第20話 近づけない二人
✻ ✻ ✻
「――まだ良い話はないか?」
スウと細めた目で皇后が問いかけた相手は、太監の瑾瑜だった。
長楽宮の奥まった一室。宮の主人である潭皇后と瑾瑜の他には無表情な年配の女官がひとりいるだけだ。老いた宦官は太い体を申し訳なさそうに丸める。
「碧梧宮はなかなかに厳しく……」
「それは先より承知よの」
言葉をかわす二人は何を考えているのか表情にも声色にも出さなかった。言い訳とも叱責ともつかない会話。
互いを結んでいるのは信頼や忠節ではなく、ただの利害関係だ。何かの拍子で裏切られるとわかっている間柄。なのにどちらも相手を失うのが大きな痛手となるから困る。
「紫婉は部屋からも出ぬか」
「ほとんど」
「おろかな。産が重くなろう」
口の端だけで皇后は笑った。
「怯えてばかりの者に国母はつとまらぬ」
そうかもしれない。瑾瑜はうっそりと頭を下げた。皇帝の側に幼少から仕えてきた瑾瑜は、この皇后も亡き太后もよく知っている。どちらも揺るがぬ誇りを持つ女だ。
「下女や宦官を仕込もうにも、常日頃から側にいた者以外は寄せ付けず」
「紫婉も哀れな。息が詰まること」
奇妙にやさしげな目で皇后は微笑む。
だが、息を詰めてそのまま死ねというのが皇后の本心だ。見た目にはわからないが瑾瑜には推測できる――だって、長年そうしてきたのだから。
✻ ✻ ✻
「徒嵐って、騒乱で宮刑を受けた人だったの!?」
調査の結果を聞かされて、璃月は絶句した。
重々しくうなずいた景琛だったが、どうにも股間がヒュンとする思い――それは居合わせる暁霄と志勇も同感だった。宮刑とはつまり、チョン切ることだから。
ここは箭亭。また春芳の付き添いのもとに再訪を叶えた璃月は意気揚々と璃英に扮した……のだが、槍を握る前に休憩させられた。後回しにするには重い話題があったからだ。
「璃月さまより名をお知らせいただきまして、あっさり経歴が出ました」
記録を当たった志勇は淡々と情報を整理した。
李徒嵐。
南州并県にて官を勤める家の出。秀才の誉高く、十九歳の若年ながら郷試合格を期待されていた。しかし落第したうえに、李家は他の受験者も全員通らなかったことで不正の疑いを告発。それを誣告罪とされて決起に加わったのだ。
「当主は死罪でしたが、徒嵐は宮刑を生き延び皇城へ納められました。そこをすぐに映月宮に引き抜かれています」
「……翠蓮、故郷の者だから頼りにしてるって言ってたの」
暗くかたくなな徒嵐の目を思い出しながら、璃月はつぶやいた。
「きっと前からの知り合いだったのね」
「だろうな。県令の娘と官職を持つ家の秀才なら、接点はあるかもしれん」
景琛は確認のため志勇に目をやったが、首を横に振られた。さすがに地元でどんな関係だったかまでは記録されていない。
公の書類などそんなものだ、と暁霄は唇を引き結んだ。自分だってそうだから。
景琛公子の乳母の息子にして副官である暁霄。
そして景琛の妹公主である璃月。
そんな二人が門越しに視線を交わしたこと、お忍びでこうして面会を果たしていることは同席した者の記憶にしか残らない。春芳に嫁取りを迫られて以来、どうにも璃月のことが心から離れなくて困っている暁霄なのだった。
「大切な相手だったのでしょうか……」
つい抒情的なことを口にしてしまい、暁霄はハッとして姿勢を正した。春芳が耳を疑う顔をして兄を見る。片眉を上げた景琛は副官をからかった。
「暁霄が情緒を理解しただと?」
「別に私は」
「いや、いいことだ。めでたい」
適当にあしらって景琛は妹の方を見る。だが璃月は深刻な顔で考え込んでいた。そしておずおずと口を開く。
「ねえ、もし翠蓮と徒嵐が……」
「……わりない仲だったとしたら、か?」
こくん。璃月はうなずいた。
故郷で恋仲だったなら。その仮定は璃月の心臓を速くした。
でもあり得る。二人の強いつながりや徒嵐の鬱屈を抱えたまなざしがそう感じさせた。
徒嵐は科挙を進み官位を得て、翠蓮を迎えるつもりだったのかもしれない。その道を断たれる恐れから義挙に賭け、破れた。
結果として徒嵐は男でなくなり恋人は皇帝に奪われ自分はそれを側で眺めることに――。
全員が重いため息をついた。やりきれない。
「……俺がその立場なら映月宮に仕えたくはないかな」
景琛がボソッと意見した。後宮に納められても映月宮以外で仕事はある。翠蓮に男でなくなった姿を見られるのは拷問に等しいだろう。
「え、でもでも。翠蓮だって心細かったんでしょ。側にいてほしいのはわかる」
璃月は兄に反論した。これから見知らぬ誰かに嫁ぐかもしれない自分を思えば、翠蓮の気持ちに肩入れしたくなった。だが景琛は探るような視線。
