『書いてけ堀』
とあるお城のお堀で、男が毎日釣りをしておりました。
大して釣れません。
しかし、まあ、釣りというものは、
ある意味時間つぶしですし、
釣れなければならないというものではありません。
今晩のおかずが一匹釣れれば、
それで十分というところです。
ところが、
その日は、とんでもなくたくさん釣れたのです。
フナ、鯉、ナマズ、ウナギ、テナガエビなど、
およそお堀にいそうな獲物は、
全部釣ったのではないかというくらいです。
どのくらいの時間釣っていたでしょうか。
一刻、いや一刻半ほどでしょうか。
気がつけば、あたりが真っ暗です。
というか、さっきまで明るかったのに、
急に真っ暗になったような気がします。
釣りに夢中になっていたので、
気のせいだろうとは思うのですが。
男は迷っていました。
そろそろ帰ったほうがいいとは思うのです。
でも、まだ、それなりに釣れるのです。
獲物が多過ぎて、持って帰れないかもと思ったそのときです。
どこからともなく声がしました。
「書いてけ…書いてけ…」
何でしょう。何を書いていけばいいのでしょう。
もしかすると、背中をかくのかもしれませんし、絵をかくのかもしれませんし、
書いてけと言われたのかどうかも定かではないのですが、
でも、男には、まず、書いてけという字が浮かんだのです。
そういう意味だと思ったのです。
男ははっと気がつきます。
そうだ、きょうは速記をやっていないぞ、と。
速記をやらない日があるなんて、
人としてだめですよね。
大事なことなのでもう一度言います。
速記をやらないやつに、
生きている価値なんてありませんよね。
あれ、ちゃんと繰り返せていましたか。
男は、原文帳を取り出し、速記シャープを構えると、
「お願いします」
と呼びかけます。
すると、また、どこからともなく、
「五秒前」
という声が聞こえ、
「はい、読みます」
の直後から、朗読が始まりました。
いい声です。どことなくタヌキっぽいような。
男は、気持ちよく速記を書き終えると、
釣った魚の半分ほどをその場に残して、
鼻歌を歌いながら家に帰ったのでした。
教訓:釣りに出かけるときにも速記道具を持っているところが偉い。いや、それも人として当然か。