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第15話 夢を誘う香り


 目を伏せたまま、翠蓮の頬はびくともしなかった。後宮の頂点にある皇后へ媚びも恐れも見せない。不遜ともいえる物言いを皇后はどうとらえたのか、かすかに口角が上がった。


「――そなた、都の風になじめぬか。さすが武に寄る家の者よの。文をないがしろにしてきたと見ゆる」


 ざわ。皇后の言葉に女官らがざわめいた。

 皇帝の沙汰に対し敬意を欠くと皇后は不満をあらわにしたのだ。武力を頼むような者は教養も礼儀もなっていないとの嘲りをこめて。

 たしかに翠蓮は開き直ったかに振る舞っている。それにしても皇后の言いようも大人げなかろう。どうなることかと璃月の心臓までうるさくなった。


「――詩歌でございますれば、少しは」

「ほう? 学んだと申すか」


 口ごたえとも取れる翠蓮の言葉。固唾をのむ人々の視線を受けながら一歩下がると、翠蓮はゆっくり顔を上げた。

 皇后ではなく、空を見る。

 そして詠じた。



 故郷荒蕪尽  ふるさとは荒れ果て

 朋友去而空  友すでに去り、むなしい

 月影冷凝凍  月影冷たく凍てつき

 旧情夢中封  旧き情を夢に封ず



 歌われた五言絶句に天花苑は凍りついた。

 これは故郷を懐かしむ詩。荒れたふるさとを悼む歌――だが翠蓮の故郷を踏みにじったのは、皇帝の遣わした軍だ。

 誰も何も言えずにいる中、翠蓮は礼をしてススと後ろに下がった。そのまま席に着かず退出していく。皆があっけに取られ、その背を見送った。


 同じく翠蓮を見つめていた璃月は突然めまいを感じた。ぐらり。

 視界がゆがみ――まなかいに黒い蝶が飛ぶ。


「璃月?」


 椅子の上でふらついたのを隣の麗珂妃が支えようとした。

 頭がふわふわする。璃月は背もたれに体をあずけた。深く息をすると沈丁花が脳にまで深く香る。気持ち悪い。ハッと気づいたように麗珂妃が鋭くささやいた。


「香りを吸ってはだめ。彩天、璃月を宮へ戻して。碧葉、皇后さま付きの者に璃月退席のお断りを伝えて」


 母の指示の意味がわからないまま璃月はぐったりと彩天の腕にしがみついていた。甘いがツンと透きとおる花の香が鼻腔にまとわりつく。


 月影。

 蝶。


 そういえば映月宮の人も「翠」だったのだと思いながら、璃月は意識を手放した。



 ✻ ✻ ✻



 ――これは夢なのだと璃月にはわかっていた。だって目の前に、知らない宦官の背中があったから。


 覚えのない宮にいた。

 何故か感じる焦りと悲しみ。そしてチリチリと背中が総毛立つ。


 大きな宦官は誰かと戦っている。鋭い身のこなし。璃月を背にかばいながら一歩も引かない。

 夢の中の璃月はその人を信じ、危険などみじんも感じていなかった。

 璃月も槍を手にする。くるりと袖をひるがえし薙ぐ。


 一緒にいるのは誰だろう。なんの夢だろう。

 ふわふわと景色が揺れる。


 だんだん気持ち悪くなってきた。目が回る。もう無理。もうやめて――――。




 ――そして、璃月は目を開けた。

 気がつけば自分の寝台にいる。いつの間に部屋へ運ばれたのか。それすらわからなかった。


「ああ璃月さま」


 すぐに彩天の声がしてホッとした。だが安心した瞬間に、ガンと頭が痛んでうめいてしまう。彩天がいたわるように微笑んだ。


「やはり頭痛ですね。薬湯をご用意しておりますよ」


 それは麗珂妃の世話に慣れた碧葉からの指示だった。夢見の後のようになるかもしれないと言われたのだそう。というと、目を開けるのもつらいこの痛みに母も悩まされているのだろうか。

