特急バスは止まらない
俺の名前は青木。ごく普通の新米バス運転手だ。まあ「ごく普通」って言っても、能力も経験も余裕もないんで、ごく普通の新米と形容するしかないのだが。
秋の穏やかな午後、特急バスは小さな村々を通り過ぎていった。車内スピーカーから流れる女性の声による自動アナウンスを聞きながら、俺は折りたたみ式のガイド用座席で運行マニュアルを必死に読んでいた。まるで明日の試験を忘れていた受験生のように真剣に。いや、受験生には違いない。運転手としての研修には筆記試験もあるからな。
それにバス運転手は乗客の命を預かる仕事だ。前職の工場で品質検査の規則なんて「テキトーでいいんだよ」という上司の言葉を信じたばかりに、俺だけが処分されて会社を辞めることになった。もうそんな失敗は繰り返せない。
隣の運転席では壮年の男性というよりはおっさんという方がしっくりくる高橋さんがハンドルを握っている。高橋さんは、のどかな車窓の景色を眺めながら話しかけてきた。まるで休日の公園でのんびりベンチに座っているかのような口調だ。
「青木君、そんなに緊張しなくていいよ。景色でも見たら? 紅葉がいい色合いだよ」
ベテランの高橋さんにとっては何でもないことかもしれないが、研修中の俺はマニュアルを読むだけでも大変なんだよ。
「まだ規則を完全に把握できてないので……」
小声で答えると、高橋さんはクスッと笑った。その笑い声は「若いねぇ」とでも言っているようだった。
「偉いねぇ。でも、時には状況に応じた柔軟な対応も必要になるんだよ」
ふーん、そりゃまるで禅問答みたいな、意味深な台詞じゃないか。でも、俺にはそんな器用なマネはできない。まずは規則だ。規則こそが俺の命綱なんだ。前の工場では納期を優先して定められた検査を省いたら、不良品が出荷されて大問題になった。そして責任は現場の俺に押し付けられたんだ。二度とそんな目に遭いたくない。
「そうは言っても、まずは規則を知らないと……。第119条:非常時には、乗客の安全と公共の利益を最優先に判断すること。何でしょう、この曖昧な表現は」
俺がそれとなく疑問を口にすると、高橋さんはニヤッと笑った。
「そうそう、そんなのもあったな。でも、いつか役に立つかもしれないよ」
おっさんはテキトー過ぎる。こんなのが役立つ日が来るのか? どうせ宝くじみたいなもので、買っても当たることはないだろう。いや、むしろ宝くじの方がまだマシかもしれない。少なくとも当選番号は明確だからな。
そんな会話を小声で交わしていると、乗客席から「あのぉ、すみません」と、しわがれた声が聞こえてきた。ルームミラーに映ったのは白髪の老紳士だった。なんだ、両替だろうか。それとも、病院の最寄りのバス停はどこか、みたいな質問だろうか。俺は振り向いた。
「どうされましたか」
老紳士は切実そうな、実に切実そうな声で訴えた。まるで人生最後の願いを言い残すかのような真剣さだった。
「もみじ台で降ろしてもらえんかのう」
そういうことか。でもバスは停留所以外では止まれない。規則だからな。俺が困惑の表情を浮かべて視線を投げると、高橋さんは小さくうなずいた。対応してくれるのかなとほっと胸をなでおろしかけたら、無言で俺に対応するよう促しやがった。まるで運命の女神が「さあ、あなたの出番よ」と言っているかのような表情だった。いや、これはあくまで比喩であって、こんなおっさんとしか言いようがない顔の女神がいるわけはない。もしいたら、信者ゼロ間違いなしだ。
さて、仕方ない。ここから俺の出番だ。深呼吸をして、老紳士に向き合う。まるで剣道の試合で、相手と向かい合う瞬間のような緊張感だ。
「申し訳ございませんが、特急バスは決められた停留所以外では止まれないんです」
なるべく申し訳なさそうな声を作ったつもりだが、これで若者に無理を言ってはいかんと思ってはくれないだろうか。
しかし、老紳士は諦めきれない様子で続けた。その目は、まるで最後の望みを託すような輝きを放っていた。
「このバスが特急とは知らんで、うっかり乗ってしもうたんじゃ。もみじ台の会館にみんなが集まっとってのう。わしがその責任者だもんで、時間までに行かないとみんなが困るんじゃよ」
