長年ドアマットヒロインはやりたくないので一度で済ませますね
とある作品と同じであろう世界に転生した、と気づいたのはこれから自分が虐げられる事が確定した後だった。
優しかった母が早くに亡くなり、そうして父は後妻を迎え入れた。
後妻には一人娘がいて、新しい母親と義理の妹ができた。
そして直後に父は仕事が忙しくなって、家は新しい妻に任せる事になった。
妻となった女が真っ当な人間性を持っていれば、まぁ平和に暮らせただろう。彼女をすぐに母と呼ぶことができなくとも、それでもいつかは歩み寄れると思っていた。
けれど、義母も義妹も歩み寄ろうというつもりはこれっぽっちもなかったらしい。
父の目がないのをいい事に、彼女たちは自分たちがこの屋敷の主だとばかりに振舞った。
父の一人娘だった少女が持っていた綺麗な服は自分の娘にと取り上げて、苦言を呈する使用人たちは早々に解雇して屋敷から追い出した。外で余計な事を言うのであれば、酷い目に遭わせるという脅しと共に。
母の形見だった物も何もかも取り上げられて、そうして少女に与えられたのは使用人以下の立場である。
奴隷、と言った方が的確かもしれない。
気に入らなければ棒で叩かれ、小突かれ、倒れたところを踏みにじられる。
わざと床に落とした食料をお前の食事だと言われ、床にはいつくばって食べる事を強制された。
少女は、ある日突然人としての権利を剥奪されて義母と義妹の玩具になってしまったのである。
勿論最初は抵抗だってした。
母の形見を取り上げられそうになった時の事だ。
しかしその時は容赦なく頬を引っ叩かれて、壁にたたきつけられた。
くらくらする頭で、それでもどうにか母の形見だけは……と縋る少女の手を、義母は体重をかけて踏みにじり、無駄な抵抗をするなと吐き捨てたのである。
これ以降も、咄嗟に何か嫌な事があって拒否しようとした少女に容赦なく暴力をふるう事で。
少女は抵抗すればもっと酷い目に遭う、と学んだ結果、日々をただ蔑まれ生きるだけの存在となるのであった。
その後、まぁ色々あって少女への仕打ちが明らかになって義母と義妹は裁かれる事となるのだが、そうなるまでの間とにかくひたすら少女は耐え続けるのである。要はドアマットヒロイン。
……正直ドアマットの方がまだ扱い良いのでは?
あれだって汚れたら一応洗ったりしてもらったりするぞきっと。
もう完全に扱いが、着れなくなった服を適当にカットして雑巾代わりに使ってポイするだけの布レベル。
雑巾と大差ないが、しかし雑巾ヒロインというのは語呂が悪いのでまぁドアマットでいいだろう。
自分がそんな可哀そう極まりないドアマットヒロインに転生したと自覚した少女――リッカは、転生ガチャ爆死してんじゃん笑えねぇ、と危うく吐き捨てるところであった。
前世の記憶が蘇ったのは、母を亡くし、父が再婚しようと思うんだ、と伝えた後の話である。
お話の中のリッカは、新しいお母さま? と大きな瞳をきょとんとさせつつも、それでもまだ希望や期待があった。悲しいけれど、それでも前を向いてどうにか立ち直っていこうという気持ちがあった。まぁ、お話の中のリッカ少女とて、これから自分が数年単位でゲロ拭いた雑巾のがまだマシな扱いレベルで虐げられると知っていたなら間違いなくその再婚に反対した事だろう。
そもそも虐げられているのにこの父親、新しい妻と義妹の言い分を信じてリッカが反抗期もかくやとばかりに反発していると信じ切って、本来なら味方するべき娘に対して背中から撃つような真似をするのだ。
義妹をぶっただとか、義母に対して酷い事を言っただとか、一度だってリッカ少女はしていなかったのに。むしろやられてるのはこちらだというのに。
お前の味方なんて誰もいやしないよ、と言う義母の言葉に絶望して、抵抗する気力はごっそり奪われるのである。
仮にも好きだった女が産んだ子の事くらいちょっとは信じてやれよと思わんでもない。大体、最愛の妻に先立たれて悲しいからって目が曇り過ぎである。その後は悲しみをどうにかするべく仕事に打ち込んだりしているけれど、そのせいでリッカと向き合う事も無いまま放置とか、父親としてどうなんだという話である。
まぁ人間自分の見たいものしか見ないし信じない、といった事の方が圧倒的なので、父親の矯正なんて事をリッカは考えていない。
ともあれ、このままいけばリッカはあと数日後には人生凄まじい勢いで転落するのが確定なのである。
使用人だってほとんど解雇されるし。
けれどそれを事前に父に訴えたとして、娘の言葉であろうとも未来の話だ。悪く考えすぎだとか、そんな事あるわけないだろうとか、まぁどういう反応をされるかはお察しである。
リッカはここがほぼお話と同じ世界だからという理由で先の事を知っている。ここからは違うかもしれない、という楽観的な希望は捨てた。前世の記憶を思い出した時点で、過去のあれこれを思い返せば作品の中で起きた出来事が確実に起きていたからだ。
過去にあった出来事は完全に全部起きているのだから、この先もそうだと考えた方が心の準備という意味ではそれなりだろうか。
なのでまぁ、リッカがこの先虐待されるのは確定なのである。
仮に、この先の辛く厳しい時期を耐えきったとしてもだ。
義母と義妹は裁かれるけれど、父親に関しては微妙なところなのだ。
何故なら彼は仕事に打ち込んでいただけで、リッカと関わってはいなかった。ネグレクトという言葉が該当しそうではあるけれど、家の者たちを養うために働いていて、娘の事は妻に任せていた、と役割分担をしていたのであれば、わざと見捨てたとは言い難い。
妻が最初からろくでもないとわかっていたなら悪意の遺棄だと言えたかもしれないけれど、そうではない。
