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第10話 混沌の宮に怪異は哭く


 ✻ ✻ ✻



 夜の後宮はひそやかなざわめきに沈んでいた。

 いつも誰かが目覚め、耳を澄まし、異常がないか見張っている。それがこの花園。

 疲れに眠り込む下働きの寝息と、物思いに寝付けない皇帝の女たちのため息が交錯する場所だ。


 まだ春浅い深更の冷え込みに璃月の息が白くなった。肌着を重ねた上に着こんだ緋の便服は思ったより軽く、だが手にした槍は重い。


「ご苦労さまです」


 揺玉宮の入り口で不寝番をする宦官に声を掛けた春芳。その陰でやや緊張の面持ちなのが璃月だった。

 宮に来てくれた娘子軍の一人と服を取り替え、抜け出したのだ。いつもなら回廊を行くところだが巡回の武官としてその外側を歩く。


「……ふう」

「気を抜かないで下さい。どこで見られているかわかりませんから」


 外に出て表情をゆるめた璃月だったが、春芳は硬い声音を崩さなかった。

 公主の夜歩きなんてものにかかわってしまい、春芳は気が気でない。ことが露見したらと思うと鼓動が速くなるが、そこは麗珂妃と景琛がもろもろを庇ってくれることに賭けよう。とくにあの第四公子は妹に激甘だ。きっとなんとかしてくれる。


 今夜は碧梧宮に「花魄(かはく)」があらわれるはずだった。璃月はその「退治」を見届けるためにこんなことをしている。自分が始めたのだから責任があるというのが璃月の主張だった。


 夢見にあらわれた黒い蝶。

 懐妊したかもしれない誰か。後宮に渦巻く嫉妬。

 そんな謎を探っているのに璃月自身はいっこうに夢を見られなくてジリジリと焦りがつのる。


 せめて成りゆきを見届けるぐらいはしたい。そう訴えたら母は苦笑いで許してくれた。やめてくれと大慌ての彩天に泣きつかれ、春芳が外朝まで連絡したのだが――景琛は「ふむ。おもしろそうだな」と笑ったらしい。おかげで今、彩天はやきもきしながら宮で留守番だ。


「これが本当に怪異でしたら璃――っと。あなたは来なかったのでは?」


 璃月の名をうっかり呼びそうになり、春芳は口ごもった。気をつけねば。

 春芳の指摘はやや図星なのだが璃月は反論した。


「そんなことないわよ。愛晴(あいせい)だけに押し付けるなんて悪いじゃない」

「……あなたに何かあったらもっと大変なことになるのですが」


 碧梧宮担当の十人隊長、愛晴。春芳の同輩にあたる女性武官だが、璃月が参加すると聞かされてしばらく呼吸が止まっていた。さもありなん。


 闇の中を行った璃月と春芳は、目的の宮の近くで歩哨のように立っている愛晴を見つけた。歩み寄った春芳は無言で璃月を紹介する。大げさな礼を取るなと伝えられている愛晴だが、せいいっぱいピシリと姿勢を正し公主を迎えた。


「このような場にお越しいただき……」

「うふふ。そういうの、やめましょ?」

「やめ……はあ」


 璃月は難しい要求を突きつけた。武官に扮していようと公主は公主なのだから。

 だが璃月の内面は、そこらの妃嬪より娘子軍の者たちに近いかもしれない。勇ましく槍を握り直すと碧梧宮の方をうかがった。

 回廊の途中に門。中に建物の瓦屋根が連なっているのは揺玉宮と同じ――と、その門から駆け出してきた者がいる。緋の便服の女だ。


「ああ、出たようですね」


 愛晴が落ち着いた声で告げる。任務開始となって、公主相手よりむしろ気が楽になったのだろう。駆け寄る部下がささやいた。


「鳥です」

「わかった。では春芳も」

「同道しましょう」


 手短にやりとりした十人隊長同士は璃月のことも無言でうながした。璃月の正体については愛晴にしか教えていない。他の者には春芳の部下だと思ってもらえばいいのだ。

 璃月も含め、人数を増やして戻った警固に対し門番が制止しかけた。すると宮の中で不気味な鳥の声が響く。聞いたことのない大きな鳴き声に門番が体を縮こまらせた。


「なんと、噂の花魄か? 非常事態につき、まかり通る!」


 愛晴は威圧的に怒鳴るとずかずかと門をくぐった。もちろん璃月たちも続く。


「これが笛?」

「ですね」


 璃月と春芳はニヤリとささやき交わした。

 これまで起きていた騒ぎでは、鳥はもっと小さく鳴いていた。それを大勢が駆けつけてもおかしくない大事件にするため、中にいた愛晴の部下が鳥笛を鳴らしたまで。元の工作でも同じく鳥笛を使っているのだろうが、派手な鳥が参戦してきて胆をつぶしているのではないか。女官だか宦官だかわからないが少しかわいそうだ。


「鳥が騒ぐのはどうしたことでしょうか! 警固を預かる身として検分させていただきます!」


 問題の中庭に通じる扉の前で愛晴は宣言した。後々の追求にそなえ、義はこちらにあると示しておかねばならない。

 ばん!

