第3話 末の公主は大人になるか
鍛錬しかやることがないとこぼす景琛だが、実はそんなこともないと母妃にはわかっている。我が身と妹、そして母とその一族である朱家を守るため奔走しているはずだ。
皇城の内外で起こるさまざまな揉め事。権門のいがみ合い。政変につながりかねない事がらは把握しておくべきだ。そんなわけで忙しいはずの身を揺玉宮に運んだ理由はなんなのか。
「そうでした――璃月、おまえ友人はいるか?」
「は?」
またまた失礼なことを言われ、璃月は兄をにらみ上げた。
「お兄さま――私がろくに人付き合いもできないと? ソトヅラのお茶会ぐらいこなせるってば!」
憤慨する璃月に食ってかかられても景琛は余裕の微笑みだった。わざとからかっては妹の反応を楽しんでいるので、人が悪いといえばその通り。
「そういう意味じゃない。後宮には今、おまえと年の近い者も少ないだろう。親しい友人などないなという確認だ」
「まあいないけど……」
そもそも公主である璃月と肩を並べる地位の者があまりいない。寵を競うべく入宮した権門の娘たちは多くが母妃の年齢かそれより上だ。麗珂妃は苦笑いし息子に問うた。
「なんです? 璃月と友人の夢でも見ましたか」
夢見。朱家の力。
実は景琛だってその血を持っている。父皇帝に対しては意味ある夢など見ないと申告している景琛は、しれっとうなずいた。
「ふと見た夢なので、いかほど信じていいものかわかりませんが――」
「いいのよ、あなたは控えなければいけないものね」
異能を使うとなれば長兄である太子や皇后の警戒を招きかねない。なので表向き景琛は無才ということになっているのだった。
それに朱家の〈夢見〉を本格的に使うには、夢をいざなう花の香油を用いねばならない。だが香による夢見は後に頭痛を起こしたり寝込んだりすることも多かった。公子として宮廷にいる景琛が弱みを見せるわけにはいかない。
「どんな夢です?」
「――花園の夢でした。空を白く輝く蝶が飛んでいて、近くには薄緑の模様が美しい黒蝶もいた」
璃月――それは美しく輝く月の光から付けられた名だ。花園を後宮となぞらえれば、その空を舞う白い蝶として比定できるのは璃月ではないかと景琛は言う。そんな兄の夢解きに璃月は口を挟んだ。
「お母さまの名も、美しい白宝珠でしょう」
「いや、花園は夜だったんだ」
「ああ……」
確かに、〈麗珂〉の名に夜の意は含まれない。
「月明かりがこぼれ落ちる花の上。大小さまざまな蝶が群れ飛んで争うようだった。だが白と黒の蝶だけは蜜を求めることもなく空で共にひらひらとしていて――おまえに親しい友などいたかと不審でな。何か起こるのではと心配になった」
「黒蝶……薄緑の模様……」
友と言われても、後宮にいる若い女は下級妃や女官だけ。格の差で相手がかしこまってしまい親しくなれない。乳兄弟のようなものとして気安くする春芳以外は娘子軍も規律正しく接してくるので、璃月は揺玉宮の人々としか関わっていなかった。
「揺玉宮にそんな名の子はいるかしら?」
麗珂妃には心当たりがないのか、女官頭の碧葉に下問する。彼女なら宮の下働きまで全員把握しているはずだ。
「そのような者は……僭越ながら私めが碧の名を持っておりますが」
「あらまあ、そうだったわね」
口もとを袖で隠しつつ、麗珂妃はコロコロと笑う。四十歳を過ぎた碧葉が軽やかな蝶とは考えづらいのだが、体を動かすなら舞でも槍でも好きな璃月は勢い込んで提案した。
「じゃあ蝶のように舞うしかないわね! 一緒に稽古しましょ!」
「いいえ璃月さま。最近腰が痛いのでご容赦願います」
大真面目に断られ、璃月の頬がふくらむ。子どもっぽいそんな仕草に景琛が吹き出した。笑われた璃月はくすぐって返す。受けて立つ景琛がその手をはじき、ハシッ、ハシッと競り合いながら二人で笑い転げた。
「璃月さま……っ!」
兄妹揃って立場も年甲斐もなさすぎる。彩天はうめきながら、また胃を押さえた。
✻ ✻ ✻
