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1. 新聞紙配達員

 先端の尖った細長い何かが左の耳たぶに刺さった気がした。

 指先に走る静電気より遥かに痛々しく、五歳のとき誤って素足に落とした線香花火よりも微かにつめたい。自然な痛みではないために、刹那に様々な推測が脳裏をよぎる。蚊に刺されたというわけでもないし、どこかにぶつけた覚えもない。白い湯気が卓上の珈琲からふわふわと立ち昇っている。透き通るような清々しい苦さが舌に合わず、飲むときは常にシロップを注いでいる。濃密な珈琲の闇の中で、糖蜜の描く白濁した星雲がゆったりと広がっていく様子を想像していると、痛みが僅かにやわらいだ気がする。

 匙でくるくると掻き混ぜてから、カップを口元で傾ける。一気に啜ろうとしたら思いの外熱くて、舌を火傷しかける。舌先を軽く口先から出して外気にさらしていると、まるで舌をしまい忘れた猫みたいだなと思う。私はそんなに可愛らしい生物ではないけど。

 火傷に慌てふためいていると、バイクが家の前に止まった音がする。エンジンが唸る音がやけに騒がしく頭蓋骨にこだまする。この時間帯なので、おそらく臨時政府の通信局職員さんだ。

「すみませーん、ちょっと今着替えてて、家の前に置いて貰えますー?」

「あ、了解しましたー、朝早くにすみませーん」

「いえいえ、お仕事ご苦労さまでーす」

 着替えているといのは嘘だ。そもそも私は外出以外では服を着ない。昔のエンタメ番組では、ゲスト女性芸能人たちが、私って寝るときは服着てないんですよねーそっちの方が気持ち良いから、という趣旨の発言をしてアラフォー男性お笑い芸人が彼女たちに不道徳な眼差しを向ける、みたいな大して面白くもない典型的な流れがあった。私の場合は、そんなクズ男に見せてやる乳はない。

 私が服を着ないのは印象操作のためではなく、服が怖いからだ。

 中学生二年生のとき、長袖セーターを着て卵焼きを調理していたら、袖先にコンロの火が着いて上半身に一瞬で焼け広がったことがある。そのときは直ちに服を脱いで事なきを得たものの、背筋を這うような紅蓮の熱が海馬にこびりついてしまい、しばらく料理すらできなかった。好物の卵焼きも食べたくなくなった。

 服は自分のからだの一部ではない。その感覚は今も拭いきれていない。

 流石に生理のときはナプキンと下着を着用しておく必要があるが、そういう生活上で必要不可欠な状態を除いて、私はなるべく可能な限り、服とは接点のない暮らしを続けている。

 エンジン音が突然に膨らみ、段々とスキール音が遠ざかっていく。この地域は裸の女の家に押し入ろうなどと馬鹿げたことを目論む変態がいないので、安心して毎日を暮らせられるのでありがたい。洗濯籠の中から皺苦茶の下着を取り出し、身に纏う。肌を締め付けてくる感覚が嫌に気持ち悪い。カーテンを開けると、窓玻璃の透明な膜に濾過された陽光が青白く我が身を包み込む。

 清々しい朝、いや、これは絶望の朝だ。

 薄手の上着を申し訳程度に纏って玄関外に出ると、まだ周囲の町並みは家屋の影で浸されていて、ひんやりとした心地よい空気に満ち満ちている。壁に丁寧に立てかけられた〈立方体新聞(ニュースキューブ)〉を回収して、さっさと扉を閉める。私だって下着姿を見られるのは恥ずかしい。

 適当に新聞を空に投げて、読み上げられる情報を聞いていく。電気が通っていないために薄暗い室内に、新聞から発せられたホログラム映像が投影される。最近は映像の質が悪く、どこかモザイクがかけられたような、画素が異常に低いようなものが流れ始めることもある。

 珈琲に再び口をつけると、思っていた以上に生微温くなってしまっていた。シロップの甘ったるさが、寧ろ仇となってしまっているようにも感じられる。

『旧北米大陸首都圏で緑化爆発 桜桃教「資源取引を仲介」』

 一面大見出しで新興宗教団体の活動が報告されている。太宰治が好きな預言者がいる説が数十年前に日本の女子高生の間で話題になったらしいが、後に全く近現代小説に興味のない原理主義者によるネーミングだということが広報担当により明らかになった。桜桃教の教義によると、あらゆる人類個体は運命づけられた存在〈幼児(インファント)〉が存在するという。さくらんぼの双子のように、同じ枝葉に結びつけられた片割れのような誰かが存在し、黎明人類が犯した罪の報いによって互いに殺し合う呪いをかけられたとかなんとか。

 私は無神論者なので、そんな教義を信じているわけではない。しかし、新興宗教とか世界中の神話で語られるように、過去の人類の尻拭いをさせられている感覚は確かな実感を持って感じられる。

 

 最初の〈地球規模緑化災害(テラ・グリーンアウト)〉から四年。大量消費文明は息を潜め、旧来の政治体制は形骸化し、誰もが何かを諦めることにした世界。かつて、旧英国の思想家トマス・モアは、ユートピアすなわち理想郷という架空の国家を用いることで、自国政治の現状を批判した。

 今となっては誰も彼もが現状を受け入れて、絶望の淵を気ままに楽しんでいる。

 ここは絶望郷。法も倫理も忘れ去られた、絶望の都。

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