ヒトリアルキ
それは気まぐれにこさえたただの作り話、そのはずだった。
彼が小学6年生だった6月の終わり、家を出る時は青空が広がっていたのに、二限目が終わる頃に急に天気が崩れた。
黒い雨雲に覆われて辺りは真っ暗。校庭にはどんどん水たまりが広がっていく。普段の通り午後の授業を行っては帰宅が困難になると判断され、児童達は給食を食べてすぐ帰ることに決まった。
下校は、全学年を住んでいる地域ごとに分けた地域班による集団下校になった。
先生を先頭に1年生2年生と続き、最後尾に6年生が並んで、児童達は出発した。傘がぶつかるため、列はいつもより間延びして長くなった、
彼は友人と横に並んで話していた。雨が傘をたたく音が大きくて、前後の話し声は聞こえない。暗いせいだろう、街灯がもう点いていた。昼間だということがウソみたいに思えて、妙におかしい。
非日常に興奮しているのは彼だけではないようで、色とりどりの傘はそわそわと揺れていた。5年生達の傘の隙間からチラチラと妹のすみれ色の傘が見えていた。
くの字、というには少々曲がり具合の足りない道を通りがかった時、突然悲鳴があがって前の方で誰かが立ち止まった。後ろの子ども達も止まらざる得なくなる。
あちこちで傘がぶつかってパラパラと水滴が落ちる。4年生辺りから非難の声が飛んだ。彼の後ろでも同級生が「どうした?」「何だ?」と焦った様子で不安をこぼした。
立ち止まったのは2年生の男子だった。ぶんぶんと腕を振り回し、傍らの友人に向けて涙声で訴えている。
「い、いま、いまいまっ、かがみに、くろいのがっ。そこの! まるいかがみ! くろいのが!」
指さされたのは曲がり道に立ったカーブミラーだった。
声と動きに誘われてみんながその丸い鏡を見上げるが、暗い中で傘をさした子ども達が集合写真がごとくじっと同じ方を向いている姿が映っているだけだ。特に不審なものはない。
5年生の一人がきょろきょろと辺りを見る。つられて彼も見渡した。雨の向こうにいくつもの家が並んでいて、灰色のブロック塀の上からあふれた白いアジサイが、雨に打たれて揺れていた。猫か何かでもみつかると思ったが、何もいない。
先生がなだめるような声で子ども達を促した。ぞろぞろと歩き出す。列が乱れて彼の位置からも件の2年生が見えた。
まだぐずっているようで、3年生の女子が隣に並んで言葉をかけている。どことなく他の下級生もそわそわしていて、何人かは後方を気にしていた。
「どうした?」
隣の友人から声がかかった。彼はにやにや笑いながら答えた。
「ちょっと面白いこと思いついた」
「えー。やめとけよー」
友人はあきれたが、彼は跳ねるようにして下級生達に近づいた。
「なぁなぁ、お前ら知ってる?」
足取りと同じ弾んだ声にみんなが振り返る。4年生の中にいた妹だけがうろんな目で彼を見た。
「オレもどこかは知らないんだけどさぁ、この辺のどこかにお化けが住んでるカーブミラーがあるらしいんだよ」
最初はあんなにからりと明るかったのに、彼は少しずつ声を低くしていく。
「まるで墨で描いたみたいに真っ黒な人影で、どんなに目をこらしても目も鼻も分からない。にやぁって笑うと、顔の半分まで口の端が上がって、ようやく真っ赤な口が見えるんだ」
「そいつはな、鏡の中に隠れてて、ずぅーっとこっちを観察してるんだ。隠れてるからオレ達からはそいつが見えないんだけど、時々、ときどーき、みつけちゃうやつがいるんだなぁ。でさ、かくれんぼなら、隠れる役とみつける役は交代しないといけないだろ? だから、そのお化けをみつけたやつは、」
彼はわざと言葉を切った。子ども達の何人かは両手でぎゅうぎゅうと傘の柄を握った。彼はにやっと笑う。
「お化けと”役”を交代しないといけないんだって」
「みてない!」
なーんちゃって。
彼はそう続けるつもりだった。しかし、悲鳴のような叫びに遮られる。2年生の男子だ。
「みてない! オレなんもみてないもん! う……くっ……うわぁぁあああん!」
2年生はわぁわぁと声を上げて泣いた。1年生も何人かぷるぷる震えて涙をこぼしている。
彼は驚いた。ちょっと怖がらせてやろうと思いはしたが、泣くほどの話をするつもりはなかったのだ。
「お兄ちゃんのバカ!」
彼の腹部に巾着型のプールバッグがフルスウィングでたたき込まれた。痛みはなかったが、よろけた彼を妹がにらむ。
「バカバカバカ! 後でお母さんに言いつけるからね!」