とはいえ、お話の中のリッカがようやく救われた後、父親と何事もなかったように仲直りできたかと言われれば……まぁ、こちらもお察しである。
タイムリミットはすぐそこに迫っている、となったリッカはまず自分の身の安全を第一に考えた。
そうでなくとも前世の記憶なんてものが蘇ってしまったのだ。平和だった世界で生きていた記憶。
前世を思い出す前も、貴族のお嬢様として蝶よ花よと育てられていた、ぬるま湯に浸かっているかのような暮らしをしていた女が、これから先数年に渡っていびられ虐められ、というのを耐えるとか冗談ではない。
作品として読むならまぁいいけれど、自分が体験したいとなるはずもない。
次に考えなければならないのは、使用人についてである。
彼らは、リッカの事を大事にしてくれていた。
だからこそ義母や義妹がリッカを虐げようとした時、庇おうとしてくれていたのだ。
ただ、身分とか立場とか、そういったものが一時的とはいえ上になってしまった義母によって、自分だけならいざ知らず家族が路頭に迷う事になるかもしれない、と脅されてしまえば。
命を懸けてリッカを守ろう、とまではできなくたって仕方がない。
大体生活のために働いてお金稼いでるのに、その生活を犠牲にしてしまっては本末転倒もいいところだ。
そういった本末転倒な事を仕出かすのは大体ブラック企業なのだが。
リッカとて、本当に命をかけて助けられたら流石に申し訳ないなと思うし、残された家族にどう説明とお詫びをすればいいか……となるので、正直そこまでしてくれなくていいと思っている。
だがそれでも、自分にできる範囲でどうにかしようとは思ってくれていたのだ。
そんな優しい人たちを、義母の我儘で紹介状もなしにクビとか見過ごすわけにもいかない。
義母や義妹と一緒になって虐げてくるタイプの使用人であったならそうは思わなかったけれど、自分たちの立場が悪くなるとわかっていながらそれでもリッカのために行動しようとしてくれた人たちを見捨てるつもりはリッカにはなかった。
父親に関してはどうでもいい。
何故って母が生きていた頃はそりゃあいいお父さんだったかもしれないけれど、母が死んでから、悲しいのは自分だけみたいなツラをしているので。
この父が急な仕事で家を空ける事になって、その後家に戻ってゆっくりできる機会はあったはずなのにそのまま仕事に打ち込んでしまった結果、リッカは頼れる大人のいない環境で虐げられる事になるのだ。
考えようによっては父は早々にリッカを見捨てたと受け取れなくもない。
親には親なりの考えが、だとか第三者目線で言えばそりゃ色々あるかもしれないが、だからリッカに数年単位で虐げられ続けてね♪ となれば話は別だ。
大体作品の中でも父親と和解できたかどうかは微妙なところであったし。
いくら父が後悔していようとも、リッカ少女はもう父が頼りになる大人ではないと思ってしまったし、次に何かあったとしてもまた見捨てられるのではないか、という風に思ってしまってもいた。
要するに、信用も信頼もできなくなってしまったのだ。
仕事に逃げて関わりを断ち切ったのであれば、まぁそりゃそうなりますわとしか言いようがない。
優先順位をハッキリさせたところで、リッカは早速行動に出る事にした。
義母と義妹が家にやってくる前に、内密にという形でこっそり使用人たちを集める。
リッカの家は貴族とはいえ子爵家だったので、使用人の数はそこまで多くない。
だからこそ、使用人たちが昼食をとるタイミングだとか、休憩時間を少々延長してもらって全員に集まってもらうというのは、そう難しい話でもなかった。
そうして、無いとは思うんだけど……と前置きした上で、もしもの時の話をしたのである。
これから新しいお母さまになるかもしれない人が、もし悪い人だったなら。
まともな常識を持ってたらしないとは思うけれど、もしこの家で好き勝手振舞って皆に理不尽を強いようとしたのであれば。
その時は、あらかじめ紹介状を用意しておくから速やかにこの屋敷から逃げてほしい、と。
使用人たちは最初、お嬢様の考え過ぎですよとしか言わなかった。
まだ見ぬ義母。不安に思う気持ちはわかるけど、悪く受け取り過ぎではないでしょうか、とも。
使用人たちがそう言うのも理解はできる。最初から義母によろしくない噂があるようならともかく、この時点で義母の悪い噂はなかったのだから。
けれどもリッカはそれでもと紹介状を渡しておいた。
本来なら父が用意しなければならないものではあるけれど、どうせこれから仕事に逃げて家の事は義母に丸投げするような男だ。しかも義母が勝手に紹介状もなしに追い出した使用人たちの事だって、彼らに落ち度があったから、なんていう義母の嘘をコロッと信じてしまうようなぽんこつだ。
紹介状に関しては父が忙しいようなので、代理でリッカが、となってもまぁ、そこまで不審に思われる事もないだろう。仮に新しい勤め先でそのことを聞かれたとしても、リッカよりも大人である使用人たちなら旦那様が仕事で忙しかったので、お嬢様が代理で、とハッキリ告げるくらいはできるわけで。
それ以前に父に紹介状を用意させるにしても、父とてこれから新しい妻になる女がとんでもねぇ性悪だと気づいていないのだから、リッカが言ったところで用意してくれるはずもない。
どうせこの後義母が好き勝手して家の財政まで傾く事になるのだ。作中では。
なら、リッカだってちょっとくらい好き勝手やったとしてもそう大した問題にはならないだろう。
少なくとも彼らが路頭に迷うのを回避するためだ。むしろ義母のやらかしより良心的。
――ともあれ、そうこうしているうちに、いよいよその日は訪れた。
義母と義妹、登場である。
いやあのさ、普通、再婚するにしてもさ、事前に顔合わせとかしない?
