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後継者/仕掛け/襲撃/連鎖/試用期間/崩壊/真由子

後継者



数日後。

宗仲酒造の敷地内では、今日も従業員が建物の中と外に分かれて一斉清掃を行っている。中庭を掃除する従業員の中に町田の姿があった。

敷地内に蛭川の車が入って来る。降りて来た蛭川と掃除中の町田が目を合わせ、町田が「お帰りなさい」と声を掛ける。蛭川は軽く頷いてそのまま主屋へと入って行った。

応接室のソファーで幸子と蛭川が向かい合う。

「ご苦労様」と幸子が声を掛けると、蛭川は小さく頷く。

「智史、NPO法人は解散したのかい?」と幸子。

「母さん、解散はしない方がいいと思う。佐伯絵里の件で立ち上げたけど、今後も役立つことになりそうだ」と蛭川隆史こと宗仲智史は答えた。

智史は幸子の息子である。父親は不明だ。三十代の頃、子供を授かる目的で幸子は繁華街に出掛け、数人の男と寝た。相手に興味はなく、ただ子供を授かることのみが目的であった。そして智史が生まれた。智史に父親という存在はなかったが、その分信者達が彼を大切に育ててくれた。智史は宗仲天教の次期首守として周囲からの信頼も厚く、現在は工作部のトップとして様々な案件で暗躍している。工作する際は本名を避け、蛭川隆史を名乗っていた。

幸子からの指令で、智史は絵里の身辺を調べ上げ、親戚からの情報で絵里が父親から性的虐待を受けていた事実を知った。情報元は絵里の叔父だったが、事業で失敗したことで借金があるらしく、金を渡すと洗いざらい話してくれた。これが絵里の抱える心の闇の元凶だと判断した智史はすぐに清順を見つけ出し、絵里との再会を画策した。犯行を誘うようなバルコニーのあるペンションを見つけ出し、意図的に鍵も渡した。勿論、後は悪魔のお導きがあると信じてのお膳立てだ。信じているから、絵里が清順を殺した時も驚きはなかった。

今回も対象者を不幸へと導いた息子に幸子が声を掛ける。

「佐伯絵里は狙い通り、闇に落ちたね」

「きっとまた悪魔首様が後押しして下さったのでしょう。ただ、最後の悪あがきをしたようで」

「警察に駆け込んだようね」

「事件が発覚する前だから、自首扱いになる。父親からの性的虐待を訴えれば、減刑もあり得る。あのまま首でも吊ってくれれば完璧だったのに」

「まぁいいでしょう、闇落ちしたことに変わりはない。地位も仕事も失って、今や殺人犯だからねぇ」

「もう少し落としたかったけどね。ところで、次のお告げはありましたか?」

「お告げはまだだけど、厄介事が一つ増えた。佐伯絵里の件があったからあんたには言ってなかったけど、市議会議員の中津徹がここへ来てね」

「市議会議員が何をしに?」

「どうやらうちのことを嗅ぎ回っているようだ。近所で根掘り葉掘り聞いて回って、町田にも直接接触して来たらしい。うちの秘密を暴いて手柄にでもしようって魂胆かもね。まさかあんた、勘繰られるようなミスはしていないだろうね?」

「付け入る隙は与えていないつもりだけど」

「今後も嗅ぎ回られちゃ天教の存続も危ぶまれる。さて、あんたならどうする?」

智史は顎に手を置いて暫く考えてから言った。

「母さん、例の成田良平の供述調書は全部読みましたか?」

「あんたが警察の信者ルートで手に入れたあれね。魔封村の話だろ、読んだよ。ここに来てから逮捕されるまでの間、夢想し続けていたのね、きっと。光神家、黒田家、山並家、そして呪郎だっけ。翼の生えた絵もあったね」

「やっぱり彼は普通じゃなさそうだ」

「勿論よ。統合失調症だか妄想性障害だか知らないけど、正気じゃないことに間違いないでしょう、あの成田良平は。空想と現実の区別がつかなかったそうじゃない、だから精神鑑定された。きっと悪魔首様に追い込まれたのね」

「成田の供述調書に悪魔首様が出て来ましたね」

「実はあいつがここへ来た時、礼拝堂の扉を少しだけ開けておいたのさ。成田だけがそれに気付いて中を覗いていたよ…」


成田が皆川を伴って物置蔵を訪れた時、一階の礼拝堂の扉が少しだけ開いていた。皆川は何も気付かず、階段を上がって行く。何事にも神経質な成田は扉の前で立ち止まった。目が慣れずに中は真っ暗だったが、成田は異様な空気感を感じていた。

成田の後ろにいる幸子が、成田の様子を窺っている。

「教授、上ですよ」と階段途中から皆川が声を掛けてくる。

「先に行っていてくれ」と成田が言うと、すかさず「上がってすぐの扉です」と幸子が声を掛けた。

皆川が上に上がると、幸子は成田に話し掛ける。

「先生、どうかなさいましたか?」

「あ、あの…中に祭壇のようなものがありますね」

「気になりますか? 良かったらどうぞ」

そう言うと幸子は扉を開け、二人が中へと入って行く。

薄暗い室内は、ひんやりと冷気が感じられた。成田の目が暗さに慣れて来ると、祭壇の上に黒い物体が祀られているのが分かった。目を凝らすと、それは首だった。

「あ…あれは、首のように見えますが」

「首です」

「…………」

「と言っても、猿の首だか河童の首だか、本物の首であるかどうかも分かりません」

「なぜあのような物が祀られているのでしょう?」

「さあ、なぜでしょうね。私が産まれる前からあるので」

「そんなに以前から」

「私の代になって、急になくす訳にもいかなくてね。我々は悪魔首と呼んでいます」

「悪魔首…ですか」と言って、成田は祭壇前に進み出て、改めて首を見上げた。

その時だった。悪魔首の目が開き、成田と目を合わせる。

「うわっ!」成田が腰を抜かした。

「どうかしたのですか、先生」

「あ、いや、今…」

成田が再び首を見ると、首は元のままである。

「確かに今…」

「大丈夫ですか?」

「あ、失礼しました。では、上を拝見させて頂きます」

礼拝堂を出て行く成田の背中を見送って、幸子はにんまりとした。


「きっとあの時、悪魔首様に呪いを掛けられたに違いない。だから成田の供述調書に悪魔首様が登場しているんだよ。ただちょっと気になったのは、砂金を手に入れたって書いてあったことね。まだ洞窟に残してあったのかしら」とソファーの幸子が言う。

「今度調べに行ってみるよ。それより母さん、ちょっと考えてみたんだが、あの供述調書の続きをしたらどうだろう」

「続き?」

「成田良平は今、成田良平なのか? それとも黒田テツのままなのか? それを確かめてからの話になるけど」

「成田を探し出すつもり? 警察が血眼になって探しているのに見つからないのよ」

「当てもなく山や街を探し回ったって見つかりはしないさ」

「当てがあるの?」幸子は身を乗り出す。

「今や成田が頼れる人間は誰もいない。唯一頼れるとしたら呪郎ぐらいだろう。あの供述調書で、テツが呪郎からこの世界の知識を与えられた後、呪郎はどこに飛び去って行った?」

「確か喉が渇いたからって槍ヶ岳に」

「槍ヶ岳の川の源流付近に絞って探してみるよ。見つかる気がするんだ」

幸子は智史の目の付け所に感心し乍ら「見つけたらどうするんだい?」と尋ねる。

「相手の様子次第だけど、もし成田が黒田テツのままなら、上手く誘導出来るかも知れない。何せ相手は正気じゃないんだ。そういう相手にはそれなりの接し方をすればいい。それに悪魔首様がきっと僕を導いて下さる」と智史は自信に満ちた態度で答えた。

「智史。もしかしてあんた、首守の後継者として何かを感じ取っているのかい?」と幸子が聞くと、「母さんは悪魔首様の声を聞けるんだよね?」と智史は逆に聞き返す。

「私は当然聞けるけど、まさかあんたも?」

「いや、僕はまだ声を聞くことは出来ない」

「そうだろうね、聞こえるとしたら私が死んだ後だから」

「ただ…」

「ただ?」

「初めて見たんだよ、この仕事をしていて初めて」と智史の声が興奮気味に上擦っている。

「見たって何を?」

「悪魔を」

「悪魔を? どこで?」


絵里にペンションの鍵を渡してマンションを去った後、智史は車の中で次の行動を思案していた。このまま絵里の行動を監視するのもいいが、もし勘付かれたらこれまでの努力が水の泡になる。絵里が復讐を果たしたいのなら、どのみち清順に接触する筈だ。そう考えた智史はそのままペンションへと向かった。

すっかり日が暮れた頃に智史はペンションに着いた。中へ入ろうとすると、いつも開いている筈のドアが施錠されていたので、仕方なくチャイムを鳴らす。

「はい」と言う声と共にドアを開けた町田は寝起きの顔だ。きっとうたた寝でもしていたのだろう。智史の顔を見ると「あ、智史さん、どうぞ」と急に目が覚めたように言った。

中に入り乍ら「寝ていた?」と智史。

「え、あ、いやまぁ、すみません」町田は頭を掻く。

「別にいいさ、責めてないよ」

町田は普段宗仲酒造の酒造りで蔵人として働いているが、今回は初めて工作員として智史の下に付いている。町田は善吉という前任の杜氏の息子で、酒造に住み込みで働いている。幼い頃から同じ敷地内で育った仲だ。歳は智史より二つ上だが、首守の後継者で工作部のトップである智史には敬意を持って接している。智史は智史で、普段から町田の実直な仕事振りが気に入っており、今回の任務に指名したという次第だ。町田はなぜだか今まで工作部の仕事には関わって来なかった。

入って来た智史はドアを振り返り、「鍵は閉めているの?」と聞いた。

「夜は一応閉めた方がいいかと思って。まぁ、誰も来ませんけど」

「なら今夜からは閉めなくていいから」

「そうですか…あ、もしかして対象者に何か動きが?」

「動くだろうね」

「本当ですか。ならば私は何をしたら宜しいでしょうか?」と町田はやる気を前面に出して言う。

「何もしなくていい。というより何もしないで欲しい」

「はあ…」

「勘違いしないでくれ、君を邪魔にしている訳じゃないんだ。ただ工作員の任務は全てお膳立てだから、それが済んだら後はお導きを待つのだ。動きがあるとしたら夜の可能性が高いから、君も今夜から早めに就寝してくれ」

「なるほど、悪魔首様の邪魔にならないようにということですね…」と納得し乍らも町田は少し残念そうだ。今回工作員として初任務だった町田は、ここまで法人の立ち上げからペンションの契約、更には老人介護と地味な仕事が続いていたので、もっと派手な働きをして役立ちたかったのだろう。工作員と聞いて、直接対象者を手に掛けるイメージを持っていたのかも知れないが、工作はあくまで黒子の役割なのだ。だからこそ宗仲天教は存続している。

その日の夜は静かな夜を過ごし、次の日も智史はペンションの二階の一室に待機していた。二階は全六室で階段を上がってすぐに清順の部屋があるが、智史は向かいの一番奥の部屋にいる。

絵里には状況説明を済ませているから、もうじき施設が通常運営することは分かっている筈だ。だからアクションは早い段階で起こすだろうと智史は推測している。まぁ、実際に運営が始まることはないのだが。ペンションは賃貸契約なので、工作が完了したら早々に解約することになるだろう。

夜の見張りに備えなければならないので、智史は昼間に数時間仮眠を取った。夜中になって部屋を覗くと、清順は遺体のように眠りについている。下に降りて受付の奥も覗いたが、町田も言い付け通り就寝していた。

待機部屋の窓辺に椅子を置き、智史は建物の正面側を監視している。勿論、部屋の明かりは消したままだ。清順の部屋は建物の裏側に面しているが、廊下を挟んで向かいにある智史の部屋からは正面側が見える。街灯はあるが、人感センサー式なので人が来るか動物が来ない限り点灯はしない。つまり街灯が点灯するのを待てばいい。昨夜も一度点灯したが、数頭の鹿が歩いているのが見えた。

暗い森を見つめている間、智史は絵里について少し考えてみた。実の父親に性暴力を受けた人間の心の傷は、どれほど深いものなのだろう? 自傷行為に及ぶ者や、相手に殺意を抱く者も矢張りいるのだろうか。自分は父親の存在を知らずに育ったので、父親のいる生活を夢見たことはあるが、家族に危害を加える存在ならいない方がましだと思った。

そんなことを考える中、街灯が突然点灯した。また動物だろうかと目を凝らすと、絵里の姿が見えた。明かりが点いたことに驚いたのか、絵里は一旦木の後ろに隠れてから再び姿を現し、建物に向かって歩いて来る。どうやら開けっ放しのドアから入って来るようだ。智史が部屋のドアを少しだけ開けて廊下を見つめていると、絵里は静かに階段を上がって来て、清順の部屋へと入って行った。暫くして中から男女の話し声が微かに聞こえて来たが、話の内容までは聞き取れない。中の様子が気になったが、智史は辛抱強く待ち続けた。すると少し慌てた様子の絵里が部屋から出て来ると、音を立てないよう階段を下りて行く。下からドアの開閉音が僅かに聞こえたので、そのまま外へ出たようだ。