「そうか? 恋しい男が見ている前で、他の男を迎えるんだぞ」
「ちょっとお兄さま!?」
言い方が生々しい。やや顔を赤らめた璃月だったが景琛は容赦なかった。
「ならばおまえが嫁ぐ時、想う男を従者に加えてもいいということか……」
「お、想う人なんていないもん!」
「おまえはそうかもしれんが。おまえを想う男がいるかもしれんだろう?」
「へ? どこでそんな」
キョトンと首をひねる璃月のことを景琛と志勇は苦笑いでながめた。まだお子ちゃまだ。軽く青ざめる暁霄がそこにいるのに、気づかないのか。
だが志勇は妹を焚きつけようとする上司の思惑をさえぎった。
「勤めたての宦官の扱いなどひどいものですから。縁のある者を助け出したくなるのもわかりますよ。でも目下の課題はその徒嵐がどう夢見に関わってくるかなので」
「翠蓮と恋仲だったのなら、そいつが〈合歓〉だ」
あっさり景琛は断言した。
合歓の木は男女の交わりを意味する。徒嵐が男でなくなっていても、以前そういう心があったのならば〈合歓〉と比定して支障あるまい。
「それは――罪になりましょうか?」
眉をひそめ暁霄は案じた。皇帝の側室として後宮にありながら宦官と心を通わせることは裁かれるのか。
「罪……ではあるかな。だが心だけならば、誰も罪を証すことはできない」
「なるほど」
「だが何かしらの事件が起こるのだろう。夢にあらわれたのだから」
そう言う景琛もやや嫌そうにしていた。不幸に見舞われた二人がひっそり寄りそっているのならば、もうそれでいいような気がするのだ。また、親しくなった者が罪に問われてしまえば璃月も心を痛めるだろう。
だが夢の黒蝶は合歓の葉に包まれるように消えた。翠蓮は徒嵐に守られるのか――あるいは殺されるのか。
何もなければいいと願ってみるが、きっとその祈りは通じないと皆がわかっていた。それが夢見の異能なのだ。
徒嵐は何か行動に出るのかもしれない。
故郷とみずからの矜持のために。
重苦しい気持ちを振り払い、璃月は外に出た。今日はまた寒の戻りで冷えている。でも稽古をすれば温まるだろう。
「――また私と、お手合わせをお望みですか」
困惑した顔の暁霄に璃月はうなずいた。〈話さない〉という基本設定をいちおう守ってみたのだ。向こうには禁衛の者らがいる。
「ああ、俺たちが間に入っているから話しても見えないぞ。自由にしろ、璃英」
妹の努力を景琛はあっさりくつがえした。元々ほぼ暁霄をからかうためだけの設定だ。
「お兄さま……」
呆れた璃月は念のため腕を上げ顔を隠して話した。その丁寧なところが意外で、暁霄は目を見張る。少年姿で細やかな気づかいを見せられるとなんだか反応に困った。この人はやはり、門の向こうで美しく微笑んでいた公主でもあるのだ。
璃月にならい、暁霄は自分も兵らに背を向け気味にした。
「お体は? 寝ついていらっしゃったと聞きましたが」
「もう元気。だから稽古をお願いします、師匠」
「し……ッ?」
唐突な師匠呼びに暁霄の声が裏返った。璃月はしてやったりと笑う。槍では敵わなくても動揺させるぐらいはしたい。
「暁霄はとても強いもの。そんな人に敬意を持って接するのは当然でしょ?」
「いや、その」
困っている暁霄のことを、景琛は剣の素振りを始めつつチラチラ見ていた。璃月に褒め殺されていないで頑張れ、と心の中で応援し聞き耳を立てる。
璃月は槍を手にした。だがそれを制止し、暁霄はあらためてピシリと姿勢を正す。手合わせの前にけじめをつけておきたかったのだ。
「先日……璃月さまに失礼な言い方をしたこと、お許し願えますか」
「……戦ってはいけない、という?」
「はい。あれは璃月さまを侮ったわけではなく……正直、筋が良い少年だとは思ったのです」
「あ、ありがとう」
璃月はポッと体が熱くなるのを感じた。暁霄の真剣な言葉はおそらくお世辞ではない。そんな器用なことが言える人ではないと思うから。にやけそうになったが、次の瞬間、冷や水を浴びせられた。
「だがあなたは女性でした。となると今後体格が成長するわけでもなく、力負けする場面に必ずや遭遇します」
「う……っ。わかっ……てる、けど!」
「稽古なさるのはかまいませんが、璃月さまは貴い身です。傷つけられることがあってはなりませんので、事ある時は素直に守られていただきた――うわっ!」
ふるふると肩をふるわせた璃月がいきなり挑みかかり、暁霄は危うく防いだ。手加減しなければならないので大変なのだ。
「暁霄の! 馬鹿! わからず屋!」
小声で叫ぶ。「素直に守られろ」とはまたひどい言いぐさじゃないか。
謝罪だか説教だかわからない暁霄の言葉に璃月が拗ねるのも納得してしまい、景琛は「不意打ちは卑怯だぞー」と棒読みで妹に注意した。




