2-8.あの男は誰だ
レイは、ルナがフィン・ミラーに向けた笑顔を忘れることができなかった。ルナの「所有権」を侵されたかのような冷たい焦燥感が燻っている。ただ、彼はそれが「嫉妬」という感情であることを、まだ知らなかった。
その日の合同訓練の休憩時間。ルナが水筒の水を飲んでいると、レイが近づいてきた。その表情はいつになく冷たく、険しい。
「昨日、庭園で話していたあの男は誰だ。」
「あ、フィン君のことだね。と、友達だよ。」
「何の話をしていた。」
レイの放つピリついた威圧感を、ルナは敏感に感じ取った。何を疑われているのかは分からない。だが、セシルの件だけは、彼に悟られるわけにはいかなかった。
「色々、相談に乗ってもらっていたの。ほら、同じ平民出身だから、学院のことで困ったりもするし……。」
核心を濁したようなルナの回答に、レイは苛立ちを深める。自分に言えないほど親密なことなのか。それとも、悩みがあるならなぜデュオパートナーである自分を差し置いて、あのような男に相談するのか。感情が剥き出しになりそうになるが、怯えたようなルナの目を見て、彼はかろうじて心を落ち着かせた。
「……まあいい。何かあったら俺にも話せ。デュオパートナーであるお前が不調だと、俺の成績にまで影響が出る。」
ルナを気遣うつもりでかけた言葉は、なぜか突き放すような棘を帯びてしまった。
「次は魔力探知の訓練だ。」
レイは冷たい声で言った。 自分との会話では緊張した面持ちが多いルナが、フィンの前ではあんなに柔らかく微笑む。その事実が、負の感情となってレイの心を支配していた。
「……今日はもうアストラルの魔力は使うな。」
「えっ、どうして? 魔法の練習もしたいのに……。」
「いいから、言われた通りにしろ。」
レイは冷たく言い放った。無性に苛立って仕方がない。魔法を禁じることで、自分の譲渡した魔力が、いかに彼女にとって大事なものか思い知らせたくなった。
「周囲の生徒五十人の場所を同時に探知し、アルカナマップに表示させろ。一人たりとも位置を外すな」
「五十人も!? ……それは複雑すぎて、今の私には……」
「お前の磨き上げてきた魔力探知は、その程度なのか!?」
突き放すような言葉に、ルナは傷つき、唇を噛み締めて目を伏せた。 その様子を見ていたカイが、たまらず二人の間に割って入った。
「おいレイ! ルナちゃんをいじめるのはやめろよ! ルナちゃんがお前のためにどれだけ頑張ってるか、分かってんのか!?」
「……お前には関係ない。部外者は黙っていろ。」
「チームなんだ!関係あるだろ! ルナちゃんには心があるんだ! 道具みたいに扱うのはやめろ!」
激昂したカイが、レイの胸ぐらを掴んだ。瞬間に、周囲の空気が凍りつくような緊張が走る。
「やめて、二人とも!」
静まり返った訓練場に、ルナの叫びが響いた。
「……! ルナちゃん……」
「カイ君、ありがとう。でも私は大丈夫だから! ……お願い、手を離して」
ルナの必死な瞳に見つめられ、カイは渋々といった様子でレイの胸ぐらから手を離した。 レイは、不安げに震えながらも自分を止めようとするルナの姿を見て、ハッと我に返った。自分のどろりとした苛立ちを、一番大切な人にぶつけていたことに気づき、奥歯を噛み締める。
レイは何も言わずにカイの手を振り払うと、背を向けてその場を立ち去った。 残された二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。レイの心は、自分でも正体の掴めない黒い感情でぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
* *
一方、セシルの嫌がらせは狂気を帯び始めていた。 ある放課後、セシルはルナを学院内の使われていない実験室に呼び出した。取り巻きの令嬢たちが見守る中、セシルは水属性の魔法でルナに大量の水を浴びせ、どこから調べたのか、ルナが育った孤児院の話題を持ち出して屈辱を与えようとした。
「あーはっは! 平民どころか、親の顔も知らない拾い子でしたのね。そんな卑しい育ちで、よくもまあレイ様の隣に立とうなんて思えましたわね!」
ルナはびしょ濡れになりながらも顔を上げたまま、決して涙を見せない。その強固な意志が、セシルの歪んだ感情をさらに激昂させた。
しかし、セシルの行動は次第に行き過ぎていった。共犯であった取り巻きの令嬢たちは、徐々にその様子に温度差を感じ始めていた。
いじめは「公爵家に近づいた不届きな平民を懲らしめる」という彼女達なりの正当性のあるものから、セシルの醜い私怨が混ざった冷酷な人格攻撃へと変貌していたからだ。
ある日、ルナはセシルに見つからないよう、学院の裏庭にある道を密かに移動していた。そこで、生垣の向こうからセシルの取り巻きたちがひそひそと話す声を耳にする。
「セシル、もう本当にしつこいですわ。ルナへのいじめなんて、単なる遊びのつもりでしたのに、あんなに私情を挟まれると、もう付き合いきれませんわ。ルナもルナで反応が悪いし、つまらないですわね」
「本当ですわ。最初は『公爵家と平民がくっつくのを阻止する』という名目でしたのに、今や単にルナを傷めつけるばかり。もう何が目的なのかしら」
「嫉妬でしょう。自分がレイ様のパートナーとして選ばれなかったから、醜く腹いせをなさっているだけですわ」
「……そういえば今度の日曜、わたくしたちだけでお茶をしませんこと? もちろん、セシルは抜きで。」
「それ、名案ですわね。」
くすくすと笑い合う声。ルナは、自分を苛めていたはずの令嬢たちが、今度はセシルを影で嘲笑しているという事実を知った。 セシルはルナへの嫉妬と傲慢さのあまり、気づかぬうちに自分自身の味方を失い、孤立を深めていたのだ。
今まであんなに憎かったセシルに対し、「独り」になりつつある彼女に対し、ルナは微かな同情を覚えていた。