とリッカは思ったのだけれど、とても今更である。
父も仕事が忙しくなりつつあるから、そういう日を事前に用意できなかったとしてもそこは仕方がないにしてもだ。あと恐らくではあるが、事前の顔合わせでリッカが激しく拒絶した場合、結婚はやっぱりなしで、とは出来なかったかするつもりがなかったか、どうあれそういった事態をなくして結婚してしまった以上はもう今から何を言っても駄目です、みたいにした可能性はとても高い。
これはリッカの偏見だが、なんというか仕事に関する話ならともかく、そうじゃない家庭内の事になった場合、男性は妻に事前に相談するでもなく決定した後事後報告するパターンが多いと思っているので。
少なくとも前世のリッカの周囲の夫婦から漏れ聞こえる愚痴などではそうだった。
自分が立てた予定に横やりを入れられたくない、というのもあるのかもしれないが、その結果大惨事を迎えた場合の事は想定していないようなのはどうなんです? とも問いたい。
現にこうして事前の顔合わせもないままに新しいお母さまだよ、あとこっちはリッカの妹になる、とか言われてもな……という気分にしかならないので。
新しく犬や猫を飼う時だって先住してる側にめっちゃ気を使わないといけないのに、父には悲しいかなそれがない。そりゃあ作中で和解もできませんわというのも頷ける。
初日に関しては、流石に早々に父も仕事が、なんて言って家を出ていきはしなかった。
だからまぁ、ある程度の紹介をしたりされたりして、一応和やかに終わったと思う。
リッカから見れば義母も義妹も猫被ってんなぁ、という気にしかならなかったが。
二日目の昼、父が急な仕事の案件で呼び出され家を出ていった。
けれども、出て行った直後に義母が自由に振舞うだとかはなかった。
まぁ、夜には帰ってくるはずなので。
けれども家に帰ってきた父は、早急に処理しなければならない案件が複数発生して、これからしばらく家に帰れなくなる、と義母に伝えていた。早々で悪いけれど、家の事は任せてもいいだろうか、なんて申し訳なさそうに言う父に、義母も表面上は優しく構いませんよと答えていた。
だが内心ではきっと高笑いしてるんだろうなとリッカはわかっていた。
そう、明日から、お話と同じくリッカが虐げられる展開が待っているのだ。
これから先何が起きるか知っているリッカではあるが。
それでも、まだ何もされていないうちから攻撃するわけにもいかない。
最低でも一度は攻撃を受けて、反撃するための理由を得ておくべきだろう。
痛いのはイヤなので、正直とても気が進まないが。
そして三日目。
父が仕事に出ていった直後、義母は優しそうな仮面を脱ぎ捨てた。
最初に行動に出たのは義妹だ。
リッカの持っているドレスが綺麗。こんなにたくさんあるのだから、分けてくださいな。
そんな風に言って、リッカの持っていたドレスのほとんどをごっそり持って行こうとした。
分けて、というのなら精々半分くらいで留めておけばいいのに、根こそぎである。
作中でも流石にそれは、と思ったリッカが多すぎないかしら? と口にしたところで、義母が妹に譲ってあげるくらいの優しさもないの!? などといってリッカがまるで心の狭い人間みたいに糾弾してくるのだ。
突然そんな風にヒステリックに喚かれた経験のなかった作中のリッカ少女はそのせいでちょっとどういう反応をしていいか困って、ちょっとぽかんとしている間に義母はウソ泣きをしている義妹を慰め、そうして泣かせた罰と称して服以外の装飾品も持ち去るのだ。
この時点で、母の形見に関しては別の場所に保管してあったので無事である。
だがそれも、後になって発見されて奪われそうになるわけだが。
まぁこの時点ではそこまでダメージを受けるわけでもないので、リッカは作中と同じようにちょっと困った風を装って作中同様のセリフを言う。
案の定、作中と同じ展開になってしまったわけだが。
ここで少しお話と異なったのは、その場面を他の使用人たちに目撃させていた事である。
リッカだけならともかく、第三者目線から見ても服を根こそぎ持って行こうとしている方が非常識であるのは変わりがないので、止めようとしたリッカに対して使用人たちも、
「そうですよ、いくらなんでも流石にそれは……」
とリッカ側につく。
既にリッカがもう着ない・着れないといった服であるなら根こそぎ持っていっても問題はないが、義妹が持ち去ろうとしていた中にはまだ普通にリッカが普段から愛用している物もあった。着替える分すら持ち去ろうとしているのだ。お嬢様の明日から着る服がなくなってしまいます、とか言われるのも当然であった。
ここで、義母が義妹に欲張りすぎよ、とか窘めてまだ猫を被る可能性もあったけれど、しかし父が数日は確実に戻ってこないことを知っている義母は早々にその傲慢さを露わにした。
使用人たちに対してその口のきき方は何!? とブチ切れたのだ。
更には、私に歯向かうなんてなんて失礼なの!? 自分の立場をわかってないようね! とのたまい、お前たちなんてクビよ!! と告げ、さっさと出ていきなさい! とまで言い切ったのである。
凄い、怒りの導火線一ミリあるかないかじゃん、と危うくリッカは口に出すところであった。
これが身分が上――例えば王女様だとかで、今まで自分の思い通りにならなかった事なんて何もない、という人生を送ってきた女性であるならわからないでもないのだが、義母は言うなれば出戻りである。
生家は男爵家。そして嫁ぎ先も男爵家であったが、嫁ぎ先の姑と折り合いが悪く、夫に先立たれた時点で産んでいた子の男児だけを取り上げられ生家へ突っ返された……のが、義母だ。
生家は既に義母の両親ではなく弟が後継者となり当主となっていたがために、家にいても身の置き場がなく肩身の狭い思いをしていた。
義妹もまた男爵家では居場所がなく、慎ましやかな生活を余儀なくされていた。
なので、まぁ、新たな結婚先、それも義妹も迎え入れてくれるとなって、浮かれた気持ちがあったとしてもそれはわからないでもないのだけれど。
今までの人生自分の思い通りにいった事なんてそこまでなかっただろうに、何故この家に来た途端好き勝手できると思い込んだのか。
いや、今まで抑圧され続けていたからこそ、なのかもしれない。
まぁ、それにしたって、という話ではあるのだが。
あんたらに紹介状なんてもの用意しないからね! と吐き捨てた義母は、その怒りに任せて私を突き飛ばし、義妹に向けて好きなだけもっていきなさい! と許可を出した。
