私にたまごを押し付けるように渡した。
たまご焼きは唯一私がうまく出来る料理だった。私はカップの中にたまごと調味料を入れた。そして私はしばらく無言でそれをかき混ぜた。何か話さなくてはいけないことがあるような気がしたがなかなか切り出せなかった。母も何か言いたいことがあるようだったが、料理に夢中な振りをしていた。
母はほうれん草とベーコンとコーンのバター炒めを作り終えてからいきなり「そうだ」と言って冷蔵庫の中からウインナーを取り出した。そしてそれを包丁でうまく切って細工をし始めた。タコさんウインナーを入れると男の人は大抵喜ぶのよ。母は嬉々としてそう言った。今時そんなことで喜ぶ人がいるわけがないじゃん。私はその一言に笑った。昔の男の人はそうだったんだけどなぁ。母は首をひねった。少しだけ何も言い出せない堅くるしい空気が和らいだ気がした。
「ねえ」
母は切り出した。
「あなたの彼氏ってどんなひと?」
「うーん・・・」
私は考えた。
「えーと、・・・あんまり頭は良くなくって、顔もまあ普通な感じ。いつも着てるシャツが汚いけどまあちょっと優しいところもあるのかなぁ・・・」
正直に言うのは気恥ずかしいので私は少し貶めてそう言った。
「あら、優しいっていうのは理想の男性に一番必要なものじゃないの。良かったじゃない。」
母は適当なことを言って擁護したように見えた。
「難しい問題を解いたり、かっこよくなることは簡単に出来ないけど、優しいなんて誰でも出来るじゃん。」
「確かに優しくすることなんて簡単なことだけど誰にも出来ることじゃないわ。人間って難しいことが出来るくせに簡単なことがいつも出来ないものなんだもの。」
「そうかなぁ・・・?」
私は頭の中で一瞬彼が得意げに笑っている様子を想像してしまったのですぐに打ち消した。
「でもやっぱり優しくもない。友達の前では私のこと無視するから。友達と遊んでるほうが楽しいのよ。私といるより。」
卑屈になる私を見て母はフフフと笑った。
「私おかしい?変?」
「そうじゃないけど・・・やっぱり愛美はママの子なんだなぁって思ったのよ。ママも同じようなことでいつも悩んでたのよ。」
「ほんとに?」
私は好奇心を隠さずに聞いた。
「そうよ。」
私の好奇心はさらに膨れ上がってもう止められなくなった。私は今しかないと感じた。いままでずっと母を悲しませないために封印してきた“ドウシテ?”を開放するときがきたのだ。
「ねぇ、パパってどんな人だった?どうして別れちゃったの?」
「そうねぇ」
母は少し考え込んだ。悲しそうな顔はしなかった。
「優しい人だった。もちろんダメなとこもたくさんあったけど。やっぱり優しいからいちばん一緒に居たいって思えるのね。どうして別れちゃったのかっていうのは小さいころにもよく言ったけどママにも分からないのよ。お互いに好きだからってずっと一緒にいれるって言うわけではないのね。気づいたらパパはいつの間にかいなくなってしまってたの。確かにいろいろとあったはずなんだけど。でもそんな理由はきっとどうでもいいことなのよ。ただお互いにもう歩む道が違ってしまったの。」
「ママは今もパパのこと好き?」
私はさらに聞いた。
「もちろん。」
母はそう言った。
「じゃあ、再婚とかしないんだ。もったいないよ。ママ美人なのに。きっとお付き合いさせてくださいって言う人たくさんいるよ。」
母は笑った。
「心配してくれてるの?ありがとう。でもそんなに簡単にはいかないのよ。一度深い愛を知ってしまうとね、もう浅い上辺だけの関係なんかじゃ満足できなくなってしまうのよ。これが大恋愛の怖いところね。周りの人にもよく言われたわ。代わりの男なんてこの世にいくらでもいるじゃないって。でもどんな人と出会ってももう直感で分かっちゃう。この人とはあんなにうまくはいかないだろうなって。だから今のママの孤独はあなたのパパを愛しすぎたという罪に対する罰なの。ママの言いたいことの意味が分かる?」
「ううん、わからない。」
私は正直に答えた。