一呼吸で兄を罵ると、まだ泣いている下級生へと駆け寄った。
「だいじょうぶ! だいじょうぶだからね! あんなの全部うそっぱちなんだから! お兄ちゃんはうそつきなんだから!」
妹なりに言葉を尽くしてお化けの存在を打ち消そうとするが、小さな子達は泣き止まなかった。
彼は列の先頭、先生の隣に連れてこられて、道中くどくどと叱られた。涙目の下級生達は上級生に手をつながれて歩いた。傘の合間の手がぬれたが、誰も気にしなかった。
地域班の集合場所に指定されている公園に着くと、東屋の下に数人の大人が集まっていた。学校から連絡を受けて、迎えに来られる親は来てくれたのだ。
挨拶する先生の隣を走り抜けて、例の2年生が自分の母親へ抱きついた。一体何事かと母親は目を丸くする。
すかさず妹が謝罪と共に詳細を話したので、同じく迎えに来ていた母にも彼はしこたま叱られた。
しかし、拳骨を食らった頭頂部の痛みが引くと、彼は自分で作ったお化けの話をすっかり忘れた。
思い出したのは夏休みが明けて直ぐのことだ。同級生が「知ってるか」と前置きしたうえでみんなの前で話し始めた。
「お化けが住んでるカーブミラーがあるんだって」
「目も鼻もないけど、でっかい口があって、ギザギザの牙がずらっと並んでるらしい」
彼が話した時より何か強そうになっていた。
***
それから3年経った中学3年生の夏、彼は久しぶりにカーブミラーの話を聞いた。
一緒に昼食を採っていた同級生の一人が、渋面のままジャムパンをかじっていたが、やがてぽつりと話し始めた。
「昨日さ、妹が迷子になっちゃったんだよ」
「え、大丈夫だったのか?」
「うん。べそべそ泣いてるのを友達の親御さんが見つけてくれて、無事帰ってきた」
「良かったぁ」
「どっか遠いとこ出掛けたのか?」
「いや、それがさ、下校中に迷子になったの。もう3年生だってのに。学校で怖い話聞いたとかでさ、何だっけ、道路によく鏡立ってるじゃん。あれを避けていつもと違う道通ってたら、知らないとこ出ちゃったみたい」
「鏡? カーブミラー?」
「そうそう。何でもさぁ、それに真っ黒なお化けが住んでるんだって。そのお化けをみつけちゃうと追いかけてきて、鋭い牙でむしゃむしゃ食われるらしい。もう洗面所の鏡まで怖がっちゃって大変だったわ。……ん? どうした?」
友人の一人がすっと手を上げて、静聴していた彼を指さした。その動きに気がついて、話していた同級生が首を傾げる。友人が口を開いた。
「犯人、こいつ」
「は?」
「おいおいおい、それだとオレがお化けの正体みたいじゃんか。やめてくれよ」
彼はからから笑ってごまかそうとしたが、横から別の友人が昔のことを話してしまった。
同級生は「何やってるんだ」とあきれたが、ほっとしたように笑った。
「なら、そのお化けを見た子は悪ガキに意地悪されただけで、無事家に帰ったんだな」
「意地悪したわけじゃありませぇん」
「その言い方腹立つ。まあ、これでお化けがいたとしても大丈夫だって妹に話せるわ。話の出所がはっきりしてるなら、あいつも安心出来るだろ」
再びジャムパンを口に運ぶ。今度はおいしそうに食べ進めた。
***
彼は大学生になった。
7月初めのある日、いつもより早めに学校に着いたので、そのまま講義室に向かわず一階にある食堂に寄ることにした。
カップ式自動販売機でアイスコーヒーを買い、窓近くのテーブル席に落ち着くと、外を通りがかった友人が彼に気がついた。一人寄ってきて、二人寄ってきて、さらに寄って来て、みんなで輪を作って話し込む。
ふと話題がドラマに移った。彼の見ていないものだったので興味が途切れた。椅子の背もたれにぐぅっと寄りかかった時、後ろにいた女子グループの会話が耳に入った。
「カーブミラーにさ、お化けが住んでるんだって」
ちらっとそちらを見る。知らない子達だ。学科か学年か、もしくは両方違うのだろう。
「教育実習に行った先輩がね、担当したクラスの子達から聞いたんだって。すごーい真面目な顔でさ、先生もお化けに気をつけてねって。かわいいよね」
もしかして、あの話だろうか。
「へー。どんな話?」
「えっとねー、確か、ある場所に事故の多いY字路があってね」
知らん話だった。
「そこに立ってるカーブミラーには、全身真っ黒なお化けが隠れてるんだって」
まあ、あの雨の日から6年以上も経っている。当時の1年生だってもう誰も学校にいないのだし。