夜、璃月はぼんやりと自室の長椅子で靠墊にもたれていた。ほんのりした灯火が花の透かしの中で揺れ、影が踊る。
「けっきょく、夢なんてよくわからないものよね」
景琛が伝えた蝶の夢。璃月が誰かと親しくなる予兆かもしれないというが――おそらく景琛は危惧しているのだ。璃月が事件に巻き込まれ殺されてしまったりしないか。
実は彼ら兄妹の下に生まれるはずだった子がひとり、死産したことがある。当時八歳の景琛は、倒れた母と青ざめて泣くばかりの妹を前に誓った。この家族だけは守り抜くと。その想いを璃月は知っている。
夢にあらわれた花園、そして蜜にむらがる蝶は――つまり後宮で女たちが寵愛を競い争うとの意。そこで暮らす妹を案じるのはわかる。でも。
「私のことなのに」
璃月の声が泣きそうに詰まった。
――無才無能の身がうらめしかった。自分に何かが起こるのならば、璃月本人の夢にあらわれてくれればいいものを。
璃月も幼い頃には夢見の力があった。らしい。そう母も乳母も言う。
だが今の璃月は意味がありそうな夢など見ない。そもそも夢を見た気がしても目覚めたら忘れてしまうことが多いし、夢解きは学んだが使いどころがないのだった。
「璃月さま」
ほとほと、と戸が叩かれた。呼んだのは彩天の声。のろのろ返事する。
「なあに」
「そろそろお休みなされませ。本日はきちんとなさいましたから、お疲れでしょう」
入ってきた乳母はサラリと失礼なことを言った。でも微笑みは慈愛にあふれていて、「わかっております」と言われているような気がする。
「べつに、疲れてないわ。お兄さまに会えて嬉しかった」
「さようでございますねえ。景琛さまも揺玉宮にいらっしゃると幼い振る舞いをなされて、私どもも微笑ましく思いますよ。胃は痛みますけれど」
「私はいつも幼くてごめんね?」
「とんでもございません」
彩天はそっと長椅子の前に膝をつき、目を合わせてくれた。
「璃月さまが幼げになさるおかげで淑妃さまは寂しくありませんから……」
昨年は璃月のすぐ上の第四公主が降嫁して後宮を出た。その母の徳妃は張り合いがなくなったのか、まだ宮に引きこもってしまっている。娘が手もとにいて息子も訪ねてくる麗珂妃は幸せなのだ。
「ふふ。私はどこにも嫁げやしないと貴妃さまのお墨付きだもの」
「あれはもう八年ほども前のことじゃありませんか」
彩天は嫌な顔をした。七歳の璃月が朗らかに駆けているのを見つけた貴妃が口にした嫌みを、揺玉宮の者らはいまだに根に持っている。
「璃月さまは立派な公主になられましたよ。もう少し槍をお控え下さると完璧です」
「いやあん」
もうお決まりになっている小言に璃月は笑う。やわらいだ視線を受けて、彩天は言い聞かせた。
「幼い頃の璃月さまは確かに夢を見ていらっしゃいました。きっと、つらい夢を見てお力を封じてしまったのですよ」
彩天が語るのは、璃月が夢見を手放した時のこと。小さかった璃月が忘れてしまった昔話だ。
「あの夜は、悲鳴が聞こえて飛んで参りましたら、璃月さまが真っ青になって泣きじゃくっていらして」
「それ、私はまるで覚えていないんだもの」
「本当に必要な夢ならば、またご覧になれるはずです。景琛さまがおっしゃった夢に璃月さまの覚えがないのは、大変なことには繋がらないということでしょう」
「だといいけど」
彩天の手を静かに取って立たせた璃月は、自分も長椅子から立ち上がった。
寝所に入る前にカタリと窓を開け、外の空気を吸う。ひんやり冴えた月明かりが白かった。景琛の夢はこんな夜空だったのだろうか。
「寒いわね」
クスクス笑いながら窓を閉じる璃月のまなざしは灯火に揺れながらどこか遠くを見ている。その顔つきが妙に大人びていて、彩天は目を伏せた。
花園と蝶の夢が何を意味するのかはわからない。だがそろそろ揺玉宮が変わっていくのは間違いないことだった。璃月も大人になるべき頃合いだから。
それがわかっていて言葉を呑み込んでいる璃月はすでに、可愛らしいだけの公主ではないのかもしれなかった。




