第2話 気を許せるひとときを
ヒーロー、出てきます!
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暁霄は真っ直ぐに顔を上げ、寧和殿を出た。
すぐ前を悠々と歩くのは皇帝の第四公子、景琛。おてんば公主璃月の兄にして、暁霄が副官として仕える人だ。暁霄の隣にはもうひとりの副官である志勇が並んでいる。
ここは皇帝が執務にあたる場所だ。暁霄自身の用はないが、景琛に従い伺候した。
今日の景琛は揺玉宮へ向かう許しを願いに父皇帝のもとを訪れたのだった。母へのご機嫌伺いにすぎないとはいえ、後宮への立ち入りは軽々なことではない。
「――母上にも璃月にも、もう少し気軽に会えればいいのだが」
つぶやいた景琛に、暁霄は無言の礼で賛同した。
兵部上将である景琛の副官――ということは暁霄も武官だ。研ぎ澄まされたまなざしと鋭い身のこなし。引き締まった体に官服をまとった暁霄は、二十一歳の若さながら槍の名手として知られていた。ただ、武芸にはげむばかりで無愛想。可愛げがないと上司の景琛は笑う。
その景琛は、皇族として優雅な龍袍に身を包んでいた。
龍の意匠は皇帝の血を引く者しかまとうことが許されない物。黒絹に金糸で刺繍された精緻な龍の姿は、背の高い景琛をさらに堂々と見せる。
拱手して脇に寄る人々へ目線だけで応える景琛。だが途中、無視しづらい者に行きあった。
でっぷり肥えた体で景琛へ深々と頭を下げているのは、司瑾瑜という宦官だった。長年皇帝の近侍を務め、後宮を含む皇帝の私生活を管轄する内務府で太監に任ぜられている。すでに老境にあるが公私ともに信頼が厚かった。
立場としてはもちろん景琛が上なのだが通りすぎるわけにはいかなかった。足を止める景琛の後ろで暁霄も慇懃に頭を下げた。
「――いまだ冷えるが息災か? 陛下をよく支えていると聞く。励んでくれ」
「奴才にはもったいないお言葉」
景琛の言葉に「奴才」とへりくだる瑾瑜だが、態度からは傲慢さが透けていた。
高い声と丸まった体は男でも女でもない。だが一物の有無にかかわらず、宮廷で他人を蹴落としてきた者たちは何故こうも似て見えるのだろう。人を人とも思わぬ酷薄な目つきだった。
景琛が瑾瑜のために立ちどまったのは一瞬。フイと歩き出してくれて暁霄は安堵する。腹芸は苦手だ。
一行は建ち並ぶ官衙を抜ける。見えてきたのは後宮を囲む紅殻色の牆壁。
「また璃月は門まで来ているだろうか」
景琛が薄く笑う。兄公子が大好きな璃月はいつも外朝ぎりぎりまで景琛を迎えに出てくるのだった。「早く会いたいんだもの」と甘えられデレデレ喜ぶ景琛は妹を溺愛している。しかしどうにも納得いかないことがあって、暁霄は小声で尋ねた。
「……璃月さまがどういう御方なのか、わからなくなっているのですが」
「ん? うちの妹に文句でも?」
「相変わらず宮の内で槍の稽古に励んでいらっしゃると春芳が申しておりました。そろそろ彩天殿の胃がもたない、と」
それは揺玉宮の重大な秘密だ。景琛の目もとがゆるむ。
娘子軍の春芳はこの暁霄の年子の妹なのだ。そして景琛の乳兄妹。そのため暁霄も幼い頃から公子の側に仕えている。景琛と璃月。そして暁霄と春芳。二組の兄妹は切っても切れない縁で結ばれていた。
「――軽口が後ろに聞こえぬようにしろよ、暁霄」
忠告したのは志勇だった。
三十代半ばになる志勇は人当たりよく穏やかに見える男だ。ほとんど唇を動かさずに発した声は、上官と同僚だけに聞こえるギリギリのところ。
璃月は表向き可憐な公主で通っている。さらに〈夢見〉の使い手なのではと期待されており――つまりその身の行く末を権門が奪い合ってしかるべき存在といえた。
「そうだな、妙な噂は立たない方がいい」
景琛は振り向かぬまま、副官たちの後ろをついてくる者を探った。老若四人の宦官は景琛の侍従だ。
こまごましたことに手足となって動く忠実な者を揃えているが――結局のところ宦官が大事にするのは我が身のみ。保身のためならなんでもする連中なので信用してはならない。そう景琛は考えていた。
「これはうっかりした事を申しました」
「いや、聞こえてはいなかろう」
謝罪する暁霄を振り向いて、景琛は立ちどまった。後宮の門にたどり着いたのだ。副官二人はここまでとなる。
「では行ってくる」
「ごゆるりと」
門が開けられた。その先にいるのは。
「お兄さま」
よく通る声が掛けられた。ふわりと笑って景琛を迎えるのはもちろん璃月だ。後ろで乳母の彩天ら、女官数人も深々と頭を下げる。
璃月がまとうのは花を思わせる桃色の対襟と赤紫の裙。そして透けるように薄い萌黄色の披帛。