智史は廊下に出て清順の部屋に向かう。部屋に入ると寝ていた筈の清順の姿はなく、バルコニーの硝子戸は開け放たれている。念の為にクローゼットなど部屋の隅々まで確認したが、清順の姿はなかった。智史はバルコニーに出てから真っ暗な崖下を覗き込む。何も見えないが、きっと清順を突き落としたに違いないと確信した。明日、入居者が行方不明になったと警察に連絡しなければならないと思った時、崖下から女の叫び声が聞こえて来た。耳を澄ますと男の叫び声も混じっている。崖下で恐ろしいことが行われているのは間違いなかった。声は何度か続いてから静かになった。どうやら全てが終わったようなので、ここには長居しない方がいいと智史は考えた。室内へ戻ろうとした智史だが、突然はっとして振り返った。


―――月明りの夜空に何かが飛んでいる。


その物体の動きに智史の視線は釘付けになる。それには確かに翼があるが鳥ではなかった。大きく羽ばたいて夜空を悠々と飛んでいるではないか。

「あれは…」と思わず智史から声が漏れる。


宗仲酒造で、革張りのソファーに座る智史はその時の姿を思い浮かべ、「あれはきっと悪魔だ」と言った。

「見たのかい」と幸子は驚きを隠せず、智史を見つめていた。



仕掛け



高校時代、智史は山岳部に所属していた。毎日体力トレーニングに励み、休日や長期休みには一般の登山者と同様に山登りに出掛けた。短い休みは日帰り登山だったが、長期で休める場合はテント泊で何日か山に籠ることもあった。智史の高校は高体連に加盟していたので、山岳競技の大会にも出場した。大会では山麓から山頂まで、十五キロ近い重さのザックを背負ってタイムを競っていたから体力には自信がある。

今回、智史は一人で山に入った。成田に辿り着く自信があったのだ。山登りに自信があるというより、悪魔のお導きを信じる気持ちが大きかった。山に入って三日目となるその日、日が落ちる前にテントの設営をしようと考え始めた時だった。沢沿いを歩いていた智史がふと森に目をやると、森から上空に煙が上がっているのが見えた。きっと成田が焚火をしているに違いないと思ったが、気持ちは落ち着いていた。全てはお導きだから。智史は煙が上がる森の中へと進んで行った。


その時、成田は槍ヶ岳の森に潜んでいた。近くには沢があって飲み水には不自由しなかったが、盗んできた食料は底をついてしまった。盗んだのは食料だけではない。衣服や靴やバックも街で万引きして来た。ここに来てから追手が来る様子もないが、そろそろ一度街に戻る必要があると成田は考えている。もう日が暮れるので、捜索隊は来ないと考えて焚火をしていると、人の足音が近づいて来る。

成田がはっとして立ち上がると、その人物は声を掛けてきた。

「逃げないで下さい、あなたの味方です」

「…………」

それは登山服姿の智史だった。疲れた様子の智史は焚火に近づくと、「いやぁ、探しましたよ」と努めて明るく言った。

「…………」

「警察ではありません。私は蛭川隆史と言います」

成田は身構え、相手が襲って来た場合に備える。

「あなた、黒田テツさん…ですよね?」と言って智史は探るような目で成田を見つめる。

「…なぜ…俺の名を」

「やっぱりそうでしたか。ええ、知っていますとも、あなたが暮らした魔封村のことだって知っています」

智史はそう言い乍ら、成田が黒田テツでいることに安堵していた。この男はまだ空想の世界にいるのだから、話を合わせて仕掛ければいい。

「魔封村を知っているのか? あんた何者だ?」

「私は政府の人間です。光神家の人々がこちらの世界に来ていたことは知っていますか?」

「ああ」

「政府側の代表として、彼らと会っていたのは私です。彼らから悪魔首に関する近況報告を受け取っていました」

成田はまだ疑るように言う。

「その話は本当か? どんな奴が会いに来た?」

「直近では光神ミツルという若者が。まぁ、いけ好かない男でしたが。その彼から村人全員の写真も受け取りました。だからあなたのことを知っているのです。光神家がカメラを所有していたことはご存じですよね?」

「…だから俺を知っているのか。捕らえに来たのではないのだな」

「捕らえる? まさか。私は警察ではない。焚火に当たらせて貰っていいですか」

成田の答えを待たず、智史は焚火の前に腰を下ろした。成田も警戒し乍ら座る。

智史は持っていたサックからペットボトルのお茶を二本取り出し、一本を成田に渡す。他にもコンビニのおにぎりやパンを次々と出した。

「食べて下さい」と警戒する成田に智史は言った。

「…………」

「毒入りじゃありませんから」

成田が受け取ったおにぎりを食べ始める。

焚火の木がぱちぱちと音を立てている。

成田の様子を見乍ら智史は話し掛けた。

「あなたは警察や病院で、成田良平という男だと言われませんでしたか?」

「言われたよ。そして実際に鏡を見せられた」

「鏡を見てどう思いました?」

「そこに映っているのは、確かに成田良平という男だった。なぜだか分からない。病院から逃げた後も、街中で何度も自分の姿を確認した」

「矢張り成田良平でしたか?」

「…そうだ。俺の姿は成田良平に変えられたのだ」

「姿を変える? そんなことが可能なのですか?」

「それ以外考えられないだろ」

「うーん…」と智史は顎に手を置いて考えてから「おかしいですね」と言った。

「おかしいとは?」

「私から見えるあなたは、確かに黒田テツそのものだからです。あなたは顔を変えられてはいません」

「…………」

「成田良平の顔もニュースで知っていますが、あなたとは別人だ」

「…俺が黒田テツに見えるのか?」

「見えるも何も、あなたは黒田テツさんです」

「でも…俺が見ても成田良平にしか見えないのはなぜだ?」

「暗示ですよ」

「…暗示?」

「強い暗示を掛けられているのです。精神科に入院しましたね、精神科には催眠療法というものがあります」

「まさか…俺が?」

「自分自身を成田良平と思い込むよう暗示を掛けられた」

「そんなものを受けた記憶がない」

「いいですか、催眠療法というのは受けた記憶さえ消せるのですよ」

「…………」

これは智史の仕掛けである。更に成田を向こうの世界へと押しやろうとしている。

暫く考えた様子の成田は、やがてげらげらと笑い出した。

「あんたのお陰だ、謎が一気に解けたよ!」と言った成田は更に一頻り笑うと、「で、俺を捕まえないなら、一体何の用だ?」と尋ねる。

「魔封村がどうなったか、ご存じですか?」

「はっきりとは分からない…でも多分、呪郎に消されたのではないかと考えている」

「その通りです。村は呪郎によって消滅させられました。但し、生き残って逃げ延びた者達がいます」

「まさか…」

「お察しの通り、光神家の人々です。洞窟を通ってこちら側へと逃げたのです。逃げ道を知っているのは光神家だけですから」

「…………」

智史は中津徹の写真を成田に見せた。五十歳前後で髪をきっちりと整えている。

「この男を知っていますか?」

「いや、初めて見る顔だ」

「やっぱりそうですか、あなたは自分自身のことだけでなく、光神家の人間を認識出来ないよう暗示を掛けられているようだ」

「じゃ、この男は…」

「この男は光神源治です。生き延びた数人とこちらの世界に来ています」

「…源治」と成田は怒りで思わず立ち上がり、「生きていたのか」と言った。

「今は中津徹と名乗って市議会議員になっています。それを足掛かりに国政に乗り込む腹積もりでしょう」

「腐れ外道が!」と成田の怒りが頂点に達した時、夜空に大きな影が現れる。

それを見た成田が「呪郎!」と叫ぶ。

智史は期待を持って成田の視線の先を見た。悪魔がきっと現れたに違いないと思ったが、智史にはその姿が見えない。

呪郎は成田の眼前に降り立った。ばたつかせていた翼を閉じ、「よぉ、テツじゃねぇか」と言った。

「呪郎、やっと現れたか」

「病院で二人殺した後、逃げ回っているそうじゃないか。独りぼっちでワシが恋しかったか?」

「思い上がるな。お前など光明の剣さえあれば、一太刀で倒せることを忘れるな」

「おぉ、怖い。流石黒田家の長、黒田テツだ。ところで、光明の剣とはあれのことか?」

呪郎の視線の先を見た成田は言葉を失った。

地面に無造作に光明の剣が置かれているのだ。

「これは」と成田は両手で仰々しく剣を持ち、「光明の剣がなぜここに」と呟いた。

「ワシが元に戻しておいた」

「お前が?」

「ああ、テツには必要だろ」

「これがあれば千人力だ」

「お前が考えていることは分かるのだ。これから斬殺に向かうのだろ、斬殺人だからな」

「光神源治がこちらの世界に来ている。今度こそ息の根を止める」

「お前一人じゃ心細かろう、仲間も連れて行け」

「仲間?」

呪郎が一本の木を見つめる。成田も視線を移すと、木陰からタクが出て来た。

「兄上…」

「タク!」

タクに駆け寄る成田。

「タクじゃないか。また会えたな、会いたかったぞ!」

「兄上、本当に申し訳ありませんでした」

「なぜ謝るのだ」

「私は光神家の陰謀にも気付かず、あろうことか兄上を責めてしまいました」

「そんなことはもういい。お前に会えただけで充分だ」

すると別の木の陰からサナが出て来る。

「テツ」

「サナ!」

「あの時はごめんなさい。私はずっと我儘でした」

「気にするな、サナ。俺も悪かったのだ」

「私にも手伝うことあるかな?」

「ああ、勿論だ。ありがとう」

別の木の陰からカイやマサや黒田家の若者達が次々と現れ、「テツ様」と声を上げている。

感激で胸が一杯になる成田は「お前達…そうか、そうか」と言って呪郎を振り返り、「皆を復活させてくれたのか。ありがとう、呪郎」と言った。

呪郎が「テツ、間違えてもその剣でワシを切るなよ」とおどけて言うと、皆が一斉に笑った。

最後に木の陰から現れたのはムツだった。

「母上」成田がムツに駆け寄る。

「俺は…俺は母上を…」

「いいのですよ、テツ。私達には何も見えていなかった。あなただけが真実に辿り着いていたのです。立派でしたよ、テツ。今回も立派に事を成し遂げるのです」

「ありがたいお言葉、勿論成し遂げてみせます」と言った後、成田は皆に向けて話し出す。

「皆、聞いてくれ。我らを騙し続けた光神源治がこちらの世界に来ている。お前達を盾にして自分だけがのうのうと生き延び、また国を騙そうと画策している。この国賊に対し、我らは正義の鉄槌を下さなければならない。但し、我らはこちらの世界で正しく認識されていない。村が悪魔を封じて来たことは、ここでは秘密とされているからだ。我らが正しき戦いをしても、無知な連中が邪魔をして来るかも知れない。皆、それでも俺について来てくれるか!」

「おう!」と言う声と共に拳を突き上げる仲間達を見て、成田は満足そうに頷いている。

この間、智史は目を凝らして成田の様子を見つめていた。呪郎は成田の空想の中で悪魔首様に取って代わって現れた悪魔だ。悪魔なのに、その姿は一向に智史には見えないのだ。どうやら呪郎以外にも、大勢見えない誰かが来ているようだ。タクやサナなど、供述調書に書かれていた名前が出て来ている。成田の様子を見ていると、本当に誰かがそこにいるような気がするから不思議だ。悪魔が見えないことで気落ちしたが、今はそんなことを言っている場合じゃないと智史は思い直した。

意気揚々とした様子の成田に智史が声を掛ける。

「あの、お取込み中失礼します。私からもお渡しする物があります」

智史はそう言うと、ザックから長さ四十センチほどで、二本の筒を繋げた手製の散弾銃を取り出した。

「私が作った銃です。二発の銃弾が入っていて殺傷能力も高く、持ち運びにも便利です。どうぞお使い下さい」

成田は銃を受け取り、「ありがたい。皆、こちらの御仁から強力な武器を頂戴した!」と叫んだ。

皆が笑顔で拍手をしている。

智史は更にメモ用紙を成田に渡し、「これが光神源治の家の住所です。それと役に立ちそうな情報が一つあります。源治は家の周りの掃除を日課にしているようで、朝早く一人で行っています」と言った。

「あの源治が掃除を?」成田は信じられない様子だ。

「勿論、市民に対してのアピール活動ですよ。掃除している様子を自らネットに上げていますから」

「どこまでも腐った奴め」と言った成田が皆に「皆、俺達もゴミを掃除しに行こう。光神源治というゴミを」と言うと皆が笑っている。

 その時、サナが空を見上げて口を開けた。

「どうした、サナ」と成田。

「あれを見て」とサナが空を指差す。

成田が背後の空を見ると、無数の呪郎が飛んで来るのが見える。

「何なんだ、ありゃ! おい、呪郎。こっちに飛んで来るのはお前の仲間か?」と成田が聞くと、「仲間? ありゃ全部ワシだよ!」と呪郎が笑って返す。

「何てこった!」とはしゃいだ成田が智史を振り返り、「そこの御仁、待っていてくれ! 必ずや源治を仕留めて来る! さあ、行くぞ!」と皆に叫んだ。

歓声を上げる仲間達。

成田が仲間と呪郎を引き連れて去って行く。

その後ろ姿を智史は冷静に見送った。

智史は成田が正気ではないという事実を痛感した。

先ほどの成田との会話で智史が光神源治の名前を出した際、一瞬で成田の目付きが変わった。そしてどこを見ているのか分からないような瞳で、呪郎と会話を始めたのだ。更に地面に落ちていた木の棒を恭しく持って、それが光明の剣だと歓喜していた。その後仲間が次々と現れたらしく、感動の再会をしている時には恐怖で鳥肌が立った。成田の周りには誰もいないのだから当然だ。成田の供述調書を基にして、智史は上手く成田の世界へ入り込み、中津が源治だという有り得ない話をでっち上げたのだが、こんな珍妙な作戦にここまで成田が乗って来るとは思わなかった。

