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第16話 黒い蝶


 ✻ ✻ ✻


 せっかく頭痛から復活したというのに、璃月はどんよりと長椅子で靠墊(クッション)にもたれ顔を伏せていた。倒れていた数日の流れを春芳と彩天から聞かされて青ざめたのだ。


「私が……繊細で病弱?」

「はあ」


 笑いをこらえ、春芳がうなずいた。あちこちの宮の警固にあたる娘子軍が聞いてきた噂によれば、そういうことになっている。


「皇后さまの厳しい物言いに心を痛め倒れた。医官が揺玉宮に行くのを見たし璃月さまは寝込んでしまった――と女官たちは言い立てているそうですよ」

「うっそぉ……」


 璃月は両手で顔をおおった。そんな評判が立つなんてまったく想定外。あの場には普段交流のない下級妃たちもいたので話の種としてちょうどよかったのだろう。失神したのは本当なのだし言い訳できない。

 本来の姿とかけはなれた話に身もだえする璃月だったが、彩天からは胆の冷えることも教えられた。


「皇后さまより『早い快癒を』とお見舞いをたまわりました。ただ、『儀礼も守れぬようでは先が思いやられる』との苦言付きです」

「うわぁ」


 会が始まるなり退席したのだから、主催者が気分を害するのはわかる。予定に合わせて体調をととのえるのも貴人の務めだ。


「私ますます甘く見られそう……ま、その方が身軽でいいかな」


 こそこそお忍びするのが楽しくなっている璃月は物事を良いように考えることにした。

 期待されなければ誰もが璃月を放っておいてくれるだろうし、どこぞの権門が降嫁を願ってくることもなかろう。うん、そんな事がないといい。そう願う。


「で、翠蓮はあれからどう?」

「映月宮はますますひっそりしておりますよ」


 彩天の証言に春芳もうなずいた。

 もともと不吉だと避けられがちな宮だ。これまでの翠蓮は最低限の礼儀を守るぐらいで誰とも親しくなろうとしてこなかった。皇帝のお渡りも頻繁ではなく、最近はほとんどないらしい。となるとあえて関わる必要もない。


「抱える女官も仕える宦官も少ないですし……小ぶりな宮ですが閉めている部屋も多いのでは。寂しい暮らしぶりでしょうねえ」


 若い側室の不遇をあわれむ彩天に続き、春芳はもう一人の状況を伝えてくれた。


「碧梧宮はえらくピリピリしています。紫婉さまはほとんど部屋から出ないそうですし、女官たちの口も重いと愛晴が申しておりました」

「ああ……紫婉は本当に繊細そうな雰囲気だったわ」


 皇后に嫌みを言われ蒼白だった紫婉を思い出す。皇帝はたぶん強くしっかりした女を好まないのだろう。だから冷静そうな翠蓮などからは足が遠のく。外朝での政務に疲れているのか、後宮では従順な女しか近づけたくないらしい。


「皇后さま、どうしてあんなキツい言い方をなさったのかしら。紫婉と翠蓮にだけ妙に厳しくて」


 その印象は誰もが抱いたことだろう。だから璃月が心労で倒れたなんてことにされたわけだし。皇后にとって得にならないと思ったのだが、彩天は首を振った。


「これまでもたまにございましたよ……お気に召さない者がいると、ああして皆に示すのです。親しくするなということでしょう」

「え」

「璃月さまはお気づきじゃなかったですか――まあまあ、幼くていらっしゃったし」

「……うん」


 面目なくて璃月の頬は引きつった。能天気にほけほけ遊んでいた子どもの璃月は、女の熾烈な争いを知らずに成長してきたらしい。

 彩天いわく、皇后のそれは皇帝のお渡りがある若い下級妃に向けられることが多いそうだ。そうなった女は心労からか体を壊し引きこもり、寵愛も失っていく。正妻からの側室いびりのようなものだ。


