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第21話 したたかな戦い


 ――そしてやはり、璃月は暁霄から一本も取れなかった。

 乱れた心で挑めば当然のことだと帰り道に春芳から指摘され、璃月はおかんむりだ。怒らせるようなことを言う暁霄が悪くないか。


「いえいえ、実戦では腹立たしいことも怖いこともあるでしょうし。平常心を取り戻せなくてどうするんです」


 春芳は手厳しい。しかも誰かとすれ違うたびに黙らなければならないので言い返すこともままならず、璃月はくさった。


 後宮の内に戻ったが、揺玉宮の正門ではなく裏にまわる。さすがに正門の番人は璃月の顔を見慣れているはずだ。だがその途中、先を行く宦官の姿に璃月と春芳は足を止めた。

 あれは――安福?

 先日は璃月を見定めに来たかと思われた軍監の安福が、今日は揺玉宮を通りすぎていく。その先にあるのは碧梧宮、そして長楽宮。どちらを訪れるのか。


「ていうか、正面から行かないのはどうして?」


 そう。裏門が面したこの通りを使うなんて、目立ちたくないと言っているようなものなのだから。



 ✻ ✻ ✻



 普段の安福は碧梧宮に寄りつかない。貴妃と杜家には配慮も優遇も惜しまないが、表向き碧梧宮の差配は養子の忠全が行っているのだ。

 だがこの非常事態――紫婉の懐妊にあたり、外朝からの力添えも必須だろう。そんなわけで安福はたびたび碧梧宮に足を運んでいた。


「――あちらも手を出しあぐねております。このまま紫婉さまをお守りいただきますよう」


 皇后と瑾瑜の動きを報告し、安福は貴妃の居間を辞した。


 紫婉の体調についてはもちろん極秘。だが医官を抱き込んでいる皇后に懐妊を知られるのはどうしようもなかった。碧梧宮は細心の注意を払い、紫婉――というより胎児への加害を防いでいる。

 厳重な毒見。寒さへの配慮。そして転倒転落の防止。あの園遊会への招待は心底忌々しかった。

 そんな攻防が繰り広げられていることは碧梧宮と長楽宮の一部しか知らないはずだ。揺玉宮や景琛ですら、懐妊した者がいるとは知れどそれが誰なのか確証は得ていない。


「安福さま」


 退出しかける安福を引き留めたのは、紫婉の女官だった。


「申し訳ありませんが、紫婉さまともお話しいただけませんか……主はたいそう心を弱らせておりまして」

「おうおう、これは気づかずに。こんな者にお会いして気が晴れるかわかりませぬが、お伺いいたしましょう」


 好々爺のように笑んで、安福はひょこひょこと女官についていった。兵部の要職にあるとは思えぬ人当たりのやわらかさだが、内廷と外朝で仮面を付け替えるぐらい造作ない。


 招き入れられた紫婉の部屋は空気が淀んでいた。

 どこもかしこも清潔にされ暖かく整えられた室内。だが主人である紫婉が神経質な呼吸をするたびに女官たちがオロオロしている。

 安福は舌打ちしたい気分になった。暗殺の恐怖におびえ引きこもっているのだろうが、杜家はこんな肝の小さい女を公子公主の母にするつもりなのか。


「ご機嫌うかがいにまかりこしました」


 内心を押し隠し、やさしくいたわる視線を向ける。二十七宮人(きゅうじん)修容(しゅうよう)にすぎない紫婉だが、位が低くとも皇帝の子を腹に養う女。あまり上には扱えないが下にもできない。


「ご無沙汰してしまい申し訳ありませなんだ。心安んじてお過ごしいただけるよう走り回っておりまして」

「安福さま」


 きつい口調で呼びかけた紫婉は以前より痩せたかもしれない。頬がそげていた。


「我が子のために尽力いただき礼を申します」


 こちらも立場が上とも下ともつかない様子だった。言葉は下手に出ているが昂然と頭を上げ、見おろすまなざし。そして紫婉は女官たちに命じた。


「――皆、下がりなさい。二人で話したい」


 ざわ。

 室内にいた者らが互いをうかがう。困惑しているのが安福にもわかった。すると苛立った声で紫婉はくり返した。


「下がれと! 言うておるに!」


 大きくはないが鋭い怒声に一同が息を止めた。仕方がない、安福はおだやかに取りなした。


「修容さまにはお心を痛めることがおありのようで。この安福などでよければ、お話を承りましょうぞ」


 そして目でうながすと、女官たちはぞろぞろ動き出す。不本意ながらという空気をただよわせる彼女らが消えても、紫婉は険しい視線を崩さなかった。ぐったりと椅子の肘掛けにもたれながら小声で呼ぶ。


「近くに」

「は」


 安福は逆らわない。ひそめた声で応じるのは、扉の外から聞かれているだろうから。話によっては本当に内密にした方がよい。


「安福さま。よく来て下さいました」

「わたくしめのような者にそのような。いつでもお呼びつけ下され」

「その態度は、この腹の子へのものでしょう」


 紫婉はまだ目立たない腹にそっと手をやった。


「ここにいるのは陛下の御子。でも私の子でもあります」

「さようにございます」

「ですがこの宮にいれば私はこの子を取り上げられてしまうでしょう」

「……それは」


 子を害する企みのことか、それとも――安福には心当たりがあったが、紫婉の意をはかるため言葉の先を待つ。無言でうながされて紫婉は唇をゆがめた。


「承知でしょう? 無事に子を産んでも私は飾り物の母となります。これは杜家の血を引く子。でも私は杜家の末流――貴妃さまは私を押さえつけ、みずからが母のように振る舞うおつもりです。祖母のような年でよくもまあ」