「それでいいのよ。だって若いんだから。ごちゃごちゃと余計なことを考えないほうがいいわ。好きな人をただ好きでいればいいのよ。今は恋愛で思いっきり遊びなさい。」
私は少し不安になった。母はきっとすべてを説明してくれたと思う。でも私には分からないことが多すぎた。
「じゃあ、ママはこれからもずっと一人なの?私悲しそうなママはもう嫌だな。」
私がそういうと母は私に近づいて私の頭をなでた。
「大丈夫よ。もちろんパパは素敵な人だったけど、他にも素敵な人がいないわけじゃない。きっとそのうちママにも素敵な人が見つかるわ。それに実はママ、もうパパのことは少し忘れかけてるのよ。人間って良く出来てるのね。もう嫌になっちゃうくらい。どんなに悲しいことも、愛しいことも時間とともに忘れてしまえるのね。」
少し長い間沈黙が流れた。母は私にいったい何を伝えたいんだろう。私は考えた。
そして、いきなり二人の沈黙を破るように高い音をたててドアのインターホンが鳴り響いた。
私は驚いてふと壁に吊るしてある掛け時計に目をやった。8時20分。学校の登校時間は8時30分だった。大変!母と私は大幅な遅刻にやっと気づいてどたばたとやりながら急いで準備した。私はかばんを引っつかんで外に出ようとした。忘れ物よ!と母は叫んで私に二つ弁当を持たせた。気をつけていってらっしゃい。弁当を片手で抱えながら必死に靴を履く私に母はそう言った。私は行ってきますといって玄関から駆け出した。一階についてオートロックの扉を開くとそこには彼が待っていた。
「何でこんな時間に来てるのよ。遅すぎるよ。」
「遅刻したのはお前も一緒だろ。俺はわざわざ迎えに来たんだから。」
「先に行けばよかったのに。」
私の学校にはいつもポニーと生徒たちに影で呼ばれている女体育教師がいる。髪の後ろをいつもポニーテールにしていて、竹刀を持って校門でいつも遅刻者を待ち構えている。もし遅刻などしようものならビシッと地面を竹刀で叩きながら叱られるあげく、なぜ遅刻したのかという反省文を提出させられる羽目になる。
「もういいじゃん、遅刻したって。適当に反省文書けばいいだけだし。」
彼の一言に私はえぇ~と不満げに悲鳴をあげた。私は腕時計を見た。もう8時27分。走ってもきっと間に合わない。私たちはあきらめて遅刻することにした。
「なぁ、それより今日だけなんで迎えに来いなんて言ったんだっけ?」
彼はわざわざ遠まわしにそんなことを言った。期待してることをはっきり言えばいいのに。私は少し意地悪することにした。
「どうしてだったかなぁ・・・?そもそも迎えに来てなんて言ったっけ?」
私の言葉に彼は思惑どおり少し不機嫌になった。彼は歩調を速めて私を置いて行こうとした。私は走って彼の制服の腕の裾を捕まえた。
「冗談だってば。お弁当でしょ?ちゃんと作ってあるから。」
私はかばんの中から弁当を取り出した。彼はまだ不機嫌そうに私を自分の視界に入れないようにそっぽを向いていたが、片手で弁当だけは受け取った。私は彼の制服の裾を捕まえながらしばらく歩いた。
「ねぇ、愛しすぎたという罪に対する罰って何?」
私は母の言ったことを不意に思い出してそう彼に尋ねた。
「何だよ、それ?」
「私のママが言ってたの。」
「お前の母さんってお前に似て変なこと言うんだな。」
「それってどういう意味よ?」
私は軽く彼の手をつねった。
いったいなぁ!と彼は不満げに、でも少しはにかみながら言った。
「まじめに考えてるの私は!」
「俺にもわかんないよ、そんなの。」
彼はそう言った。もちろんまじめに考えたからって答えが出るというわけでもなかったが。
「でも、たぶんママが言いたかったことはあんまり誰かを強く愛しすぎちゃダメってことなのかなぁ・・・?」
「そうなんじゃないの・・・」
彼は適当にそう言った。私が彼の顔を覗うとその横顔は少し退屈そうに見えた。
「私も愛しすぎるのやめよっかなぁ~・・・」
私は冗談っぽく不機嫌を装った。
鮮やに緑が茂る初夏の日のことだった。あのときの私はまだ何も知らなかった。