遠ざかる成田の姿を見て、「こんな作戦に乗って来るなんてなぁ。あいつ、完全に壊れてやがる」と智史は呟いた。

工作員として対象者を闇に陥れてきた智史は、その過程で精神が病んでいく相手を沢山見てきたが、成田は別格だった。もう本当に別世界の住人だ。これだけ異常なら、今回更に事件を起こしても死刑にならずに済むかも知れないと智史は思う。しかし智史にとって、それはもうはどうでもいいことだった。成田はすっかり壊れてしまっているし、今願うは無事に中津を始末して貰うことだけなのだから。

その時だ。もうじき見えなくなりそうな成田の背中を見ていると、その後ろを歩く影が見え始める。影は次第に鮮明になっていく。


―――黒くて大きな体。

―――翼が生えている。


智史の頬に涙が流れた。

「悪魔首様…」感極まった智史は地面に正座し、手を突いて深々と頭を下げた。顔を上げた時、すっかり暗闇に消えて成田と影は見えなくなっていた。



 襲撃



山を下りて街灯の明かりが点いたアスファルト道路まで出た時、成田と呪郎以外の者達は驚きを隠せないでいた。

「随分平らな道だな」とタクが感心してアスファルトに手を置く。

「さっき話しただろ、こちらの世界ではこんな道が果てしなく続いているのだ」と成田。

山を下り乍らこちらの世界に関して色々と説明したのだが、矢張り視界から入って来る情報効果は絶大のようだ。

成田はポケットから携帯電話を取り出し、地図アプリを使って中津の家の位置を確認し始める。携帯電話の光に吸い寄せられるように仲間達が集まって来る。

「テツ様、それは何でしょうか?」とマサが携帯を覗き込んで言う。

「これは携帯電話という物だ。これで源治の居場所が掴める」と成田が言うと、「おお、凄いな」、「そんなことが出来るのか」などの声が上がる。

成田達はたまに来る車に身を隠し乍ら、道路をひたすら歩いて街へと入り込んだ。成田以外は古びた着物姿なので、目立たないように暗い場所を選んで進み、中津の家近くの公園へと辿り着いた。かなり大きな公園で緑も多いので仲間達も少し落ち着いたようだ。屋根付きで木製のベンチが並ぶ休憩所に成田達は集まり、朝が来るのを待つことにした。

呪郎は一つのベンチに寝そべり、退屈そうに欠伸をしている。

「なぁ、テツ。早くぶっ殺そうぜ」と呪郎が欠伸混じりに言うと、「時を待て、呪郎。朝が来れば源治も現れる」と成田が窘める。

そんな呪郎を横目で見ていたタクが、改まった様子で呪郎の前に立った。

「呪郎、ちょっといいか」

「ああ?」と乱暴に返す呪郎。

「俺はお前に謝らなければならない。小さき頃より、お前に辛く当たって来たことを心から反省している。本当にすまなかった」とタクは頭を下げる。

すると今度はカイが来て、「それを言うなら俺も同じだ。随分と酷いことばかりして申し訳ない」と頭を下げる。

周りの者達からも『すまない、呪郎』、『悪かった』、『ごめんなさい』などの声が上がる。

当の呪郎は起き上がって胡坐をかき、腕組みし乍ら「うーん」と唸った後に黙り込んだ。

仲間達が沈黙する。

「…そうだよな、呪郎の立場からしたら許せる訳ないよな」タクがぽつりと言った。

「別に許して欲しい訳じゃないのだ、呪郎。俺達はただ謝りたかっただけだから」とカイ。

「あのなぁ、さっきから考えているのだが…」と呪郎がやっと口を開き、皆が聞き入る。

呪郎は「お前ら、一体誰だ?」と言った。

一同はぽかんと口を開けて言葉を失った。

その間、成田は道すがら拾った紐で散弾銃を結び、背負えるように細工していたが、皆の会話に入って来る。

「呪郎はな、どうやら悪魔になればなるほど全てを忘れていくらしい」

「そうなのか、兄上」とタク。

少し間があってからカイが「なら、気にすることなかったな」とおどけて言うと皆から笑いが起こり、なぜだか呪郎まで一緒に爆笑している。

空が白み始めた頃、成田達は公園から数百メートル離れた住宅街へと移動することにした。

成田が「母上はここでお待ち下さい。マサ、母上を頼む」とムツとマサに言って、それ以外の者はテツに続いた。

中津の家は、住宅街でも一際大きな建物だった。

正面にある『中津』の表札を確認した成田は、少し離れた電柱の陰にいる仲間達と合流した。

智史の情報通り、中津は日が昇る頃に玄関から出て来ると、箒と塵取りで家の前の掃除を始めた。自分の家だけでなく隣の家まで掃いて回り、ジョギングの男性が通り掛かると「おはようございます」と自分から笑顔で声を掛けている。

電柱の陰で、成田は皆を振り返って言う。

「相手は一人だ。俺が行く」

「私達も行く」とサナ。

「構わんが、仕留めるのは長であるこの俺に任せてくれ」

「兄上、何かあったらすぐに助太刀致します」とタク。

「テツ、お前は一人じゃないぞ」と呪郎が空を指差す。

成田が見上げると、朝の空に沢山の呪郎が成田を見守るように飛んでいる。

「ありがとう、皆」

成田はそう言うと、背中を向けて掃き掃除をしている中津に向かって歩き出し、仲間達がそれに続いた。

一通り掃き終えた中津がふと振り返ると、目の前に成田が立っている。中津は不思議に思い乍らも「おはようございます」と声を掛けた。

「源治、こちらでも上手くやっているようだな」

成田がそう言っても、中津は不思議そうに成田を見ている。

「源治? 私は中津という者です。誰かとお間違えでは?」と中津が言った。

成田はふっと笑い、「最早話など不要」と言うと手にした光明の剣を抜き、中津に切り掛かった。

「うわっ!」と声を上げ、辛うじて避けた中津がよろける。

力を籠め、立て続けに刀を振り下ろす成田。

続け様に成田の太刀を浴びた中津は「痛い、痛い! やめてくれ!」と叫んでいる。

何度か切っても止めが刺せない成田は、刀を捨てて背負っていた散弾銃を源治に向けた。

中津は「頼むからやめてくれ。私が何をしたと言うんだ」と命乞いをしている。

「話し合いは不要だと言った筈だ」冷徹な目の成田。

中津が「やめろ!」と両手を突き出して制する。

成田が放った一発目の銃弾はその掌を吹き飛ばして胸部に命中する。

「ぐふっ」という声を出して口から血を吐き出す中津。

成田は狙いを定め、二発目の銃弾を放つ。それは中津の頭部を半分吹き飛ばし、中津を永遠に黙らせた。



連鎖



由美子は自分の名前が好きではなかった。『佐藤由美子』というごくありふれた、どの地域にもどの年代にもいそうな名前だから。幼稚園の時には希望の『希』に『星』と書いて『きらら』という子や、『彩』に『晴』と書いて『いろは』という名前の子がいた。由美子は元来地味な性格の子だったので、そこまできらきらしていなくても良かったが、例えば『詩』の一文字で『うた』とか、『凛』の一文字で『りん』や『葵』の一文字で『あおい』などの名前に憧れていた。

小学校に入学すると更に自分の名前が嫌になる出来事があった。同級生に同姓同名の子がいたからだ。そちらの由美子は活発な子で人気者。運動も勉強も出来る上に可愛らしい容姿だから、由美子が太刀打ち出来る訳もなかった。別に太刀打ちする必要もないのだけれど、名前が一緒だからどうしても比較してしまう自分がいて、子供達がいて、親がいた。

更に名前絡みで嫌な出来事が小学校四年生の時に起きた。由美子が休み時間のがやがやした教室にいると、背後から男子達の話し声が聞こえてくる。

「なぁ、あいつ可愛いよな」

「達也があいつのこと好きだって言ってたぜ」

「え、あいつって誰?」

「佐藤由美子に決まってるだろ」

その声に由美子は何となく振り返った。振り返っただけなのだ。

男子達は由美子と目が合うと、「馬鹿、おめぇじゃねえよ」、「自意識過剰だな」と言って笑い出したのだ。

由美子は自分でも顔が真っ赤になるのが分かった。別に自分のことを話していると思って振り返ったのではなく、もう一人の由美子のことだろうと分かっていたのだ。心からそれを伝えたかったが、男子達は笑い乍ら教室を出て行ってしまい、由美子は弁明の機会を失った。由美子は別段容姿に自信がある訳ではなかったが、どこにでもいる普通の容姿だと自分では認識していた。でもこの一件で『自分を可愛いと思っている』、『可愛くもないのに』などと陰で言われる存在へと落ちてしまう。違う名前ならこんなことにはならなかったのにと、由美子は名前を恨んだ。

同じ名前のせいか、小学校時代にもう一人の由美子と同じクラスになることはなかったが、共に同じ中学へと上がることになった。勉強も出来るのだから中学受験でもして違う学校に行って欲しかったのだが、生憎そうはならなかった。ただ中学でも二人は一緒のクラスになることはなかった。

中学一年生の時、由美子の隣の席に皆川敏行という、ちょっと変わった男の子が来た。彼は隣の小学校に通っていたが、中学で学区が変わったことで同じ学校になり、同じクラスとなった。小学校からの友達からは『トシ』と呼ばれていて、なかなか人気もあるようだった。お調子者で誰にでも平気で話し掛けられる性格で、やがて由美子もこの男の子をトシと呼ぶようになる。

隣の席になった途端、トシは開口一番「佐藤由美子って良い名前だね」と馴れ馴れしく言って来た。

名前について良い思い出がない由美子は「はあ? どこが?」と不機嫌そうに言った。

トシは「だって普通だから。普通が一番だよ」と言った後、「そういえば、もう一人同じ名前の子がいるね」と言った。

やっぱりそう来たかと思った由美子が「あの子可愛いでしょ」と素っ気なく言うと、「確かに可愛いね」とトシが答える。

由美子は溜め息混じりに「付き合いたいなら、私に仲介頼んでも無駄だよ。名前一緒でも話したことないから」と言って突き放した。

すると、驚いた顔でトシが由美子を見つめている。

その視線に堪えられなくて「何?」と由美子が言葉を漏らす。

「可愛いけど興味ない」とトシ。

その一言だけなら良かったのだが、トシはもう一言余計なことを言う。「俺は君の方がいいと思うよ」と。

なぜそういうことを言うのだろうと思い乍ら、「何それ」と言うのが由美子にはやっとだった。

「可愛い子には二つのタイプがあるでしょ。それを武器にするタイプとしないタイプ。あの子は武器にして上手く立ち回るタイプだよ。自信家みたいだし、好みじゃないね」とトシが独自の見解を披露したが、先ほどの言葉が気になって由美子の頭には入って来ない。

由美子からしたら、それからトシを意識せざるを得ない状況になるのだが、当のトシは何事もなかったかのように、消しゴム貸してくれだの、一緒に図書係やろうなどと平然と話し掛けて来る。あの言葉に大意はなかったのだと由美子も思うようになり、そのうち何も考えずに話せるようになっていった。

ある日トシが「俺のこと皆川くんじゃなくてトシって呼んで。それ以外は返事しないから」と言って来た。その後、由美子が苗字で呼び掛けたら本当に返事をしないので、仕方なくトシと呼び始めたのだった。

二年生になるとまたクラス替えがあり、トシとは違うクラスになった。

ある日の学校からの帰り道、家の方向が違う筈のトシが道端に立っていたので「あれ、何しているの?」と由美子は声を掛けた。

いつも多弁なトシが「うん…」と言ってから珍しく黙り込んだので、「あ、ごめん。誰かと待ち合わせか」と由美子は通り過ぎようとする。

「違うよ!」とトシが呼び止めた。

予想外の大声に由美子は立ち止まる。

「ほら、クラス替わって最近話せていないだろ」とトシ。

「え…あ、うん」と言って少し考えた由美子は「もしかして、私を待っていた?」と聞いてみる。

「だからそうだよ」

「そうなんだ」と由美子が言った後、なぜだか気まずい雰囲気となり、二人は互いに言葉を探すことになる。

やっと言葉を見つけたトシが「付き合ってくれないかな、俺と」と思い切った様子で言って来た。

その時、「君の方がいい」と言ってくれたトシの言葉が由美子の頭に浮かんだ。

「駄目かな、俺?」

「…駄目じゃないよ」

由美子は何とかそう答えて、ここから二人の交際が始まった。

中学を卒業した二人は別々の高校へと進学することになるが、交際は続いていた。高校で由美子は吹奏楽部に所属して、トシは自然科学部に入った。自然科学部は部員達が相談の上、物理、化学、生物、天文などの分野から研究テーマを決めていく。トシは部活で生物の骨格標本制作や魚類の剝製制作、望遠鏡を用いての星や太陽の観測と撮影、蛍の観察と記録などの体験をした。ここで研究の楽しさを知ったトシは、大学で研究者を目指したいと思うようになる。