「目も鼻もないのっぺらぼうで、笑った時だけ赤い大きな口とぎらっと並んだ鋭い牙が見えるの」
いや、やっぱりあの話だ。
「そのお化けは普段誰にも見えないけど、雨の日の夕方は時々見えてしまう人がいるんだって。それでね、その人が見えてるって気がつくと、お化けは鏡からはい出してきて追いかけてくるの。捕まらず無事家に帰り着けば、お化けも元の鏡に返っていくんだけど、もし捕まってしまったら、丸のみにされて、お化けがその人に成り代わるんだって」
いや、牙はどうした。使わんのかい。
彼と同じ疑問を他の子も感じたようでツッコミが入る。話していた子は「だよねー」と楽しそうにきゃらきゃら笑った。
「どうしたー? 後ろの子達が気になるのか?」
彼がこちらの話を聞いていないと気がついて、友人が肘で肩を押してくる。
「んー? まぁな」
「まじ? どの子だよ?」
「ははは。ひみつぅ」
別の友人が椅子から身を乗り出すようにして女の子達を振り返る。
その様子に笑って、彼は薄くなったアイスコーヒーをすすった。
***
一日の講義を終えて駅に着いた頃には、もう辺りは暗くなっていた。夏の陽が落ちるにはまだ早い時間だったが、雨雲が厚く空を覆っているせいだ。1時間弱電車に揺られている内に雨が降り始めた。
家の最寄り駅について、ホームに降りると2階の駅舎へ上がった。改札を出ていつもの出口に向かう。左右にそれぞれ階段とスロープがある突き当たりで、何の気なしにガラス張りの壁へ近づく。眼下のバスターミナルを背景に、雨粒がやけにはっきり見えた。バス停とベンチが雨に沈んでいるような錯覚を覚える。
カバンを探るようにしてスマホを取り出し、メッセージを打つ。
――雨すごいわ。タクシー使ってもいい?
――傘持ってるでしょ。
母の返事はすげない。
確かに持っているけれど、ここ連日は晴れていたため、惰性でカバンに突っ込んでいた折りたたみ傘だ。この大雨では少々心許ない。
しかし、いつも歩いて通っている距離に金を掛けるのはもったいないという気持ちはよく分かる。ちょっと言ってみたかっただけで、本気ではなかった。
階段と並んだエスカレーターで駅の外へ下る。カバンにスマホをしまって入れ替えるようにグレーの傘を取り出した。パサパサと振るようにして開くと、コンビニの脇を通って小道に入った。
焼き鳥屋、銀行、ラーメン屋、学習塾と雑多ながら駅利用者に必要な店舗がぎゅっぎゅっと並んでいる。飲み屋群からはこうこうと明かりがあふれてぬれたアスファルトを照らしている。
それらの明かりを全部背後に残して、分かれ道に差し掛かる。
左の道は直角に近いのでYとして見ると随分いびつだ。
右の道は住宅街で目立った明かりはない。左の道は大通りにつながっていて、その先は背の高い街灯がいくつも並んでいた。
道の分かれ目には見慣れたオレンジ色の細い姿が立っていた。見慣れたといっても、車を運転しないので注視したことはほとんどなかったが、なつかしい怪談のことを思い出してしげしげと眺めた。
丸い鏡にはきゅっと縮められたような、ぐっと遠ざかったような不思議な視界で自分が映っている。
店の明かりからも大通りの街灯からも少し離れた薄闇の中で、グレーの傘をさしたその後ろに、黒い人影を見た。
「え」
反射的に振り返る。
店々の明かりが地面に落ちているだけ。ずっと先の角でコンビニが一際強い光を発していた。道には誰もいない。
もう一度カーブミラーを見上げる。暗い中に傘が一つ、男が一人、他には何もない。
見間違いだ。あんまり暗いから。
左へ曲がる。大通りの方へ。せかせかと先を急いだ。
***
道に沿って点々と並ぶ街灯の光を、雨粒がスポットライトのように浮かび上がらせている。向かいから車が走り去る度に、そのライトで空中の粒やぬれた地面がきらめいた。
大通りは何かの舞台のように輝いているのに、そのせいで脇の住宅の並びが闇に沈んで見える。目を凝らせば凝らすほど、その深さが増すようだった。
傘に当たる雨音。タイヤがぬれたアスファルトを踏みしめる音。靴越しのいつもよりざらついた地面。
あいにくと、大雨の日の特別感を喜べる感性は小学校に置いてきてしまった。
今はもう、傘を持つだるさと、湿気で肌に張り付くような服や髪と、いつもより遅くなる足に鬱々としてくる。心なしか靴の中もじめじめしてきた気がする。
十字路で歩行者信号が青く点滅していた。
水たまりを跳ね上げて走り渡る気にはなれない。大人しく次を待つことにした。
