エレベーターの扉は勝手に消える。
わたしは方向音痴である。
どのくらい方向音痴かと言うと、ツバメやオオカバマダラに鼻で嗤われるレベルである。
少し前に話題になった小惑星探査機はやぶさ。わたしがはやぶさだったなら、JAXAの人がどれだけ呼び掛けてくれても地球に帰ってこられなかった。断言できる、絶対に。
しかし人類にはわたしには無い叡知がある。優れた先人達の発見発明の恩恵は地図も読めないわたしに移動の自由を与えてくれた。
ありがとう、国土地理院。
ありがとう、GPS。
ありがとう、カーナビ。
ありがとう、スマホ。
あなた達とあなた達を産み出してくれた偉人達のおかげで、わたしは今日も最愛の推しの元に駆けつけることが出来るのよ。
そんなわけで、今日もわたしは追っかけ、ンンッ、愛しい推しに逢いにやって来た。
ライブは午後七時開演。明日もあるので本日はお泊まりだ。
愛用の老舗のビジネスホテルチェーンはお安いが、部屋もベッドも廊下もエレベーターも狭……こぢんまりしていて、今時の日本人やインバウンドといった体格の良い方々には不評だ。
ネットでの評価に曰く、カプセルホテルよりもベッドが小さくて狭いとか、廊下で人とすれ違う時はお互いが壁に背中をくっつけるのだとか、エレベーターには平均的な日本人の成人男性二人一緒に乗るのは質量的にも容量的にも無理だとか。
これ全て事実です。
でも日本人女性の平均より五センチは低く、コンパクトでインパクトも無い体型のわたしには無問題。
おかげさまで観光ハイシーズンにもかかわらず、部屋は毎回安定的にお安くゲットできて嬉しい。
わたしは同世代に多い薄給な契約社員なので、推しへの貢ぎ物以外への出費は出来る限り押さえたいんです。
コンビニではなくローカルスーパーのお惣菜コーナーで遅い昼食と夕食夜食、明日の朝食を買い込んで、わたしはビジネスホテルの回転扉を押す。
扉前の三段の階段にスロープなんてものはない。バリアフリーどこ行った?昭和か。
えっちらこ、とキャリーケースを持ち上げるのも一苦労。
本体の高さはわたしの身長の三分の二くらいあるからな。
ようやく三段上りきると、次の難関が待ち受けている。
キャリーケースとスーパーの買い物袋で両手が塞がっているのと、案外重たい回転扉に思った以上に手間取ってしまった。
お安さが魅力の老舗ビジネスホテルチェーンには、もちろんドアボーイなんていやしない。昔は居たらしいけれど。昭和頃とか。
もたついているわたしに見向きもせず、宿泊客らしき三人組が出入りしていた。
皆おっきな男性だ。キャリーケースも担ぎ上げ、回転扉も軽々と回す……うやらま、羨ましい。
いいもん、見ず知らずの男の人に手伝われたりしたら。
それがおんなじホテルの宿泊客だったら。後が怖……煩わしいもん。
そもそも男の人が親切にしたがるのは、下心の抱ける魅力的な相手だけよ。
悔しくなんかないもん。泣いてなんかないもん。
このあと、三人組が軽々かーるがる回してくれてったおかげで回転扉に上手く入ることができなかった。
しばらく待ってようやくスピードの落ちてきたところで入ったら、今度はキャリーケースが引っ掛かってぴたっと止まってしまった。あうー。ツイてない。
もたくさしてたらいつの間にか扉を逆回転させていた。
扉は無茶苦茶重かった。
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
「ごゆっくりおくつろぎください」
フロント係のお姉さんの素敵な笑顔に見送られて、わたしはエレベーターに乗り込んだ。この笑顔はプライスレス。このホテルの系列店はどこも従業員さんが皆魅力的。小娘一人と侮らずにちゃんと一人前の客として扱ってくれる。従業員教育?の賜物かもしれないけど、人の本質ってそう簡単に変わらないから、採用するときから重視して、他者を尊重できる人かどうか見極めているんだと思う。
推しを追っかけあちこち泊まり歩くから、ホテルの利用回数は多いほうだと思うけど、社用ではない二十代の女一人の宿泊だと不愉快な扱いを受けることは珍しくない。チェックインやチェックアウトの手続きを男性客より後回しにされるなんて当たり前だし、予約しているのにわたしだけ前払いを要請されたりすることも。カード払いじゃなく現金で、とか預り金を要求されたこともある。
このビジネスホテルチェーンでは一切そんなことはない。
わたしがこのチェーンを常宿にしているのはお安い以外にそういうところが気に入っているから。
「703号──七階ね」
目的階のボタンを押すとゆっくり扉が閉まる。
フロントのお姉さんがもう一度にっこりと笑顔を向けてくれた。わたしもぎこちなく微笑んで会釈を返す。
これが平穏な日常の終わりだと、その時のわたしには気付くことができなかった。
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
チン、と。
軽やかな音が鳴った。軋むような異音と共に扉が開く。
目の前に広がるのは細く薄暗い廊下と両側に並ぶ扉達──。
ではなく。
「どこ、ここ」
暗い。
真っ暗ではないが、とにかく暗い。
視線を上げれば果てしなく天井が見えない。暗いせい、ではなくとにかく天井が高い。
おかしい。ここのホテルは十階建て。
気分的には地上から最上階を見上げたくらいに顔を上げても終わりが見えない。
おかしい。そもそもこのホテルは十階建てだし、このフロアは七階のはず。三階ぶんの天井ぶち抜いたところでこの高さは無い。
おかしい。ここはそんなラグジュアリーなホテルではないし、そもそも、暗く湿っぽく陰鬱で不穏で不快指数ぶっちぎるような設備を客に提供する羽目になった時点でラグジュアリーなんて表現は不適当なはず。
だってここ、どっからどう見ても自然の洞窟。昔行った鍾乳洞を百万倍滑らせて不吉に仕上げたらこんな感じになると思う。
んにょ。
んにょ、んにょ。にょにょ。
上ばかり見ていた視界の端っこで何か動いた。
動いた気がする。
確認しなければ、いや、確認してはいけない。
だいたいこういう不穏な事態に陥った場合、何を見たかより何も見なかったことが重大なのだ。
見てしまった場合たいていろくなことにならないというのは万国共通のお約束である。
ん?見なくたってろくなことにならないだろって?