部活は忙しかったが、二人は定期的に会う時間を大切にした。互いの誕生日はあれこれ考えるのも大変だし、お互い学生でお金もないので、様々な文房具を送り合うことにした。

高校を出ると、由美子は女子短大の英文科へと進む。特に目指している仕事はなかったが、何か英語に関わる仕事がしたいという漠然とした入学理由であった。短大なので、トシより早く卒業して就職することになる。就職先は親戚の伝手で、二人が誕生日に送り合った文具メーカーに決まり、総務部に配属された。電話対応や来客対応の他、備品管理なども業務の一環だが、英語を生かせる場面は殆どなかった。

トシは東慶大学に進学して、在学中に『学士』の学位を取得し、卒業するとそのまま大学院へと進むことになった。そして成田良平という教授の研究助手になる。

トシから助手になったと聞かされると、由美子は複雑な気持ちになった。よく話を聞けば、給料は出るものの単年契約で翌年契約が延長されるとは限らないし、研究内容もよく分からない『サンカ』の研究で、将来性があるとはとても思えなかったからだ。由美子は結婚も視野に入れ、自分が仕事でトシを支えなければならないと考え始める。

この頃、由美子は社内で坂本凛という同僚と親しくなる。彼女は海外営業部のやり手だったが、由美子が憧れていた凛という名前が話し掛けるきっかけとなった。活動的な凛には彼氏がいて、二人でスキューバダイビングを楽しむ写真をネットに上げていた。水中写真が特に綺麗だと褒めると、凛はスキューバダイビングを由美子に勧めて来た。由美子は渋るトシを誘って二人で免許を取得するのだが、不幸にもそれがトシの死に繋がることとなる。

免許を取ったすぐ後、由美子に気になる出来事が起きる。会社の同じ部署にいる、徳永翔太という男性社員から突然交際を申し込まれたのだ。悪い人ではなかった、というよりとても良い人だったので、由美子の心が動かなかったと言えば嘘になる。頭の中でトシと天秤に掛けてもみたが、すぐにそんな考えを打ち消した。由美子は彼氏がいることを告げて断りを入れたのだが、向こうから「待ちます」という意外な返答が帰って来た。そんな中、トシから大発見をしたかも知れないとの話を聞いたのだ。トシが研究の為に山に入ると言った時も、徳永の件で頭が一杯だった由美子は深く考えもせず、「気を付けてね」の一言で送り出してしまった。そして、


―――トシは行方不明になる。


トシからの連絡が途絶えて初めて、由美子は深く後悔した。どうしてあの時、もっとちゃんと話を聞いてあげなかったのかと悔やんだ。山に入ると聞いただけでどの山に行くのかも聞き返さなかったので、探しようにも当てがない。成田教授も共に行方知れずということで警察の捜査が入ることになった。由美子は事情聴取に協力したが、大して役立つことも出来ず、その後はただ捜査の成り行きを見守るしかなかった。

心配な日々が暫く続いた。由美子はストレスで睡眠も食事も充分に取れなかった為に会社で倒れ、病院へ通い乍ら自宅で静養することになった。静養する中、成田だけが発見されたというニュースが飛び込んで来る。発見というか、逮捕されたというのだ。この事件は世間で大きな話題となった。成田が人を二人も殺していた事実に由美子は大きな衝撃を受け、トシの安否が余計に心配になった。成田が警察の取り調べを受け、その供述から洞窟や地底湖の存在が明らかになり、


―――トシの遺体が発見された。


この現実に、由美子は悲しみのどん底へと突き落とされる。トシの遺体はヘリで回収され、司法解剖の後に遺族へ引き渡され、しめやかに葬儀が行われた。由美子も葬儀に行ったが、遺体の腐敗があるらしく、トシの顔を見ることは出来なかった。

それからの由美子は抜け殻のようだった。成田は在りもしない村や『呪郎』という悪魔の話をしていて、精神鑑定が行われるという。成田が描いた呪郎の絵が、ニュースでも頻繁に映し出されていた。由美子からすれば、罪を逃れようと嘘を吐いているようにしか見えず、心の底から腹が立った。それと同時に自分の罪を悔いた。無理に免許など取らせなければ、地底湖に潜ったりはしなかっただろうと考えると胸が張り裂けそうだった。

更に成田が病院でも殺人を犯し、今も逃亡中だという続報を聞いて、由美子の頭は混乱するばかりだった。トシの死の経緯も明らかになっていないのに、信じられない出来事が立て続けに起きている。ただ、トシの死に成田が関わっていることだけは確かだ。例えそれが事故だとしても、己の利益の為に無許可で地底湖に潜ったのだから、トシを殺したに等しいと由美子は思う。だが、気掛かりなこともある。これだけ常軌を逸した行動が続けば、逆に成田が罪に問われないケースもあり得るからだ。

その日も由美子は殆ど眠ることが出来ず、朝を迎えることになった。日が昇る頃、二階の自室から一階のリビングに由美子は下りて来た。両親はまだ就寝中だ。外の空気を吸いたくてカーテンを開け、硝子戸を開けると、


―――一人の男と≪それ≫はいた。


男は電柱の陰に隠れて、どうやら前方の様子を窺っているようだが、由美子の位置からは隠れている男が丸見えだ。しかし問題は、男の後ろに立っている≪それ≫だった。


―――大きくて真っ黒な体。

―――背中から生えた大きな翼。

―――化け物だ。


由美子は自分の目と頭を疑った。きっと心労で幻覚が見えているのだと考えたその時、化け物はこちらを向き、由美子と目が合うとにやりと笑った。

由美子の全身に鳥肌が立つ。

次の瞬間、化け物は電柱の陰から由美子の眼前へと瞬間移動した。

由美子は突然の出来事に目を見開き、恐怖の余り嘔吐しそうになる。

「みーつけた」と言った後に由美子の顔を覗き込み、「お前、良い闇を持っているなぁ」と化け物は言う。

この時、由美子は成田が描いた呪郎の絵を思い出す。この化け物は絵にそっくりだ。それを思い出した瞬間、「そうだ、ワシが呪郎だよ」と呪郎が言って来た。

由美子の体ががたがたと震えている。

「震えている場合じゃないぞ。ほら、よく見ろ」と呪郎。

「…………」

「もしもーし、聞こえていますか?」

「…………」

「あいつを見てみろよ」と呪郎が電柱の男を指差す。

改めて由美子が男をよく見てみると、


―――それは成田良平だった。


成田は電柱越しに何かを窺っているが、時折振り向いては誰かとひそひそ話をしている。勿論、成田以外誰もいないのだが。

「あいつ、今有名人なんだろ?」と呪郎。

「…………」

「何をしていると思う?」

「…………」

「何を持っている?」

成田が手に棒を握り、背中に見慣れない物体を背負っているのを由美子は確認する。

「あの背負っている物なーんだ? 答えは散弾銃」とふざけている呪郎。

「…散弾銃」

「そしてあいつは何を見ている?」

由美子が成田の視線の先を追うと、市議会議員の中津の家があり、家の前で掃除をしている中津の姿が見える。

「殺人犯がぁ、散弾銃持ってぇ、これから何をするのかぁ、さぁ考えてみよう!」と言った呪郎は続けて由美子に囁いた。

「ここでまた人を殺しても、あいつはいかれているから無罪になるだろうなぁ。あんたの大事な人を殺しておいて、のうのうと生き延びるなんて悔しいよなぁ。でもこれはチャンスかも知れないから、よく考えて行動することだ。あんたの親父さん、ゴルフが趣味なんだなぁ」

そう言うと呪郎の体は瞬間的に電柱の陰へと移動し、こちらを向いて笑っている。

由美子は考えを巡らせる。トシを死に追いやった男をみすみす無罪になどしたくはない。

だがこんな自分に何が出来るというのだ。

そうやって由美子が躊躇している間、成田が中津に歩み寄って行く姿が見えた。咄嗟に由美子は玄関に走り、三和土に置かれたゴルフバッグの中からサンドウェッジを取り出すと、それを手に玄関から外へ出る。

「やめろ!」と言う中津の声がして一発目の銃声が鳴り響いた。

由美子が視線を移すと、手を吹き飛ばされ、胸を押さえて苦しんでいる中津の姿が目に飛び込んで来た。

成田の元へ走る由美子。

成田は中津に散弾銃を向け、二発目の狙いを定めている。

もう間に合わないと思った瞬間、由美子はあることに気付く。


―――今、成田を殺しても罪に問われることはないということを。


千載一遇のチャンスに由美子の足が速まる。成田の背後に立った由美子は大きくサンドウェッジを振りかぶり、全身の力を込めて成田の頭部目掛けて振り下ろす。だがそれが頭部に到達する前に、成田は散弾銃の引き金を引いてしまった。二発目の銃声が響いた直後、由美子のサンドウェッジが成田の頭部を直撃する。

「ぐえっ!」

成田がそんな声を発した。

サンドウェッジが成田の頭部にめり込む感触が由美子の手に伝わった。一生忘れられない感触だ。その硬い先端は頭蓋骨を突き破り、脳まで達してしまっている。

頭にサンドウェッジをめり込ませたまま成田が振り返り、由美子と目を合わせる。

「あ…ぐ…」と口を動かした成田は白目を剝き、棒のように顔から倒れた。

成田の鮮血がアスファルトに広がって行く光景を見て、由美子は気持ちの清算が出来たような爽快感を味わっていた。その後、由美子の頭に浮かんで来たのは、


―――徳永の顔だった。


正当防衛で罪には問われないだろうが、人を殺した女を彼は受け入れてくれるだろうかと由美子は考えた。「待ちます」と言ってくれた彼ならばチャンスは大いにあると思った時、由美子の口元が少し緩んだ。


成田による中津殺害事件は当然世間の注目を浴びるニュースとなって全国を駆け巡り、由美子もまた時の人となった。成田の異常行動もそうだが、由美子の行為が正当防衛と認められるかどうかも人々の関心を集めることとなる。成田と由美子に何の関係性もなければ議論が湧くこともなかったのだが、由美子が皆川の恋人だった事実が発覚すると、由美子による復讐説が囁かれることになったのだ。ワイドショーや週刊誌での論争もあったが、世論は由美子の勇気ある行動を称賛し、その行為は正当防衛に当たるという意見が次第に大半を占めていった。

由美子は連日の事情聴取に積極的に協力した。勿論、殺意などはなく、中津を助ける為の行動であったことを伝え続けた。世論が自分に味方してくれることで、由美子は精神的にも安定を取り戻し、落ち着いたら会社に復帰したいと思い始める。数日後、長期休養となってしまったお詫びも兼ねて会社へ赴き、復帰したいとの旨を伝えた。徳永にも会いたがったが、残念なことにその日徳永と会うことは叶わなかった。

会社復帰日の二日前、花束を持って凛が来てくれた。

「ずっとお見舞いに来たかったのに、遅くなってごめんね」と凛は謝って来た。

二人は由美子の部屋で久し振りの会話を楽しんだが、話しているのは殆ど凛だった。流石に事件の話は避けた方がいいと思ったのか、凛の話は終始会社の話や自身のプライベートに関する話題であったが、その中でスキューバダイビングを一緒に楽しんだ彼氏とは別れたという話が出て来た。

「別れた? あんなに仲良さそうだったのに」と純粋に驚く由美子。

「結局リア充生活ネットでひけらかすだけの、薄っぺらな男だったのよ。まぁ、中身がないからそれしか出来ない可哀想な人でもあるけど」

「そうなんだ…」

「やっぱり男は中身ね」

「またきっと良い出会いがあるよ、凛なら」

「あ、それなら大丈夫」

「もう乗り越えたの?」

「うん、新しい彼氏出来たから」

「もう?」

「今度は社内恋愛になっちゃったけど」

「…社内?」

「実は由美子と同じ部署の人。徳永さん」

「…………」

「前から気にはなっていたけど、別れた勢いで私から告白したら、付き合うことになっちゃった」

「彼も…凛に好意があったってこと?」

「向こうも、前から私のこと気になっていたんだってさ。あ、ごめん。何か惚気ているみたい」

そう言って笑っている凛を見て由美子も笑うしかなかったが、その心には闇が広がって行く。

《そもそもこの女は、なぜ今になって見舞いに来たのか。来るタイミングなら幾らだってあったのに、私が世間から注目される存在になってからのこのこ現れやがって、この馬鹿女め!》

《あの男は「待ちます」なんて殊勝なことを言い乍ら、誰にでも良い顔しやがって。ただ女が欲しいだけの糞男じゃねぇか!》

何も知らずに徳永の話を続ける凛を見つめ、この馬鹿女と糞男をどうにか始末する方法はないだろうかと考えてしまう由美子がいる。由美子はその時、震えるほど怖かった呪郎、嘔吐しそうなくらい醜かった呪郎にまた会いたいと思った。