ああ、なんてことだ。こういう状況、テレビドラマでよく見るやつじゃないか。主人公が規則と人情の間で板挟みになって、やがて感動的な結末を迎えるっていう。でも、これは現実だ。そう簡単にはいかない。ていうか、俺は主人公向きじゃないぞ。せいぜい脇役か、背景の木とかその辺が相応しい。
「本当に申し訳ないです。規則ですので……」
そう言いかけた時、高橋さんが小声で俺を呼んだ。なんだ、助け舟を出してくれるのか。だったら最初からそうしてくれ。いや、これも若いもんに経験を積ませるための教育の一環だとでもいうのか。言うんだろうな、おっさんだから。
「青木君、ちょっと来てくれ」
運転席に近寄ると、高橋さんは意味ありげな表情で言った。
「あのな、『エンジンの点検』をする必要があるんじゃないか?」
はぁ? エンジンの点検? そんなの予定に……ああ、なるほど。俺の頭の中で、突如として電球が点灯した。いや、むしろ花火が打ち上がったと言った方が正確かもしれない。
高橋さんの真意を理解した俺は、深呼吸をして車内アナウンスのマイクを手に取った。
「お客様にお知らせします。これよりエンジンの点検を行います。ご協力お願いいたします」
俺の声には、わずかなためらいが混じっていた。大丈夫なんだろうか、これ。まるで綱渡りをしているような、そんな不安定な感覚だった。
バスはゆっくりと減速し、もみじ台の手前で静かに停車した。
扉が開くと、老紳士はゆっくりと、けれども確かな動きで立ち上がった。他の乗客たちが温かい眼差しを向ける中、老紳士は深々と頭を下げバスを降りていった。まるで映画の感動的なラストシーンのようだった。
「エンジンに異常は認められませんでした。ご協力いただきまして、ありがとうございました。発車します」
俺のアナウンスが車内に響く。
なんてこった。俺は今、転職早々、研修中に規則を破ったんだ。それも堂々と。でも、あの老紳士の晴れやかな顔を見ると、なんだかそれも悪くないような気がしてくる。いや違うのか。あくまでこれは『エンジンの点検』だからな。規則と人情の板挟みを、現場の機転で乗り越えたんだ。感動的とまでは言わないが、ちょっといい話じゃないか。ふふふ。
***
そんな気分も束の間、数日後には俺と高橋さんは上司の前に立たされていた。まるで小学生が校長室に呼ばれたような緊張感だ。いや、小学生の時の方がまだマシだったかもしれない。
「高橋! 青木! お前たち、大変なことになったぞ!」
上司の声は怒りに震えていた。まるで噴火直前の火山のように。いや、むしろ既に噴火している火山だ。溶岩と一緒に俺たちの首が吹っ飛びそうな勢いだ。
「と言いますと……」
高橋さんは落ち着いて受け止める。さすがベテランだ。俺なんか今にも膝が笑い出しそうなのに。
「お前たちの『エンジン点検』が、SNSで『心温まる特急バス物語』として拡散されて、絶賛されてるんだ」
俺は思わず明るい声を出した。
「やった! 高橋さん、よかったですね!」
なんて単純な俺。まるで地雷原でダンスを始めるようなものだった。
「喜んでる場合じゃない!」
上司の声が俺の言葉を遮った。ああ、こりゃまずい。今の「やった!」が俺の遺言になりそうだ。
「おかげで監督官庁から指導が入ったんだ!」
「まさか……、そんな」
俺は青ざめた。こんな展開、誰が予想できただろうか。人情ばなしとしてハッピーエンドじゃなかったのか。まるでお伽噺の最後に「そして王子様は魔女に食べられましたとさ。めでたしめでたし」と言われているような気分だ。
「いや、あれはあくまでエンジンの点検であって、停留所以外で乗客を降ろしたわけではないんですよ」
高橋さんがやんわりと反論する。その口調は、まるで狼に「いや、僕は羊じゃないんです」と説明するヤギのようだ。
上司は深いため息をつきながら続けた。まるで全世界の悩みを一人で背負っているかのような重さだ。
「あのな、うまくやったつもりかも知れないが、これはれっきとした道交法違反だ。役所に安全管理と運行管理に問題ありと指摘され、本社は対応に追われて大変なことになっている」
愕然とした。まだ研修中の身で、指導役の高橋さんの指示でやったことがいきなり規則違反で会社の大問題だ。なんだこれ。俺の責任にもなるのか?