まだ風が冷たい初春だが、璃月の姿から春が生まれてくるかのよう。この人が槍の稽古にはげむと言われても想像できなくて、暁霄は失礼ながら視線をそらせなかった。
「外からの目が届くところまで来るとは、後宮に暮らす身としていかがなものだ、璃月?」
「あら、そんな」
歩み寄りながら指摘する景琛へ、璃月はことさらおっとり口ごたえしてみせた。兄の向こうへ小首をかしげ会釈する。置いてけぼりの副官たちに向けてだ。
門を挟んで見つめている暁霄とまなざしが交差した。風にひるがえる璃月の披帛に暁霄の目が揺れ――それをさえぎるように、重々しい扉が後宮を閉ざした。
「――私はいずれここを出ていく身です。陛下にお仕えする皆さまとは違いますもの」
「それもそうか」
周りには宦官たちがいる。他の妃付きの女官たちも遠巻きにしていた。
人目を気にして公主らしく振るまう璃月は、身内だけの時より丁重な態度。その妹に先んじて景琛は歩きだした。
宮女は一生を後宮で過ごす。それは皇帝と妃の秘密を外へ漏らさぬためだが、女たちにとっては非情な掟かもしれない。
そんな閉ざされた世界の例外として、将来は外へ出ていく運命なのが皇帝の娘――璃月はそういう立場だった。
「――母上、お元気なようで安堵しました」
麗珂妃の居間に参上し、景琛は母にうやうやしく礼を取った。
ここに来ると、公子ではなくただの〈景琛〉に戻れる。兄の頬がやわらかくほどけるのを見て璃月はその腕を引っ張った。
「お兄さま、ほらほら座って?」
「おまえの部屋じゃないだろう」
くだけたやり取りをしながら兄妹並んで腰をおろす。ここは人払いされており、室内にいるのは麗珂妃の腹心の女官たちと璃月の乳母の彩天だけだ。仲の良い我が子らをながめ麗珂妃は目を細めた。
「あなたも上将として立派に務めていると陛下から聞きましたよ。喜ばしいこと」
「いえ……大したことはしていないのですが」
それは謙遜ではない。兵部の書類決裁は多くが文官の仕事だし、帝位を狙える立場の第四公子が大兵を任されるわけもなかった。そんなわけで個人的な鍛錬に明け暮れる景琛は剣も槍も弓馬も熟練しつつある。そう聞いて璃月が目を輝かせた。
「いいなあ、私ももっと槍のお稽古がしたい」
のたまうと、部屋の隅に控える彩天がうらめしげにした。無言の非難に対し璃月は言い返す。
「護身術だって言ってるじゃない。大目に見てよ」
「さっき暁霄が首をかしげていたぞ。公主が槍ばかりとは本当かと」
「ちゃんと他のことだってできるわよ!」
先ほど門を挟んで視線を交わした暁霄。春芳との話題にもよく出るし、真面目に兄を支えてくれる青年武官だと信頼していた。なのに向こうからは女らしくないと思われていたのだろうか。璃月は少しへこむ。
「……暁霄は、私のことを出来そこない公主だと思っているの?」
「何を言う璃月」
拗ねられて景琛は吹き出した。
「あいつは門前でしかおまえに会っていないからな。外面の公主姿と春芳から聞く様子とが一致せずに首をひねっているのだろうよ」
「ソトヅラ」
今はきちんと着飾っている璃月が微妙な顔になり、部屋にいた女官らまでクスリとした。この面々からすると、大切にお育てした璃月公主はまだまだネンネな子ども。優雅をよそおう外での振る舞いは「頑張っていらっしゃる」ぐらいに思っているのだ。そんな努力家の璃月は納得いかない顔で唇をとがらせた。
「てことはパッと見の私はちゃんとしているのよね?」
「そうだな。この間は暁霄のやつ、『璃月さまは本当にお美しくなられて』などと言い出すものだから槍を取り落としそうになった」
「お兄さま!」
パシ。
璃月が思わず振り上げたこぶしを、景琛は難なく受けとめニヤとする。
「キレがないぞ」
「そ、袖が邪魔なの!」
「これでは文句があっても暁霄には一本も入れられんなあ」
「暁霄が強いのは知ってるわ。春芳がいつも悔しがってるから」
「その春芳なのだが……暇さえあれば箭亭にもぐり込んでくるのはどうなんだ。娘子軍の者が何故、と皆が気にしているんだが」
箭亭というのは公子や禁衛が使う弓道場兼練兵場――正確にはそこに付属する公子の休憩所のこと。向上心あふれる春芳は兄に稽古をつけてもらうため、よくそちらに現れる。景琛と暁霄は、行動的な妹に悩む同士でもあるのだった。
「ところで景琛。そんな話をしに来たわけではないのでしょう?」
子らのじゃれ合いを微笑んで見ていた麗珂妃だが、長々と遊んでもいられない。それなりに忙しいはずの息子に水を向けた。
ヒーロー出てきたけど退場した……
暁霄って読みにくいでしょうか。ぎょうしょう、です!
「霄」は「そら」という意味です。「宵」と似てますね。