試用期間



テツは川辺に座り、のんびりと釣り糸を垂れている。穏やかな晴天の日だ。

ふと、テツは違和感を覚えた。確かに川のせせらぎは聞こえるが、鳥の声や虫の声、風の音も聞こえて来ないからだ。つまり川のせせらぎ以外の音がない。

「随分静かな日だな」とテツは横にいる呪郎に言った。呪郎はテツの横で寝そべっているのだ。

「なぁ、俺達は間違っていたのかなぁ」とテツ。

「…………」

「選択だよ。俺達はどこかで選択を間違えたんだろ? そうじゃないのか?」

「…………」

「そうか、お前からしたら正しい選択か。お前、悪魔だからな」

「…………」

「呪郎、聞いているのか?」

呪郎が大きな欠伸と共に上体を起こし、「さっきからうるさい虫だなぁ」と不機嫌そうに言った。

「お前、俺を虫と間違えているのか?」

呪郎がテツを覗き込み、「何だ、喋る虫か?」と言う。

「虫と人間の区別もつかなくなったか、いよいよだな」

呪郎は立ち上がり乍ら「虫も人間も大差ない。だが人間の方が笑える。狡くて愚かで醜いからな」と言って笑っている。

「なぁ、呪郎…」と言うテツの言葉を聞かず、「じゃあな、虫けら」と呪郎が翼を広げ、遠くの空へ飛び去って行く。

テツが小さくなって行く呪郎を見送っていると、竿に手応えがある。竿を引き上げると、川の中からウェットスーツ姿の皆川の遺体が浮かんで来る。

「皆川くん…」と成田が呟く。テツの姿は成田へと変わっている。

皆川の遺体が目を開け、成田を見つめる。

「やっと来たか、卑怯者」と皆川が口を開く。

「俺は…一体…誰だ」と成田。

「ここまで来てまだ誤魔化す気か? ここは釣りをする川ではない。さっさと渡れ」と冷たく皆川が言う。

改めて川を見つめた成田が「この川は…」と呟いた。

いつの間にか川の向こう岸に皆川が立っている。「さあ、早くこっちへ来い」と手招いている。

成田は立ち上がると川の中に足を入れ、向こう岸へと歩き始めた…。


由美子の一撃を受けた後、成田はすぐに死ぬことはなく、その二日後に息を引き取った。

成田の死がニュースで報道されると、宗仲酒造では予想を超える成果に信者達が大いに沸き立った。対象者である成田を使って、宗仲天教を脅かす存在である中津を消し去るという離れ業が出来たのは、誰の目から見ても智史の功績と言えよう。信者間では智史の求心力が高まり、首守の後継者の地位を確固たるものにした。ただ求心力が高まり過ぎたのか、現時点での首守交代論まで信者達から囁かれ始める。元来首守後継は、現首守の死後にその親族が悪魔首の声を聞き、声を聞いた者が首守となるという形式で継がれて来た。だが今回異例なのは、現首守である幸子が生きているにも関わらず、智史が悪魔を見たという事実であった。今までそんな前例はなかったのだ。勿論、悪魔を本当に見たかどうかは智史にしか分からないが、見たと言う智史の言葉を一部の信者達は妄信している。その結果、早めの首守交代を悪魔首様が望んでいるのではないかと勘繰る者も出て来た。

智史自身も、信者から交代論が出る前にそれを意識していた。なぜ首守でもない自分の前に、悪魔は姿を現したのか? 幸子は不要だということではないのか? そんな考えが智史の頭を駆け巡っていた。成田による中津殺害事件で高笑いしている幸子を見て、智史は余計にそう思うのだ。更にその思いは過剰に膨らみ続け、幸子の暗殺まで考え付いてしまう。

智史は数年前に幸子から静江の話を聞いた。智史にとって祖母に当たる静江は、宗仲天教を否定した末に暗殺されたという。手を下したのは、祖父である勝造だとのことだ。その話を聞いた時、智史に驚きはなかった。宗仲天教は黒子として悪魔の手助けをするが、信者に脱会者や裏切り者が出た場合は、容赦無用で直接手を下してきたからだ。智史もこれまで脱会しようとした家族の家を燃やし、一家全員を焼死させたことがあった。それも全て呪いの宗教を守る為なのだ。もし本当に幸子が不要なら、智史には躊躇なく排除する自信があった。

決定的な出来事が起こる。三か月に一度、外部の信者含めて全員が顔を揃える集会での出来事だ。智史はいつもの如く皆と揃いの覆面を被り、信者達と呪文を唱えていた。智史は最前列にいたが、祭壇前中央の位置には幸子が鎮座している。

呪文を唱えている最中、閉じられていた智史の目が開いた。何とも言えない違和感があったのだ。智史自身も混乱して周りを見渡すが、いつも様子と変わりはない。

「いや…違う」と智史は呟いた。

いつもの集会なのに決定的に違っているもの…それは気配だ。

智史がはっとして後ろを振り返ると、


―――そこに呪郎がいた。


呪郎は後列の空いた席に座り、退屈そうにふんぞり返っている。

「悪魔首様!」

智史のその一言で呪文が一斉に止み、全員が智史に注目した。

智史は覆面を取り、満面の笑顔を見せる。

「智史、大切な呪文の最中に何事です!」と幸子。

「だって母さん、いや、首守様。そこに悪魔首様が!」智史が呪郎を指し示した。

幸子と信者達が示す方向を見て探すのだが、何も見当たらない様子で困惑している。

おかしなことに呪郎自身も自分のことだとは思わず、一緒になって辺りを探している。

「あなたのことですよ、悪魔首様」と智史が呪郎に話し掛ける。

呪郎は「はあ? ワシか?」と言った。

「そうですとも悪魔首様」

「ワシは呪郎だ。ま、悪魔に違いないが」

「…呪郎」智史は成田の供述調書にあったその名前を思い出した。

「智史、一体誰と話しているんだい」と憤慨した様子で幸子が言う。

「誰ってそこに…」

そう言った智史の視線の先に呪郎の姿はなかった。

「誰と話しているのか聞いているんだよ!」

更に詰め寄って来る幸子と信者達の視線の中、智史は今起きた出来事の意味を考え続けていた。


この集会での騒ぎで、智史の求心力は次第に弱まっていった。智史としては悪魔を目の当たりにした上に会話までしたのだから、自身の信頼が揺らいでいくのは心外だったが、信者達の受け止め方は違っていた。信者が集まる中で、智史が自身の地位を高める為に大芝居を打ったのではないかという憶測が出始めたのだ。町田からこの話を聞いた時、智史は腹を立て乍らも、流石は宗仲天教の信者だと感心もした。猜疑心に満ち溢れている。ただ今回の一件ではっきりしたのは、あの場で悪魔を見たのは智史だけだったということだ。幸子にも見えない悪魔が見えたという事実が、智史に勇気を与えた。問題なのはなぜ自分の前に姿を現すのか、その意味だった。智史には悪魔が首守の交代を望んでいるようにしか思えなかった。もうそれ以外考えられなくなっていた。

午前一時を少し回った時刻、智史と町田の姿が薄暗い酒蔵の中にあった。約束の時間に智史が来た時、既に町田は貯蔵タンクを見上げて立っていた。二人は今、外に聞こえぬよう小声で話し合いをしている最中だ。

「お前にも見えなかったのだな?」と智史が問い掛ける。

「ええ」と町田。

智史は息を吐き出し乍ら「まぁ、そうだよな」と言った。

「確かに見えたのですか?」確かめるように町田が聞く。

「ああ」

「で…悪魔首様は何か仰っていましたか?」

「いや。ただ呪郎と名乗っていた」

「呪郎というと…成田が絵に描いていた、あの悪魔ですか?」

「そうだ」

「で、私は何をすればいいのでしょう?」

「え?」

「秘密裏に私を呼んだのは、何か考えがあるからではないですか」

「決めたんだ。首守を交代する」

唖然としている町田がいる。「それは…幸子様が承諾したということですか?」

「いや」

「では、これから話し合いを?」

「話し合いはしない」

「まさか…」

「首守様を暗殺する」

「…………」

「俺が新しい首守となって天教を取り仕切る。お前には俺の代わりに工作部を仕切って欲しいと思っている」

「首守交代は、幸子様が亡くなられた後に行う筈では?」

「暗殺すればそうなるだろ。どうだ、手伝ってくれるか?」

町田は顎を頻りに触り乍ら「その呪郎と名乗った悪魔が、暗殺せよと仰っていたのですか?」と尋ねる。

「そうは言ってないが、俺にだけ見えるということはそういうことだ」

「あの…」

「何だ?」

「失礼を承知で言いますが、首守の座を早く手に入れたいが為に、ご自身に都合の良い解釈をしているだけではないでしょうか」

突然の否定的な発言に憤慨した智史は、「随分失礼だな。お前がそう思うならそれでもいい。協力したくなればしなくて結構。但し、この話は内密にすることだ。お前の命に関わって来ることだからな」と威圧的に言った。

ふうと町田が大きく息を吐く。

「残念だよ、町田。君のことを勘違いしていた。とんだ期待外れだったようだ」と智史が嫌味を込めて言った時、町田がにやりとした。

むっとした智史が「何かおかしなことを言ったか?」と詰め寄る。

「おかしなこと? そうだなぁ、大いにおかしいよ。お前がやっていることはクーデター、ただの裏切り行為だ。裏切り者の末路はお前が一番分かっているというのに、愚かな奴だ」

態度が急変した町田に智史は驚きを隠せない。

「お、おい! 何だ、その口の利き方は!」と智史は動揺して叫んだ。

「お前の方こそ口の利き方には気を付けろ」

町田はそう言うと、続けて大きな声で「こいつはここまでのようです、幸子様」と言った。

町田の声が酒蔵中に響いた後、貯蔵タンクの陰から幸子が出て来た。

「…母さん」智史が唖然としている。

幸子だけではない、老若男女の信者達がぞろぞろと出て来て、数人が釜や斧や日本刀を手にしている。

幸子は黙ったまま智史の目前まで歩み寄った。

親子は暫く睨み合い、智史が先に口を開く。

「聞いていたのだろ。あんたは…もう不要だ」

「言いたいことはそれだけかい?」とふてぶてしく幸子が言う。

「それがお告げなのだ!」

幸子は鼻で笑って、「呪郎のお告げか? 呪郎なんて成田の作り話じゃないか」と幸子は智史の周りを歩き乍ら続ける。

「成田と会って毒されたのかも知れないが、お前は反乱を起こそうとした。脱会者を抹殺して来たお前なら、これからどうなるかは分かっているね」

「俺を殺したら後継者がいなくなるぞ。首守は代々血縁者が継いで来たのだ!」

「確かにそうだねぇ、でもそれは血縁者がお前一人だった場合の話だ」

「…………」

「前から予想はしていたんだ。兄弟でもお前の方が危ういってね」

「…兄弟?」

「お前は一人っ子じゃない。そこにいる町田はお前の兄だ、父親は違うけどね。それぞれの父親は名前も知らないし、顔も覚えてないねぇ」と言った後、幸子はにやりとした。

そんな幸子を見て「…嘘だ」と智史が呟く。

「嘘なもんか、産んだ私が言っているんだ。ⅮNA鑑定でもすればはっきりするけど、お前にもうそんな時間はない」

智史が町田を見ると、町田は「俺もつい最近知らされたんだ」と言った。

「なぜ黙っていたんだ、何の意味があるんだ!」智史が幸子に訴える。

「兄弟として慣れ合わないよう、ばらばらにしていただけのこと。私は二人を傍に置いてそれぞれに役割を与え、首守としての資質を見極めていただけさ。それがどんな役割であろうが、悪魔首様と天教への忠義心が揺らぐことがあってはならない。常に目を光らせてお前達を観察して来た。つまりお前達は生まれた時から今も尚、首守になる為の試用期間中だということ。但し智史、お前の試用期間は只今を持って終了とする。お疲れ様」

「…………」

先ほどまで、幸子を暗殺することしか頭になかった智史は、突然受けた死の宣告に愕然とし、言葉と思考を失った。

智史が漸く思考を取り戻したのは、近くの森へと向かう車の中だった。両脇を信者が固める後部座席の中央に、両手を前で縛られた智史がいた。真夜中の森へ連行される智史に以前の工作部トップとしての威厳はなく、項垂れているその姿は一際小さく見える。

数台の車に分かれて森に入った宗仲天教一行は、ある一本の木の前で次々と車を止めた。

先に降りた信者達が、バッテリー式ライトを数個設置して、その場を明るく照らす。

車から降ろされた智史は、どっしりと根を張ったその大木を見上げた。

最後の車からゆっくりと降りて来た幸子は、智史に歩み寄って言った。

「お前に相応しい死に場所を選んであげたよ。何たって私の息子の処刑だからね。ここは母の静江が吊るされた場所だよ。そう言えばお前の祖母だねぇ」

なぜか誇らしげな幸子を見て、この人に母親としての情など欠片もないのだと智史は痛感する。思えば物心ついた頃から、智史の身の回りの世話は信者達が交代でやってくれた。食事も洗濯も、風呂に入れてくれたのも信者だ。もしやこうなることを想定して敢えて息子と距離を取り、母性を無理やり押さえ込んでいたのかとも思ったが、迷うことなく処刑の準備を信者に命ずる幸子を見て、智史は首を横に振った。