「そ、そんなことに……!」
「だからな」
上司は眉間にしわを寄せながら続けた。そのしわの深さは、まるでグランドキャニオンのようだ。
「健康上のやむを得ない理由で乗客を降ろしたと、役所には言い張ったんだ。幸い今回は営業停止や罰金などのペナルティは免れたが、再発防止に努めなければならない。君たちにはまず反省文を書いてもらう」
「わかりました。反省文ですね」
高橋さんは簡潔に答えた。それでいいのか? その程度のことなのか? うん、反省文を書け、ってことは反省の余地があるってことで、少なくともクビじゃないってことだ。首の皮がつながったとはまさにこのことだろうか。首の周りがなんだかムズムズする。
上司は複雑な表情を浮かべて、高橋さんと俺を見つめた。
「最近は経営が厳しくてな。路線の維持が難しくなってきている。だからこそ、規則を守って安全運行するのが大切なんだ」
そして、少し柔らかい口調で付け加えた。
「でも……、思いやりの気持ちからの対応だったことは認める。ご老人からは、会社に丁寧なお礼の電話をいただいたよ」
おお、よかった。お年寄りは義理堅いな。もしお礼の電話のおかげで処分が軽くなったのなら、情けは他人の為ならずってやつだ。いや、情けをかけたからこんなことになったのか。不幸中の幸いと言うべきかも知れないな。
高橋さんの表情が緩んだ。
「それはよかったです。お客様に喜んでもらえるのがなによりですから」
「だが……」
上司の目が鋭くなる。その目つきは、まるでレーザーポインターのビームのように、俺と高橋さんを串刺しにしそうな勢いだ。
「規則は規則だ。次にやったら、厳しく処分せざるを得ない。いいな?」
「はい!」
俺は即座に返事をした。いや、その厳しい処分とか嫌なんですけど。研修期間中にクビなんて洒落にならないぞ。スタート地点で転んでレース失格になるようなものだ。高橋さんはため息まじりに小さく頷いていた。おっさんなりの納得というか妥協なのだろうな。
部屋を出ると、高橋さんは俺の肩を軽く叩いた。気安くボディタッチするのがおっさんらしい。
「まあ、そんなに固くなることはないさ。お客さんに喜んでもらったんだから、いいじゃないか」
だけど、お客さんに喜んでもらっても、会社が営業停止処分にでもなったらお客さんは困ると思う。責任を取らされたら俺も困る。それに停留所以外で乗客を降ろすのは危険だとされているしな。
「はい……でも、あの後でおじいさんが交通事故にでも遭ってたらと思うと……。やはり規則は大事です」
そんな俺の言葉を聞いた高橋さんは苦笑いしながら、廊下を歩き始めた。思いやりと規則の狭間での葛藤とでもいえばいいのか。どうにも高橋さんとの考え方は埋まらないな。まるで永遠に交わらない平行線を歩いているような、そんな気分だった。
***
翌週も変わらず、俺は高橋さんと特急バスに乗り込んでいた。深夜までかかって書き上げた反省文を小さな声で読み返し、お経を唱えるかのごとくぼそぼそと呟いていた。
「安全運転と定時運行の徹底に努め、二度と同様の過ちを……」
高橋さんが乗客に聞こえないよう、ため息まじりに声をかけてきた。
「青木君、もういいって。そんなの、適当に書いとけばいいじゃないか。ほら、紅葉が見頃だよ」
俺は周囲を気にしながら、声を落として真剣な表情で首を振る。
「いえ、高橋さん。あの時の判断は乗客には喜ばれましたが、やはり安全規則違反です。次やったら厳しい処分が……」