しばらく待って。そろそろだろうか、と逆側の信号を見ようと首をひねった時、何かが視界の端にちらついた。違和感にひかれて来た道を振り返る。
少し離れた街灯の下に、誰かがいた。
いる、と思った時にはもうスポットライトを離れて逆光になってしまった。
顔は見えない。着ているものも真っ黒で、男か女かも分からない。
ただ、ゆっくりと、こちらへ進んでいる。傘もささずに。
視界に入る信号が赤に変わる。彼は前へ向き直った。やがてこちらが青に変わる。足を進めた。
耳を澄ませる。
傘に当たる雨音。時々過ぎる車の走行音。自分の靴が道に紛れる砂利を踏みしめる音。足下で水が跳ねる音。
分からない。
雨に遮られるようで、他の音が上手く拾えない。
分からない。
背後の存在が、今どれくらい離れているのか。
次の十字路に来た。信号が点滅しているのを見て、足を速めた。渡り切っても緩めなかった。そのまま右へ曲がる。
その時、ちらと後ろを振り返ってしまった。
人影が見える。
丁度車が横を通り過ぎて、それを照らした。
正面から光を受けてなお、その影は真っ黒だった。
真っ黒ののっぺらぼうなのに、目が合った。こちらを見つめ返している。はっきりとその視線を感じた。
ぱくりと顔の下の方で亀裂が入る。横に伸びて、左右の端がにぃっと顔の半分まで上がる。口だ。赤い口の中に、白く鋭い牙が並んでいる。
笑って、いる。
彼は走り出した。傘が傾いで用をなさなくなる。バチャバチャと水音が弾ける。努めて正面を見た。
何をしているのか。雨の日にどうしてこんなに走っているのか。
そんな必要、ないはずなのに。
だって、ウソだ。あんな話全部。あの日妹が行っていた通り、うそっぱちだ。
お化けが住むカーブミラーなんて。
墨みたいに真っ黒なお化けなんて。
成り代わりなんて。
全部全部作り話。どれも本当にありはしないのに。
あるはずがないのに。
――捕まらず無事家に帰り着けば、お化けも元の鏡に返っていく。
その言葉にすがりたくなる。
ようやく見えたアパートに飛び込む。エレベーターに乗ることには息が詰まるような不安があった。階段を駆け上がる。
いつになく体力を使ったせいで、廊下を行く足はのたりのたりとしたものになった。
自宅の扉にたどり着く。反射で呼び鈴を鳴らしたが、誰かが応対してくれるのを待つ精神的余裕はすでになかった。
カバンの内ポケットを探る。学生証が入っていた。他に何もない。
一瞬思考がフリーズする。呼び鈴をさらに鳴らす。
カバンの中のノート類をかき回す。底に財布が紛れていて、鍵はさらにその下にあった。輪っかだけのキーホルダーを引っかけて引っ張り出す。
鍵を穴に差し込もうとして、ガツンッとぶつけた。手が震えて、照準が合わない。カツッカツッと何度も鳴らす。やっと合ったと思ったら、上下が逆だ。
「バカかっ」
悪態をつきながら持ち直して、視界にぬっと黒い影が染み込んだ。
横から腕をつかまれる。
「あ……」
ちゃりんっと鍵が廊下で跳ねた。
振り返った先は、真っ赤。
***
カチンっと鍵の開く音がして、ノブが回った。押し開かれるドアの隙間から少女が顔をのぞかせる。
「おかえ……」
ゆったりとした声は、ドア越しの衝撃とごんっという鈍い音で途切れた。少女はぎょっとして身を引いた。
「えっ? なにっ?」
ドアに何かつかえていることに気がついて視線を下げた。誰かがうずくまっている。隙間から体を傾けて外をうかがうと、青年が側頭部を手で押さえていることが分かった。
開くドアにぶつけたらしい。
「うわっ、ごめんねっ。いや、でも何で?」
額ならまだしも、何で横。そもそも、開くのを待っていたなら何でドアの前にいたのだ。
少女が首を傾げていると、青年はじとりと少女をにらんだ。指に引っかけた鍵を見せる。
「鍵落としたの? どうせカバンの中ひっくり返して落としたんでしょ。ちゃんと決まったとこに入れとかないとその内どっか行っちゃうよ」
少女はぷりぷりと怒る。青年が退くのを待ってドアをさらに開けた。青年の姿を見て再び慌てだす。
「うわ。びしょびしょじゃんっ。待ってて。タオル持ってくるから」
ぽいぽいとサンダルを脱ぎ捨てて、フローリングに上がる。直ぐそばの洗面所からバスタオルを引っ張り出してきて、青年に渡す。そうだ、と顔を上げた。
「言い忘れてた。おかえり、お兄ちゃん」
『ただいま』
青年はうれしそうに笑った。
END