なにおおっしゃるウサギさん。古今東西ホラーな世界では視覚が仕事したせいでSAN値が削られるという非常事態に陥るのはお約束。邪神だろうが殺人鬼だろうが悪霊だろうが関係ない。
そもそも、波打つようにからだ?をくねらせ接近して来る友好的な巨大生物なんてこの世にいない。
非友好的な巨大生物だってこの世にはいない。いるとすれば異世界くらいだろう。
いやそんなまさか。
エレベーターで七階に来ただけよ、わたし。
トラックに跳ねられてはいないし、溺れてもいない。階段から転落してもいないし、つい寝過ごして見ず知らずのきさらぎ駅に下車してもいない。クローゼットの奥に潜り込んだ覚えもないし……。
異世界転生も異世界転移もごめん被るわ。
いわゆるホラーでスプラッタな展開を望む一部のコアなマニアならともかく、一般ピーポーなモブ系人種の精神衛生上も今後の予定の上でも。
そう、何よりも今のわたしには今夜の推しのライブという重大な使命がある。
ここは可及的速やかに戦略的撤退一択しかありえない。
それなのに。
無慈悲にも視界に広がるのは天井知らずの暗い洞窟。
「エレベーターどこ行った!?」
しまった。
くるりと振り返ったわたしはそこにあるはずのコンパクトなエレベーターが影も形もないことに焦って声を上げ、すぐに後悔した。
わたしの声は反響して思いの外長く大きくこだまして──何かがこちらへやって来る気配に溢れた。
その何かが友好的でないこと、はっきり言えば人間ではないこと、が気配でわかるほど禍々しい。
(まずいまずいまずいまずい)
わたしの理解と常識の追っ付かない事態が起きている。
エレベーターの扉が開いただけでわたしは一歩も動いていないのに気付いたら洞窟の中。
ナニコレやっぱり異世界転移?
異世界しかもちょっとどころかかなりヤバめな異世界行きエレベーターなんて知ってたら絶ッ対に乗らなかった。
「と兎に角逃げなきゃ」
咄嗟に握ったままのキャリーケースを引きずって左へ駆け出し、て直ぐに。
「はわっ!?わたたっ!」
動かないキャリーケースでバランスを崩し、転倒しそうになるところを必死に踏み止まる。
足元は当然廊下のように滑らかでなくて、ごつごつでこぼこした不安定な岩場だった。
そうよねー。洞窟なのに足場だけ廊下みたいなわけないわよねー、とわたしの中の1%くらいの冷静なわたしが納得している。
その岩だか何だかにキャリーケースの本体が引っ掛かって、ついでにタイヤも引っ掛かっていて。ちょっと引っ張ったくらいでは動かない。
「やだぁ動いて」
禍々しい気配はさらに近づいて来ている。
心なしかスピードもぐんぐん上がってる感じがする。しかも数が増えているような……気のせいだといいな。
わたしは涙目で両手で全体重をかけて引っ張る。
つやつやチェリーピンクのキャリーケース。可愛くて一目惚れしてどうしても欲しくて睡眠時間を削って副業のシフトを増やした。ようやく手に入れたお気に入り。
だがしかし。
日本人女性の平均的体重よりも軽量なわたしの全体重では──無理。びくともしない。
尖ってごつごつの足場のせいで可愛い可愛いチェリーピンクの本体にガリガリ傷が付いているのがわかる。可哀想で泣けてくるんだけど。
中身はライブに着て行くお気に入りのワンピースにヒールの少し高い靴、下着にメイク道具に……のはず。いったい、何がそんなに重いのか。
昨日のわたし、いったい何入れたのよぉ!
「だいたい異世界転移とかだとチートとかなんとかあるんじゃないの?」
身体強化とか魔法とか強力な仲間とか。
それなのに。
か弱いわたしはキャリーケースひとつ運びかねていますぜったいに接触してはいけない禍々しい気配が近づいて来てますどっちに逃げたらいいのかもわからないし、あれ?これ詰んでる?わたしもしかしてもうすぐし──死ぬの?
身体の内側がすぅ、と冷えてぶるぶる震える。足なんか立っているのもツラくてキャリーケースにしがみつく。
「やだぁ死にたくない。今夜ライブあんのに。今夜も明日も杏梨くんに逢えるはずだったのに」
視界が滲んだ。ぽろぽろと涙が零れる。
どうせ死ぬなら杏梨くんのライブの後がよかったよぉ。