思わず運行マニュアルを固く握りしめた。このマニュアルこそが俺のバイブルであり、お守りなのだ。
「はいはい」と高橋さんは言葉を遮った。「分かってるよ。もう二度とやらないって」
高橋さんの言葉を聞きながら、俺は複雑な思いに駆られた。あの時の老紳士の切実な表情、そして降車後の晴れやかな笑顔。あれは間違いだったのだろうか。地域のため、会社のために、何が正しい判断なのか。クイズ番組の最終問題に直面したかのごとく、答えが見えない。ファイナルアンサー!?
そんな思いにふけっていると、乗客席から足音が聞こえた。ルームミラーに映ったのは、きっちりとしたスーツ姿の男性。額に汗を浮かべ、そわそわとしている。なんだろう、面倒事じゃなければいいが。
「あの、すみません!」
男性の声が車内に響く。
「間違えて乗ってしまって……。重要な商談があるんです。ここで降ろしていただけませんか?」
俺と高橋さんは顔を見合わせた。またか?
俺は立ち上がり、毅然とした態度で男性に向き合う。少なくとも外見は毅然としているつもりだが、内心はぷるぷるのプリン状態。
「申し訳ございませんが、特急バスは決められた停留所以外では止まれないんです」
声は震えても、内容に迷いはなかった。暗記した条文を吐き出すだけだ。
男性の表情が曇る。晴れの日に突然の雨雲が現れたかのようだ。
「えっ? でも先週、おじいさんを降ろしたって聞きましたよ?」
その話をされるのはマズイ! 頭の中で警報が鳴り響く。火災報知器のサイレンさながらの騒々しさだ。俺は一瞬たじろぐも、すぐに態度を立て直した。
「あの、それは……エンジンの……、いえ、お客様に特別な事情があったためです」
必死に適切な言葉を探した。まるで迷路の中でチーズを探すネズミのように。
「へぇ、そうですか」
男性の口調に皮肉が混じる。
「じゃあ聞きますよ。そのおじいさんはどんな事情だったんです?」
チーズはどこへ消えた? 俺は観念した。処刑台に向かう囚人の心境そのもの。
「その、人が集まっていて、そのお客様はそこでの責任者で……」
男性の目が鋭くなり、切れ過ぎるナイフのごとくギラついた。
「私にだって事情があるんです!」
声が大きくなる。
「契約のための大事な商談なんです」
「そのような個人的な事情では止まれないんです。ご理解ください」
俺は申し訳なさそうに頭を下げてみせた。これでいいか? なんとかご理解してくれ。
「個人的な事情?」
男性が声を張り上げる。
「人が集まっていて、責任者なのは私も同じです! この商談を逃したら会社が危ないんです! 大勢の社員の運命がかかってるんです! これでも個人的な事情ですか?」
俺は冷静さを保とうと深呼吸をした。うん、まあ、個人的って言葉は難しいよな。でも、規則にはそんなことまで書いてなかったし、なんとか言い繕うしかない。そうだ。会社は役所にこう言い訳したんだった。
「でも、先週のお客様には健康上の理由もあって……」
車内の空気が緊張してきた。他の乗客たちも、この会話に聞き耳を立て始めている。
その時、後ろの座席から弱々しい声が聞こえた。
「すみません……気分が悪くて……」
振り返ると、青白い顔をした30代くらいの男性が手を挙げている。学校で保健室に行く直前の小学生を彷彿とさせる。
俺は慌てて駆け寄った。スーパーヒーローが現場に駆けつける勢いで。もちろんスーツの男性との会話から逃げたわけだが。
「大丈夫ですか? すぐに酔い止めの薬を……」