智史は黙々と準備する信者達を見つめた。首吊り用のロープの片側に棒切れを結び、それを太い枝に向かって投げ掛ける。枝から垂れ下がったロープを適当な長さで切り、首吊り用の輪を作る。もう一端の棒切れを取ると、高さを確認し乍ら近くの岩に結んでいる。その間、一人の信者が木の根元に封筒を置く。智史にはそれが一目で遺書だと分かった。筆跡が分からぬようパソコンで作成し、それらしい内容が書かれている筈だ。この時点で遺書が用意されているということは、大分前から怪しまれていたようだが、今の智史にはどうでもいいことだ。警察が事情を聴きに来た時は、近頃様子がおかしかったとか、前にも自殺未遂を起こしたことがあるとか、皆で口を揃えて証言するだろう。

ロープの下に酒運搬用の木箱が置かれた時、「さあ、そこへ上がりな」と幸子が智史に冷たく言い放った。

両手を縛っていた紐が切られるが、躊躇している智史がいる。

その姿を見て「首を切って死ぬかい? 切れ味抜群の包丁もあるよ。どっちみち自殺に見せ掛けるけどね。さあ、どうする?」と幸子が言う。

智史は観念して木箱に上がった。自分を見上げている幸子と信者達の顔が見える。誰か止める者は現れないかと顔色を窺ったが、意外なほど誰もが無表情であった。長年顔を合わせて来た仲なのに薄情なものだと思ったが、対象者に冷酷に接して来た自分を顧みると、当然の反応にも思える。

その時だ。信者の中に見知らぬ女性がいることに智史は気付いた。和服を着ていて、歳は三十前後といったところだろうか。最初は後ろにいたが、信者の間を通って前に進んで来る女性を見つめ、智史は以前に見た静江の写真を思い出した。今歩いて来る女性は、その静江なのだ。

智史は「お祖母様…静江お祖母様」と呟いていた。

「何だい、今度は祖母ちゃんが迎えに来たか?」幸子がからかって笑っている。どうやら他の者には見えないらしい。

静江が「智史、頑張ったね」と優しく声を掛けてくる。

智史の目に自然と涙が溢れた。

「おやおや、泣きを入れても無駄だよ」呆れた様子の幸子が言う。

「お前は立派にやり遂げましたよ」

静江は幸子に構わずそう言った。

「お祖母様…」と智史が胸を打たれた時、静江の体が次第に大きくなっていることに気付く。どんどんと背が伸び、着ていた着物は破られ、肌が黒く変色し、背中から両翼が生えて…


―――呪郎が現れた。


智史は愕然としている。

呪郎は静江風に「立派にやり遂げましたよ」とふざけた後、「お前が何をやり遂げたって言うんだ。人殺しか?」と言うと腹を抱えて笑っている。

死にゆく人間を嘲笑う呪郎を見て、文字通り悪魔だと智史は思った。

ひと笑いしてから呪郎は周りにいる信者達を見て、「ところで兄ちゃん、何をしているんだ?」と智史に話し掛ける。

呪郎の存在に気付かない幸子が「ほら、智史。早いとこ縄を首に掛けな」と急かすので、智史はロープの輪を首に掛けた。

「何だ、首吊りか? 首を吊りたいのか?」と興味なさそうに言った呪郎は傍にいる幸子を見下ろし、「何だ、この婆あ! 中身が真っ黒じゃねぇか! すげえなぁ、人間かこいつ?」と驚いている。

智史が驚き乍ら「知らないのか? 宗仲天教の首守様を?」と呪郎に言う。

「知らねぇなぁ。何だ、それ?」と呪郎。

「そんな馬鹿な…知らない筈がない。宗仲天教はいつだって悪魔の黒子として暗躍して来たのだぞ」

「宗仲なんちゃら? …あれ、待てよ」

そう言うと呪郎は腕を組んで信者の間を歩き回り、「宗仲…宗仲…」と考えている。

その間に幸子が「智史、また呪郎とでも話しているのかい? そんな小芝居したって運命は変わらないのにねぇ」と言っている。

その時、呪郎の足が止まった。

「そうだ、宗仲ってあいつだ。何て言ったかな、あの親父…土左衛門? …吉右衛門?

…あ、佐喜衛門だ」と呪郎は何かを思い出し始めている。

「佐喜衛門? 宗仲佐喜衛門か?」と智史。

「そう、そいつだ。思い出して来た。ワシがあいつに人を集めろと言って…あいつが分かりましたって言って…その後あいつが集まったとか何とか言って来て…」

そう言うと呪郎は周りの信者達を見て、信じられない一言を口にした。

「あ? この連中がそれか」と。

その言葉に智史が愕然としていると、幸子が話し出す。

「別にねぇ、こっちだって好きで処刑する訳じゃないんだ。我が宗仲天教は悪魔と共に歩んで来たのだよ。我らは悪魔の為に存在し、悪魔も我らの為に存在している。そうやって共存して来たのだ。その輪を乱す者は排除しなければ…」

「違う!」と智史が語気を荒げて言った。

「何が違うと言うんだい?」

「全部分かったぞ。共存なんかしていない…俺達の存在さえ忘れていた」

「馬鹿なことを」

「馬鹿はお前達だ! 宗仲天教は佐喜衛門が作ったのではない、こいつが作ったのだ! 自分で作っておき乍ら忘れていたんだ…こいつは…俺達と同じ次元にはいない…」と言った智史は、ライトに集まっている虫達を見つめ、「…虫だ」と呟いた。

「…虫?」と幸子。

「こいつに取って俺達は…ただの虫けらだ」

呪郎が「何をさっきからぐだぐだと言っているんだ?」と不思議そうに智史を見ている。

「下らない時間稼ぎはおやめ! みっともない。さあ、潔くそこから飛びな!」

幸子がそう叫ぶも、智史は動かない。

智史はじっと呪郎を見つめ、「なぜ天教を作ったのだ?」と尋ねる。

呪郎は「天教って何だ?」と首を傾げた。

「なら、なぜ人を集めた?」

「はて、なぜだったか」

「全員…まとめて始末する為だろ?」

「さあ、どうだったか」

「そうだろ!」

「それはお前の望みか?」と言った呪郎がにやりと笑う。

智史は強い視線で呪郎を見つめたままだ。

その間、幸子は町田に目配せをしている。

町田は智史の背後に回り、乗っていた木箱を思い切り蹴飛ばした。

智史の全体重が首に掛かり、一気にその顔が充血していく。もがき苦しむ智史は頭上のロープを掴んで引き上げ、自分の体重を支えた。そのまま腕力だけで上へと登り始める。

驚いてその様子を見ている幸子と信者達。

智史は必死で上へ上へと登り続け、何とか枝の部分まで辿り着く。片手を枝に掛け、最後の力を振り絞って枝の上に這い上がろうとした時、枝の上に座って自分を見下ろす呪郎がいることに気付く。

「お前も真っ黒だな」と呪郎が言った瞬間、枝に掛けた智史の手が滑った。

「ああっ!」と声を上げて落ちて行く智史。それはまるで、絞首刑台でスイッチを押された死刑囚の様であった。その体が下まで落ちて、ぴんとロープが張られた瞬間に首の骨が折れる嫌な音がした。動かなくなった智史の体が揺れている。

智史の死を確認した幸子は目を閉じて呪文を唱え始め、信者達がそれに続いた。

夜の森に不気味な呪文が流れる。

その最中であった。町田は何やら薄気味悪い気配を感じて、呪文を唱え乍らそっと目を開けてみた。目の前には呪文を唱える仲間と吊り下がった智史が見えるのだが、


―――後ろに誰かがいる。


恐る恐る町田が振り返ると、真後ろに≪それ≫は立っていた。


―――大きくて真っ黒な体。

―――背中から生えた大きな翼。

―――化け物だ。


「…呪郎」と町田が呟いた。

智史を見ていた呪郎が視線を感じて町田を見下ろす。

「ん? お前、ワシが見えるのか」と言った呪郎はぐっと町田の顔を覗き込み、言葉を発した。

「見えるぞ、お前の色が…」


―――もうじき真っ黒だ。



崩壊



長野県からまたしても大きなニュースが飛び込んで来た。大町市にある宗仲酒造の蔵で火災が発生し、四十四人の死者が出た。その日は集まりがあった模様で、主の宗仲幸子の他大勢の人が蔵の中にいた。犯人の町田俊一は予め時限式発火装置を蔵の中に仕込み、外から施錠して人が出られない状態にした上、更に外からも火を点けるという方法で大量殺人を実行した。蔵の中は四十四人の叫び声が響き渡る、阿鼻叫喚の世界と化した。


佐伯絵里の件が一段落した後、町田は工作員の仕事を終えて酒造に戻っていた。今日は門前の掃き掃除をしている。一斉清掃は毎日同じ場所を掃除するのではなく、各自持ち場を交代して毎日違う場所を清掃する。木曜日、町田は門前の掃除係であった。

町田が掃除中、誰かが近づいて来る気配がした。近所の人だろうと顔を上げると、それはスーツ姿で五十歳前後と思われる見知らぬ男であった。

「こんにちは」町田は誰であろうと一応挨拶はする。そう教えられている。

男は軽く会釈すると、酒造の敷地内を気にして見ている。

「あの、何か御用でしょうか?」町田が警戒して声を掛ける。

「あ、失礼。あの、こちらの従業員の方ですか?」

「はい」

「私、こういう者です」

男が町田に渡した名刺には、『市議会議員 中津徹』と書かれていた。町田はその名前を知っていた。いや、以前から知っていた訳ではない。最近ご近所さんからの情報で、市議会議員の中津徹という人物が、宗仲酒造のことを聞き込みしていると聞いていたからだ。宗仲酒造は普段から近所の方々に気を配って来た。酒造の中庭で行われる餅つき大会や花見などへ招いて接待している。その甲斐あって、その手の情報はすぐに入って来た。

「市議会議員の方が何か?」と町田。

「こちらの息子さんについて少々知りたいことがありまして。宗仲智史さんというお名前だとご近所で聞いたのですが…あ、もしかしてあなたが?」

「いえ、私は町田と言います」

「すみません、お顔を知らないもので」

「あの、智史さんの何を聞きたいのでしょう?」

「例えばそう…人柄とか…年齢とか…」

「なぜそのようなことを知りたいのですか?」

「ええ、そう思いますよね。ちょっと話し辛い内容でして。良かったら、別の場所でお話を伺いたいのですが」

突然の申し出に町田は一瞬戸惑ったが、すぐに了承した。明日『道草』という喫茶店で会う約束をすると、中津は帰って行った。

中津が去ると、町田はすぐに幸子の元へと走った。酒蔵で数人が清掃作業を行う中、幸子はその清掃具合をチェックして注意を与えている。町田は幸子に駆け寄り、小声で話し掛ける。

「幸子様、今例の市議会議員が来ました」

「ああ、うちを探っているっていう男か。で、何か言っていたかい?」

「何か、智史さんのことを気にしているようでした」

「智史? あの子、何か怪しまれることでもやらかしたんじゃないだろうね。全く厄介だね」

幸子は明らかに不機嫌だ。

町田は敢えて中津と会うことを話さなかった。ここで幸子に告げて、中津との話が中身のないものに終わった場合、余計に幸子の機嫌を損ねてしまうと考えたからだ。そのことで自分の評価も下がってはいけない。中身のある話なら後で話せばいい。中津から急に呼ばれたとでも言えば怪しまれずに済むだろうと考えた。

次の日、町田は待ち合わせ時間より五分ほど早く店に入ったが、中津は既に窓際のテーブル席で珈琲を飲んでいた。町田に気付くと、軽く手を上げている。

町田が中津の向かい側に座ると、ウェイトレスが来たのでアイス珈琲を注文する。

「やあ、わざわざ時間を作って貰って申し訳ない」中津は恐縮している。

「いえ」

「ここは私が払うから」

「いえ、自分の分は払います。それより私に聞きたいことって何でしょうか?」

「うん…」

中津は暫く外の景色を眺めてから話し出す。

「宗仲酒造の先代が亡くなったことは聞いていました。今は娘の幸子さんが後を継がれているのですよね?」

「ええ」

「幸子さんはお元気ですか?」

「お知合いですか?」

「まぁ、もう三十年も前の話になりますから、今の私を見ても分かるかどうか。名前も変わっているので」

「名前?」

「私の旧姓は広瀬なんです。母方の叔父に子供がいなかったので、三男坊の私が養子に入って中津姓になりました。幸子さんとはまだ旧姓の時に出会った次第です」

「はあ」こちらを探っている割にはあけすけに自身を語る中津に町田は戸惑った。

「ああ、ところで息子の智史さんはどんな方ですか?」

「まぁ、仕事が出来る優秀な息子さんです」

「現在お幾つでしょうか?」

年齢ぐらい話してもいいかと思った町田は、「智史さんは今年二十八になります」と答えた。

「二十八…」

そう言ったまま、中津は黙り込んでしまう。

「あの、何か訳がありそうですね。私で良かったら話して下さい」

中津は意を決したように顔を上げ、ここまでの経緯を話し出した。


中津がまだ旧姓で二十歳の頃、『クローバー』という名のカウンターバーでアルバイトをしていた。時給より、お洒落なバイトをしたかった。最初はオーナー兼バーテンダーの菊池の小間使いのような仕事だったが、手先が器用な中津は簡単なカクテルぐらいは作らせて貰えるようになっていった。