自分の母にそう言われて、でも……とちょっとでもこれは悪い事なのでは? と思うようならともかく、義妹はそうではなかったので。母が良いって言うのだからと義妹はあれもこれもと服を引っ張り出して、ついでに他の場所も漁り始めた。
この出来事は、その場にいなかった他の使用人たちにも爆速で伝わった。
奥様に逆らえば途端にクビを言い渡される。それも紹介状無しで。
なんてこった、お嬢様が言ってた通りになってしまった。
そんな感じで義母と義妹の耳に入らないようにこいつぁヤベェや! と話が広まり、その場にいなかった使用人たちも早々に家を出た。蜘蛛の子散らすようだった。
義母に突き飛ばされたとはいえ、離れた壁にまで吹っ飛ばされる程の力ではなかったリッカは、足を挫くというような怪我もなかったけれど。
でもあんなのがいるのにお嬢様を一人になんてできませんよぅ、とまだ家を出るのをしぶっていた使用人を説き伏せて、一刻も早くと家から追いやった。
何故ってこれからする事は、使用人が一人でも残っていたらできないので。
いいから荷物を纏めて逃げなさい。貴方たちがいなくなったら、私も自分の事はどうにかするわ。
大丈夫、大丈夫だから。
そう言って、リッカはとにかく使用人たちの脱出を優先させたのである。
さて、そんなわけで、使用人たちはこの一日で全員が家から出て行った。ある意味異例である。
作中だと使用人が居なくなった事で、家事をやる者がいなくなり、それ故にリッカは義母に脅され使用人の仕事を押し付けられるのだが。
今までそういう事をした事のないお嬢様だ。
当然できるはずもない。
なので、この後は義母が選んだ使用人が何人か屋敷に入る事になる。
見目がよくて自分をちやほやしてくれる、お手軽な愛人まがいの使用人が。
だが、そんなものを屋敷に迎え入れる前にリッカは終わらせるつもりであった。
自分がドアマットヒロインに転生したと理解してしまったその瞬間から、終わらせるためのリアルタイムアタックは始まっていたので。
なんだったら今日中には終わる。
まず、義母と義妹がリッカの服やら装飾品といったものを奪いにかかったのは、父が仕事に出かけた後――つまりは、朝食が終わってそこそこ経過してからだ。
そこで作中にいなかった目撃者と言う名の義母と義妹は人間性にとても問題があるというのを見ていない使用人に広めてくれる役目を与えた相手と共に、義妹がリッカの部屋を漁るのを見ていた。
どうせ元から何もかもを奪うつもりであったとはいえ、それでも値踏みはしていたので、見もしないでこれぜーんぶちょうだい! とはならなかった。
なのでまぁ、そこそこの時間が経過していた。
義母がヒステリックに使用人たちに喚き散らしたのは、大体昼頃だろうか。
そこからじゃあ出ていきますよとばかりに出ていった者。リッカがその間にこっそりと説得して出るように仕向けた者、と若干ばらつきはあったが、それでも昼を過ぎて夕方になる前には皆脱出した。
本来ならば昼食を食べる予定もあったはずだが、しかし義母が怒りのままに使用人を追い出したため、昼食はなかった。
義母もまだその時点では怒りがおさまらなかったのか、ご飯の事に関しては何も言わなかった。
けれども、そこそこの時間が経過して落ち着いてしまえば、生きている以上やはり腹は減る。
そろそろ食事の準備をなさい! と声をあげたが、その頃にはもう使用人は誰一人として存在していなかった。どうしていないのよ!? とまた怒りを燃え上がらせていたが、自分に逆らう者がいなくなったという点で、同時にリッカを庇おうとする者がいなくなったと理解もしたらしく義母は最早隠す気もないくらい意地の悪い笑みを浮かべてリッカにあんたのせいで皆いなくなったんだから、あんたが食事の支度をなさいと言い放った。
いや、追い出したのは貴方でしょう、とはリッカは言わなかった。
余計な事をいって無駄に暴力を受けるつもりはない。
義母はリッカにマトモな料理ができるとは思っていないようだったけれど、それでも失敗を見て笑ってやろうと思ったのかもしれない。
義妹も同じようににたにたとした笑みを浮かべていた。
義母はともかく義妹は素敵なお洋服が沢山手に入った挙句、綺麗なアクセサリーも大量に手に入ったという満足感もあってか、今は胸がいっぱいでお腹は空いていませんよ? みたいな感じでもあった。
そうでなければ今頃もっと空腹を訴えていたに違いない。
時間帯としては夕方。
いつもの夕食の時間と比べると早いくらいだが、昼を食べていないのであればまぁそんなものだろう。
とはいえ、リッカに用意させるとなれば、それなりに時間がかかるのもわかっているのだろう。
失敗して、それを笑いものにでもして無駄にした食材は自分で食べなさいと無理矢理口に突っ込むつもりであったとして。
恐らくその後、町のどこかで食べに行くと考えるなら、時間的に店もまだやってるだろう。
使えない奴のせいで家で食事をしそびれてしまったわ、とか何とか言って、ちょっといいレストランあたりで食事をするつもりなのだろう。
だからこそ、義母は義妹に大人しく待つように言うのではなく、さっきの服の中から好きなのを選んで着て準備しておきなさい、なんて言っていたのだ。外出しますよというのが明らかである。
けれども、だ。
作中のリッカ少女は今まで確かに家事をしたことがないので、作中で料理を作れと命令された最初の頃は勿論失敗していたけれど。
転生したと理解した前世の記憶持ちのこのリッカは、前世で自炊生活をしていたので。
最初はちょっと包丁を握る手が慣れない感じがしたものの、けれどもそれだって少しすれば大体のコツはつかめてくる。最初はちょっと覚束ない感じの包丁は、しかし今ではリズミカルな音を立てて材料を切っている。
てっきりここで妨害でもしてくるだろうか、と思ったリッカではあったが、予想に反して義母は何もしてこなかった。ただ、どこか信じられないような目を向けている。
まぁ、何かちょっかいかけてきてもその場合は包丁でグサッとするだけだったのだけれど。
何事もなかったので、リッカは手際よく複数の品を作り、そうしてテーブルの上に綺麗に盛った皿を並べた。
義母はともかく義妹はまだリッカの事をそこまで奴隷みたいに思ってなかったのか、並んだ美味しそうな料理にわぁ、と目を輝かせていた。
一瞬そこはちょっと素直で可愛げがあるなと思ったけれど、しかし少し前に人様の服とアクセサリーを根こそぎ持ち去ったのでその可愛げを感じた時間は一秒程度で消えた。
「私も食べていいでしょうか?」