備え付けの救急セットを取り出そうとすると、スーツの男性が割って入ってきた。
「ほら! バスを止めなきゃ!」
「いや、でも規則で緊急時以外は……」
俺が言いかけると、スーツのヤツは座席の乗客たちを振り返った。
「皆さん! この方は気分が悪いそうです。健康上の問題なのに、バスを止めなくてよいのでしょうか?」
車内がざわつき始めた。
「降ろしてあげてもいいんじゃない?」
「車内で吐かれるのはちょっと……」
その時、おなかの大きな女性が恥ずかしそうに手を挙げる。
「あの……私も気分が悪くて……停車するなら私も……」
スーツの野郎が声を張り上げる。まるで選挙演説をする政治家だ。
「妊婦さんは緊急ですよ! 絶対に止まるべきです!」
俺は額に汗を浮かべ、必死にマニュアルの条文を思い出そうとする。きっと筆記試験よりも真剣だと思うぞ。
「緊急時の対応については……あの……」
突然、がっしりとした体格の男性が立ち上がった。プロレスラーの入場さながらの迫力だ。
「俺も体調が悪いんだ。降ろしてくれ」
車内が静まり返った。
スーツ男が眉をひそめる。
「えっ? あなたは至って健康そうですけど……」
屈強な男性が不満そうな表情で言い返す。
「なんだと? 見た目で判断するのか?」
俺が間に入る。いや、間に入ったところでどうしようもないんだが。
「そういうわけではございません。ただ、規則上……」
「差別だ!」
屈強な男性が声を荒げる。
「見えない困難や病気もあるんだぞ!」
車内の空気が一気に緊張した。爆弾の導火線に火がついたかのような緊迫感だ。
高橋さんは俺の耳元に顔を寄せ、息を殺すように言った。
「どうする? 状況次第では止まるのもありかもしれないが……会社や役所がどう判断するか、正直読めないんだ。俺は止めてもかまわないが、青木君はどう思う?」
どう思うと言われても。俺も困惑した表情で返す。
「いったいどうすれば……。それに、バスを停めてしまったら、自分たちだけでなく会社にも迷惑がかかります。最悪、営業停止処分になれば、地域の足を奪うことにも……」
スーツの男性が再び口を開く。
「どうしてくれるんだ? 契約が失敗したら、損害を賠償してくれるのか?」
妊婦の女性が小さな声で言う。
「気分が……」
車酔いの男性も弱々しく主張する。
「僕も本当に辛いんです……ウゥッ」
屈強な男性が腕を組む。
「俺だって同じだ。見た目で判断するな」
公平性、緊急性、見えない困難、そして運行の安全性。様々な要素が絡み合い、マニュアルには載っていない状況に直面している。俺は途方に暮れた表情で高橋さんを見た。
「高橋さん……どうすれば……」
高橋さんは深いため息をつく。
「青木君、時には規則だけでは対応できないこともあるんだ。大事なのはお客様の……」
その時、後部座席から聞き覚えのある声が響いた。まさか……。
「おおっと、また間違えて乗ってしもうた!」
白髪まじりの髪に、優しい笑顔。先週の老紳士が立っている。絶妙というか最悪のタイミングだ。
「乗務員さん、この前は助かったわい。ありがとうな。じゃが、ワシとしたことが……」
老紳士は周りを見回し、少し困ったように笑う。
「また特急バスとは気づかずに乗ってしもうた」
額から冷や汗が流れるのを感じた。ここでまたあの老紳士まで現れるなんて……。デジャヴュどころか、ホントの繰り返しじゃないか。
俺は深呼吸をして、老紳士に近づく。よりによって、また?