その頃、毎晩のように店を訪れる女性が現れた。宗仲幸子だ。年齢は当時三十を越えていたので、明らかに中津より年上のお姉さんであった。

幸子は何をするでもなくカクテルを飲み続け、時折気に入った男が近くに来ると自分から声を掛けていた。そのまま話すだけで済む場合もあるし、二人で仲良く店を出て行ってしまう時もあった。しかし、いつも相手は違った。

菊池は幸子を陰で『魔性の女』と呼び、「お前も気を付けろよ」と中津に忠告した。

ある日の夜、気に入った相手が見つからなかったのか、閉店までいた幸子は酷く酔っぱらっていた。店のシャッターを閉めても、店の前で地べたに座っている幸子を中津は介抱した。中津に肩を借り乍ら、幸子は「あんた可愛いわね」と言った。その夜、幸子は中津の手を引いてラブホテルへと入って行った。

幸子は店に来始めた頃から、中津の仕事振りが気に入っていたらしい。加えて顔も好みだったようだ。二人の関係はそれから数か月続いた。幸子は行きずりの男ではなく、中津が目的で店に来るようになっていた。菊池に気付かれないように、店が終わってから近くの路地裏で待ち合せたりした。そして激しく愛し合った。まだ若かった中津はすっかり幸子に惚れ込んでしまうが、数か月経った頃、突然幸子は姿を消した。

中津は酷く落ち込んだ。当てもなく街を探し回ったりもしたが、暫くしてそれもやめた。やめた理由は幸子に迷惑が掛かると思ったからだ。幸子は二人でいる間も、自身の素性については何も話さなかった。知っているのは幸子という名前だけ。だから中津は幸子を既婚者だと思っていた。無理に探せば迷惑になる。

幸子と別れて一年ほど経った頃、店に来た二人の男性客が宗仲酒造について話している会話が耳に入って来た。宗仲酒造の娘の幸子が子供を産んだのだが、相手が誰だか分からないという内容だった。幸子という名前に中津は敏感に反応した。よくある名前ではあるが、もしやあの幸子ではあるまいか。

中津は店が開いていない昼の時間を利用して宗仲酒造を訪れた。門の外からそっと中を覗いてみる。主屋と酒蔵を行き来する人の姿が時折見えるが、幸子の姿はなかった。幸子は幸子でも、矢張り別人なのだろうか。中津がそう思った時、中から赤ん坊の泣き声がした。見ると、主屋から職人の服を着た老人が赤ん坊を抱いて出て来た。あやす為に外へ出て来たらしい。その時だった。

「あんた、誰?」ときつい口調の女の声が背後から聞こえた。

町田が驚いて振り返ると、そこには幸子がいた。

「あ…」と言葉に詰まる中津。

幸子は真っ直ぐ中津を睨んでいる。

「…久し振り」

やっと中津がそう言った途端、「あんたなんか知らん、帰りな」と幸子は冷たく言い放って中へ入って行った。

確かに幸子だった。あんなに愛し合ったのに、まるで知らない態度で躊躇いの欠片も感じられなかった。中津は何も言えず、ただ呆然と幸子の後ろ姿を見送るしかなかった。


喫茶店『道草』のテーブル席で中津は一気に話し終えると、冷めた珈琲を口にした。

町田は話の途中で運ばれて来たアイス珈琲に手を付けることも忘れている。中津の話が本当なら、幸子の態度は中津にとって随分と理不尽だ。ここまでの話では中津の方がまともな人間に思える。

「つまり、あなたは智史さんが自分の息子ではないかと考えている…ということですか?」と町田は問い掛ける。

「私には妻がおりますが、子供はいません。この歳になって、もしあの時の子が自分の子供だったらと思うと、確かめたい気持ちが湧いて来ました。でも、違ったようです」

「違ったとは?」

「歳が合わない。あの時のあの赤ん坊は、今年三十歳になっている筈だから」

「三十歳…」町田は少し考えてから、「その赤ん坊って、職人のような老人に抱かれていたんですよね?」と尋ねた。

「ええ」

「だとしたら、それは私だったかも知れません。ずっとあそこで育ちましたから。私を抱いていたのは、祖父の善吉ではないかと思います」

「え? あなた三十歳ですか?」

「はい」

「じゃあ…」

「いえ、私は幸子さんの息子ではありません」

「ご両親がいらっしゃると?」

「両親は私が物心つく前に事故で他界しました。祖父が私を育ててくれました」

「そうでしたか…あの時の客は、確かに子供を産んだと言っていたんだが…」

 暫く押し黙った二人だが、中津が口を開く。

「あの、念の為ですが髪の毛を何本か頂けませんか?」

「…………」


酒造に帰っても、町田は中津と会ったことを幸子に言えずにいた。話が幸子のプライベートに関する内容を含んでいる上、中津の話がどこまで本当なのかも分からない。確認も取れない中途半端な話をして、幸子が喜ぶとも思えなかった。

数日後の朝、町田は主屋の玄関先で智史と会った。智史は山登りの出で立ちをしている。

「おはようございます」と町田。

「おはよう」

「山ですか?」

「うん」

「そういえば、学生時代もよく登っていましたね」

「今回は違うよ、仕事で登るんだ」

「そうでしたか、気を付けて行ってらっしゃい」

「行って来ます」

町田が智史を見送ると、後ろから幸子が声を掛けて来る。

「町田、ちょっとおいで」

応接室に入る幸子に町田は続いた。

中に入ると、珍しく幸子がお茶を入れてくれ、町田は恐縮した。

「お前に話しておきたいことがある」と幸子が話を切り出す。

「はい」と町田は身を固くした。もしや中津と会ったことが知れたのではないかと思ったからだ。しかし幸子は意外な言葉を口に出した。

「お前はね、私の息子なんだ」

「…は?」

「一応知らせておこうと思ってね」

町田は町田善行と妻の礼子の間に産まれた筈だ。両親が事故で死んだ為、祖父の善吉に育てられた。善吉は杜氏として住み込みで働いていて、町田が中学生の時に病気で他界した。一緒に酒造で暮らして来たので幸子や智史とは近しい間柄だが、幸子の息子だなんて話は寝耳に水だ。

「あの…ちょっと言っていることが理解出来ないのですが」

「どこが?」

「息子ということは…つまり幸子様がお腹を痛めて私を産んだということですか?」

「そう言っているじゃないか」

「…………」

「まぁ、話はそれだけだ」

「少しだけ質問させて貰っていいでしょうか。私は町田家の人間ではないのですか?」

「善吉にあんたを預けたんだ。確かに善吉の息子夫婦は事故で死んだけど、あんたとは関係ない」

「なぜ預けたのでしょうか?」

「二人目を産む為だよ。首守は私の子供が継ぐんだ。子供が一人で病死でもしたら、継ぐ人間がいなくなっちゃうじゃないか。二人目を仕込むのにあんたの面倒を見ている時間もないし、善吉に預けるのが一番だった。近くで観察も出来るしね」

「なぜそのことを私に黙っていたのでしょう?」

「兄弟仲良くっていうのは困るからだよ、首守を継げるのは一人だからね」

「なぜ今になって知らせたのでしょうか?」

「なぜが多いね。ほら、中津徹が智史を調べているってことは、あの子が何かやらかしたかも知れないだろう? あの子は優秀だけど、どこか危ない面がある。野心が強すぎるのさ。優秀過ぎるのがいけないのかも知れない。本当はあの子に首守を継がせるつもりだったけど、何だか雲行きが怪しくなって来たから、長男のあんたにも少し意識して貰った方がいいと思ってね」

「ということは、もし智史さんに何も問題がなければ、私には知らせないつもりだったということですか?」

「そうだね、知らせる必要もないからね」幸子は平然と言う。

幸子から中津の話が出たことで、町田は大事な質問を思い出した。

「あの、私の父親は誰ですか?」

「知らないよ。あの頃何人か男と寝たから、その中の誰かだろ。一応好みの男を選んだけど父親なんてどうでもいいのさ、大切なのは私の子であるかどうかだ」

「…………」


それから暫くの間、町田はどう気持ちを整理していいのか分からないで過ごした。幸子は何事もなかったかのように、酒蔵の整頓がいい加減だなどと町田に文句を言って来たりしている。幸子の告白話の中で圧倒的に足りないもの…


―――それは町田の存在だ。


町田自身の話なのに本人は蚊帳の外に追いやられている気がした。幸子の話が本当なら自分は長男であり、なぜ長男が次男の下僕のような立ち位置にいるのかと町田は憤る。智史に継がせるつもりだったと言っていたが、そもそも家督を継ぐのは長男ではないのか? 次男が危ういからといって、なぜ自分がスペアのように扱われるのか? 今まで尊敬して来た幸子に対し、町田は初めて憎しみの感情を抱いた。それと同時に町田の頭に浮かんで来たのは、あの人の良さそうな中津の顔だった。あの時は中津を諦めさせる意味で髪の毛を数本渡したが、本当に中津が父親である可能性が出て来た。ⅮNA鑑定をするであろうことは容易に想像出来る。もし父親だったら、どう接したらいいのか? これから親子関係を作ることは出来るのだろうかと町田は考えた。

それから数日後、町田にとってショッキングなニュースが飛び込んで来る。あの成田良平が中津を射殺したというのだ。信者達が喜びに沸く中、町田にだけは笑顔がなかった。中津は宗仲酒造の秘密を暴こうとしていた訳ではない。その事実を知っているのは町田だけなのだ。どうやら中津を射殺した銃は智史のお手製らしい。町田は心の底から中津が父親でないことを祈った。天教にとって、これは大きな成果なのだと自分に言い聞かせた。

その後も誇らしげに振舞う智史を冷めた目で見つめる町田がいた。幸子からは、まだ智史に兄であることは言わないよう忠告を受けていた。智史の活躍で信者達の中から首守早期交代論が出ると、町田はすぐ幸子に報告した。幸子は新聞を読み乍ら「ふーん、そうかい」と不機嫌そうに言っただけであったが、その目は文字を追っていなかった。しかし智史が集会中に悪魔がいると騒いだ事件により、形勢は一気に逆転する。信者達は、智史が大袈裟な芝居を打って幸子からその地位を奪おうとしていると言い出したのだ。町田はその話を智史に伝えた。勿論、味方の振りをして。

智史は焦りから町田を酒蔵に呼び出した。貯蔵タンクの後ろに幸子達がいることも知らずに。意気揚々と幸子の前で幸子の暗殺計画を語る智史を見て、優秀で自信家だからこそ自分を見誤ってしまうのだろうなと町田は思った。智史はいつになく反抗的な町田の言葉に苛立ったようだが、長男として最後に言ってやった。「お前こそ口の利き方に気を付けろ」と。

首吊りまで追い込まれた智史の踏み台を蹴飛ばした時、町田の頭には憎しみしかなかった。弟なのに自分より恵まれた環境で育ったことへの恨みもあったし、自分の父親かも知れない中津を殺された恨みもあった。その上、悪魔を見たと嘘を吐いて首守の座を奪おうとした罪深い男だ。ただ町田にとって誤算だったのは、


―――呪郎が現れたことだ。


成田が描いた絵の通りの悪魔が町田に話し掛けて来たのだ。それが幻覚でないなら智史は嘘を吐いていないことになる。呪郎は色が見えるとか言った後、いつの間にか消えてしまったが、あれが幻覚であったかどうか町田は判断がつかないでいた。

警察の調べで智史の死が自殺と判断され、宗仲酒造は日常を取り戻していた。酒造りに励む仲間の蔵人達を見て町田は溜め息を吐く。智史を吊るした後で、当たり前のように日常に戻れる無神経さに呆れた。以前はそんなこと考えもしなかったが、一連の出来事によって町田の中で何かが変わりつつあった。

木曜日、門前で掃き掃除をしている時、中年の女性が町田に話し掛けて来た。名前を中津京子と名乗った。中津の妻だった。事件で中津が死んだことを話した後、京子は中津からの手紙を町田に手渡した。そして悲しげな目で町田を見つめ、「主人はもう一度あなたに会いたがっていたのですよ」と言い残して去って行った。

中津の手紙にはⅮNA鑑定結果報告書のコピーが同封されていた。何となく予想していたことだが、中津は町田の実の父親だった。手紙にはこの前のお礼と、鑑定結果を見てからの中津の心境が綴られていた。息子である町田の為にも、世の中を本気で良くして行きたいと書かれていた。最後の一文で『もう一度会って話がしたい』との文字を目にした時、町田の目に涙が溢れて来た。中津と会ったあの時間が、二人にとってどれほど大切だったか。もっと話せば良かった、もっと優しく接してやれば良かったと悔やんでも、もう二度と会うことは叶わない。天教はなぜ中津のような善人の命まで奪うのか? 町田の中で疑問が湧いて来ていた。それと同時に自分の罪を悔いた。中津の狙いは天教の秘密を暴くことではないと幸子に伝えていれば結末は違っていたかも知れないのだ。

宗仲酒造は年中無休で稼働しているので、従業員達は交代制で休みを取る。休みの日、町田は気分転換にレンタカーを借りてドライブに出掛けた。車窓を流れる美しい景観も、以前の町田とはどこか見え方が違う。車を止め、天竜川の河原を一人歩く。大きめの石に腰掛けて川の流れを眺めていると、上空に鳥が飛んでいることに気付いた。どんどんこちらに向かって降下して来る鳥をよく見ると、それは鳥ではなく、