「はっ……!? だ、駄目に決まってるでしょ!? アンタは使用人としてそっちで食べてなさい!」
家族として席についていいか、と問えば案の定反対されたので。
わかりました、と悲し気な声で言って、リッカは使用人たちが普段食事をしている部屋へ移動した。
計算通りである。
どうせそう言われるだろうと思って、リッカは自分の食事は義母たちの分とは別に作っていた。途中までは同じ材料を使って、味付けの段階でそっと分けておいた。
そうしてサクッと食事を済ませ、洗い物をして食器を拭いて片付ける。
それから義母たちの様子を確認するべく食堂を覗いてみれば。
二人ともすっかりテーブルに突っ伏して夢の世界に旅立っていた。
料理は八割程手を付けられていた。
あら意外、とリッカは素直にそう思った。
てっきり、あんな小娘の作った料理が美味しいわけないんだから、一口食べたら難癖つけてやる! みたいな事になるかもしれないと思ってもいたので。
そうなったら、もうちょっと強行しないといけなかったけど、意外にイケるわ、となって食べたのであればそこまでの無茶もしなくて済む。
二人の食事には睡眠薬を混ぜておいた。
母が亡くなってからというもの、精神的に落ち込んだりして中々寝付けない事もあった、という名目でお医者様に頼んだやつを、飲まずにとっておいたものだ。虐げられる日まで若干の猶予があったから良かった。そうじゃなかったら別の方法を考えるところだったので。
睡眠薬が粉末であったのも助かった。錠剤だったらまず細かく砕くところから始めないといけなかったし、液体だと味付けの際に義母に見とがめられる可能性もあったから。
その点粉末は、調味料の瓶の中に詰めておけば塩か何かだと思われていただろうはずなので、料理を作っているリッカを見ていた義母はおかしいと思う事もなかったようだ。
ぶっちゃけ料理中に白い粉末が使用されていた場合、大抵の人間は塩か砂糖のどっちかだと思うだろうし、まさか睡眠薬を堂々と降りかけてるとは思わない。
仮に義母に不審に思われて、毒見をさせられる可能性だって勿論あった。
けれどもその時は、一口程度ならまぁどうにかなるだろうとリッカは思っていたのである。
摂取してすぐさま寝るわけではない。
義母も義妹も食べてる途中で寝落ちたけれど、一口だけならまぁ、どうにかギリギリ使用人たちが食事をする部屋に戻ってちょっとだけ寝るくらいで済んだだろう。摂取量的にも。
寝る前なら吐き出すとか水を大量に飲むとかで、誤魔化せた可能性もある。
正直この世界の睡眠薬がどれくらいのものかわからないので、今となっては推測でしかないのだけれど。
ともあれ、すっかり夢の世界に旅立って戻ってくる様子の無い二人を見て、リッカは用意してあった紐で椅子の脚と片足をきっちりと結んだ。あまりきつく縛り過ぎたら痛みで意識が浮上するかもしれないので、慎重に、それでいて簡単にほどけない結び方で。
両足を椅子と結ぶ方が確実なのだが、どうせこれだけ眠っていればそこまでしなくても大丈夫そうだな、と思ったのでもし起きた時にすぐさま逃げるにしても椅子がちょっと邪魔をしてくれる程度にとどめておく。
次に事前に用意しておいた自分の荷物を確保するべく庭に向かった。
義妹に盗られて困る物――母の形見を含む――と少しの着替えと換金できる物とが入った旅行鞄は、部屋のどこかに隠しておくと最悪見つかる可能性もあったので庭にひっそりと埋めておいた。
穴を掘って埋めたとなると使用人が掘り返す恐れもあったので、事前にあそこにちょっと宝物を隠しておこうと思うの、なんて可愛らしい子どもの悪戯を装って使用人には伝えておいたので、ありがたい事に荷物は無事であった。
隠す時に、ほんのり伝え聞いていた義妹と宝探しごっこをするのよ、なんて言っておけばまさか金目の物を埋めているとも思われないだろうし、使用人たちはそうでなくとも皆リッカの味方でもあったので、荷物に関してはそこまで心配していなかった。
とはいえ、義母が本性表して屋敷から逃げる時に、ふとこの事を思い出してどうせなら、と出来心が浮かぶ者もいたかもしれなかったので、一応そういった意味での保険で言っておいたわけだが。単なる宝物、と言えば場合によっては金品を想像された可能性もあるけれど、宝探しごっこ、と言えば金銭的な価値がある物が使われているなど思わないと考えて。
ついでにそこに、数日前にうっかり転んで怪我をした際の血をつけたリボンを無造作に土に半分ほど埋めておいた。深い意味はない。まぁ、もしかしたら後で意味を持つかもしれない、程度の物だ。
旅行鞄を移動させて、屋敷の中に戻る。
使用人たちを説き伏せたりしている間に仕込んでおいた物も、そのままである事を確認してリッカは再び義母と義妹がいる食堂へ向かった。
そこで大量のワインのコルクを抜いて中身をぶちまけつつ瓶をそこらに転がしておいた。
他に何か忘れてはいないだろうか、と確認を兼ねて足早に屋敷の中を見て回る。
ついでに用意しておいた油を撒き散らしながら。
よし、大丈夫そうねと忘れている事がない事を確認し終えたリッカは、厨房まで戻るとあらかじめ用意しておいた油を染み込ませ燃えやすくなっている布に火をつけた。
布は厨房の掃除に使ったり食器を拭くのに使われていた物と似たのを用意しておいたので、リッカに料理を作らせてそれらを眺めていた義母も特に疑問に思わなかったようだ。もしこれがドレスに使われているような綺麗な布地であったならきっと目聡く気付いただろう。実際その隣に普通に台を拭く布もある程度畳んで用意しておいたので、たとえ視界に映っていたとしてもそういう物としてしか見なかったか、そもそも最初から視界に入ってすらいなかったか。まぁそこら辺はどうでもいい。
火をつけて、じわじわと燃えていく布を見て火が簡単に消えないだろうことを確認してから、リッカは厨房近くの裏口から庭へとさっさと脱出した。
そうして扉をしっかりと閉めたし鍵もかけた。
旅行鞄を回収し、庭から屋敷の外へ出る頃にはすっかりと日も沈んでいた。
火はまだ燃え広がっていないようで、屋敷の外観を見る限りは何の変哲もないただの屋敷だ。
とはいえ、あまりじっくりと確認してもいられない。
速やかに人目につかない道へするりと入り込んで、そのまま突き進んで。
途中、町の中を流れる川に向けて屋敷の鍵は捨てた。深さはそこまででもないが、流れが速いので多分下流に流されてくれるだろう。途中で誰かに拾われたとしてもそこまで困らないのだが。
