04.婚約者になります
とりあえず、目の前で起きている事と、聞こえてきた声の内容を照らし合わせ、どういう状況なのかを考えた。
聞こえてくる声が本当に彼の心の声なのだとすると……今、子供みたいに蝶を追いかけ回している姿は私達にわざと見せつけている事になる。公爵様の話にあった、『頭を打って知能が低下した』というのは本人の自作自演。
そして彼は物凄く女性が嫌いらしい。
つまり女性と婚約するのが嫌すぎて、あえて嫌われるような行動をして、婚約をさせないようにしているという事?
やけに回りくどいやり方をしていると思うのだけど。普通に「嫌です」って断ればいいだけの事じゃないかしら?
真相を問いたいけれど、心の声が聞こえる事は黙っていた方が良いだろう。
そこに公爵様の深刻そうな声が聞こえてきた。
「ここが最後の砦なのだ。どうか、息子の婚約者になっては頂けないだろうか……?」
「わ……私はお断りしますわ!」
即答したのはお姉様。
先程までの恋する乙女の顔はどこへ消えたのやら。
真っ赤に火照っていた顔は真っ青に染まり、わなわなと震えながらさっさと屋敷の中へと戻って行った。
そんな姉の後ろ姿を見て公爵様はガックリと肩を落とし、助けを求める様にチラリと私に目線を送ってくる。
公爵様ともあろうお方が、そんな力無さげな姿を見せても良いのだろうか。
あんなにも憧れを抱いていた公爵様にせっかくお会い出来たというのに――この男のせいで台無しだ。
無邪気に蝶々を追いかける男に怒りが沸々と込み上げる。
だけど今はそんな事を気にするよりも、この婚約話に返事をしなければいけない。
公爵様への大恩を考えれば、公爵様の望みは叶えて差し上げたい。
でも本人がこんなに婚約を嫌がっているというのに、さすがに婚約しようなんて気になるはずがない。
ここはハッキリと断――
(所詮、女なんて皆同じ。こんな姿を見せればあっさりと心変わりする薄情な奴らだ。さあ、さっさとお前も断るんだな)
その瞬間、私の頭の中でカチンッと音がした。
断りを入れようと思って開いた私の口からは、180度ひっくり返る言葉が飛び出した。
「分かりました。私が彼の婚約者になります」
「なんと! それはまことか!?」
「なっ!? なんだと!?」
(なっ!? なんだと!?)
あ、心の声とハモった。
しかも先程までの高い声じゃなくてイケボの声で。やっぱり声色まで変えているのね。その徹底ぶりには感心するわ。
「ヴィンセント……? 今のは……?」
素の反応を見せたヴィンセント様を、公爵様とお父様が怪訝そうに見つめている。
その視線に気付いたヴィンセント様は、ハッと我に返ると、
「な、なんだってえー!? 君、僕と本当に婚約してくれるの!?」
(何故だ……何故断らないんだ!?)
再び高い声となって大袈裟に驚きを表現すると、引き攣った笑みを浮かべながら私の元へと駆け寄ってきた。
「嬉しいなぁ! じゃあお礼として君にこれをプレゼントしてあげる!」
(じゃあこれならどうだ? さすがに引くはずだ)
差し出された指先には、さっきまで彼が追い掛けていた蝶が羽を掴まれた状態でピクピクと動いている。
飛んでる蝶を一瞬で捕まえたって事だろうか。しかも素手で。それはそれで凄いと思う。
だけど、その考えは甘いわ。
「まあ、ありがとうございます」
私は手渡された蝶を躊躇することなく、その羽を摘んで受け取った。
(な!? 受け取っただと!?)
「でも私は、蝶は自然に放してあげるべきだと思うのです。せっかく自由に飛び回れる羽があるのですから」
そう告げた後、私は蝶を天にかざす様に高々と持ち上げ、羽の拘束を解いた。
蝶は再び羽をパタパタと羽ばたかせて空高く舞い上がり去っていく。
「あ……」
再び追いかけようとしたヴィンセント様の腕を、すかさず私はガシッと掴み取った。
「!?」
(な!? 俺に触るな! ……っていうかこの女、力強すぎじゃないか!?)
やかましいわ。
こちとら毎日畑仕事に薪割り、井戸で水汲みに勤しんでいるのよ。女だからって舐めんじゃないわよ。
心の中で悪態をつきながらも、私は腕にしがみ付いたままヴィンセント様に向けてにっこりと微笑む。
「ヴィンセント様。虫さんだって精一杯、生きているのです。いくら可愛いからと言っても、自分勝手にその自由を奪ってはいけません」
そう告げて、私は少しだけ瞳を潤わせる様にして猫なで声で彼に囁く。
「どうせ奪うのなら、あなたの愛の拘束で私の自由を奪ってくださいませ」
「……!?」
「ぶふぉおっっ!!」
私の言葉に、ヴィンセント様は笑顔を引き攣らせて硬直し、私の横ではお父様が盛大に吹き出して口元を押さえてプルプルと震えている。
ちょっと二人とも。せっかく愛らしい婚約者っぽくしてみたのに、その反応は失礼すぎやしないだろうか。
その時、ヴィンセント様の着ている服の袖が捲り上がり、逞しい腕がちらりと見えた。その腕の表面は鳥肌でびっしりと覆われている。恐らく私が腕を掴んでいるのが原因なのだろう。
彼の女性嫌いはかなり深刻みたいね。
私がヴィンセント様の腕から手を放して拘束を解いてあげると、彼は安心した様にホッと息を吐いた。
さて、どうしようかしら。
いくらカチンときたからといっても、これはさすがにやり過ぎたかもしれない。
「ごめんなさい。やっぱり気が変わったのでやめます」と引き返せるのは今だけだろう。
だけど出来る事ならそれはしたくない。なぜなら私は生粋の負けず嫌いだから。
(なんなんだこの女は……? さっきの俺の行動を見ていたはずだろ? それなのに婚約者になるとか……気は確かなのだろうか)
あなたに言われたくないわ。
思わず飛び出しそうになったその言葉を、私は思い切り奥歯で嚙み殺した。