2-11.深淵に灯る光
そのとき、洞穴の外から微かな気配が近づいてくるのをセシルは感じた。深い霧の中、湿った地面を踏みしめる足音が近づくにつれて、セシルの心臓は早鐘を打つ。あの死神のような鎌を持つ魔獣が自分達の気配を察知したのか――。
洞穴の入り口に影が差した瞬間、セシルは息を呑んだ。現れたのは、自分が最も憎み、執拗な嫌がらせを繰り返してきたピンク髪の少女、ルナだったからだ。
ルナは既に一次予選を終え、星降る大森林の境界付近まで帰還していた。しかし、広域魔力探知を続けていた彼女の意識に、取り残されたフィンとセシルの魔力、そこに迫る絶望的なノクシアの気配が飛び込んできたのだ。
この時、森には先を見通せないほどの異常な濃霧が立ち込めていた。ルナはフィン達の事をレイに告げたものの、
「諦めろ。霧が深すぎる。一旦退却して救助は学院に任せるべきだ。」
と一蹴されてしまった。
しかし、ルナはその言葉を無視して、隙を突いて単身この白濁した森の奥地へと全速力で駆けてきたのである。
ルナが洞穴に辿り着いたとき、幸いにもコア・ブレードの魔力反応は既に周囲から消えていた。だが、目の前の光景は、彼女を戦慄させるに十分だった。
「フィン君……! セシルさん!」
血まみれのフィンと、その傍らで震え上がるセシル。
「……ル、ナ……? なぜ、あなたが……」
セシルは言葉を失っていた。嘲笑い、踏みにじってきたはずの「落ちこぼれ」の少女が、自分を助けるために死地へ足を踏み入れた。その事実が、凍りついた彼女の心に理解不能な衝撃を与える。
ルナはすぐさまフィンの元へ駆け寄り、その容態を確認した。そして、震える肩を抱きしめるようにセシルを見つめた。
「大丈夫……。あなたたちを襲った強力なノクシアは、もう近くにはいないよ。」
その声は震えてはいたが、確かな温もりを持って響いた。
その瞬間、彼女を縛りつけていた恐怖の糸がふっと解け、セシルはただ、溢れ出そうになる涙を堪えることしかできなかった。
* *
星降る大森林の境界では、教師陣と生徒たちの間に動揺が広がっていた。
「……これは『マナ・ミスト・シダ』の仕業ですな。この霧は、吸い込んだ者の方向感覚を完全に奪う性質がある。」
植生学担当のバルカス教授が、白濁した霧を忌々しげに睨みながら告げた。
その傍らで、1年生主任のアルシアは、燃えるような赤い髪を霧に濡らし、血の気の引いた顔で霧の障壁を凝視していた。
「救助は出せそうですか?バルカス先生。」
「マナ・ミスト・シダの反応は一晩は続きますぞ。この霧があるうちは救助は不可能でしょう。」
「早くても、救助が出せるのは明朝になりそうね…。」
ルナの失踪に気づいたレイやカイたちは、即座にその後を追ったが、どれほど直進したつもりでも、気づけば霧に巻かれ、森の外へと押し戻されてしまった。マナ・ミスト・シダが放出する胞子混じりの霧は、熟練の魔術師ですら方位を誤認させる。ルナの持つ「魔力探知」という羅針盤なしには、この濃霧の迷宮を突破することは不可能だった。
「本来、このシダが濃霧を発生させるのは十年に一度の周期のはず。……しかし今年は、その年ではない。森の深部で、何か異常な事態が起きている可能性がありますぞ。
例えば、上級のノクシアが出現したかもしれませぬ。」
「ーーっ!」
その言葉はレイに焦燥感を与え、再度森の奥へ彼の足を向かわせる。
「……レイ君、止まりなさい! あなたも理解したでしょう!?この霧の中では方向感覚を維持するのは不可能。闇雲に飛び込めば、あなたが二次遭難して被害が拡大するだけです。それは絶対に許しません!」
自分より背の高いレイの前に立ちはだかったアルシアの肩は、わずかに震えていた。彼女自身、今すぐにでも中に飛び込んで教え子を救いたい想いと、現場の担当として二次被害を防がねばならない責務との間で、身を切られるように葛藤していた。
「くそっ!」
レイは胸のざわつきを抑えるように、激しく悪態をついた。冷静であるべき理性が、得体の知れない焦燥感によって、どろどろと塗りつぶされていく。霧の向こうで、自分に黙って駆け出した少女がどうなっているのか。救助すら拒むこの不気味な霧のなかで、もし彼女に何かあれば――。その思考が、彼をかつてないほどに追い詰めていた。
* *
月明かりさえ届かない、森の奥深く。ルナは、意識を失ったフィンと、絶望に震えるセシルの傍らで、静かに、しかし過酷な戦いに挑んでいた。フィンの傷は深く、一刻の猶予も許されない。
「フィン君、頑張って……お願い……」
ルナは自らのアストラル『ルミナ』に込められたレイの魔力を使い、全神経を集中させて魔法を行使していた。本来、魔法に失われた肉体を蘇生させる力はない。だがルナは、自身の真骨頂である高精度の魔力操作を応用し、「治癒」に近い概念を力ずくで実現させようとしていた。
彼女は光属性の魔力を、目に見えないほど細い「糸」の形状へと変質させた。そしてその魔力の糸を、フィンの切り裂かれた血管と筋肉の隙間に這わせ、傷口を内側から縫い合わせていく。医療の知識があるわけではない。これは、フィンに残されたわずかな生命力を繋ぎ止めるための、あまりに無謀で、あまりに繊細な賭けだった。
予選の後にも、レイに魔力の補充をしてもらったため、魔力切れの心配はない。しかし、糸一本を操るのにも針の穴を通すような精密さが求められる作業だ。ルナは、膝をつき、フィンの傷口から血が溢れ出さないよう、魔力の流れを調整し続けた。極限状態での長時間の集中により、視界が歪み、激しい眩暈が何度も彼女を襲う。それでも彼女は、決して糸を離さなかった。
セシルは、その光景をただ呆然と見守るしかなかった。自分が卑しいと蔑み、その尊厳を傷つけ続けてきた少女が、今、自分を救うために精神を削り、ボロボロになっている。自分を庇って倒れたフィンのために、その細い指先を血に染めながら、必死に「生」を繋いでいる。
(……なぜ。どうしてそこまでできますの……?)
理解が追いつかない。だが、暗闇の中で白く輝くルナの献身的な横顔を見つめるうちに、セシルの胸の中で、肥大化した貴族のプライドとルナへの醜い憎悪が、音を立てて崩れ落ちていく。セシルは生まれて初めて、己の小ささと、目の前の少女の圧倒的な「強さ」を知るのだった。