人目を避けて、途中路地裏で旅行鞄の中にしまい込んであった帽子をかぶってその中にある程度髪の毛も押し込む。
そのまま、何食わぬ顔をして夜行馬車へと乗り込んだ。
普通の乗り合い馬車ならまだしも夜は危険な事も多いので料金としては割高になるが、それでも急な用事で急いで出発しなければならない、という者のためのものだ。
急な用事で、というところから、客がいない日だって勿論あるし既に出発した直後に別の客がやってくる、なんてこともあるので定期便とは異なるほぼ貸し切りにも近いものだが、需要はそれなりにあった。
行先が同じ方角の、同乗するような客はいなかった。
なので完全貸し切りみたいなものだ。料金を考えると後が怖いが、まぁ、事前に用意しておいたので問題はない。
ところで今更ではあるが、リッカの年齢は十四歳である。
父親からすればまだまだ子供だと思っているが、世間的に見れば幼子と言うほどでもない。これくらいの年齢になれば平民の子であればもう既に働いていたっておかしくはないし、貴族の子であっても何もできないなんてこともなく。
そして、リッカが今着ている服は多少良いものであるかもしれないが、しかし全体的にどこか草臥れた様子でもあったので。
馬車を動かしていた男は、旅行に来ていた平民だろうと判断していた。
低位とはいえ貴族令嬢だとはこれっぽっちも思っていない。何故って貴族のお嬢様は皆キラキラしているものだと思っているから。
貴族とそこまで関わらない平民の認識なんてそんなものだった。
だからこそ、リッカはさも平民ですよという顔をしてしれっと町から出ていったのである。
町から出てその後の事はあまり深く考えていなかったけれど。
それでもリッカが住んでいた町よりは大きな所を目的地として選んだ。
小さな町や村だと他所から来た相手というのは良くも悪くも情報が回るものだし、ましてやそれが一人の若い娘となれば一体何があったのかといらぬ邪推を招く。
若い娘でなくたって、男であってもそれは同じだ。
これが夫婦や子供が既にいる家族であるのなら、そこまで不審に思われないのだが。
都会で働いてその後田舎でのんびり、だとか、体の弱い家族のために療養として、だとか、そういう理由があれば大抵は納得される。
けれど、若い娘もしくは男が一人でとなると、一体ここに何をしに来たんだろう……と思われるのだ。
田舎は特に。
そういった注目を集めないために人が大勢いて出入りもそれなりにあるだろう大きな街を選んだ。
まぁその結果、隣国まで来る事になってしまったのだが。
ここまで来るのに数日は経過しているわけだが、とりあえずこの大都市では近隣の国に関するニュースもそれなりに調べて新聞という形で平民も知る事ができるようになっている。ただ文字が読めないと知ろうにも知れないわけだが。
何となくノリで隣国まで来てしまったが、当然親戚だとかの伝手はない。
というかリッカが生きているとなると面倒な事になるのがわかりきっているので、リッカはこの国でリリカと名乗り食堂兼宿屋を営んでいるところに住み込みで働いている。仕事と住む場所がどうにかなったのは運が良かった。ついでに宿は色んな客を受け入れる場所であるために、周辺の情勢にも気を配らなくてはならないのでご主人が新聞を購入しているのだ。リッカが自腹で新聞を購入しなくて済んだのもありがたい事だった。
何故ってもう貴族令嬢ではない平民のリリカなので。出費はなるべく抑えておきたい。
さて、その結果わかった事がある。
かつてリッカが住んでいた町でのあの一件は、どうやら後妻が起こした事件となったらしい。
たった一日で屋敷を出て行った使用人たちの証言と、あとは庭に中途半端に埋めておいた血の付いたリッカのリボン。
そして、燃えた屋敷で焼死体となって発見された義母と義妹がいたのが食堂であった事。
まぁそこまで都合よくいかんじゃろ、とか思ってたけど、どうやら思った以上に都合よくいったらしい。
科学捜査も魔法もない世界だ。まぁ、もしかしたらそうなるかも~くらいの淡い期待程度にはあったけれど、こうも上手くいくとは思っていなかった。
夫が家を出た直後豹変した女主人。
夫の一人娘から根こそぎ物を奪おうとしていた事は使用人だった者が証言している。
そしてそれを諫めようとした者へ向けて、紹介状もなしに解雇を告げ出ていけと追い出そうとしていた。
そして、娘を突き飛ばしたのも使用人は目撃していた。
その時点ではそれ以上の暴力はなかったけれど。
しかし使用人たちを速やかに逃がした後、娘は一人残される形となったのだ。
悪魔みたいな義母と義妹と共に。
きっと、使用人がいなくなった事も娘のせいにされただろう。
もしかしたらあの後酷い暴力をふるわれたのではないか。
家を出たばかりとはいえ、使用人だった者たちはそういった心配をしていたわけだ。
そして夜、屋敷が燃えた。
気付いた時には火の回りがはやすぎて、屋敷の中にいるだろう相手を救助に向かう事も難しく。
どうにか消火活動をして火が消えた後で見たものは。
食堂で真っ黒になって死んでいる二人だったのである。
死体の大きさから大人と子供一人ずつ。
子供はどちらか、その時点ではわからなかったけれど。
しかしそれもすぐに連れ子だと判断された。
庭に中途半端に埋められていた血の付いたリボンが子爵家の令嬢の物だったのもあって、使用人たちは自分たちが屋敷を出た後で何があったかを勝手に察してしまった。
きっとあれより更に酷い目に遭わされたに違いない。
そうして突き飛ばされたか階段から突き落とされたかして、お嬢様はきっと……打ち所が悪く意識を失って、それで死んだと思われた。
いくらなんでも人を殺したとなれば、どちらかが平民ならともかくどちらも貴族だ。
あんな女を奥様と呼びたくはないが、それでも奥様はマズイと思ったに違いない。
きっと家出に見せかけようとしたのではあるまいか。
そうして死体を庭に埋めたのではあるまいか。
奥様とお嬢様は血の繋がりがない。
だから、新しい母親というものに反発してお嬢様が家出をなさった、という筋書きを目論んだのではないか……
けれども人を殺してしまった事までは流石にやりすぎたと思われた奥様は、もしかしたら不安になって、それで、大量のお酒を飲んだのではないだろうか。
食堂に溶けていたとはいえ、恐らくワインの瓶らしきものがあったのは、そういう事なのではないか。
連れ子の方も母親と一緒になってワインを飲んだのであれば……
瓶だって、結構な量転がってたようなんだろう?