 追い詰められ毒を吐く紫婉。安福はそっと頭を下げた。あからさまに賛同はできないが、紫婉の言うことは被害妄想ではなかった。思ったより頭の回る女らしい。

 貴妃からすると、紫婉など皇帝の子を産ませるための人形にすぎない。杜家の流れの子が必要なだけで産む女などどうでもよいのだ。

 産まれたのが公子ならば盛り立て育て、あわよくば皇位に押し上げる。だがその時に母后として後宮に君臨するのは紫婉ではなかろう。杜家の女の最上位にあるのは貴妃だから。


「公主ひとりしか産めなかったくせに。とうに老いた身で母になり代わろうなんて図々しい」

「修容さま」

「だいじょうぶ。今の私には手出しできませんものねえ?」


 すぎた言葉を制止した安福に、紫婉は凄惨な笑みを見せた。

 それはそのとおりで、どんなに無礼であろうと身二つになるまで貴妃は紫婉を大切に守るしかないのだった。だがその後は。紫婉は伏せた目で遠くを見た。


「まさかこの部屋のまま産み月にはならないでしょう。ならぱもっと前から、私だけの宮をととのえておかないと」


 それが紫婉の望むことだった。

 貴妃の下から逃れ、紫婉の腹心の女官や下女をそろえ――そして力のある宦官に後ろ盾になってもらう。そのために安福を呼んだ。


「いかがでしょう安福さま。私にお力を」

「わたくしめ、ですか。しかし碧梧宮には我が子同様の忠全がおりまして」

「あれは貴妃さまの言いなりです――まあそうでしょうね、私の子を育てて皇位につければ皇帝の侍従ですから。今の瑾瑜(きんゆ)さまのようなお立場を手に入れることになる」


 ピキ、と安福のこめかみが動いた。太監の瑾瑜を蹴落とすなら、それは自分でなければならないと常々思っている。紫婉はそこを突いてきたのだ。

 瑾瑜だけは許してはならない。あれは安福の養父を陥れ、死に追いやった者だから。おかげで安福もこの地位にのぼるのに苦労した。


「忠全はあなたの引き立てで碧梧宮を預かっているにすぎませんのに。貴妃さまにはあちらの方が御しやすくて都合がよろしいのでしょう」

「いやいや、忠全は恩を忘れたりはいたしませぬ」

「そうして足をすくわれるのを待つのですね。まあ安福さまはすでに軍監でいらっしゃるから。皇帝の太監たらんとする気概はありませんのかしら」

「――さよう、わたくしめはもう過分なお役目をいただいておりますれば」


 安福は肩がふるえるのを我慢して顔を上げた。


「ですがもちろん、修容さまがご不安に思うことを、そのままにはできませぬなあ」


 話しながら安福は算段していた。

 紫婉が自分を頼るというなら近づいておけばいい。貴妃や忠全がしくじるなら紫婉と子に付き、紫婉の旗色が悪ければ貴妃の思惑に乗る。それだけのことだ。

 そもそもこれから産まれる赤子に期待するなど迂遠なこと。そんな企みなど潰えてもいいように、安福は景琛と揺玉宮にも接近をはかってある。野心がなさそうな第四公子はあれで器も大きいし、皇帝から揺玉宮のおぼえはめでたいのだ。


「修容さまは、碧梧宮をお出になりたい、とおっしゃる?」

「無論。貴妃さまの息のかかった者たちに監視されていては腹の子をいつくしむこともままならず」

「――まさかそのための花魄騒ぎでしたのか?」


 ハッとなった安福に紫婉はうっすらと笑った。

 夜闇に怪異を出現させたあの事件、公には悠凛の罪ということになっている。だが実は紫婉が命じたのだと安福も聞き及んでいた。

 皇帝の気を引こうとしただけと言い張った紫婉だが、真相は貴妃から逃げるためだったらしい。そのことに貴妃は勘づいていたのかどうか。承知の上で紫婉を庇ったとすれば業腹だったろう。


「……ですが修容さま、瑾瑜たちの動きもありまして御身が危のうございます。今しばらくこちらでご辛抱を」

「わかっています。事を急いてはならぬと思えばこそ、安福さまにお会いしたかったのです。宮をかまえただけではどうにもならないとわかりました。私に忠実な者を集めてほしいのです」


 ぼそぼそと小声だが、紫婉の指示は明瞭だった。女官たち相手にキリキリしていたのは、側近い者が全員貴妃の息がかかった人間だから。心弱く見せて爪を隠す、偽の姿でしかない。

 子の母の座を賭けて戦い、勝ち残ろうとする紫婉はまさに夢見にあらわれた後宮の蝶――だが安福にしてみれば転がり込んだ手札の一枚でしかない。

 痩せた宦官はうやうやしく頭を下げながら、紫婉をどう使おうか思案しほくそ笑んでいた。



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