 扉を開け放ち、合流してきた数人の娘子軍と共に璃月も中庭に踏み込んだ。そして息をのむ。


「……ひっ」


 広い庭には植え込みが造られていた。そこに植わる(あおぎり)の枝に白い物が揺れていて、灯籠の灯りに照らされている。人の形に見えた。

 見開いた目。死者の衣。

 人にしてはずいぶん小さいが、花魄とは大ぶりな花が咲くように枝に()るものだ。これはまさにそんなふうに見える。


「か、花魄……?」

「違います。人形ですよ」


 春芳がささやいて璃月の動揺を抑えた。愛晴が屋根の上を指差す。


「曲者だ! 捕らえよ!」


 その視線の先。瓦にしがみつく何者かがいた。長い竿か何かを手にしている。人形を吊っているのだろう。

 走り出す娘子軍が回廊に散った。梯子を取り出す者もいる。

 動揺し屋根の向こうに逃げようとする曲者。竿を取り落としかける。すると花魄がブンと璃月の方に飛んできた。


「ひゃあぁんッ!」


 悲鳴を上げた璃月はとっさに槍で反応した。鋭い突き。


 ――ぼとり。


 長い竿も落ちてきて敷石に跳ねる。そして見事槍玉に挙げられた怪異は――やはり人形だった。確認した春芳がつぶやく。


「お見事です」

「や、やぁん。もう、や……」


 璃月は息を荒らげ泣きべそだ。

 怪異ではないと思っていても、叩き落せば人形であっても、やっぱり怖い。

 はっきりわかった。闇に浮かぶ人形なんて好きじゃない!


 だがまだ泣いてはいられなかった。娘子軍が屋根に登っていく。曲者は悲鳴を上げ逃げ惑った。


「その者、逃がすなッ!」

「はいッ」


 瓦を身軽に走り退路を断つ。うろたえた曲者がよろけた。


「うわっ、わわ、ひいっ!」


 ガタガタ、ズン。にぶい音。

 庭の石畳に落ちてきたのは宦官だった。

 愛晴が駆け寄り舌打ちする。状況を察した春芳がそちらと璃月の間に体を入れさえぎった。


「見ないで下さい」

「え、なに?」

「くそっ! 貴様誰に仕えている! 何か言え!」


 鋭い愛晴の声は抑えているがやるせなさに満ちていた。夜気にかすかな血が匂う。宦官がどうなったのか、璃月にもわかった。一同唇をかみ黙りこくる。


「――なんだと?」


 愛晴が息だけでつぶやいた。瀕死の宦官の脇で息をのむ。シンと冷えた中庭の空気が揺れた。

 宦官は何を言ったのか。言い遺したのか。

 皆が身じろぎもしない中、おそるおそる視線を動かした璃月はヒュとのどを鳴らした。


「か、花魄――!」


 梧の木に、白い光がいた。ぼんやりとまとわりついている。


「なん、なんと!?」


 居合わせた全員が目を疑った。犯人は地に倒れたというのに。まさか本物が出たのか。

 先ほどの人形とは違う、形をなさない光だ。春芳も青ざめて璃月を庇う。その背中からそっとのぞき、璃月はゾゾと怖気立った。

 明滅する光。

 消えては別のところにあらわれる。

 それは蒼白く揺れる魂のよう。

 さすがに娘子軍からも悲鳴が上がり――そして璃月が走った。梧の木へ。


「も――――っっ! 嫌ぁっ!!」


 胸元から取り出した霊符をヤケクソで幹に叩きつける。


「ちょ、璃……!」


 春芳はあわてて木から璃月を引きはがした。抱えるように下がる。


 ――――シュウゥ……。


 そんな音がしたのは気のせいかもしれない。だが梧の木に揺れていた人魂はみるみる薄れ、消えた。


「――え、これ。霊符が効いたんですか」


 春芳が呆然とつぶやく。

 恐怖にキレつつ霊を祓った璃月は半泣きになりながら春芳の腕の中で震えていた。


 夜闇そのものが怖いからと気休めに持ってきたお守りの霊符。

 そんな璃月の情けない根性が――今夜はどうも役に立ったらしい。



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