そんな風に、どんどんリッカにとって都合の良い方向へ推測が転がっていったようなのである。
新聞にはさもそれっぽく証言されたとして載っているのだ。いかにも真実ですよとばかりに。
埋められたはずの令嬢の死体がないのは何故か。
これも新聞には載っていた。
恐らく当たりどころが悪く一時的に気を失っただけの令嬢は、そのまま庭に埋められてしかしその後意識を取り戻しなんとかして土の中から這い出てきた。
そしてそれが恐らく、丁度屋敷が燃え始めた頃だったのではないか。
燃えている家の中に戻るなどするはずもない。屋敷にいるのは自分を虐げた義母と義妹だ。
そうでなくとも既に怪我をした身。このままでは自分も危ないと思って咄嗟に逃げ出したのではないか。
そんな風に記事には書かれていた。
だが、その後令嬢の行方は杳として知れない。
それについての情報を求む、となってはいるが現時点で有力な情報はどこにもないようだ。
怪我をしたのが頭であるのなら記憶を失っている可能性もあるとされてはいるが、年や背格好が似た女性で身元がハッキリしない、という少女がそもそもいないようで、捜索は難航しているとの事。
屋敷が燃えた原因に関しては、令嬢を殺したと思い込んだ義母が酒に逃げて大量にワインを摂取した後、眠気に襲われそのまま寝落ちた時に、衝撃でテーブルの上にあった燭台の蝋燭がテーブルクロスへ倒れ燃え移り、そのまま火事になったのではないかと思われているようだった。
火の回りがはやかった事とかなんか不審に思われてないだろうか、と思ってこの件に関して載ってる新聞をいくつか読み返してみたけれど、そもそも火事になったと周囲が気付いた時点で既にそれなりに燃えていたので、いつ火がついてどれくらいの速度で燃えたかなどわかりようがなかったのかもしれない。
死体を解剖して死因を調べるなんて事もこの世界ではまだやるどころかそんな発想もないので、実際焼死は焼死だけどその前に睡眠薬を摂取していた事が判明する事もなさそうだ。
凄い、あわよくばで上手くいけばいいな、くらいに思ってたけどまさかここまで自分の都合の良い方に転がるなんて……といっそ驚愕するレベル。
ちなみに、リッカの父はというと。
仕事で家を出たその後に娘と後妻、そして連れ子といった家族を全て失う形となったため、さぞ悲劇の人扱いされているかと思いきや。
別にそうでもなかった。
それというのも義母が豹変し一日でほとんどの使用人を追い出した事で、万が一の事を想像して事前にリッカが用意しておいた紹介状というものの存在が明らかになったからだ。
旦那様がまさかあんな悪魔みたいな女を妻にするとは思わなかっただとか、お嬢様は杞憂ならいいけど、と言ってその上で紹介状を用意していただとか、まぁ色々な証言が出たらしい。
新聞ではそこまでハッキリ書かれていないけれど、匂わせる程度には書かれている。
せめて再婚前にお嬢様とあの後妻を一度でも顔合わせしていれば。
お嬢様が反対するかもしれなかったけど、それでももしそうなっていたなら、こんなことにはならなかったはずだ、と長年勤めていた使用人に泣かれたらしい。
父としてはその反対されたら面倒だから事後報告で再婚が決まった、となってから娘に伝えるだけにしたのだが、その結果がこれ、となれば。
仮にその時点ではそれが最善で最良だと判断したとしても、後になってから「でもこれはこうした方が良かったんじゃない?」などと終わってからあれこれ言う相手と言うのはそれなりにいる。
結果が出てからならいくらでも何とでも言えるけれど、それでも自分の考えた最善の方法というのを何故こんな簡単な事を思いつかなかったんだい? とばかりに言う相手はそれなりにいるものだ。
だからこそ、父はどうやら再婚前に時間をかけて義母と義妹の人間性を見極めるだとか、一人娘と上手くやっていけそうかを見る期間を設けておくべきだったのではないかだとか。
それはもう色々と言われているらしい。
もしその途中であまり上手くいきそうにないな、相性が悪そうだな、となって再婚を取りやめていたのであれば。
少なくともこうはならなかったのだから。
故に父に対する世間の反応は、まぁそりゃあ可哀そうだとは思うけど、でも、ねぇ……? と同情だけでは終わらないものになっている。
そういった記事を読んでも、リッカの心は別に何とも思わなかった。
だってどうせ放っておいてもこの後仕事に逃げて家族と向き合わないまま実の娘が虐げられてる事も気付かないで数年過ごすのだから。作中でそれはしっかりと書かれている。
元のリッカの部屋を追い出され屋根裏に追いやられても、リッカの我儘で気に入らない事があって今は部屋に閉じこもっていると義母に言われてあっさり信じて直接話し合おうともしなかった父親だ。
その後リッカの振りをして社交界で自由奔放に振舞い始める義妹のせいで、リッカの評判はとことんまで落ちるのだけれど。
ただ、結果としてそれでリッカが虐げられている事実に気付く結果にもなるのだ。
リッカの年齢が十八になろうという頃、その日も義妹はリッカの名を使ってある貴族の家で行われていた夜会で殿方との逢瀬に精を出していた。リッカが男にだらしがないという評判は、勿論この義妹のせいである。リッカ本人は虐げられて屋敷の中で使用人どころか奴隷のようにこき使われているので社交の場に出るなんて余裕も暇も体力も気力も何もない。
けれども噂は広まっていく。
そしてそれは父の耳にも入っていた。
義母にも我儘で困っている、と言われていたせいもあって、父からしても実の娘であるけれど、どうしようもない感じに育ったものだと思っていたのだ。せめてその間一度でも本人と面と向かって話をすれば早々に誤解だとわかっただろうに。
父はあくまで噂としてリッカの悪評を聞いていただけで、社交の場でリッカの振りをした義妹と出会うような事はなかった。父本人が仕事で自らを追い立てて、社交の場に出る機会をほとんどなくしていたので。
義母は社交に出ても出戻りという話もあるためにあまりそういったものの参加はせずに、とにかく自分の好きな宝石を集める方に執心していた。
なので、義妹が義妹である、と紹介されるような事もなく義妹はリッカだと周囲に思われたまま社交の場で振舞っていたのだ。
ところがそんなある日、仕事の流れで誘われた家で、小さいが夜会が開かれていた。最近仕事ばかりで食事もきちんととっていないでしょう、折角ですからどうです? 小さな催しではありますが、料理には自信があるんですよ、と誘った相手は含みも何もなく善意100%であった。
まぁ、料理だけなら……と父もその時は素直に誘われて、そうして参加したその夜会で。
リッカの名を名乗って好き勝手している義妹を目撃することとなったのであった。
そしてその後リッカは数年間虐げられていたという事実が判明するわけだ。
なお作中ではその後、一応表面上はリッカと父は和解したように見えて実際の所リッカが何一つとして父の事など信用していないまま、家を出ていきたいからと嫁ぐことを決める。
醜聞があるとはいえ、それでもリッカだと思われていたのが義妹であったという話も流れたので、嫁ぐ先がどこにもなかったわけではない。