 ふらふらしながら体を起こし、彩天に支えられながら薬を飲んだ。


「うぇっ」


 苦すぎる。でも効きそうな味だ。すぐに頭痛が引くわけではなくても気持ちはしっかりしてきた。


「……お母さまは?」

「先ほど茶会から戻られました。璃月さまがお目覚めになったとお知らせしましょうね」


 そっと璃月の体を横たえる彩天は幼い子を見るようなまなざしだった。

 璃月の乳母となったものの、自分の子は生まれてすぐ亡くした彩天。だから璃月を我が子に重ねて育ててきた。そうと知っている璃月はいつもこの乳母に甘えてしまう。


「彩天がいればいい……お母さまもお疲れでしょうし」

「そんなわけには参りませんよ」


 たしなめつつ嬉しそうにすると、璃月の頭をなでて出ていく。心配ばかりかけているけど彩天の手のひらは頭痛を軽くしてくれた。

 それにしても何故こんな不調を。香油をくゆらせたわけでもないのに。

 それに見た夢も奇妙だった。いや、普通の夢のようにはっきりしていた。〈夢見〉ならばもっと暗喩的でなければならないはず。

 いったいあれは本当に〈夢見〉なのだろうか。




 彩天と一緒にやってきた麗珂妃は、璃月が具合を悪くしたのは沈丁花のせいだろうと言った。

 風のない天花苑。木と築山に挟まれ滞留する花の香。


「あの花の香りは夢見の香によく似ています」

君影草(きみかげそう)に?」


 まだ頭痛に耐えながら璃月は訊き返した。


 君影草は春らんまんから初夏の頃に咲く、かれんな白い花。小さな鈴型の花が並ぶ姿が愛らしく民衆にも好まれていた。

 ただ実は、全草に毒がある。それに草花のままだと香りはほのか。夢見のためにはたくさんの君影草の花から集めた高価な香油を使うのだ。似た成分が沈丁花にも含まれているらしい。


「あの席には強い香りがただよっていたから。慣れないせいで無理やり夢見に入ってしまったのね――たぶん璃月もこの力に向き合う頃なのでしょう」

「翠蓮が……黒い蝶なの」


 倒れるときに見えたことを璃月は伝えた。


「映月宮。凍りつく月影。お母さまの夢の蝶は小翠じゃなかったんだわ」

「翠蓮……そう。若いのに黒が似合う雰囲気を持っているし、後宮での争いから引いている感じもぴったりね」


 つらそうな璃月の目の上に、麗珂妃は手ずから絞った布を置き冷やした。自分も夢見の後は同じ症状だからわかる。


「今はお眠りなさい……夢は見ないでね。頭痛を起こすのは花の香りよりも夢見なのだから」

「見るとか見ないとか自分で決められるもの?」

「決めるの。できるようにならないと苦しいわよ」


 寝込む娘に厳しいことを言う。が、そうっと髪と頬をなでてくれた。いつくしむように。

 でも頭痛が引っ込むわけではない。さっき見た戦う宦官の夢はまた後で話すことにして、璃月は眠りに落ちた。



 ✻ ✻ ✻



「ほう……!」


 いつものように暁霄が揺玉宮からの文を持っていくと、目を通した景琛は驚きの声を上げた。その声音が喜んでいるように聞こえ、暁霄は志勇と顔を見合わせる。後宮で何があったのだろう。不審な顔の副官二人に景琛は嬉しげに笑ってみせた。


「璃月が〈夢見〉に目覚めたかもしれん」

「おやそれは」


 おめでたい、と言っていいのかどうか志勇は迷った。璃月がそれを望んでいるとは聞いているが、降嫁先の選択は難しくなるのではなかったか。


「ああ気にするな。あいつは嫁になぞ行かなくてもいい」

「は?」


 暁霄はうっかり強く反応してしまった。明瞭に上げた声を呑み込み表情を消すが今さらだろう。景琛が眉を上げる。


「なんだ暁霄」

「い、いえ」

「……おまえも言っていたが槍を振り回しているような女ではな。仕方がない」

「あの時のあれはそういう意味ではなく……」

「ではどういう意味だ」


 苦い顔で暁霄は目を伏せる。

 手合わせした璃月に「決して戦うな」と言い放つ形となった箭亭での対面。あれから暁霄はずっと気にしているのだった。他の言い方をするべきだったかと思い返すのだが正解がわからない。春芳に「口下手」とののしられるのは伊達ではなかった。


「……璃月さまは公主ですし、らしからぬ振る舞いはいかがなものかと」

「まあたしかに、じゃじゃ馬がすぎるな」

「いえ。余人に知られてはお立場が……」

 

 言うほどに景琛が不機嫌になっていく。璃月のお忍び以来どうにも上司とギクシャクしていて暁霄は心を痛めていた。


 あの日に璃月が帰ってから、暁霄は発言の真意を問われた。だが景琛に対して釈明できることなどない。知らずに手を取ってしまった瞬間が脳裏によみがえり、胸が詰まった。

 あんなに華奢な璃月がむくつけき賊と刃を合わせると考えたら腹が立った――とはどう説明すればいいのだろう。

 「心配」ならわかる。「立腹」なのはどうしてだ。


 璃月が弱いとは思わなかった。槍を受けながら、伸び代のある少年だと感じていた。

 だがその人が璃月公主だと気づき、強烈な違和感におそわれたのだ。

 璃月が戦いの前面に立つのが我慢ならない――その感情の名前が暁霄にはわからなかった。


 困り顔の暁霄をそのままに、手紙に目を戻した景琛はふと眉をひそめる。

 

「……かわいそうに。夢見の反動で倒れたか」

「お加減は?」


 暁霄は食い気味に尋ねてしまった。出すぎたかと思ったが、景琛もとがめることはしない。


「寝ついたそうだ。この文も璃月が書いたのではないし、快復するといいが」

「それはおいたわしい」


 目を伏せる暁霄は、自分を見る景琛がひっそりうなずいたのには気づいていなかった。



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