―――呪郎だった。


大きな翼を広げて呪郎が降りて来る。河原にどんと降りた呪郎は、町田に気付くこともなく川に足を踏み入れた。三メールほど進んだ呪郎は川に顔を突っ込んでがぶがぶと水を飲むと、川から上がって来る。

「呪郎様!」と町田が思わず声を掛けると、「うわっ、びっくりした!」と呪郎がのけぞった。

「急に話し掛けるなよ、お前」呪郎は腹を立てている。

「すみません」

「ワシが見えるのか? お前誰だ?」

「この前、首吊りをした木の下でお会いしました」

「首吊り? ああ、なんか蓑虫みたいなのがぶら下がっていたな」

「あの、お聞きしたいことがあります」

「何だ? ワシは飲み比べで忙しいのだ」

「飲み比べ?」

「川の水だ」

「あの、中津徹という男をなぜ殺したのですか?」

「誰だ、それ?」

「中津さんは…とても善人でした」

「知らんな、そんな奴。まぁ、誰だとしても殺したのはワシじゃない。人間だ。悪いことをすれば悪魔の仕業にして、困ると神に祈る。それがお前らだろ?」

「はあ…」

「じゃあな」

「待って下さい。宗仲天教をなぜ作ったのですか?」

「何だ、それ?」

「あの木の下に集まっていた者達が天教の信者です。宗仲天教は宗仲佐喜衛門が作りましたが、佐喜衛門に作らせたのは悪魔だと幸子様から聞きました」

「佐喜衛門…あの親父か」

「人を呪って幸せになる為ですか? それが天教の教えです」

「何だ、その変ちくりんな教えは? お前らの世界には『人を呪わば穴二つ』って言葉があるだろ」

「じゃあ…天教は何の為に?」

「覚えてないなぁ」

「…………」

「だが大勢集めたということは、まとめて葬ってやる為だろう」

「…まとめて?」

「どうせ人を呪うような、ゴミの集まりだろ」

 驚いた顔の町田がいる。

「何を驚いている? ワシを誰だと思っているのだ」

呪郎はにやりとしてから町田の顔を覗き込み、「お前、大分いい色になって来たな」と言うと翼を広げて飛び去った。

 

『ゴミをまとめて葬り去る』。呪郎の言葉が町田の胸に突き刺さっていた。町田の決心は固まりつつあったが、止めを刺したのは矢張り幸子だ。

その日、町田は主屋の作業場で洗米と吸水作業を行っていた。網袋に入れた米を水に浸け、時間をしっかり計って吸水させる。これを一気に引き上げて次の工程に移る際、米を抱え乍ら町田は派手に転んでしまった。肘の辺りから出血があったので、米に触るなと杜氏に注意され、町田は救急箱を探しに主屋に入って行く。応接室前を通ると、中から幸子の話し声が聞こえた。どうやら電話をしているらしいが、普段から大声で威圧的に話す幸子の声は廊下まで響いている。

「もしもし、私だけど。真由子は元気でいるかい? …ああ、そりゃ良かった」

真由子と聞いた町田は運送会社を経営する安田芳雄の家を思い浮かべる。その家の一人娘が真由子で智史より一つ年下だ。両親は熱心な信者で、特に芳雄は幸子が不在中に首守を代行する立場にいる人物だった。

幸子は続けて「ところで例の件は真由子に打ち明けてくれたかい? …え? だから真由子が私の娘だって件だよ」と話した。

町田は唖然としたまま廊下に突っ立っている。

「…そうかい。で、真由子は驚いた? …ああ、そうだろうね、突然娘だなんて言われたら驚くのも無理はない。真由子が町田と智史の妹として生まれて来た時は、智史と真由子のどちらをあんた達に預けるか迷ったけど、今じゃ真由子で良かったと思っている。やっと出番が回って来たよ。…え? 何って、首守の座を真由子に譲ろうと思っているのさ、智史があんなことになったからね。…え、町田? あの子は長男だけど首守にはなれない。杜氏の息子として育ったせいか、妙に人の顔色ばかり窺うところがあって、天教を率いる器じゃない。…え? どうやって真由子に譲るって? 簡単さ。首守は私の子供に継承されるのだから、子供を一人にしたらいい。智史はもういないし、町田を消せば残りは一人になるじゃないか。その為に痛い思いをして三人も用意したんだ。優秀な首守を残す為にね」

町田は全てを理解した。自分はスペアとして用意されたが、スペアにもなれなかった欠陥品だと項垂れた。幸子からあの真由子より下の存在と評価され、これから何らかの方法で信者達に消される運命なのだ。幸子の心には母性が存在していない。いや、それ以前に人であるかも怪しい。今の町田には呪郎と同じ化け物に見える。世の中には関わってはいけない人間が存在するが、幸子は正にその中の一人だ。そういえば首吊りの時、智史が何かを必死に叫んでいた。死に際で真実に辿り着いたのかも知れない。人を呪うなどという、こんな異常な宗教が存在してはならない。どうせ殺される運命なら、その前に全てを消し去ってしまおう。それが出来るのは自分の他にいないと町田の考えは固まっていった。

例えばナイフや銃で一人一人殺しても限界があり、不測の事態で頓挫する恐れもあると町田は考えた。一番効率がいいのはまとめて焼き殺すことだ。方法が決まるとすぐに電気店を訪れ、リレー付きのタイマーモジュールを買った。電源は乾電池。電源が入るとタイマーがカウントを開始し、時間になるとリレーの接点が繋がって点火装置に電圧が掛かる。点火装置の先端は電圧が掛かるとスパークする仕組みで、そこに大量のマッチの束を置いた。この装置一式を紙の箱に入れ、祭壇の内部に隠す。祭壇は布で覆われているが、更に燃えやすいよう内部に油を染み込ませた大量の布類を詰めておいた。

集会が始まり、信者達が呪文を唱え始める。町田は集会の準備係として一番後ろの席に着いていた。呪文が中盤まで差し掛かった時、タイムアップの時間が近づいたので町田はこっそりと後ろの扉から外へ出た。外へ出ると静かに扉を閉め、大きな南京錠を掛ける。酒蔵に隠してあった業務用布ウエスの袋を幾つか抱え、物置蔵の周りに並べていく。この布ウエスにも予め油を染み込ませてある。並べ終わる頃に蔵の中が騒がしくなって来た。信者達の怒号の中、「早く消せ!」と叫ぶ幸子の声が聞こえたので、発火装置が無事に作動したようだ。町田も並べた布ウエスに火を点けていく。燃え上がる火の勢いは思いのほか激しく、熱風で傍に立っていられなくなる。長年使われて来た蔵は木造なのでよく燃える。中から聞こえる人々の断末魔の叫び声は、サッカー場の歓声のようにも聞こえた。


犯行後に町田は警察に出頭し、取り調べでは全面的に犯行を認めた。どうあがこうと死刑は確定的だ。犯行動機は、酒造の中で虐められて恨みを抱えていたということにした。宗仲天教の存在を話して、その活動を一つ一つ検証するなんて事態になれば刑の執行が遅れてしまう。どうせ死刑なら早く執行して欲しかったし、宗仲天教はもう存在しない。

町田は事件について一つだけ話していないことがある。発火装置を仕掛ける際、町田はある物を盗み出していた。それは祭壇の最上段に祀られた悪魔首だ。代わりに手作りの首を置いたが、出来が良かったので事件当日も気付かれることはなかった。物心ついた頃からずっと崇拝して来た悪魔首をどうしても燃やすことが出来なかった。とはいえ捨てることも出来ない。町田は犯行後、自首するまでの間に首を郵送している。送り先は安田真由子だった。

真由子が今回の事件に巻き込まれなかったのは、彼女が毎回集会に参加している訳ではなかったからだ。初めて集会で宗仲酒造を訪れたのは二十歳の時で、それからは年明けの集会にだけ年に一度参加していた。真由子は普段からあまり外出をしない。日光による皮膚の損傷を避ける目的と、皮膚癌になるリスクを避ける為である。先天的なメラニンの欠乏によりその体毛や皮膚は白く、青色の瞳をしている。彼女は先天性白皮症…いわゆるアルビノだった。皮膚で紫外線を防ぐことが出来ないので日光に弱く、色素の欠乏により視力も弱い。これが娘を心配する安田夫婦が集会への参加を年に一度としている理由だ。本当の父親が誰であるかは知らないが、幸子の娘だというのなら、幸子と父親の双方がアルビノ遺伝子を持っていたことになる。この遺伝子を持つ者は七十人に一人程度いるので珍しくはないが、アルビノ自体は二万人に一人程度の確率で生まれるという。幸子が真由子を首守に推したのは、その白い風貌と青色の瞳に霊妙な力を感じたのではないかと町田は推測している。

町田は集会では準備する側にいたので、真由子とは案内係として声を掛ける程度の関係性しかなかったが、一度だけ会話を交わしたことがある。

それは今年の年明けの集会での出来事だ。集会前、物置蔵の前では信者達ががやがやと雑談をしていた。信者達と挨拶を交わす安田がふと見ると、連れて来た筈の真由子の姿が見えない。町田は幸子から真由子を探すように言われ、主屋や中庭を探し回った。主屋を挟んで物置蔵の反対側には小さな池があり、真由子はそこに立っていた。日光を避ける為にフード付きの黒いマントを羽織った真由子は、池を泳ぐ数匹の錦鯉を目で追っている。町田は真由子に駆け寄った。

「真由子さん、そろそろ集会が始まります」

「…………」

「真由子さん?」

「町田さん」と真由子は逆に町田の名を呼んだ。

「はい」

「この鯉はなぜここにいるの?」

「ああ、まぁ、観賞用ですかね」

「幸せですか?」

「幸せって…まぁ、観た人は幸せな気分になるかも知れません」

「この鯉は?」

「鯉? さあ…どうでしょう」

「殺してしまえばいいのに」

「え?」

「こんな場所にいるなら殺してしまった方がいいでしょ」真由子はさらりと言った。

「…………」

町田は何も答えることが出来なかった。その時はただ真由子の言葉に恐ろしさを感じただけだったが、思えばこれが兄妹の唯一の会話と呼べる時間であった。

物置蔵を燃やした後、町田は今一度あの時の会話を思い返してみた。果たしてあれは恐ろしいだけの言葉だったのだろうか? 真由子は自由に外へも出られない自身の境遇と錦鯉を重ね合わせ、自由にしてあげたいという慈悲の心から出た言葉ではなかったのか? それともただ残酷な言葉を投げ掛けただけなのか? 真由子がどんな人生を送って来たのかは分からない。この世を恨んでいるのかも知れない。自分と智史と兄妹であることを知った時、真由子は何を感じたのだろうか? 自分だけが普通に生まれなかったことで恨みは増しただろうか? それとも全てを乗り越えた悟りの境地に到達しているのか? 真由子は天使か悪魔か? 町田には判断が付かなかったが、賭けてみることにした。真由子に強い信仰心があったならまた宗仲天教を復活させるかも知れないし、信仰心などなかったなら首を捨ててしまうかも知れないが、どうせ他に首を託せる人間はいない。自分が死刑になった後の世界がどうなるか、賭けてみたい気持ちになったのだ。



真由子



郵便局員の男性が段ボール箱に梱包された荷物を安田家に届けに訪れた。チャイムを鳴らしたが返事がない。それでも暫く待つと、ドアが静かに開いた。

「郵便局です。お荷物お届けに参りました」

郵便局員はそう言った後、一瞬びくりと動きが止まってしまう。中に居た真由子の容姿に思わず驚いてしまったのだ。驚いてすぐに状況を把握した郵便局員は相手に失礼なことをしてしまったと思い、「判子かサインお願いします」と努めて明るく言った。真由子が無言でサインをすると、郵便局員はそそくさと帰って行く。

荷物を抱えた真由子は居間に行き、送り主の町田の名前を確認してから荷物を開けてみた。

中には新聞紙で包まれた悪魔首が入っていた。

「…………」真由子はじっと首を見つめたが、その表情に変化はない。

真由子は思案するように宙を見つめた。そして何か思い付くと、首を持って台所に行き、まな板の上に置く。父が愛用していた大きな中華包丁と研ぎ石を出し、研ぎ石に水道の水を掛け乍ら包丁を研ぎ始めた。

包丁を研いだ真由子は、次に冷蔵庫から玉ねぎ、人参、じゃがいもを取り出し、中華包丁を慣れた手付きで使って切っている。すっかり切り終わった真由子は別のまな板の上の悪魔首を振り返ると、中華包丁を大きく振りかぶった。そのまま思い切り振り下ろすと、悪魔首は真っ二つに割れた。更に何度も包丁を振り下ろし、首は細かく刻まれていく。

真由子のカレーが仕上がっている。悪魔首カレーなのでやけに黒い。

真由子は大盛ご飯にたっぷりとカレーを掛けた皿とスプーンを木製の盆に乗せ、居間に入って行った。

閉まった居間のドアから真由子の声が聞こえる。真由子は誰かに話し掛けているようだ。

「お待たせしました。お腹空いているでしょ」

「…………」

「はい。特製カレー」

「…………」

「食べて。熱いから気を付けてね」

「…………」

「どうしたの? 変な顔して」

「…………」

「あ、まさか私のカレーが食べられない?」

「…………」

「ねぇ、何か言ってよ」

 この時、真由子以外の声が聞こえる。


―――「お前、ワシが見えるのか?」


                                          【了】

 


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