「お客様、また……お間違えになったんですか?」
老紳士は頷く。
「いやぁ、俳句の会でのぉ。良い句をひねり出そうと夢中になってたら、先週と同じ間違いをしてしもうたわい」
「え?」
俺は困惑した。一体どういうことだ。
「俳句?」
「そうじゃ」
老紳士は笑顔で答える。
「ワシは同好会の副会長での。今週も4人が待ってくれとるんじゃ」
スーツが割って入る。
「そんな事情でもバス止められるんじゃないですか。それに前と同じ理由なんだから、今日は降ろせないとは言わせませんよ!」
そりゃそうだ。ごもっとも。でも降ろせないと言うしかない。
「あれは、あくまで『エンジンの点検』で……」
苦し紛れに言いかけると、男性は食い気味に要求した。
「だったら、また『エンジンの点検』をしてください!」
そこで俺は高橋さんの言葉を思い出した。
――時には状況に応じた柔軟な対応も必要になるんだよ。
「ちょ、ちょっと待ってください! 『エンジンの点検』は役所の指導でもうできませんが、他になにかできること、できること……」
俺は分厚い運行マニュアルを取り出してページをめくった。えーと、確か最後の方。どこだ。どこだっけ。
「これだ!」
――第119条:非常時には、乗客の安全と公共の利益を最優先に判断すること
そう書かれたページを食い入るように見つめた。差し迫った事情のある乗客がいて、バスを停車すると多くの乗客が影響を受ける。今こそ、この条文を適用すべき時だと直感した。宝くじのようなものだと思っていたが、当たったじゃないか。乗客の安全と公共の利益が最優先。まずは乗客の状況を把握しないと。
俺は乗客たちに向き直り、自信を持って宣言した。
「まずは、きちんと全員の事情を聞かせていただきます! その上で全てのお客様の安全と公共の利益を考慮して、停車の判断をいたします!」
乗客が押し寄せる。まるでセール初日の店先のような混雑ぶりだ。
「ここで止まったら面接に遅刻してしまいます!」
「妊婦さんのことを考えてあげるべきだ」
「特急料金を払ってるのに、要望があるたびに何度も停車されたら……」
俺は乗客たちの口々の要求に右往左往する。何匹もの猫を同時に風呂に入れようとしているかのような混乱だ。
「皆さん、順番にお聞きしますから、どうか落ち着いて……」
車内の騒動が続く中、高橋さんはハンドルを操作し、バスは着実に進んでいた。窓の外の景色は、いつの間にか紅葉した山々から、なだらかな丘陵地帯へと変わっていた。
「バス会社は一方的な規則を市民に押し付けるのか」
「地域の足としての役割は……」
「トイレ、もう漏れそうっす! 降ろしてくれるんですよね!?」
一人ひとりの事情を詳しく聞いていると、車内スピーカーから自動アナウンスが流れ始めた。
「まもなく終点、中央ターミナルに到着いたします。お忘れ物のないよう、ご注意ください」
……やった。これでなんとかなる。タイムアップでゲームセット、俺の勝ちだ。
「皆様、もうすぐ終点です。お座りください」
一部の乗客が我に返ったように周囲を見回し始める中、トイレに行きたがっていた男子中学生が叫んだ。
「あっ! もうターミナル見えてきた!」
その声に、ようやく他の乗客たちも窓の外に目を向け始めた。冬眠から目覚めたクマのように、ゆっくりと現実を認識し始めている。バスはゆっくりと、しかし確実に速度を落としていき、ついには完全に停車した。
スーツの男性が呟く。
「着いてしまった……」
窓の外には、見覚えのあるバスターミナルがあった。事情を聞いている間に、バスは予定通りに終点に到着していた。俺の中で試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