今までの事もあって、せめて相手は好きに選んでいいと言われて、結果として家のためになるかどうかも微妙な家へ嫁ぐ事にしたのだ。意趣返しもあったかもしれない。リッカがいなくなるのなら、家の後継ぎはどこかから養子を迎えるかしなければならないので。更に教育の事も考えれば、父はその相手と嫌でも向き合わなければならなくなる。もう仕事に逃げたままではいられないのだ。
けれども、お話の中のリッカはその嫁いだ先で、ゆっくりとではあるが心が癒されて、最終的に結婚した相手と幸せになるのだ。そこで物語は終わりを迎える。
だがしかし、転生したリッカは結婚して幸せになろうとか思ってなかった。
最終的にくっついた相手はそりゃあいい人かもしれないけれど。
でもその人とくっつくために数年間虐げられ続けるのとか、勘弁してほしい。
大体、その今までの嫌な部分と結婚した後とで釣り合いがとれているか? と聞かれると微妙なのだ。
長い人生のほんの数年を虐げられた事で、結婚後の人生は幸せが約束されていると言われても。
そうまでして結婚したい相手か、と言われると今のリッカにしてみればとても微妙なのだ。
これが、虐められていた自分を救ってくれたとかそういう相手ならともかく、別にそうではない。ただリッカの身に起きた出来事はある程度把握していたから、同情的な部分もあって優しくしてくれたりしていたようだけど、今のリッカからすると別にそこまで望んでいる相手というわけでもない。
穏やかで平穏な人生としての象徴的な存在として夫の事は書かれていたかもしれないが、別に結婚しなくたって穏やかで平穏に生きていこうと思えばいけるしなぁ……というのがリッカの本心である。
大体作品の中では幸せになっているけれど、作品が終わった後の時間軸までそれが約束されているとは限らないし。その手の作品を前世でいくつか履修していたので、リッカは原作に忠実でいる事が必ずしも幸せに繋がるとは思っていなかった。
ならば、虐げられる部分をすっ飛ばしてしまった方が己の精神衛生上とてもよろしい。
どうせ原作の展開でいけば、義母も義妹も悪事がバレて最後は家を追い出され、実家も戻ってくんなと拒否して行くアテもなくなったところで悪い男に騙されて娼館に売り飛ばされた挙句、質の悪い客にあたったせいで性病に感染して最後は苦しんで死ぬとかいうオチだった気がするし。
どのみち死ぬなら、睡眠薬で寝ている間に全部終わっている方がまだマシではなかろうか。
もしも、義母があんな早々に本性を露わにしなければ。
リッカを虐げるにしても、もっとじわじわと、やられている本人が物事を悪く受け取っているだけではないか? と思うくらいに微弱に嫌がらせをしていって、そこから徐々に嫌がらせの度合いを大きく強くして気付いた時にはもう逃げ出せない、みたいな感じでやっていたのであれば。
最初の内はもうちょっと親しくしていたのなら、リッカだって今まではお話の通りだったけどやっぱ全部が全部そうってわけじゃなかったようね、とか思って、万が一のために準備していた事も無駄だったかな、なんて能天気に思ってこっそりなかった事にしていたかもしれない。その後にじわじわと甚振られていたのなら、お話のようにドアマットヒロインのままだったかもしれない。
けれども早々にリッカに対しても危害を加える事を何とも思っていないと言わんばかりに振舞われたので。
しかも反抗しようとしたらもっと酷い目に遭うとわかってもいたので。
抵抗せず虐げられたままでいろ、と言われてもそんなの納得できるはずもない。泣き寝入りし続けろと言われたとしても、一体どこの誰がそんな立場を良しとするのか。
なら、抵抗して更に酷い目に遭わないよう、一撃で片を付けるしかないではないか。
もしかしたら、もっと他にやりようがあったのかもしれない。
けれどもそれは、この世界の事を書物として知らなかったならできたかもしれない手段だとしか思えない。
知っている以上、そしてほとんど原作の通りに進んでいた以上、例えば話し合うだとか、誰かの手を借りるだとか、そういった手段は逆に更に自分を追い詰める結果にしかならない気しかしなかった。
そういったもしもを考えると、やっぱりこれで良かったのだと思えてくる。
だってリッカはもうリッカではなくリリカなので。
意地悪な義母や義妹に虐められる事だってないのだ。
自分がこんな事を仕出かしたと知らない宿の夫婦は良く働くできた娘としてしか見ていない。
だからこそ、とても良くしてくれている。
親切にしてくれるこの人たちを、あの義母や義妹のようにするつもりなんて勿論これっぽっちも思っていない。頼れる相手もいない中、衣食住早々にどうにかなった救いの主だ。であれば、恩には恩を返すべきだと思っている。
そう、義母も義妹もリッカの事が気に入らなかろうと、ここの夫婦みたいに自分に優しくしていたのなら。あっさり懐柔されていたかもしれない。そうなれば、こんなことにはならなかった。
これじゃ責任転嫁だな、と思いながらも広げていた新聞を折りたたんでいく。
行方不明になったリッカお嬢様が見つかる事はきっとないだろう。
その上で、これ以上知りたい情報は出てこないとも思った。リッカとして生きていた時と違い、今は髪の毛も短くしたし、あの家にいた時と違って平民として振舞っている以上、もし父が何かの拍子にこの国に訪れてリッカを目撃したとしても、似た娘としか思わないだろう。そもそも似ていると思ってくれるかどうかも謎である。他に自分を見てリッカだとわかるような相手は、家に仕えてくれていた使用人くらいだろうか。でも、もう会う事もないだろう。彼らがそう簡単に国を捨てて他国へ渡るような事になるとは考えにくい。
ならば、リッカとして家に連れ戻されるような事にはならないはずだ。
いくつかの新聞を折りたたんで、元の場所に戻そうとしたところで女将さんがひょっこりと顔を出した。
「ねぇリリカ、ちょっとお使いを頼んでもいいかしら? あら? また新聞を読んでたの?
本当に熱心ねぇ」
「そんなんじゃありませんよ。あちこちから色んなお客さんがくるなら、ある程度の話題にはついていけるようにって思っただけです。でも、正直新聞読んだくらいじゃついていける気はしませんけどね」
えへっと誤魔化すように笑えば、女将さんは「あらあら」と目尻を下げて笑う。
「あ、それでお使いでしたっけ。何を買ってくればいいですか?」
「そうね、これなんだけど」
言いながら、リストを手渡される。
それにざっと目を通して。
「はい、それじゃ早速行ってきますね」
リッカは新聞を戻すべくそれらを抱えて、そうして貴族令嬢だった頃には浮かべなかったような満面の笑みを浮かべたのであった。
このお話のヒロインは一応犯罪をしたという自覚はあるので、もしどこかでその犯罪が証明されて自分を捕まえに来た人がいた場合素直に捕まって罪を償うつもりではいる。ただ、科学捜査もろくに発展していない、魔法もない世界なので多分捕まる事はなさそう。
お酒大量に飲んで酔っ払って自白とかしない限りは。
次回短編予告
勇者に負けた後の魔族たちの話、っていうタイトルで投稿されますがファンタジーみはないです。今回よりも文字数多め。