「このたびは貴妃さまの宮にいる方が標的ですから、そこが少々揉めそうですね」

「ふうん……碧梧宮も警戒するわけだわ。ねえ、やっぱり懐妊しているのは紫婉なんじゃないかなあ。皇后さまはそれをご存知なのじゃない? それでいじめたの」


 なんといっても後宮の主なのだから、医官から報告されていてもおかしくはない。


「翠蓮につらく当たったのは意味わからないけど」

「……皇帝陛下に楯突くような騒乱を起こした土地からいらっしゃいましたから。見せしめのようなものかもしれません」

「そんなの翠蓮にはどうにもできなかったでしょうに」


 黒い蝶と目される翠蓮は、璃月の友人となるべき者かもしれない。その人が孤立し追い込まれていくかもと聞いて璃月は気が気でなかった。

 翠蓮を助けるのが夢の示した道なのか。それを成してこそ璃月の異能の発現にもつながるのでは。


「映月宮にお邪魔してみようかな」

「はあ……」


 言うんじゃないかと危惧していたことを案の定言われ、彩天がため息にまみれる。

 だがまあ、外朝にお忍びするよりは安全だ。皇后の意に反することではあっても後宮の規範の内だから。


「どういう理由でお訪ねしましょう?」

「そうね……先日の詩は素晴らしかったとか、若い同士仲良くしたいとか」


 さすがの璃月もこじつけた建前しか出てこなかった。考えてみても自然な言い訳など思いつかない。全員で天をあおいでしまったが、璃月はパンと手を叩いてその流れを止めた。


「なんだっていいわ! 近づいてしまえばこっちのものよ!」


 乱暴な結論に春芳と彩天は顔を見合わせる。それは――友人になるというより酒の勢いで女を口説くようなやり方。市井を知る二人は「ここは酒楼か」と突っ込みたくなった。



 ✻ ✻ ✻



 そして後日、訪れた映月宮は本当にシンと静まっていた。

 璃月からの訪問の申し入れに翠蓮以下全員がたいそう戸惑っていると思う。扉を開けた女官はいわく言いがたい表情だったし、応接の間に迎え入れた翠蓮は疑問のまなざしを隠そうともしなかった。

 おそらく最低限の人員しか宮に仕えていないのだろう。女官のひとりもいない部屋に驚く。璃月が連れているのも目立たぬよう彩天のみにしたので釣り合うといえばそのとおり。だがふと見れば部屋の隅に若い宦官がひとり、衝立の一部のようにたたずんでいた。


修媛(しゅうえん)殿の宮におうかがいできて嬉しいわ」


 上座に通された璃月は、公主として身につけた外面を活用し愛らしく微笑んだ。あまり他人行儀すぎないセンを攻めて仲良くなるのが目標――だが翠蓮は小首をかしげる。


「ご訪問いただき光栄に存じます。ですが何故こちらへ? 特に今は皆さま寄りつかれませんのに」


 はっきり言われ、璃月は素でクスリとしてしまった。翠蓮は人に媚びることを知らないらしい。そんなところも夢にあらわれた黒蝶にふさわしく、やはり璃月と気が合いそうだ。璃月は真剣な顔で白状した。


「私ね、お友だちがいなくて」

「……は?」

「内廷で近い年頃なのは下女ばかりなの。それでもお話すると楽しいのだけど、向こうからすると気を遣うわよね」

「……そうかもしれません」

「ですから修媛殿と親しくなれたら嬉しいと思って。どうかしら?」


 ただの宮女ではなく地位のある翠蓮ならば、との論法だった。しかし修媛の位は宮人の中でも末席に近く、上に四十人ほども妃嬪側室がいることになる。皇帝の娘である璃月と親しくと言われても無理があると翠蓮は考えた。


「……後宮という場で友人は必要なのですか?」

「わからないわ。私、ここ以外を知らないんだもの」


 相手の心が一歩引いていると感づいた璃月は、ややしょんぼりと同情を誘ってみた。


「修媛殿が詩に詠んだ故郷とはどんなところですか。私が話した下女たちは皆、城下から来ていて遠くを知りませんでした。私は城下すら知りませんけど」


 世間知らずの籠の鳥――それが公主。遠くの景色を知りたいのは璃月の真実だった。絵に描かれた山川草木ではなく本物への憧れはたぶん後宮の誰より強い。

 その気持ちがにじみ出たのだろうか、翠蓮は軽く目を見張ってから微笑んだ。


「どこの街もあまり変わらないでしょう。私は田舎娘ではありますが、いちおう城郭の中で暮らしておりました」

「あら、そんな危ないこと言っては駄目」


 皇后にどうせ無教養だろうと罵られたことを指しての「田舎娘」。自嘲するかの言い方だが、あの時はさらりと詩で反撃したのだから人を見る目がない皇后への皮肉となる言葉だ。璃月は肩をすくめて指を唇にあててみせた。共犯のような笑み。


「――公主さまこそ、危ないなどと」


 翠蓮の肩から力が抜けた。璃月がそれなりに話せる相手だと認めたのだ。

 後宮のしきたり何するものぞと裏の意味をこめて話してみれば、それをすぐに理解し咎めることもない璃月。

 考えてみれば公主というのは皇帝の寵を競い蹴落とし合う妃嬪たちと違う立場だった。厭わしく感じている女の争いから離れたところにいる少女――ならばむやみに拒絶することもないと翠蓮は思い直した。

 翠蓮のまなざしがやわらぐのを見て璃月は身を乗り出す。


「あの、あのね――よければお名前を呼んでもいいかしら。私のことも璃月、と」


 前のめりに距離を詰めにかかる璃月。翠蓮はあっけにとられつつも――この公主のことは嫌いではないかもしれないと思い始めていた。



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