その時、老紳士がゆっくりと穏やかな声で話し始めた。禅僧の悟りの言葉のように、車内に響く。
「わしゃあ、思うんじゃが……、人生もこのバスみたいなもんかもしれんのう」
老紳士はゆっくりと目を閉じ、穏やかな表情で一句を詠んだ。
「秋風に 騒ぐ車内や 終着駅」
***
扉が開くと、乗客たちは我先にと降り始めた。
スーツ姿の男性は携帯電話を耳に当てながら、足早にタクシー乗り場へと歩き出した。
「はい、あと15分程で到着します。申し訳ありません、少々遅れまして……」
そこまで言うと彼は急に立ち止まり、ゆっくりとバスから降りてくる妊婦を振り返った。
そして「ちょっと待ってください」と電話の相手に言い、妊婦に近づいた。
「大丈夫ですか?」
彼女は少し疲れた表情を浮かべながらも、優しく微笑む。
「ありがとうございます。少し歩くのが大変で……」
俺は急いでバスを降り、二人に近づいた。
「お客様、ターミナル内に医務室がございますが、そちらでしばらくお休みになりますか?」
妊婦は驚いたような、でも嬉しそうな表情を見せる。
「ご親切にありがとうございます。でももう大丈夫です。夫も迎えに来ていますので」
「そうでしたか。では、お気をつけてお帰りください。もし何かありましたら、ターミナルのスタッフにお声がけください」
そんな俺の対応を見ていたスーツの男性は、再び電話に戻る。
「はい、すみません。それではすぐに向かいます」
その横を、男子中学生が小走りで通り過ぎる。
「トイレ、トイレ……」と呟きながら、ターミナルの建物に向かって一目散に走っていく。
バスの中から、車酔いしていた男性がよろよろと降りてくる。彼の手には紙袋が握られている。後ろから降りてきた屈強な男性に向かって、弱々しく言った。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
屈強な男性は照れくさそうに頭をかく。
「いやいや、気にすんな。俺も乗り物には弱くてな。袋、いつも持ち歩いてんだよ」
最後に降りてきた老紳士が、声をかけてきた。
「おかげで、思いがけなく良い句ができたわい」
老紳士は、しわがれた声で言った。
「『秋風に 揺れる車内に 花が咲く』……どうじゃ?」
「申し訳ありません、俺には俳句のことはよくわかりませんが……」
うん、まったくわからん。
「でも、この乗車で良い句ができたのなら、私も嬉しいです」
俺は軽く頭を下げた。
ターミナルで降り立った乗客たちを見送った後、バスに戻る。車内には、さっきまでの喧騒が嘘のように静けさが漂っていた。
俺は胸をなでおろした。
「何とか無事に到着できましたね」
高橋さんは、ハンドルに手をかけたまま、ちらりと俺を見た。
「そうだな。色んな人がいるもんだ」
「でも、皆さんにはそれぞれの事情があって……」
それぞれの事情を乗せてバスは走るんですね、と言いかけ、なんだか気恥ずかしくなって言葉を切った。
「そういうものさ」
言いたいことを察したのか、おっさんなりのテキトーさかはわからないが、高橋さんは軽くうなずいた。
「さて、次の便の準備をするか」
高橋さんがスイッチを操作すると、ドアが閉じる音が響いた。俺は席を立ち、車内を一通り見回す。いつもなら規則通りにチェックリストを頭の中で唱えながらの作業だが、今日はなぜか違った。乗客が座っていた席を見ると、それぞれの表情や言葉が浮かんでくる。
低く唸るエンジン音と共に、回送表示に切り替わったバスがゆっくりと動き出す。ターミナルに次の便の案内放送が流れる中、秋の風が車窓を軽くたたいた。